今日の人226.金岡紀子さん [2024年03月23日(Sat)]
今日の人はOffice KANAOKAで司会進行、動画リポーター、取材・執筆活動などに取り組みつつ、JICA北陸富山デスクの国際協力推進員もされている金岡紀子さんです。
富山の最高峰大汝山山頂にて 金岡さんはアメリカのコロラド州デンバー生まれ。デンバーは標高が1600mの場所なのですが、そのせいか今も高い所にいると心が落ち着く山が大好きな金岡さんなのでした。外で遊ぶのが好きで、いつもお母さんに外に行こうよと言っていました。2歳までデンバーで、その後はニュージャージーで過ごしました。幼少期は人見知りが激しくてベビーシッターとの相性が良くないと、シッターさんを困らせようと企むようなちょっとおませな一面もありました 小学校入学前に金岡さん一家は帰国。富山の幼稚園に少しの間通ったのですが、その後は東京の上石神井小学校に2年生の1学期まで過ごしました。東京では強豪イトマンのスイミングスクールに通ったり、夏休みのラジオ体操の後は、石神井公園でさんざん遊んで帰ったりと、とにかく体を動かすのが大好きでした。そしてやっぱり高い所に登る遊びが大好きで、うんていなども好きでした。ブランコに乗りながらの靴飛ばしもよくしたものです。 小学校2年の2学期から富山の新庄小学校に転校します。小学校3年生からはブラスバンド部に入りトロンボーンを吹くようになりました。お盆とお正月くらいしか部活の休みはありませんでしたが、全国大会に出場する機会もありとても楽しかったです。何かに打ち込む楽しさは、小学生時代のブラスバンド部で学びました。とにかく音楽と体育と図工が大好きで、かけっこも鉄棒も縄跳びも全部好きでした。年子の弟がいるのですが、弟と一緒にキャプテン翼ごっこやキャッチボールなどもしていたものです。 中学校に入ってからもブラスバンド部でトロンボーン一筋でした。お年玉を貯め、祖母にカンパしてもらって自分の楽器を買ったのもこの頃です。 新庄中学校は11クラスあったので、本当にいろいろな子がいました。多様性があたりまえという感じの学校で、いろんな子がいるというのはとてもよかったなと思います。 高校は呉羽高校へ。呉羽高校は音楽コースでも有名なのですが、金岡さんは音楽コースではなく普通科に入りました。でも、やっぱりトロンボーンが吹きたくてオーケストラ部に入ります。オーケストラ部は吹奏楽部とちがって競技会がなく、それがもの足りない気がしました。音大に憧れる気持ちもあったのですが、声楽科を出てピアノの先生もしていたお母さんが音楽では食べていけないからというので、音大に行くことはしませんでした。でも、普通科はみんな進学するし、田舎にいたくないという思いもあって、東京の大学へ進学したいなと思いました。そうして青山学院女子短期大学英文科へ進学します。青短は、お嬢様校といった感じで読者モデルをしているような子もいて、引け目を感じるくらいにとても華やかでした。でも、ここでも金岡さんはやっぱりトロンボーン!管弦楽団に入り、オーケストラに打ち込む短大時代でした。夏は志賀高原で、春は山中湖での合宿もとても楽しいものでした。 しかし、短大は2年間しかありません。あっという間に卒業です。就職を考えた時に、金岡さんは高校時代の先輩に言われた言葉を思い出しました。「金岡、地方局のアナウンサーとかなれそう〜!」その言葉がなぜだか頭にずっと引っかかっていました。それに、マスコミはクリエイティブな仕事で、みんなで作り上げていくところが音楽と似ていると思いました。音楽家になれないなら楽しい仕事がしたい。マスコミならいろいろな人に会えて毎日が単調じゃないはずだと思ったのです。しかし、時は超就職氷河期。4大卒の人じゃないと、総合職の受験資格がありませんでした。短大生の受験資格はほとんどが一般職のみでした。 それで、その時はマスコミをあきらめました。外資系の生保会社に契約社員で入ることが決まっていたのですが、なんとなくもやもやして、卒業後は富山へUターンすることにしました。こうして富山で春から就活を始めました。そして9月入社で丸2年日本海ガスのグループ会社で働き、社会人のイロハを学びました。マスコミもあきらめきれず、放送局を受けていたけれど、採用には至らない日々でした。 2001年の秋、金岡さんはアメリカのシアトルの語学学校へ行くことを決めます。2001年9月11日はそう、あの同時多発テロが起きた時です。でも金岡さんはその10日後の9月21日に旅立ちました。どうしても行きたかった。シアトルではホームスティしながら語学学校に行きました。マリナーズに在籍していたイチロー選手や佐々木投手の試合も生で見ました。 語学学校で学んだ後、2003年1月にニューヨーク市立大学へ編入します。メディアスタディと音楽をW専攻し、ひたすら学びの日々でした。メディアスタディの方は座学の他にもフィルムを撮ったりし、トロンボーンはニューヨークフィルの先生についてレッスンを受けました。朝9時から夜9時まで大学で勉強。帰ってからは課題と、とにかく勉強に追われる日々でしたが、学生チケットをゲットして、バレエやオペラ、音楽を鑑賞するのが何よりの息抜きでした。 ニューヨークでの大学生活終盤に入居したドミトリーには、UNHCRで緒方貞子さんと一緒に働いていたというアフリカ出身の女性もいました。彼女はいかに緒方貞子さんが素晴らしいかを教えてくれました。それが金岡さんの視点を国際協力に向かわせることにも繋がりました。 帰国後は、東京で派遣社員をしながらテレビ局を目指しました。NHKキャスター枠を受験したところ、和歌山局に合格。 こうして和歌山で4年過ごすことになります。和歌山は気候もよくのびのびとした環境で、人柄も穏やかな人が多く、でも関西のノリもあって、とても過ごしやすい所でした。ここでマスコミの仕事の面白さに気づかせてもらいました。3年目には紀伊半島豪雨水害の場面にも出会います。この時に、災害時の報道の大切さと大変さを実感することになりました。 その後は宇都宮放送局で2年働きました。宇都宮ではお昼の番組の制作とキャスターを兼務するという経験をしました。この時の経験がその後の仕事にもとても役立っています。でも、宇都宮局にいた2年目、短期間のうちに激痩せしてみるみる衰弱していきました。1型糖尿病という病気が原因でした。馴染みのない病状と病名に最初はショックでしたが、栃木で頼ったドクターはたまたま富山医科薬科大学(現富山大学)出身の先生でした。その先生の紹介で、宇都宮から富山へ引っ越しても治療をスムーズに行うことができました。今は、病気でも十分仕事ができるんだということを実感できています。常にインスリンポンプを持ち歩いて薬を打たなければなりませんが、仕事は普通にできるのです。 富山放送局では5年務めました。1年目はディレクター班、2年目からはキャスター班として過ごします。放送の仕事はとても楽しく、自分に合っていると思いましたが、そろそろ違う風を自分に入れたいと思うようになりました。 2020年3月コロナが騒がれるようになった時、旅行商品の開発・販売、県内産品のリブランディングや開発や空き家の利活用などの事業を展開している叶と匠の林口砂里さんのところで1年半、観光ツアーを手伝う仕事をしました。そして、大学院にも通い始めました。1型糖尿病は成人前に発症する割合が多く、患者会の中には本人だけでなく、保護者が疲弊してしまうケースも見られます。当事者研究を進めたいという思いで、ピアサポートの社会学を専門にする富山大学の伊藤智樹先生の研究室の戸を叩きました。そうして今年1月に修論を書き上げました。修士論文のタイトルは「1型糖尿病の病いの語りにおける現代的様相―アイデンティティへの統合、綻びの可能性―」です。 大学院に通いつつ、2023年の4月からJICA北陸でも働き始めました。放送の仕事がダメだったら国際協力の仕事をしたいという思いもずっとあった金岡さん。放送局での仕事を経て、国際協力の仕事にもたどり着いたのです。いつも直観で自分のアンテナの向かう方向に進んできた金岡さんは、多様な人と出会い多様な価値感で出会う時間が本当に楽しいと感じています。逆に、嫌なことは、自分で自分を縛ってしまうこと。常識という言葉に囚われて、やりたいことに挑戦できない人生はもったいない。なんでもやって楽しもう、そう思っているからいつもイキイキしている金岡さんなのでした。 コロナ前はヨーロッパへの一人旅にも行きましたが、最近は海外に行けていないので、そろそろ行きたいなぁと思っています。今はアフリカに行って野生動物を見たい、そして、デンバーの自分の生まれた場所に行ってみたいと思っています。いずれ宇宙から地球も見てみたい!未知のものに出会うのが大好きな、子どもの時のワクワクする心をずっと持ち続けていらっしゃるんだなぁと、お話を伺いながら感じました。 山が大好きというのは最初に書きましたが、立山連峰が見られたら、それだけでその日はハッピーな気分で過ごせます。雄山は年に1回は登っていますし、剣にも挑戦しました。トロンボーンもそろそろ復活したいなぁと思っています。こんな風にやりたいことがいっぱいある金岡さんですが、物欲はあまりありません。ものは一回持つともういいやって思ってしまうけれど、経験は自分の中で大きな宝物になる。そして、いろいろやっていることの中からまた新たに沸き上がってくる想いに自分を投入していけたら、それが自分にとってのウエルビーイングになるんじゃないかな、最近はそんな風に感じています。 いくつになっても挑戦し続けるのは素敵だな、と改めて思わされて、春風が吹いた後のようにフレッシュな気分になれる、そんな金岡さんのお話でした。 |