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今日の人223.牧田和樹さん [2022年12月12日(Mon)]
 今日の人は、株式会社牧田組代表取締役社長、富山経済同友会代表幹事、射水商工会議所会頭、射水市観光協会会長等々、数え出したらキリがないくらいにたくさんのお顔をお持ちの牧田和樹さんです。
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イナガキヤストさん撮影

 牧田組のキャッチコピーは「由緒正しき 非・常識」、そして牧田さんのモットーは「頼まれごとは試されごと」たくさんの頼まれごとを引き受けているうちに、牧田さんの周りには多様なネットワークが構築されて、富山の経済界になくてはならない存在の方なのです。

 牧田さんは1961年7月9日、新湊市(現射水市)で生まれました。1912年に曾祖父の牧田與四郎さんが創業した牧田組は新湊の発展に大いに寄与してきた企業でした。牧田さんが生まれた頃は2代目のおじいさまが社長として手腕を発揮していらっしゃいましたが、牧田さんが3歳になる前に3代目社長となる予定のお父様が亡くなられます。ですから、牧田さんにはお父様の記憶がほとんどありません。

 一人っ子だった牧田さんは、小さい頃は内向的で、家の中で遊ぶのが好きでした。ブロックなどを作り込んでいくのが好きで、それが小学生になるとプラモデルに変わります。サンダーバード(当時流行っていたイギリスの特撮人形劇のロケット)や船はよく作りましたし、小学校高学年になると、細かなパーツのお城も作っていました。曾祖母の使っていた家が高岡の平米小学校のそばにあって、そこで過ごしていたことも多く、高岡の幼稚園に通っていました。小学校もそのまま平米小学校に行く予定だったのですが、牧田のおじいさまが「新湊のもんが新湊の小学校に行かなくてどうする」と、入学式の前日に新湊の放生津小学校に入学することが決まったのでした。小学校高学年の時は野球もしていました。外では野球、家ではプラモデル作りをしたり、本を読んだりして過ごしていました。夢は特になかったけれど、なんとなく牧田組の跡取りだという空気は感じていました。なにしろ、牧田家の男子は和樹さんしかいなかったのです。

 中学校はお母さんの意向もあって高岡の高陵中学校へ越境入学します。ここで幼稚園の友達と再び一緒になりました。バスケ部に入った牧田さん、中学時代はバスケ一色だったと言っても過言でないくらい、バスケに熱中しました。でも、他にも好きなものはありました。写真家の入江泰吉さんの写真が大好きで、入江泰吉さんの池に映る奈良の寺々の風景に心惹かれていました。なんて美しいんだろう!写真から紡ぎ出されるストーリーに想いを馳せ、写真にも興味を持つようになったのはこの頃です。
 中2の時には生徒会の役員もやっていました。ある日、生徒会室で出前のラーメンを食べようとすると(生徒会室で出前のラーメンを食べられるなんていい時代だなぁ)、1つ上の先輩に「お前、正しいラーメンの食べ方を知っているか?」と言われました。
「お前、ラーメンはそのまま上から食べるか?」
「はい」
「そうじゃないんだよ。まず、混ぜて、麺と絡めてから、麺を4,5本掬って食べられる分を一気にすするんだ」
「へぇ〜」と思いました。果たして、その食べ方は正しかったと後々感じた牧田さんは、それ以来ラーメンはずっとその食べ方で食べています。
 こうして、バスケに打ち込んだ中学時代、牧田さんの代に高陵中学校は初めて県大会で優勝を果たしました。

 高校は県内屈指の進学校、高岡高校へ。高校でもバスケ部に入った牧田さんは1年の時から試合に出ていました。中学の時、バスケで1,2位を争っていた出町中学校バスケ部のキャプテンも高岡高校に入って一緒にバスケ部に入ったので、1年の時はバスケをがんばっていました。しかし、2年になった頃、高岡商業などの強豪校にはどうしたって叶わない、との現実を思い知らされ、そこからバスケへの熱はスーッと冷めていきました。でも、牧田さん、今はプロバスケットボールチーム・B1リーグの富山グラウジーズの取締役も務めておられるのでした。
 バスケへの熱が冷めてから勉強に目覚めたのかというと、さにあらず。なんとなく、グダグダ過ごしていました。勉強しなくては、というプレッシャーはずっと頭にあったのですが、何にも燃焼しきれずに時間を無駄に過ごしている感じがずっとしていました。ちなみに牧田さん、モテていたけれど、女子と付き合ったりはしませんでした。硬派な高校生だったのです。

 こうして、燃焼できないまま高校を卒業し、東京で予備校生になることになりました。しかし、田舎から出てきた若者にとって東京は刺激が強すぎました。やっていたことは好きな音楽をひたすら聴いたり本屋でプラプラしたりだったのですが、浪人1年目はまたまた勉強できず、2浪して中央大学理工学部土木工学科に入りました。ちなみに牧田さんが浪人時代にハマっていた音楽はフュージョンでした。WEATHER REPORT、T-SQUAREといったバンドが好きでずっと聴いていました。順番が逆になりますが、高校時代はロック、中学時代はフォークやニューミュージックをよく聴いていた牧田さん。カラオケで牧田さんとご一緒したラッキーな方は、小田和正やビリー・ジョエルやイーグルスの曲が聴けるかもしれません。

 大学では、バスケ同好会と写真同好会に入りましたが、サークルにはあまり行きませんでした。麻雀はよくやりました。しかし、建築をやりたかったので、Wスクールで夜は建築の基礎を学びに行っていたのです。実は、牧田さんの奥様との出会いは、大学1年の時でした。理工学部なので、クラスには男子が100人超いたのに、女子はたった2人でした。その中の1人が奥様だったのです。
 学部の後、牧田さんは就職せずに大学院に入りました。指導教授から院に来たらどうかと言われ、そのまま院に行ったのです。マスター2年の1月に就職戦線がスタートするのですが、牧田さんは建設コンサルタントがいいと思っていました。教授も紹介してくれた国内トップの建設コンサル会社で内定の一歩手前まで行ったのですが、実家が建設会社だと調べられたようで、「ここに10年いられるのか?」と聞かれました。10年いるのは無理だと思った牧田さん。コンサル会社に就職するのは断念しました。教授は君は民間だとこういうことになるから、建設省に行きなさい、とおっしゃいましたが、試験まで3か月しかないのに、国家公務員1種の勉強はとても間に合わないと思いました。無理です、というと、日本道路公団だったら試験は9月で公務員試験より2か月遅いし、今からやっても間に合うのではないかと言われ、日本道路公団の試験を受けることにしました。しかし、ふたを開けてみると、なんとその年から道路公団の入社試験も9月ではなく、公務員試験と同じ7月に変更されていたのです。専門分野に関しては問題なかったのですが、一般教養対策が大変でした。こうして人生で一番勉強した3か月を過ごし、牧田さんは難関を突破して、日本道路公団に入りました。

 牧田さんが日本道路公団に入った年の8月、牧田組の社長だった伯父さんが亡くなりました。しかし、その時、会社は莫大な借金を抱えていたのです。牧田さんのおじいさまが亡くなった高1の頃、牧田組は借金がゼロの超優良企業でした。それが、いつの間にか大赤字になっていたのです。取引先の銀行から、「お前が戻ってこなかったら会社を潰すぞ」と言われました。まだ道路公団に入ったばかりだった牧田さんは、「お願いします。もう一年だけ待ってください」と頭を下げ、次の年の7月に富山に戻ったのです。

 平成元年7月1日、出社した初日のいちばん最初にしたことは、会社を潰さずに融資してくれていた銀行の頭取にあいさつしにいくことでした。そこからは、大変だと思う暇はありませんでした。なにしろ、売り上げと同じくらい、借金があったのです。がむしゃらにやるしかありませんでした。28歳の誕生日の8日前に牧田組のトップになった牧田和樹の社長人生のスタートでした。
 その年の11月に出会ったのが、アイバック社長の小沢伊弘さんでした。この出会いがとても大きなものになったのです。小沢さんの勉強会に入ってから、気づきがたくさんありました。そうして牧田さんは勇気を持って会社の改革を進めていきました。小沢さんはJC(青年会議所)にも入った方がいい、ともアドバイスしてくれました。JCに入ったことで、多くの経営者に出会うことになり、そこでたくさんの頼まれごともされました。牧田さんは頼まれたことは断らず、真摯に取り組んだので、それが評価され、また次の頼まれごとに繋がっていくのでした。そうして新湊青年会議所から初めて北信越の会長になったのが牧田さんだったのです。それだけではなく、49歳の時には射水商工会議所の会頭になります。当時全国最年少での会頭就任でした。他にもお子さんの成長に伴い、富山県高等学校PTA連合会会長、そうして全国高等学校PTA連合会会長と、いったいどこにそんな時間があるのだろうと思うくらいに、いろいろなお役目を引き受けて、それを期待以上にやり遂げてこられたのです。もちろん、牧田組の業績を大幅に上げながらの話なので、どれだけのご苦労があったことかと思うのですが、そんなことは全く感じさせずに、ポジションを与えられるたびに一生懸命に取り組んでこられたのです。そうして、今年からは新たに富山経済同友会の代表幹事の肩書も加わったのでした。

 そんなお忙しい牧田さんがホッとできる時間は、高岡駅から路面電車の万葉線に乗って、牧田組本社のある六渡寺駅まで コンビニコーヒーを飲みながら過ごす電車の中の35分間です。その時間が1人でゆっくりできる唯一の時間なのかもしれません。
六渡寺駅を降りると、目の前に現れるのが国の登録有形文化財にも指定されている牧田組の本社社屋です。
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大正4年建築。木造の躯体に褐色レンガを貼り、腰、隅柱や蛇腹に花崗岩を用いるなどルネッサンススタイルを匂わす。また、前方に張り出し重量感のある石造柱に挟まれた入口を中心に、上げ下げ窓を左右対称に配置する外観が特徴的である。伏木港における海運の近代化を物語るランドマークである。(とやまの文化遺産https://toyama-bunkaisan.jp/より)

 牧田さんが掲げている経営理念は、「関わる人すべての幸福な生活の実現」です。富山県は富山県成長戦略(2022年2月策定)の中心に「ウェルビーイング」(心も身体も社会的にも「満たされた状態」、実感としての幸せ)を掲げていますが、牧田さんはこれに先んじて、ウェルビーイングな企業づくり、地域づくりに取り組んで来られたのでした。SDGs wash(なんちゃってSDGs)になりがちな企業も多い中にあって、真摯に社員やお客様や地域に住む人々に向き合われていることが伝わってきます。でも、あまりにもお忙しいので、牧田さんご自身のウェルビーイングが疎かにならないか心配になるのでした。

忙しい中にあっても、いろんな人と出会って、いろんな人と話をすることが楽しいと牧田さんはおっしゃいます。年上年下関係なくたくさんの方から慕われている牧田さんなのです。それで、また頼まれごとが増えていくのかもしれませんが…。

そんな牧田さんがワクワクするのは、何かを達成した時より、達成できそうだという予感を感じた時!次に牧田さんがどんなことにワクワクして、そのワクワクで富山にどんな新たなイノベーションが起きるのか、とっても楽しみになるインタビューでした。
私も久しぶりにコーヒー片手に万葉線に乗ってみようかなぁ。