今日の人222.土肥恵里奈さん [2022年08月31日(Wed)]
今日の人は、未就学児のママを対象とした情報サイトや親子イベント、交流スペースの運営を通して、ママの毎日が楽しくなる環境づくりに取り組んでいるママスキー代表取締役 土肥恵里奈さんです。先日太閤山ランドで開催したイベントではなんと1万人もの人を動員。その活動は富山にとどまらず、全国に広がりを見せています。
土肥さんは1984年富山市生まれ。男3人の従兄弟に囲まれて、カエルやセミをとったり秘密基地を作ったりして活発に遊ぶ子でした。保育所でもキョンシーごっこする時に、1人だけキョンシー役になって友達に襲い掛かるような子でした。遊ぶときは周りが男の子ということが多い保育所時代だったのです。エレクトーンを習っていたので、エレクトーン教室の先生になりたいとその頃は思っていました。リリアンブームの時は編み物教室の先生になりたいと思ったり、何かの先生になりたいと思うことが多い幼少期でした。 小学校は山室小学校へ。近所に住む1つ年上のお姉さんの影響もあって、小学校に入ってからは女の子と遊ぶことが多くなりました。当時流行っていたセーラームーンなども見てはいましたが、いちばん好きなのは昔も今もホラーです。ビデオ屋でレンタルするとしたら専らホラー映画でしたし、今も夜中に1人でアナベルシリーズ等を見ている土肥さんなのでした。怖くないですか?と聞くと、見ている時だけ怖いけど、逆にスッキリすると。でも、事実を描く戦争映画はとても見られないのでした。土肥さんの影響か、娘さんも映画大好きっ子に育ち、プロジェクターで家で映画館ごっこをするのが2人とも大好きです。 土肥さんが4年生の時に、両親が離婚し、土肥さんはお母さんと弟さんと3人で婦中町に引っ越しました。山室小学校から鵜坂小学校へ転校し、中学校に入るくらいまでは昔の友達と文通をしていました。でも、鵜坂小学校でも仲良しの友達ができて、男女混合の5人組でいつも一緒に遊んでいました。影踏みや鬼ごっこをしたり、誰かのうちに集まっておしゃべりしたりしていたものです。スポーツ少年団でソフトボールを少しだけやりましたが、あまり熱中したことはなく、ボール当たると痛いなぁという感じでした。 離婚してからお母さんは仕事が忙しく帰るのは夜の7時〜8時ということが多くなったので、5年生くらいからは自分で料理を作るようになっていました。最初はご飯だけ炊いたりお味噌汁だけ作るなどの簡単なことでしたが、それでも忙しい中でお母さんはどれだけ助かったことでしょう。土肥さんが5年生の時に弟さんはまだ保育園の年長だったので、弟さんにとってもとても頼れるお姉ちゃんでした。 速星中学校に入り、最初はバスケ部に入ろうと思っていた土肥さん。スラムダンクが流行っていたこともあったし、好きな子がバスケ部にいたからです。でも、仲良しの友達が吹奏楽部に入りたいからと一緒に仮入部したことが、その後の土肥さんの運命を大きく変えたと言っても過言ではありません。吹奏楽部に仮入部して、部屋の入口でクラリネットの先輩につかまり、結局仮入部期間の1週間、ずっとクラリネットの練習をしていました。その頃の土肥さんは、今と違って言いたいことがあっても言えないそんな子でした。だから、他の楽器の所へ行きたくても、行きたいと言い出せなかったのです。そうこうしているうちに仮入部期間が終わり、本入部することになりました。1週間練習してクラリネットが吹けるようになっていましたし、もうバスケ部ではなく、友達と一緒に吹奏楽部に入ることに決めていた土肥さん。でも、その友達がフルートにすると言っていたので、一度も吹かなかったフルートに手を挙げたのです。しかし、友達がフルートにすると言っていたのは土肥さんの勘違いで、友達はホルンに手を挙げたのでした。こうして、仮入部期間に練習したクラリネットでも、友だちがやるホルンでもなく、フルート部門に入ってしまいました。1ヶ月、全く音も出ないまま時が過ぎました。でも、お母さんが15万円もするフルートを買ってくれたので、絶対にやめるわけにはいきませんでした。フルート部門の3年生の先輩はとても厳しく、同期のフルートの子が上達していくのに、自分はちっとも上手くならなくて、とにかく夢中で練習しました。ようやく音が出るようになった時は、嬉しくてホルンの友達に電話口で聴いてもらったりしていました。その後、どんどんフルートにのめり込んでいった土肥さん。吹奏楽は夏と冬に大きな大会があるのですが、冬のアンサンブルコンサートでは1年の冬に県大会に出場します。その後もどんどんフルートにハマり、夏の大会では北陸大会にも出場しました。速星中学の吹奏楽の先生はとにかく指導が厳しかったのですが、その厳しさよりもフルートの楽しさが勝りました。進路を決める時になって、土肥さんは悩みました。音楽コースのある呉羽高校に行って音楽大学を目指すか、吹奏楽で定評のある富山商業に行って全国大会を目指すか。結局、全国大会へ行きたいという気持ちが勝りました。それに、富商なら、吹奏楽に専念できるという思いもありました。 富商に入ると、中学の時の怖い先輩もいて、練習もとても大変だったけれど、楽しく充実していました。朝練から始まって、昼の休憩時間、放課後は学校で、夜は芸術創造センターに行って練習、とまさにフルート漬けの毎日でした。富商は毎年オーバードホールで定期演奏会があります。しかも3回公演!1年生の時は、チケットがなかなか売れず協賛企業も集まらなくて、苦労しました。しかし、みんなで売り歩いた甲斐もあって、3回とも満席でした。土肥さんたちが2年生の時は、中部日本の大会で賞を総なめし、3年生の時は、ついに全国大会にも出場しました。2年生の時は、新入部員もたくさん入ってきましたし、3年になると定期演奏の時は定期演奏会のチケットは既に完売状態からのスタートでした。定期演奏会はプログラムのデザイン、演出、会計、全部自分達の手で作り上げていきます。そうやって組み立てていくのがすごく楽しい!と感じていました。そんなふうに部活にのめりこんだ高校時代ではありましたが、ちゃんと恋愛もしていました。高校3年生の時に、急に顧問の先生が恋愛禁止!と言い出したのも今はいい思い出です。 商業高校なので、当然商業科目もあるのですが、土肥さんは商業科目がとても得意でした。簿記はパズルみたいで楽しかったし、会計も得意でした。商業科目で全国の高校生の9位になったこともあります。 音楽大学に進学したいという気持ちもありましたが、高3の春に「音大に行ってどうする?」と自分に問い直してみました。お母さんが21歳で自分を産んでくれていることもあって、自分も早く子どもを産みたいという気持ちもあったし、早く自分で働いて稼いで自分のお金でフルートを続けたい、という気持ちも強かったのです。実は高校に入ってから使っているフルートはお母さんが応援してくれて買ってくれた70万円もするフルートでした。お母さんは仕事が忙しい中、送迎もしてくれたし、演奏会の本番は全部見に来てくれていました。全国大会出場が決まった時は抱き合って喜びました。2人は仲良し親子で、とてもいい関係なので、土肥さんはこれ以上は親に負担をかけずに自分の力でフルートを続けようと思ったのでしょう。 こうして就職する道を選んだのですが、オペレーター職に就き、夜中まで働かされて、とてもフルートの練習ができる環境ではありませんでした。フルートができない状態はとても耐えられなかったので、フルートができる環境の求人誌の会社に転職。富山の先生の所に習いながら名古屋の先生の所にも1年間レッスンに通い続けました。富山の先生からは25歳になる前に、自分でコンサートを開きなさいと言われていました。その言葉通り、24歳の時に北日本新聞社のホールでデュオコンサートを開き、燃え尽きました。 その頃、3社目の情報誌のファーボに入社していた土肥さん。ファーボではやったらやっただけ評価してもらえたので、仕事がとても楽しく、それまでの最短で売上目標を達成し、USJ旅行をプレゼントしてもらったのでした。 そこにはもう言いたいことが言えずにもじもじしている土肥さんの姿はありませんでした。富商時代に誰かの顔色を伺うことを徹底的に否定されたからです。緊張すると言ったら、誰も見ていないと思って思い切りやれ、と叩き込まれました。その積み重ねで、フルートのソロパートを吹いても緊張することが全くなくなったのでした。社会人になってからも怒られることは当然ありましたが、中学や高校の部活では罵声を浴びせられることもしょっちゅうだったので、それに比べれば社会人は全然楽でした。部活の友達と会うと、社会人は楽だよね、という会話になります。いろんな考え方はありますが、今時はちょっと叱られてもへこむ若者が多いので、部活で厳しい経験をしておくのは大きな財産になるのは間違いありません。 ファーボでは、いちばんいいのは挑戦して成功する人、次が挑戦して失敗する人、ダメなのが挑戦しない人でした。土肥さんはどんどん挑戦して、どんどん結果を出していきました。こうして仕事がますます楽しくなり、仕事にのめり込んでいきました。 土肥さんがファーボに入社したのは2008年。その頃、ご主人に出会っています。つき合って半年でプロポーズされましたが、最初は断りました。それでもご主人はあきらめず、またプロポーズ。そしてOKした土肥さんでしたが、何しろ仕事がとても忙しかったので、1年以上たってからようやく式を挙げました。2010年のことでした。 実はママスキーの構想は結婚した直後に抱いていました。既婚者でもドキドキワクワクすることを立ち上げたい、そう思っていたのです。結婚後半年で妊娠した土肥さん。妊娠中も子育てが始まったときも、情報があまりにも少ないことに愕然としました。それにそういう悩みを誰に相談したらいいかわからない。子育てでずっと家に閉じこもっていた後輩に久しぶりに会ったとき、とてもかわいかったのに、すっかりおばさんになっていたのを見て、情報発信しなくちゃ、ママを孤立させないようにしなきゃ、と切実に思いました。土肥さんはファーボで働いているので、みんなよりは情報がある。それで、自分が中心になって情報発信をしていけばいいのではないかと思ったのでした。 まずはフェイスブックでママ向けの情報を発信しはじめ、その後ポータルサイトを作ろうと思いました。会社でママスキーの構想を言い続けましたが、なかなかその思いは会社に伝わらず、最終的に自分でサイトを立ち上げたのです。 こうして2014年3月にママスキーを開設。10月に初となる自主主催イベント「mamaskyハロウィンパーティ」を富山市婦中ふれあい館で開きました。家族で楽しめるマルシェイベントだったのですが、600人くらいが来てくれました。最初から600人も集めるなんてすごい!2015年5月には屋外で規模を大きくして「mamasky party」を開催。その時はなんと2000人もが集ったのです。 その頃は平日は会社員をして、週末はママスキーのイベントをこなしていました。ファーボでの仕事も大好きだったからなかなか起業までする気持ちにはなれなかったのです。 そんなとき別の情報誌で働きながらママスキーのイベントを手伝ってくれていた松本さん(今も土肥さんの右腕の方です)が、「ママスキーだけでやっていきたいから退職届出してきた」と言ってきたのです。ファーボも大好きな会社だから踏ん切りがつかなかったけれど、背中を押される形で土肥さん自身も覚悟を決めました。でも、収支計画もちゃんと作っていない状態からのスタートでしたから、最初は大変でした。給与はちゃんと払わなければいけないので、貯金を切り崩しながらやっていました。それでも、少しずつ軌道に乗っていき採算も採れるようになっていきました。大変だったけど、最初から人を雇って事業を始められたのはとてもよかったと思っています。何より1人で抱え込まずに話し合いながら進めて行けたのはよかった。こうしてママ向けのイベントを年に200回も開くようになり、多くのママからの相談も寄せられるようになりました。特に他に頼ることができない県外出身者のママたちにとってママスキーはなくてはならない場所になっています。そこから、社会の課題もたくさん見えてくると土肥さん。ママたちの声を直接行政に届けて行政を動かす役割も担っています。 ママスキーについて話してほしいと言われることも増えていきました。そういう時、ママスキーの活動は、少子化対策につながると言いながら、やっていることは広告業とイベント業が中心なので、やっていることと言っていることのちぐはぐさからか、思いがちゃんと伝わらないと感じることもありました。 コロナ禍でイベントの仕事が一気になくなった時、これまでのママスキーの活動について立ち止まって考える機会になりました。実はコロナ前は少しモヤモヤしていました。創業前にやりたかったことはだいたい達成した、では、これから何をやっていこうか。立ち止まって考えた時に、ママスキーを全国展開しよう、そう思ったのです。県外に行ったママから、ママスキーがなくて寂しいという声も聞かれましたし、何より、ママが幸せになれない国ではこの先の未来がないと思うからです。ママスキーは情報発信が得意だし、集客力も抜群。そして、今は全国にママスキーキャストが80人います。この輪をどんどん広げていって、日本全国のママが子育てって楽しい、自分もハッピーと思える日本になれば、おのずと少子化課題にも対応できると考えています。だから、今ならママスキーは少子化対策につながることをやっていると胸を張って言えます。 自分の中でやりたいこと、みんながやりたいこと、全国のママスキーキャストと話し合う場が楽しくてたまらない土肥さんなのでした。 もちろん、家族との時間もとても大切にしています。小学5年生になった娘さんは、ママと2人で総曲輪でカフェラテを飲む時間が大好きです。ショッピングセンターでゲームをするより、街中での時間を楽しめるってとっても素敵ですね。パパが休みの日は、車で3人でドライブをしていますし、夜はポップコーンを作ってホームシアターで映画館ごっこを楽しんでいます。去年は自宅でBBQがブームで今年はホームシアターでの映画館ごっこがブーム。さて、来年の土肥家にはどんなブームが来るでしょう。 こんな風に家での時間を満喫できるのも、仕事ばかりじゃなくて、ワークライフバランスを考えた働き方をしているからです。前は本当に仕事人間だったけれど、今は平日でも7時の晩御飯の時間には帰れるようにしています。もっとも土日は今もイベントでつぶれることが多いのですが、それでも、家族でホッとできる時間を過ごせる今のバランスはとてもいいと感じています。 あれだけ熱中していたフルートのことも気になりますよね。実は子どもができるまで、社会人の吹奏楽団速星フライデーズにも所属していた土肥さん。今も戻ってきて、と時々連絡が入ります。どこかでまたフルートを再開したいなぁとは思っています。土肥さんがフルートを再開してコンサートを開かれる時は、ぜひ拝聴に行きたいですね。 ちなみにママスキーの社名の由来も、フルートと関係あるのです。土肥さんは高校2年の冬のアンサンブルコンテストでチャイコフスキーの「フィレンツェの思い出」という曲を演奏したのですが、偶然その曲を聞き返していた時に「ママスキー」というネーミングが決まったのです。ママスキーのスキーにはチャイコフスキーTchaikovskyのskyを使ってmamaskyという綴りにしています。もちろん、ママが自分自身を好き&子どもたちがママのことが好き!の意味も込めています。 富山のママたちの強い味方、もちろんそれはパパたちにとっても強い味方、そんなmamaskyの活動からこれからも目が離せません。 |