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NPO法人宮崎自殺防止センターを応援したい

NPO法人国際ビフレンダーズ 宮崎自殺防止
センターでボランティア活動を始めました。
いろいろと勉強中です。

なお、このブログは、自死等の相談に応じるものではありません。


NPO法人宮崎自殺防止センター
■ TEL 0985(77)9090
■ 毎週 日・水・金曜日
   午後8時から午後11時まで(3時間)


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明かり探る場「坊主バー」(朝日新聞) [2008年11月21日(Fri)]
2008(平成20)年11月21日(金)
朝日新聞
asahi.com>関西>こころ>読みもの

明かり探る場「坊主バー」
http://www.asahi.com/kansai/kokoro/yomimono/OSK200811210025.html



「坊主」「尼」など仏教にちなんだ名のボトルが並ぶ
「中野・坊主バー」。客は、マスターの合掌で迎えられる
=東京都中野区

僧侶がバーテンダーを務める「坊主バー」が、
東京で大阪で人をひき寄せている。
減らぬ自殺、景気の後退…… 先の見えづらい時代に、
ほんとうの幸福や安寧について、額を寄せて語り合う。
寺から街に出て人々と心を照らしあおう、
と始めた僧侶たちの試みの輪が広がっている。
(文と写真・木元健二)

東京都中野区、JR中野駅から徒歩5分ほどの雑居ビル2階に
「中野・坊主バー」はある。キャッチフレーズは
「夜のとばりに南無阿弥陀仏」。
15人も入ればいっぱいの店は、週末を中心に20代、30代
が集い、夜通しにぎわう。

「誰に対しても気取らないマスターと話していると、
不思議と勇気づけられるんです」。
歌手としてメジャーデビューを目指すkobaryuさん(33)
は、この店に通う理由をそう語った。

マスターは真宗大谷派の僧侶、釈源光さん(55)だ。
作務衣(さむえ)姿でカウンターに立ち、
カクテルのシェーカーも振る。

■ 震災でむなしさ

店がオープンしたのは04年春。朝4時過ぎまで開けている。
客の払いは平均2千円台で、採算はギリギリだ。
「いつも寝不足ですが、疲れは感じません」

店を開くきっかけは、13年前、別の「坊主バー」に通ったことだった。
92年に大阪・千日前で誕生した初代「坊主バー」だ。

神戸市出身。以前は、やり手の企画マンだった。
他社に引き抜かれ、収入が3倍に増えた経験もある。
でも95年、阪神大震災で友人3人を失う。
むなしさに襲われ、心がすさみ始めた。
業績もふるわなくなり、リストラで退社に。
借金がかさみ、死んでしまいたい、と思った。

「お坊さんのいるバーがある」と聞き、
大阪の初代「坊主バー」に通いだした。
肩書もタブーもない語らいに、こわばっていた心がほぐされたという。
「いい待遇を求め、何度も会社を替わってきた
自分の生き方は間違いだった、と思い至りました」

バーを手伝うようになり、やがて仏門に。
大学時代にいた東京に戻り、同じ名のバーを開いた。

「恥の多い人生だったけど、そんな情けない話が、
若い人たちの胸には本音の言葉として響いている、
と思う。やっと、自分なりの仕事に巡り合えた」

■ 思想洞から着想

大阪の「坊主バー」1号店の仕掛け人は、
400年以上の歴史を持つ瑞興寺(大阪市平野区)の住職、
清(きよし)秀顕さん(56)だ。

京都大学法学部を出て商社マンになり、東京を拠点に
海外出張を重ねる順調な暮らしだった。
だが30歳になる前、親の経営する大阪の材木商が倒産。
「自分のルーツがなくなる」という心細さに襲われ、
足元を見直したいと、故郷の大阪へ戻った。
妻の実家である寺を継ぐべく、僧職についた。

それまでの社会経験を生かしたい、自分の仕事をいわゆる
「葬式仏教」だけにとどめたくない、という考えで始めたのが
「坊主バー」だった。
着想は、寺で毎月、誰にでも門戸を開いて語り合う
「聞思洞(もんしどう)」から得た。

「仏さんに見守られているせいか、寺では胸襟を開いた
話を聞けることが多い。街中で聞思洞を開けば、
よるべない都会人の居場所になるんやないかな、と思った」

「今時の若者は携帯なんかでコミュニケーションを
とっているようで、実は孤独感を抱いていることが多い。
疑似でもいいから、小さなコミュニティーを開きたかった」

■ 「ひとりじゃない」

世を去る患者との別れが続いて自身の力不足を嘆く看護師、
「自殺してしまいたい……」
と店に飛び込んでくる女性……。
バーには、さまざまな孤独の影が落ちる。

大阪でメーカーに勤める在日コリアン、
徐文平(ソムンピョン)さん(47)もその1人。
取引先の男性の差別発言に対して裁判を起こしていたとき、
清さんのバーに通い出した。

「何を語ってもいい雰囲気に心が開かれ、初対面の清さんに、
訴訟のしんどさを語っていた。ひとりじゃない、と感じられた。
仏教の信者でもなんでもないけれど」

1号店は今春、惜しまれつつ閉店した。
けれど「供華(くうげ)」という名の別のバーが
大阪市内で8月に開店、毎木曜日に僧侶を招くかたちで志を継ぐ。
東京では中野のほか四谷にも「坊主バー」がある。

中野店と四谷店の出資者の1人であり、
自らも大阪でカウンターに立ってきた清さんは、いま、思う。

「いつの世も人は欲を抱くという煩悩から離れられない。
でも、欲のありようというのは、出会いを通して変わるんや。
価値観がバラバラになった世の中やからこそ、
それぞれの人生の明かりを探る場にしたいね」
文學散歩:青森・金木 太宰治(毎日小学生新聞) [2008年11月21日(Fri)]
2008(平成20)年11月21日(金)
毎日新聞
トップ>ライフスタイル>子育て・教育>毎日小学生新聞

文學散歩:青森・金木 太宰治
http://mainichi.jp/life/edu/maishou/news/20081121kei00s00s011000c.html

◇ 立派(りっぱ)な家(いえ)に生(う)まれ育(そだ)ち
昭和初期(しょうわしょき)に活躍(かつやく)した
作家(さっか)・太宰治(だざいおさむ)は、
38年(ねん)の生涯(しょうがい)のなかで
自殺未遂(じさつみすい)を繰(く)り返(かえ)しました。
苦悩(くのう)や破滅(はめつ)というイメージが強(つよ)い
一方(いっぽう)で、友情(ゆうじょう)や信頼(しんらい)を
劇的(げきてき)に描(えが)いた小説(しょうせつ)
「走(はし)れメロス」は、長(なが)い間(あいだ)、
中学(ちゅうがく)の教科書(きょうかしょ)に
取(と)り上(あ)げられています。
来年(らいねん)は太宰(だざい)が誕生(たんじょう)
して100年(ねん)。
青森県(あおもりけん)の津軽半島(つがるはんとう)にある
金木町(かなぎちょう)(五所川原市(ごしょがわらし))には、
太宰(だざい)の生(う)まれ育(そだ)った家(いえ)が
残(のこ)っています。
【三井恵理子(みついえりこ)、写真(しゃしん)も】

冬(ふゆ)になるとダルマストーブを車内(しゃない)に
設置(せっち)することで有名(ゆうめい)な津軽鉄道(つがるてつどう)。
のんびりと田園地帯(でんえんちたい)を走(はし)り、
途中(とちゅう)、太宰治(だざいおさむ)のふるさとである
金木駅(かなぎえき)に停車(ていしゃ)します。
駅(えき)から7〜8分歩(ふんある)くと、ひときわ目立(めだ)った
豪邸(ごうてい)、太宰(だざい)の生家(せいか)に着(つ)きました。
代表作(だいひょうさく)から「斜陽館(しゃようかん)」と
名付(なづ)けられ、今(いま)は太宰治記念館(だざいおさむきねんかん)
として公開(こうかい)されています。

太宰治(だざいおさむ)の本名(ほんみょう)は
津島修治(つしましゅうじ)。
当時(とうじ)このあたりの大地主(おおじぬし)であった
津島源右衛門(つしまげんえもん)の10番目(ばんめ)の
子(こ)として1909(明治(めいじ)42)年(ねん)
6月(がつ)19日(にち)に生(う)まれ、中学(ちゅうがく)に
入学(にゅうがく)するまでの13年間(ねんかん)を
この家(いえ)で過(す)ごします。

しかし、政治家(せいじか)でもあった父(ちち)は
忙(いそが)しく、母(はは)は病弱(びょうじゃく)で、
太宰(だざい)は赤(あか)ちゃんのころから母(はは)に
面倒(めんどう)をみてもらうことはありませんでした。
叔母(おば)や使用人(しようにん)・たけに育(そだ)て
られたのです。

◇                ◇

「……ごはんの時(とき)には茶碗(ちゃわん)を
持(も)ってあちこち歩(ある)きまわって、
庫(くら)の石段(いしだん)の下(した)で
ごはんを食(た)べるのが一(いち)ばん好(す)きで、
たけに昔噺語(むがしこかた)らせて、
…(中略(ちゅうりゃく))…手(て)かずもかかったが、
愛(め)ごくてのう……」

◇                ◇

太宰(だざい)は明(あか)るく活発(かっぱつ)で、
学校(がっこう)の成績(せいせき)も優秀(ゆうしゅう)な
少年(しょうねん)でした。
本(ほん)の読(よ)み聞(き)かせをしてもらって
育(そだ)ち、大変(たいへん)な読書好(どくしょず)き
でもあったようです。
しかし、母(はは)に甘(あま)えられなかったさびしさや、
長男(ちょうなん)が大事(だいじ)にされた時代(じだい)に
六男(なん)に生(う)まれた劣等感(れっとうかん)、
立派(りっぱ)な家柄(いえがら)という重圧(じゅうあつ)などが
太宰(だざい)の心(こころ)を孤独(こどく)にし、
その後(ご)の人生(じんせい)や作品(さくひん)にも
影響(えいきょう)していくのです。

大人(おとな)になった太宰(だざい)は津軽(つがる)を旅(たび)し、
その最終地(さいしゅうち)で、8歳(さい)の時(とき)に
別(わか)れたきりのたけと、およそ30年(ねん)ぶりに
再会(さいかい)します。

◇                ◇

……ぜひとも、逢(あ)ってみたいひとがいた。
私(わたし)はその人(ひと)を、自分(じぶん)の母(はは)
だと思(おも)っているのだ。
…(中略(ちゅうりゃく))…
私(わたし)の一生(いっしよう)は、その人(ひと)に依(よ)って
確定(かくてい)されたといっていいかも知(し)れない。

まるで、もう、安心(あんしん)してしまっている。
…(中略(ちゅうりゃく))…
私(わたし)はこの時(とき)、生(うま)れてはじめて
心(こころ)の平和(へいわ)を体験(たいけん)したと
言(い)ってもよい。…(中略(ちゅうりゃく))…
私(わたし)の生(う)みの母(はは)は、…(中略(ちゅうりゃく))…このような不思議(ふしぎ)な安堵感(あんどかん)を
私(わたし)に与(あた)えてはくれなかった。

(「津軽(つがる)」より、新潮文庫(しんちょうぶんこ))

◇                ◇

自分(じぶん)を否定(ひてい)してやまなかった
太宰(だざい)にとって、自分(じぶん)の原点(げんてん)を
あらためて見(み)つめ直(なお)す旅(たび)になった
のでしょう。

太宰(だざい)の作品(さくひん)に、時折(ときおり)、
登場(とうじょう)する生家(せいか)。
ここを訪(おとず)れると、物語(ものがたり)の
描写(びょうしゃ)が手(て)に取(と)るようにわかり、
太宰(だざい)の息(いき)づかいが感(かん)じられます。

==============

「斜陽館(しゃようかん)」。
1907(明治(めいじ)40)年(ねん)、
津島源右衛門(つしまげんえもん)が現在(げんざい)の
お金(かね)で8億円相当(おくえんそうとう)を
かけて造(つく)ったといわれます。
和(わ)・洋風合(ようふうあ)わせたデザインで、
部屋(へや)19室(しつ)、土蔵(どぞう)3棟(とう)。
ヒバなど上等(じょうとう)な材料(ざいりょう)が
ふんだんに使(つか)われ、天井(てんじょう)や
欄間(らんま)、階段(かいだん)などには
凝(こ)った装飾(そうしょく)が施(ほどこ)されています。
ぜいたくな造(つく)りからは、優雅(ゆうが)な
生活(せいかつ)ぶりがうかがえます。

毎日小学生新聞 2008年11月21日

精神障害者の病院閉じ込めは人権侵害(医療介護CBニュース) [2008年11月21日(Fri)]
2008(平成20)年11月21日(金)
キャリアブレイン(医療介護CBニュース)
ホーム>ニュース>羅針盤

精神障害者の病院閉じ込めは人権侵害
http://www.cabrain.net/news/article/newsId/19278.html;jsessionid=93B22FAFB649C7B8329F096D1DDCBAEA

【第38回】
大塚淳子さん(日本精神保健福祉士協会常務理事)



精神病院での長期的な入院を強いられてきた精神障害者。
政策の遅れや社会の無理解が、長年にわたって精神障害者の
社会参加を妨げ、人権侵害とも言うべき状況を許してきた。
退院支援が徐々に進むなど状況は少しずつ改善しているが、
依然として精神障害者への偏見は強く、
地域の「受け入れ」体制の整備状況も芳しくない。
地域に戻ることができず、数十年にわたって入院し続ける
精神障害者が、今も数多く存在する。

精神障害者を取り巻く状況はどう変わってきたのか。
精神障害者の地域生活を支える上で何が求められるのか。
わたしたちは、どのように精神障害者と向き合っていけば
いいのか―。
日本精神保健福祉士協会常務理事の大塚淳子さんに聞いた。
(萩原宏子)

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■ 精神障害者「閉じ込め」の現実

―精神病院に入院する精神障害者の人権問題への
取り組みについて教えてください。

1984年の宇都宮病院事件に代表されるように、
精神障害者の人権侵害が非常に激しい時期があったのですが、
87年に「精神衛生法」が改正され、「精神保健法」ができました。
精神保健法は、精神障害者の権利擁護と社会復帰について
盛り込んだもので、精神科に入院している人たちにも
当然の人権があり、その尊重が必要だという考えが背景にあります。
精神保健法ができる以前は、精神病患者の入院の仕組みは
非自発的なもの、つまりは強制的なものでしたが、
初めてここで自分の意思で入院するという制度ができました。
 
―その後、退院や状況の改善は進んだのでしょうか。

いいえ。むしろその後、わが国の精神病床の数は増加したのです。
といっても、これは患者が自ら入院を選択して増えたのでは
ありません。むしろ地域で支えるさまざまな体制が整わなかった
ために、病院にとどまらざるを得なかったのです。

―精神病院に入院していた精神障害者は、どのような状況に
あったのでしょうか。大塚さんのご経験から、お話しください。

わたしは身体障害者の授産施設での勤務を経て、
93年から精神病院でソーシャルワーカーとして働くように
なりました。病院でまず感じたのは、
「閉じ込められた、閉鎖的な空間だ」
ということです。
皆さんがおそらくイメージしている「精神病院」です。

当時、職員の中には、精神障害者のことを何もできない人、
危ない人だと考えている人もいましたし、
患者を「ちゃん」付けで呼ぶ人もいました。
対等な人間として接していないと感じたことが多くありましたね。

施設も当時はあまりきれいではありませんでした。
ロッカーもなく、布団の間に歩く隙間もない畳部屋だったり、
患者個々人のためのベッドを仕切るカーテンがなかったり。
正直なところ、
「自分だったら入りたくない」
「1週間たりとも入院していられないだろう」
と思いました。けれども現実には、そこに40年、50年
「住んでいる」人がいたのです。

―入院患者にはどのような人が多かったのですか。

当時わたしは慢性期の病棟に勤めていたので、
いわゆる「院内寛回」といわれる病状の安定した
長期入院患者の人が大多数でした。
あまり症状も激しくないので、
「彼らはなぜここにいなければならないのだろう」
と思いました。
「昔、祖母がぼけていた時もこんな感じだったけれど、
街で普通に暮らしていた。何が違うのだろう」
「普通に考えて長く住んでいられるはずのない場所で、
ずっと生活している。これは何だろう」と。

わたしは、彼らが
「人間としての生活をあきらめている」
のだと思いました。精神病院にいる必要がないのに、
いさせられている。その中で、人間として生きることを
あきらめさせられていると。
同時にそれを強いているのは、日本の社会であり、
医療スタッフであり、こういう精神病院のありようを
認める人みんなだろう。そう思いました。
 
―現在も同じような状況が続いているのでしょうか。

この10年間ほどで改善した点もあります。
実は、障害者自立支援法ができる前から、徐々に精神障害者の
退院が進められるようになっているのです。
精神保健法や95年の精神保健福祉法などによって、精
神障害者のための社会福祉施設が徐々にできたこと、
精神保健福祉手帳制度が整備されたことなども挙げられます。
また、精神保健福祉士という国家資格ができ、退院などへの
積極的なサポートが行われるようになったことも挙げられます。

けれども、やはり精神障害者支援の遅れは否めません。
実は、欧米では精神疾患で入院する患者は10日か20日そこらで
退院するのが普通なのです。

現在日本には精神病床が35万床ほどあり、
およそ32万、33万床くらいが常に稼働していますが、
これは諸外国ではあり得ません。

日本の精神医療や精神障害福祉施策は、やはりあるべき姿から
逆行してきたと言わざるを得ません。

現在でも、
「精神障害者の地域移行支援を進めなければならない」
という大目標自体には皆さん賛成するのですが、
NIMBY(not in my back yard=わたしの裏庭には来ないで)
という言葉があるように、いざ自分の地域で受け入れるとなると、
特に市民レベルでは難色を示されるのが実情です。

■ 病院閉じ込めは社会的な「拉致」

―精神障害者が地域に戻れるようになるには、
何が必要でしょうか。

地域の福祉資源を整えていくことが必要だと思います。
グループホームやケアホームをはじめ、生活や就労、憩いの場
などの受け入れ基盤の整備ですね。

ただ、こうした受け入れ基盤整備の前提として、
国や都道府県がきちんと財源を確保することが重要になってきます。
しかし、財源を確保するための前提として、
その必要性に対する国民の意識が重要です。

精神障害者が病院から出て社会で生活できるように
福祉資源や環境などを整備することは、
「お金がないから、やらなくていい、やれなくても仕方ない」
で済まされる問題ではありません。
これは人権の問題ですから。入院して、
良くなったら退院するのは当たり前の権利です。
退院の可否を外から決められるのはおかしいと思いませんか。

精神障害者を病院に閉じ込めておくのは、
社会的な「拉致」以外の何物でもないと思います。

―「拉致」とはどういうことでしょうか。

つまり、本人の意思にかかわらず、非日常的な空間に
とどめられるということです。
病院は、仕事をする、学校に行く、家庭生活を営む、
などの社会生活ができない、非日常的な空間です。
その非日常的な空間に入る場合には、
当然、相応の理由が必要です。

例えば、唐突な比較ですが、非日常的な空間の1つに
刑務所があります。
ですが、そこに入るのは当人が相応の罪を犯したからであり、
期間も法律できちんと定められています。

法的根拠もないのに、非日常的な空間に置かれ続けるのは、
その人にとっては「拉致」というほかありません。

もちろん、精神疾患となり、例えば、混乱や錯乱状態に
おいて器物を損壊するなどの行動を起こしてしまった直後に、
適切な診断に基づき、原因である病状の治療目的で
入院が必要なことはあります。

ただその後、症状も軽くなり、外来通院で十分対応できる
レベルになったのに、本人が入院している間に、近所の人が
「怖いから戻って来ないで」
と言い、家族が
「あんな子はうちの子じゃない」
「手に負えない」
「引っ越してしまおう」
などと言う実態がある。

このようにして、受け入れられなくなるケースが
たくさんあるのです。
もちろん、ご家族もつらい思いをされているケースが多く、
その支援も不足しているため、責められることだけでは
ありません。

受け入れ先、帰る先が見つからないと、
「そのまま病院にいますか」
ということになる。
それは本人が望むことではないのですが、消極的選択の結果、
そうせざるを得ない状況があります。
そして、それがそのまま10年、20年と続く。

長く精神病院にいる人たちは、社会で生きる権利が
奪われているのです。
家族が、社会が、コミュニティーが、
「帰って来るな」
と言う。
何の法的根拠もないのに、社会が本人の権利に関する決定を
しているのです。こんな現実が、日本で何万もあるのです。

精神障害者の病院閉じ込めが人権侵害の問題だということを
きちんと認識し、確実に地域生活へ戻れるようにしなければ
ならないと思います。もっと言えば、精神障害があっても、
唯一無二の人生は、その人自身が決めるのが当たり前ですから。

■精神障害者と共生を

―人権の問題ということですが、精神障害者への理解を促すには
何が必要でしょうか。

社会福祉の教育をもっと広くやっていかなければならないと
思います。もちろん、社会福祉の具体的かつ専門的な知識や
支援の技術などを学ぶのは、大学の社会福祉学部など、
専門の教育機関でよいと思うのですが、社会福祉に関する
基本的な理念や価値観、例えば、人権の尊重、高齢者の介護や
児童の養育環境、ホームレスや障害者の支援などは、
すべての人が理解すべきことだと思います。

大学での必修化、あるいは小学校、中学校、高校で学ぶ
チャンスをつくっていくことが必要だと思います。
それぐらい、普通のことで、特別な人が学ぶ特別なことでは
ないはずです。

皆がきちんと理解し、地域でも当たり前のように精神障害者と
触れ合えるようになることが大切です。

―確かに、普段の生活の中で精神障害者を含め障害者に接する
機会はあまりないように思います。

そうですね。障害者はあっちで、そうではない人はこっち、
というのではなく、自然に老若男女、いろいろな人が、
地域で出会う環境があればと思います。
古くは特別養護老人ホームも、もっぱら街中ではなく
山の近くに建てられるということがありましたが、
昔は一緒に地域で暮らしていたのです。

最近では、特養もまた街中に戻って来ていますが、
身近にいろいろな人が生きる環境が大切だと思います。

―「身近になる」ことで、どのような変化が生まれるでしょうか。

精神障害者に出会う中で、
「精神障害は特別なことではない。誰でもなる可能性があるのだ」
ということを、頭ではなく、感覚的に理解できるようになると思います。
実際、精神疾患は今や、誰もがなりうるものです。
多くの場合、精神疾患は後天的なもので、ライフステージの
さまざまなタイミングで発症する可能性があります。
人間関係や社会の中で病んでいく、ある意味でとても人間的であり、
時代や社会を反映した病気です。

「誰もがなりうる」
「特別なことではない」
と皆が理解し、病気の治療体制や、精神障害者が生活できる基盤が
整えば、わがこととして、適切に対処できるようにもなります。
回復の環境も整っていきます。

また、自然に出会うことができるようになれば、差別や偏見も
減っていくのではないでしょうか。
ハンセン病などはいい例だと思います。
啓発活動によって少しずつ、患者の方々が街に出てこられるように
なりました。そして、彼らが姿を見せることで、さらに理解が
進んでいます。

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