死は怖い…を乗り越えて 人生の復路の風景を描く南木佳士さん(作家)(東京新聞)
[2008年09月13日(Sat)]
「生き延びるというのは、きれいごとではなく、
誰かの犠牲のうえに成り立つものではないでしょうか」
最近、国内外の悲惨なニュースを観るたびごとに、
南木佳士さんのことばのリアルさを感じる。
●
死ぬこと/生きることに対しては、
「しっかりした死生観をもって臨まなければいけない」
と、まさに自分は思っているところだった。
このことは、もしかしたら、死ぬことが自分にとっては
「遠いこと」「怖いこと」だとする自分の側の前提条件
(色メガネ)のせいだったのかも知れないと気付かされた。
●
「終わるときは、終わるのよね」
自分自身の問題としては、このことばを、
本音ではまだまだ実感・納得できない。
まだまだ南木佳士さんの境地にまでは
至っていないなぁ、生きることにしがみいて
いるなぁと思う。
小説をぜひ読んでみたい。
以下、引用
*************
2008(平成20)年09月13日(土)
東京新聞
トップ>暮らし・健康>土曜訪問一覧
【土曜訪問】
死は怖い…を乗り越えて
人生の復路の風景を描く 南木佳士さん(作家)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/doyou/CK2008091302000223.html
人生はよくマラソンにたとえられるのだから、
それに折り返し点があり、往路と復路があると
考えることもできるだろう。
南木(なぎ)佳士(けいし)さん(56)の近著
『草すべり その他の短篇』(文芸春秋)
は、<人生の復路>に入ってから見えてきた
心の風景をとらえた私小説風の作品集である。
収録された4編のうち、「旧盆」は生と死、家族、郷里
など、これまでの南木文学の要素が凝縮された佳品。
表題作の「草すべり」は高校の同級生だった女性と
約40年ぶりに再会し、ふたりで浅間山に登った1日を
山の風に溶け込んだような、軽やかな文章で描いている。
各編に山歩きの話が出てくるのも作品集を彩る大きな特徴だ。
長野県佐久市の自宅を訪ねると、南木さんはとても
晴れ晴れとした様子。長くうつ病に苦しんできた作家は
50歳から山歩きを続けており、かなり健康を回復している
ようだ。
●
人生の往路と復路の違いについて、南木さんは
最近一緒に山に行った若い人たちの例を挙げ、
こう説明する。
「彼らは景色を眺めたり、稜線(りょうせん)を
わたる風を味わったり、ということをあまりしないで、
とにかく先を急ぎたがる。自分も若いころなら、
地図に記されたコースタイムよりどれだけ早く着いたとか、
そういうことに価値観を見いだしたんでしょうね」
信州の病院に赴任した若い女医を主人公にした
「破水」(文学界新人賞)で1981年にデビューして
以来、南木さんは医師として直面した現実、
ひとは死ぬものだということをテーマに
小説を書き続けてきた。
例えば、88年下期の芥川賞受賞作
「ダイヤモンドダスト」には印象的な場面が出てくる。
主人公の看護師の妻が
「結婚して、子どもを産んで…動物の、哺乳類(ほにゅうるい)の
雌としての果たすべき役割ができたことに不思議な安心感がある」
と言って息を引き取り、ベトナム戦争に従軍した経歴を持つ
米人宣教師は、戦闘機からパラシュートで脱出したときに見た
星空と同じ規則で誰かにアレンジされている自分を見いだし、
人工呼吸器の使用を断って死んでいくのである。
このように、南木さんはひとの死をリアルに描き、
丹念に意味づけをしていた。
それが今度の「草すべり」では、速いペースで登っていた
女性が途中で急激に息切れし、帽子をとったときの頭髪の様子から
命が長くはないかもしれないことを暗示するだけにとどめている。
切なさを感じさせても、暗さはない。
●
「この20年とは結局、そういう経過だったのだと
思いますね。かつては死とは怖いもので、
しっかりした死生観をもって臨まなければいけないという
意識があった。自分も病になり、死んでしまいたいという
強迫観念のようなものにとらわれた時期もありましたが、
それを乗り越えてみると、死とはそんなに怖いものでは
ないかもしれないと思うようになった。
“もう少し歩いていたいよね”
という彼女の最後のせりふは、もう少し歩いていたいけれど、
終わるときは終わるのよね、というわりと自然な感じなんですね」
●
秋田大医学部を卒業したあと、育ての親の祖母が住む
群馬の村に近いという理由で、佐久市の総合病院に就職。
呼吸器の専門医として毎年多くの肺がん患者を看取(みと)った。
その数が300人を超えたころ心身に変調をきたし、
芥川賞受賞の翌年、うつ病と診断された。
その後、2年半ほどは書くことも読むこともできなかったという。
●
病院では病棟勤務をはずしてもらい、外来診療と人間ドックを
担当してきた。「旧盆」のなかで作者は、末期がん患者を
引き継いだ後輩の医師がわずかな休みも返上して
仕事をした末に悪性腫瘍(しゅよう)で早世したことを思い出し、
自分は
<そうやって生き延びた>
と苦い感慨を吐露している。
●
「ひとが亡くなっていく過程、ひとが息を引き取る現場に
立ち会うというのは、後でお葬式をあげるのとはまったく
違うのです。
よく戦争に行ったひとが、あいつが先に出ていって
弾に当たってくれたお陰で自分は助かったなどと
言うことがありますが、ふつうの生活のなかでもそういうことは
あると思いますね。
生き延びるというのは、きれいごとではなく、
誰かの犠牲のうえに成り立つものではないでしょうか」
●
医師としての体験なしに南木さんの文学が成立しないのは
確かだけれど、医師であることと作家であることは
どう関係しているのだろう。
「両輪ですね。医師として話せない言葉や思いを、
私は小説に託してきたわけです。小説に出てくるような医者だと
思って病院に来られると困るのですが…」。
こう言って、南木さんは朗らかに笑った。
(後藤喜一)
2008年09月13日
*********
以上、引用終わり
誰かの犠牲のうえに成り立つものではないでしょうか」
最近、国内外の悲惨なニュースを観るたびごとに、
南木佳士さんのことばのリアルさを感じる。
●
死ぬこと/生きることに対しては、
「しっかりした死生観をもって臨まなければいけない」
と、まさに自分は思っているところだった。
このことは、もしかしたら、死ぬことが自分にとっては
「遠いこと」「怖いこと」だとする自分の側の前提条件
(色メガネ)のせいだったのかも知れないと気付かされた。
●
「終わるときは、終わるのよね」
自分自身の問題としては、このことばを、
本音ではまだまだ実感・納得できない。
まだまだ南木佳士さんの境地にまでは
至っていないなぁ、生きることにしがみいて
いるなぁと思う。
小説をぜひ読んでみたい。
以下、引用
*************
2008(平成20)年09月13日(土)
東京新聞
トップ>暮らし・健康>土曜訪問一覧
【土曜訪問】
死は怖い…を乗り越えて
人生の復路の風景を描く 南木佳士さん(作家)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/doyou/CK2008091302000223.html
人生はよくマラソンにたとえられるのだから、
それに折り返し点があり、往路と復路があると
考えることもできるだろう。
南木(なぎ)佳士(けいし)さん(56)の近著
『草すべり その他の短篇』(文芸春秋)
は、<人生の復路>に入ってから見えてきた
心の風景をとらえた私小説風の作品集である。
収録された4編のうち、「旧盆」は生と死、家族、郷里
など、これまでの南木文学の要素が凝縮された佳品。
表題作の「草すべり」は高校の同級生だった女性と
約40年ぶりに再会し、ふたりで浅間山に登った1日を
山の風に溶け込んだような、軽やかな文章で描いている。
各編に山歩きの話が出てくるのも作品集を彩る大きな特徴だ。
長野県佐久市の自宅を訪ねると、南木さんはとても
晴れ晴れとした様子。長くうつ病に苦しんできた作家は
50歳から山歩きを続けており、かなり健康を回復している
ようだ。
●
人生の往路と復路の違いについて、南木さんは
最近一緒に山に行った若い人たちの例を挙げ、
こう説明する。
「彼らは景色を眺めたり、稜線(りょうせん)を
わたる風を味わったり、ということをあまりしないで、
とにかく先を急ぎたがる。自分も若いころなら、
地図に記されたコースタイムよりどれだけ早く着いたとか、
そういうことに価値観を見いだしたんでしょうね」
信州の病院に赴任した若い女医を主人公にした
「破水」(文学界新人賞)で1981年にデビューして
以来、南木さんは医師として直面した現実、
ひとは死ぬものだということをテーマに
小説を書き続けてきた。
例えば、88年下期の芥川賞受賞作
「ダイヤモンドダスト」には印象的な場面が出てくる。
主人公の看護師の妻が
「結婚して、子どもを産んで…動物の、哺乳類(ほにゅうるい)の
雌としての果たすべき役割ができたことに不思議な安心感がある」
と言って息を引き取り、ベトナム戦争に従軍した経歴を持つ
米人宣教師は、戦闘機からパラシュートで脱出したときに見た
星空と同じ規則で誰かにアレンジされている自分を見いだし、
人工呼吸器の使用を断って死んでいくのである。
このように、南木さんはひとの死をリアルに描き、
丹念に意味づけをしていた。
それが今度の「草すべり」では、速いペースで登っていた
女性が途中で急激に息切れし、帽子をとったときの頭髪の様子から
命が長くはないかもしれないことを暗示するだけにとどめている。
切なさを感じさせても、暗さはない。
●
「この20年とは結局、そういう経過だったのだと
思いますね。かつては死とは怖いもので、
しっかりした死生観をもって臨まなければいけないという
意識があった。自分も病になり、死んでしまいたいという
強迫観念のようなものにとらわれた時期もありましたが、
それを乗り越えてみると、死とはそんなに怖いものでは
ないかもしれないと思うようになった。
“もう少し歩いていたいよね”
という彼女の最後のせりふは、もう少し歩いていたいけれど、
終わるときは終わるのよね、というわりと自然な感じなんですね」
●
秋田大医学部を卒業したあと、育ての親の祖母が住む
群馬の村に近いという理由で、佐久市の総合病院に就職。
呼吸器の専門医として毎年多くの肺がん患者を看取(みと)った。
その数が300人を超えたころ心身に変調をきたし、
芥川賞受賞の翌年、うつ病と診断された。
その後、2年半ほどは書くことも読むこともできなかったという。
●
病院では病棟勤務をはずしてもらい、外来診療と人間ドックを
担当してきた。「旧盆」のなかで作者は、末期がん患者を
引き継いだ後輩の医師がわずかな休みも返上して
仕事をした末に悪性腫瘍(しゅよう)で早世したことを思い出し、
自分は
<そうやって生き延びた>
と苦い感慨を吐露している。
●
「ひとが亡くなっていく過程、ひとが息を引き取る現場に
立ち会うというのは、後でお葬式をあげるのとはまったく
違うのです。
よく戦争に行ったひとが、あいつが先に出ていって
弾に当たってくれたお陰で自分は助かったなどと
言うことがありますが、ふつうの生活のなかでもそういうことは
あると思いますね。
生き延びるというのは、きれいごとではなく、
誰かの犠牲のうえに成り立つものではないでしょうか」
●
医師としての体験なしに南木さんの文学が成立しないのは
確かだけれど、医師であることと作家であることは
どう関係しているのだろう。
「両輪ですね。医師として話せない言葉や思いを、
私は小説に託してきたわけです。小説に出てくるような医者だと
思って病院に来られると困るのですが…」。
こう言って、南木さんは朗らかに笑った。
(後藤喜一)
2008年09月13日
*********
以上、引用終わり