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なお、このブログは、自死等の相談に応じるものではありません。


NPO法人宮崎自殺防止センター
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原爆肯定怒りに言葉なく 郭福順さん(朝日新聞) [2009年03月25日(Wed)]
2009(平成21)年03月25日(水)
asahi.com>マイタウン>広島

平和を考える【聞きたかったこと 〜被爆から63、64年〜】

原爆肯定怒りに言葉なく 郭福順さん
http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000160903250001



郭福順さん。証言した子たちから届く贈り物や折り鶴は
「元気をくれるものだから」
とすべて大切に保管している=広島市西区



韓国伝統のチマ・チョゴリを着た
20代ごろの郭福順さん(右端)=郭さん提供

髪が逆立った気がした。
「原爆を落とさなければ戦争は終わらなかった。
原爆は20万人の兵士を救った」。

22年前、在日韓国人被爆者の代表として米国を訪れた
郭福順(かく・ふく・じゅん)さん(80)=広島市西区=に、
国務省の担当者は言った。

背が高く、さっそうとしたスーツ姿に青い目。一瞬、あこがれ
さえ抱いた男性の言葉に、郭さんはうちひしがれた。
何も言い返せなかった悔しさをバネに、今日まで若者や日本を
訪れる外国人らへの証言を続けている。



16歳の時、広島市大手町(現・中区)で住み込みの家事手伝い
をしていた。隣の下宿屋のおばさんから
「配給の米を取りに行こう」
と誘われた。支度をしていた時、大きな爆撃機を見た。
直後、爆音とともに家が崩れ下敷きになった。
爆心地から0・9キロ。

すき間から、火がちらちらと見えた。何度叫んでも誰も来ない。
大した傷は負っていない。自力ではい出せたものの、
何が起きたか見当が付かない。着ていたワンピースをちぎり、
板きれに結びつけて即席のげたをつくった。がれきの山を踏み越え、
ひたすら逃げた。



市内の防空壕(・・ごう)で一晩を過ごした郭さんは翌日、
矢野町(現・広島市安芸区)にいた父親のもとへ戻った。
終戦2年後に結婚。塗装店をしていた夫の仕事を手伝いながら、
4人の子を育てた。血を吐くこともたびたびあったが、
買い出しで各地を行ったり来たりする生活が忙しく、
病院へ足を運ぶことはなかった。

原爆を忘れたかった。被爆者であることも、家族以外にほとんど
話さなかった。



87年、在日本大韓民国民団に入った息子を通じて親交があった
在韓被爆者支援団体の関係者から訪米を持ちかけられた。
核廃絶を願って米国の市民と交流することを目的とした
「ピースフライト」に参加してほしいという。
海外旅行の経験はなく、英語も話せない。何を語ればいいのかも
わからなかった。

断り切れずに日本人被爆者2人と一緒に8月に出発。
約1週間滞在し、首都ワシントンでは、ホワイトハウスの前で
米の反核団体のメンバーらと祈りをささげたり、アーリントン
国立墓地を訪ねたりした。
墓碑を埋め尽くした戦争犠牲者の兵士の名前に胸が痛んだ。

国務省を訪ねたのはその後だった。出てきた担当者は俳優のよう
にかっこよく、胸がときめいた。なのに、原爆を肯定する発言。
涙があふれ、息が止まりそうになった。

「『20万人が救われた』って、広島の市民は死んでもよかった
ということなの。赤ちゃんまで死んだのよ」

だが、怒りを言葉に変え、ぶつけることはできなかった。
この悔しさが転機となった。



郭さんは帰国直後から、広島を訪れる人たちに被爆体験を
証言する活動を始めた。

岡山県の小学生たちが最初の聴き手だった。いざ語り始めると、
自分の思いをうまく伝えられない。涙がこみ上げ、何度も話を
中断した。
「やっぱり私は語るべきではないんだわ」。
思いはいったんくじけた。

だが1カ月後、小学3年の男の子が、いじめを苦に自殺したとの
ニュースが郭さんの気持ちを揺さぶった。

「死ぬほどのエネルギーがあるなら、なんで生にしがみついて
くれないの」。

かけがえのない「命」について語りたい。
子どもたちの前に再び立つ決意が固まった。

証言を始める時、あの日の悲惨な光景を常に思い出す。
橋の上に、何十人もの子どもたちが寝かされていた。
顔がやけどでパンパンに腫れ、身じろぎもしない。
かたわらで必死に薬を塗る女性がいた。無駄としか思えなかった。

原爆は数え切れないほどの人の命を奪った。生き延びた人の多く
も家族を失い、後遺症に苦しむ。
だから、若い人には生きていることの大切さを知ってほしい。

「大切な人が死んでしまったら、生きている人にとっても
地獄なんよ。自分だけが死んでいいの。もっと命を考えて」。

語り終えた時、目はいつも涙で赤くなる。



郭さんは98年、悪性膀胱(ぼう・こう)がんと診断された。
入退院を繰り返しているが、死は決して怖くはない。
あの朝、誘いに来た下宿屋のおばさんは被爆直後に死んだと
後に聞いた。だが自分は紙一重の差で生き延び、11人の孫も
できた。

「生かされてるんじゃ、っていう思いが強くてね」
足にガラスが突き刺さった無数の跡が残る。ズボンのすそを
めくって見るたびに、なぜ自分が生き延びたのか考える。
どんなに体調が悪くても、証言を休む気はない。(江戸川夏樹)

朝日新聞 2009年03月25日
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