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今日の人216.黒崎陽子さん [2021年11月20日(Sat)]
 今日の人は、黒崎ファーム代表取締役・黒崎屋取締役・アシュタンガヨガとやま主宰の黒崎陽子さんです。
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陽子さんは1972年5月29日に富山県の入善町で生まれ育ちました。朝日町との境の山あいの地域で育ち、小さい時から野山を駆け回るのが好きで、子どもたちの間ではボス的存在の女の子でした。弟さんも2人いて、弟さんと取っ組み合いのケンカもしていたそうです。小学校は1学年1クラスだけで、陽子さんの学年は22人だけのクラス。それで6年間ずっと一緒なのでした。なんでもそつなくこなすタイプの陽子さんはいつも学級委員に指名されていましたし、勉強も常に学年トップでした。本が大好きで、特に好きだったのは推理小説です。お父さんは本を惜しみなく買い与えてくれました。でも、専業農家だった家はとても忙しく、いつも家のお手伝いをするのは当たり前の生活でした。祖母と両親と兄弟3人の6人家族だったのですが、祖母と両親は農家の仕事で忙しかったので、小学校4年の時から家族の夕食を作るのは陽子さんの仕事でした。新川きゅうりの生産量が富山でいちばん多い農家だったお父さん、毎日出荷の箱を何百箱も組み立てていたので、陽子さんも1分間に何箱作れるか競うように組み立てていて、大人より早く組み立てるので、すっかり頼りにされていたのでした。日曜も仕事なので、どこかに遠くに遊びに連れていってもらった記憶はありません。ただ、山菜採りにだけはよく連れていってもらいました。親に負担をかけてはいけないと思って、習い事をしたいと思っても気を遣って言えませんでした。そういうわけで、習い事をしたことも一度もなかったのです。小さい頃はひたすら「いい子」で育っていました。

 中学校に入ると、クラスは2クラスに増えましたが、それでも30人のクラスが学年に2クラスだけの小さな中学校で、部活はバスケ部と、バレー部と、卓球部しかありませんでした。しかも、そのどれかに強制入部しなければならなかったので、バスケ部に入りました。運動は得意だったし、相変わらず本はたくさん読んでいたので、勉強も得意でした。その当時からスクールカーストはありましたが、陽子さんはどこにも属さずにいました。1人でいるのが全然気にならなかったし、どこか大人びていて、世の中をいつも斜に構えて見ているところがありました。幼馴染に出版社(株)シー・エー・ピーの社長さんがいるのですが、その頃の陽子さんはまるで宇宙人みたいだったと言われるくらい、不思議な雰囲気の中学生だったようです。特になりたいものもなく、仲良しだった先輩に、「桜井高校は楽しいからおいでよ」と言われ、深く考えずに桜井高校に進学します。先生からはどこの高校にでも行けると言われていたのですが、入善の田舎で育った陽子さんは、富山の街中の富山中部高校に行こうなどとはこれっぽっちも考えていなかったのでした。
 桜井高校は1学年9クラスありました。最初は知らない子ばかりでドキドキでした。唯一同じ中学から行った子が一緒にテニス部のマネージャーをしようと言ってきて、1年生の時はテニス部のマネージャーをしていました。食物部にも所属しましたが、こちらは毎週水曜だけの気楽な部で、しかも好きなものを作って食べられるので、陽子さんは部長になって部長特権で好きなメニューを作っていました。

 陽子さんは、途中から高校をしょっちゅうサボるようになりました。国語は授業に出なくてもわかるから行かなくてもいいと思って、出ないことも多くありました。子どもの時からどこか大人びていて神秘めいた雰囲気のあった陽子さんは、男の先生にひいきされることがよくありました。その裏返しでやけに邪見にされることもありました。しかし、そんなことはどこ吹く風の陽子さんは、中退した子や年上の人とつるんで遊ぶのがとても楽しかったのです。どこか刹那的で、金沢に住む3歳年上の彼氏の部屋にしょっちゅう遊びに行って家に帰らなかったりしたので、この子はなにかに取り憑かれたに違いないとお母さんは本気で心配していました。それでも、当の本人は好きな人の所へ行って何が悪いの?と全く意に介しませんでした。思えば、小学生の時からずっと家の手伝いをして「いい子」をしてきたので、その反動が高校時代に来てしまったのかもしれません。将来のことなど、何も考えてはいませんでしたが、とりあえず大学に行くことに。体が弱い子だと思ってくれる先生もいて、高校の単位はちゃんと取れて卒業し、富山大学の人文学部へ入学しました。もちろん、入善の実家からは通えないので、五福での一人暮らしが始まりました。

 大学も何で卒業できたのかとみんなに言われるほど、授業にはほとんど行かず、サークル活動とアルバイトばかりしていました。サークルはテニスやゴルフやコンパが中心のサークルでした。バイトもいくつも掛け持ちしていたので、当時で月収が20万を超えるほどでした。魚屋でのバイト、当時CICの地下にあったレストランのエスコート係。最初は店内で働いていたのですが、容姿のいい陽子さんは表で超ミニスカートをはいてやるエスコート係をやるように言われたのです。桜木町のスナックでもバイトしていましたし、イベントコンパニオンもやりましたし、スポーツクラブの受付でもバイトしていました。スポーツクラブでは、同じ年の子たちが専門学校を卒業してインストラクターとして働いているのを見て、学生気分真っ盛りだった陽子さんは刺激を受け、自分もやってみたいとインストラクターの養成コースを受けました。こうして、エアロビクスのインストラクターの資格を取り、卒業と同時にコースを持たせてもらうようになりました。でも、実はこれは副業で、正式に就職したのは北信産業というタイヤを扱う会社でした。こちらはイベントコンパニオンの会社の社長に紹介してもらって入社した会社でしたが、怖いもの知らずの大酒飲みだった陽子さんのことを当時の社長は大いに気に入ってくれて、どこにでも飲みに連れまわしてくれました。こうして会社員とインストラクターという2足のわらじ生活を3年続け、インストラクターだけでもやっていける自信のついた陽子さんは会社を退社し、フリーのインストラクターになったのです。あちこちのスポーツクラブを移動しながら週に20本ものクラスをこなしながら、筋トレしたりジョギングしたり自分の体づくりにも余念がありませんでした。エアロビクス、アクアビクス、ヒップホップダンスのクラスをこなしていましたが、2000年代初頭になって東京でヨガブームが起きました。富山ではまだヨガは流行っていませんでしたが、東京でヨガのインストラクターの養成講座を受けてヨガも教えられるようになりました。結婚するつもりも特にはありませんでしたが、ヨガなら一生続けられそうだと感じ、当時まだあった急行能登に乗って週に2〜3回東京に通っていたのです。「ヨガで富山のパイオニアになりたい、いちばんになりたい、自分のヨガスタジオを作りたい」そう言うと100年早いとエアロビの先輩には言われました。
でも、ヨガの仕事はどんどん増えて、アルペンスタジアムのスタジオを借りると50〜60人は来て、月に40〜50万は軽く稼げるようになりました。その頃、陽子さんがインストラクターをしているスポーツクラブに通うようになっていたのがご主人です。子犬みたいにかわいくて人懐っこい5歳年下の彼は、1年くらい「付き合ってくれ」とずっと言い続けていました。そうして、付き合い始めると、アパートに毎日来るようになった彼。「子どもは何人くらい欲しい?」と聞かれ、「2人くらい」と答えると、「じゃあ結婚せんなんね」と言われたのです。それまで全然結婚しようと思っていなかった陽子さんでしたが、そう言われてふと考えると、33歳になる歳だし、子どもを産むならそろそろだなぁと妙に腑に落ちたのです。結婚式場を調べると、ちょうど陽子さんの誕生日の5月29日が空いていました。そしてつきあってなんと1週間で電撃入籍することになった陽子さん。こうして2005年5月29日に環水公園で通りがかりの人も誰でも参加できる素敵な結婚式を挙げたのです。

 ご主人の仕事は魚屋で、当時小さなスーパーにテナントとして入っていました。偶然にも陽子さんが大学の時にバイトしていた魚屋と同じ系列のスーパーでした。魚屋でバイトしていたこともあるし、仕事を手伝おうかと言ったのですが、「せっかく手に職を持っているのだから、自分のしたいことをしたらいい」と言われその時は魚屋を手伝うことはしませんでした。
 2006年に長男が生まれた後もすぐにインストラクターに復帰しようと思いましたが、陽子さんには子どもを見てくれる人がいませんでした。それなら託児所付きのヨガスタジオを作ってしまおうと、託児所付きのクラスを開設。産後にヨガに始めたい人が多かったので、大盛況でした。その後、ホットヨガのイントラの養成コースにも通い始めます。こうしてホットヨガのノウハウを取得した陽子さんは北陸初のホットヨガスタジオ・ユニオンを開いたのでした。こちらもあっと言う間に大盛況になります。しかし、その頃、陽子さんは視界がおかしく感じていました。なんでも2つに見える複視の状態になっていたのです。緊急に調べたところ、重症筋無力症であることがわかりました。CTを撮ると腫瘍が見つかりましたが、幸い良性で内視鏡手術で済みました。しかし、その時2人目の授乳中だったので、とにかく痛くて大変でした。手術の前までは、レッスンの半分は陽子さんが担当していましたが、さすがに手術後すぐの復帰は無理でした。陽子さんが担当していたクラスを他のインストラクターに担当してもらったので、人件費が大変なことになりました。なにしろ、ヨガのインストラクターの地位向上のために、陽子さんはインストラクターに支払うペイをうんと上げていたのです。今の状態で自分がたくさんレッスンのを受け持つことはできないと、ヨガスタジオユニオンをセンティアという会社に移譲したのでした。
 でも、大きいものを手放すと他のものがちゃんと入ってくるのです。陽子さんはフリーのヨガインストラクターとして自身をブランド化しました。お産の学校でマタニティヨガの講師としてかかわったり、アシュタンガヨガの講師をしたり、3人目が生まれるまではインスタラクターを続けたのです。

 その頃、ご主人の仕事も大きな転機を迎えていました。スーパーから独立し、黒崎屋をオープンさせました。そして、魚屋単体としてより、同じ方向を向いてくれる人とタッグを組みたいと肉屋としてメッツゲライイケダさんにもお店に入ってもらいました。しかし、同じ方向を向いてくれる八百屋がいませんでした。そこで、陽子さんに白羽の矢が立ったのです。専業農家の娘として生まれたことが、ここでつながった!その人生の巡り合わせがなんだかとても不思議でした。

 黒崎屋は毎日のように富山のトップシェフが集うお店です。時々聞いたことのない野菜を要求されることもあります。しかし、農家さんはリスクのある野菜を作りたがりません。そこで、陽子さん自らが黒崎ファームを立ち上げて、シェフの要望に応えた野菜を率先して作るようになりました。例えばトロトロしたフィレンツェ茄子は料理人の間で取り合いになるほどでした。こうした成功例を見て、今では8軒の農家がその茄子を作るようになりました。リスキーなものは自分で作って、これからも富山で野菜のムーブメントを起こしていきたいと考えています。そして、農家を子どもの憧れる職業にしていきたいのです。幼い時から農家の大変さをつぶさに見てきたからこそ、農家が稼げるような富山にしていきたい。農家の人にベンツを乗り回すようなそんな生活をしてほしい。農家は儲かる、そんなモデルを富山でたくさん作っていきたい、そう陽子さんは考えています。
 アシュタンガヨガのクラスも黒崎屋の2階のスタジオで日曜日に開催中です。黒崎屋の休みは日曜だけですから、陽子さんに休みは全くありません。でも、それが全然苦にならないパワフルさの持ち主です。強い女性だなぁと思って聞いていましたが、最後にマスクをとられた時の笑顔はとびきりチャーミングなのでした。

 3人の子どものお母さんとして、ヨガのインストラクターとして、黒崎ファームの社長、黒崎屋の取締役として、八面六臂のご活躍ですが、それに飽き足らずきっとこれからもどんどん新しい何かを起こしていかれることを予見させてくれる、そんなエネルギーに満ちた女性でした。
今日の人215.高嶋郁さん [2021年11月07日(Sun)]
 今日の人はライフガード北陸支社長で、富山県防犯スーパーバイザー、そして富山にたった3人しかいない総合防犯設備士でもある高嶋 郁(たかしま かおる)さんです。
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 高嶋さんは1968年2月20日に魚津で生まれました。徳島生まれで大阪に仕事に出てきていたお父さんが、遊びに来ていた宇奈月温泉スキー場でお母さんをナンパして、2人のお付き合いが始まり結婚、そして郁さんが生まれたのでした。
 保育園の年中までは大阪で育った郁さん。2歳年下の弟さんと一緒によく道路で遊んでいたのを覚えています。その後、大阪から魚津に引っ越し。小学校2年生までは魚津にいて、その後、富山の街中の柳町小学校校区に転校しました。転校して言葉の違いでいじめられることもあった郁さん、そういうこともあってか小さい頃はとても人見知りでした。近所の人にあいさつするのが嫌で、遠回りして帰っていたほどです。でも、小学校の3年生で仲良くなった子もいて、その子の影響で当時流行っていた少女漫画雑誌「リボン」を読んだりもしていました。(ちなみに私は小学生の時は「なかよし」中学生からは「花とゆめ」でしたw)郁さんは小さい時からお絵描きが大好きでした。でも、家の中にはほとんどおらず、外で男子と野球をしたり、陣地取りをして遊んでいることが多かったのです。人見知りではあったけれど、慣れると大丈夫でした。でも、女の子同士で盛り上がるというのは性に合わず、男子と外遊びをしている方が楽しく遊ぶことができました。

 建築板金の職人だったお父さんは会合やソフトボールで家にいる時間はあまりありませんでしたが、たまにいるときは一緒にドリフターズを見たりして盛り上がっていました。弟さんが2人いる郁さん、上の弟さんとは歳が近いこともあってよくケンカもしていましたが、弟さんが買っていたジャンプやコロコロコミックなどもよく読んでいました。
 特になりたいものもなかったけれど、小学校の卒業文集にはなんとなく「デパートの店員」と書きました。イラストレーターもいいなぁとふわっとは思っていましたが、描きたい時に描くのが好きなので、強要されて描くのはなんか違うなと思っていました。

 中学校では美術部に所属。クラブでソフトボールもしていましたが、中学校時代はオタク仲間とアニメや不思議系の話をよくしていました。アニメはガンダムや、999、ハーロック、不思議系はムー、郁さんは同年代なので、話がとってもよくわかる私ですw。
 本も好きで図書館には毎週のように通っていました。富山の中心商店街の総曲輪通りや中央通りの本屋にも入り浸っていました。特にノンフィクションが好きで、中でも病気の子が苦難に立ち向かっていくような話が好きでした。その頃出会った「飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ」は人生の中の一冊と言ってもよく今でも大切に手元に置いてある一冊です。

 高校では美術部とイラスト部を掛け持ちしていました。今も郁さんがイラストで使っているどんぐりちゃんはこの頃の落書きから生まれたキャラクターです。洋楽にもはまり、デュラン・デュランやジャパンが大好きでよくフィルムコンサートを見に行っていました。

 高校は女子高だったので、女子ばかりの中、周りがみんな幼く見えて、一人でいる方が楽だなぁと感じていました。1年生の頃は「私なんかいなくてもこの世はまわる」と感じてなんだか人生への失望感が強い頃でした。2年生になって仲のいい友達が出来てからはその失望感は薄れましたが、特に夢はなかったし、人と関わる仕事はしたくないと思っていました。人と関わるのが苦手で、でもニコニコしていて人当たりはよかったので、自分の中で無理をしている部分はかなりありました。

 でも、郁さんは就職組でした。卒業後の就職先を探していた時に長崎屋で募集がありました。人と関わる仕事はしたくなったけれど自分を変えられるかもしれないとの淡い想いもありました。こうして、接客業をすることになった郁さん。期せずして小学校の時に卒業文集に書いた「デパートの店員」になることになったのです。時はバブル。歓迎会は富山駅前のディスコで派手に行われました。この職場で郁さんは人に恵まれました。先輩によく遊びにも連れて行ってもらいました。こうして、徐々に人見知りな部分は消えていきました。思えば、中高生の時は自意識過剰で、常に誰かに見られているような気がしてびくびくしていました。でも、実際は誰も見ていない、気にすることがないんだ、と急に吹っ切れたのですが、それは長崎屋での経験が大きかったのです。

 この当時、ねるとんパーティが流行っていました。衣料品関係の組合の若い人たち向けのキャンプでねるとんが行われた時のこと。当時魚津のサンプラザで働いていた青年がねるとんでいちばん最初に告白する番でした。その人は郁さんの前に来て、「お願いします!」と手を差し出したのです。『いちばん最初に断ったら、場の空気がまずくなって、後の人もみんな断っちゃうかもしれない…』そう思った郁さんは空気を読んで申し出をOKしたのです。実際にデートに行くと、彼はとても優しい人でした。この人ならいいかなと思った郁さんは25歳の時に結婚。生まれて初めて黒部に住むことになりました。婦人会の当番が回ってきた時にJA女性部担当になり、女性議会に出たらと言われ、第5回黒部市女性議会に出ることになりました。これが縁で今も女性議会に関わっています。

 平成6年に息子さん、平成9年には娘さんも生まれ、子育てしながら魚津でパートをしていましたが、大工をしていた弟さんの影響もあり、建設の仕事は楽しそうだなぁと思うようになりました。なにしろ、お父さんも弟さんも職人という職人一家だったので、郁さんの中にも何かを作り出したい気持ちが常にあったのかもしれません。ちょうどその頃、氷見の村江工業さんに手書き風のチラシを書いてあげていたことで繋がりが出来ます。村江工業はライフガードのフィルム事業を広げようとしていました。それで東京からフィルムの先生を呼んで講習会を開いたのです。そこに郁さんは参加したのでした。2004年1月、その頃はまだ建築業界は男の世界でした。「なにしに来たんだ、この女?」という感じであからさまに邪見にする人もかなりいました。しかし、それで逆にやってやろうじゃない!と反骨精神に火がつきました。研修を受けて、しばらくは魚津のパートの仕事と掛け持ちで建築ガラスフィルムの施工技術を磨いていきました。そうして、ライフガード北陸に正式に入社。最初は氷見の仕事が多かったこともあり、黒部からの通勤で富山を横断するような毎日でしたが、子育てとの両立が大変だと思ったことはありません。その頃はじいちゃん、ばあちゃん、おおばあちゃんとも同居していて、保育園には毎朝旦那さんが送っていってくれ、帰りはばあちゃんが迎えに行ってくれていたので、郁さん一人に負担がかかる環境ではなかったのです。3世代で子育てに携われたのは、子どもたちにとってもとても幸せなことだったと思っています。よく同居で大変じゃない?と聞かれることもありますが、郁さんは自分で自分を押さえつけることはやめました。「理由なき固定観念は幸福への追求を妨げている」という言葉が好きで、『嫁だから〜しなければならない』という考えはやめて、自分の中で、なぜ〜してはいけないのか、それは固定観念ではないのか、自分はどうしたら幸せなのか、後悔しないのか、を考えて行動するようにしたのです。ですから、ストレスを貯め込むことはなくなりました。これは自分の中にいろいろ貯め込んでしまう人にはぜひお薦めしたいやり方ですよね。
こうして、仕事でもどんどん成果を上げていった郁さん。同時に富山が防犯意識が低く、鍵をかけない家や企業が多く被害に遭っている現状を知り、防犯フィルムだけでなく防犯についてトータルに提案できるように防犯設備士や防犯スーパーバイザー、総合防犯設備士の資格も取りました。そして、自分の身を自分で守る方法を知っていただきたいという思いで積極的に講演やセミナー、防犯相談などの活動を展開しています。講演研修内容も夏休みを前に家族で考える防犯対策法、泥棒の手口と効果的な対策法、目指せ防犯住宅など多岐に及びますし、企業の勉強会や町内の会合、PTAの研修など、とても柔軟に対応してくれます。富山県に申請すれば、無料で郁さんの防犯講座を開くこともできるので、皆さんぜひ一度問い合わせてみてください。
 
そんな忙しい郁さんにまたひとつの大きな出会いがありました。それは「よさこい」との出会いです。姪っ子が始めたよさこいを見て、まずは娘さんがやりたいと言い始めました。「ママも一緒にしよう!」とチームのメンバーに言われ、当時の黒部のチームの代表が知り合いだったこともあり、よさこいチーム「くろべRey乱舞隊」に入ることにしたのです。こうして2007年の夏から娘さんと一緒によさこいを始めました。基本的には週2回の2時間の練習ですが、大会が近づくと毎日のように練習があります。体を動かしてみんなで一つのものを作り上げていく爽快感に郁さんはハマりました。2代目の代表はカリスマ性があり、ぐいぐい引っ張ってくれる人だったのですが、郁さんたちがチームに入って8年ほどたった時に、その代表がチームを辞めることになりました。その時、郁さんもチームを辞めようかと思ったのですが、このチームがなくなってしまうのはもったいない、と思い悩みます。そうしてメンバーと話し合った結果、2016年から郁さんがチームの代表を務めることになったのです。(この時にチーム名を「Rey華繚乱」に改名)代表を務めて5年、伝える難しさもたくさん味わいました。でも、メンバー一人一人の顔を思い浮かべて一人一人にありがとうを言うようにしました。24、5人だったメンバーは今や40人ほどの大所帯。コロナの前の2016、2017年のシーズンは仕事よりよさこい中心の毎日でした。みんなのいい所を引き出そうと必死でした。話さないと誤解が生まれるし常に姿勢を示さなくてはいけない。曲も自前で用意するので、1年がかりで曲を作って仕上げる。そんなしんどさを娘さんはわかってくれていました。一緒に同じよさこいチームで過ごしていることで、娘さんとの絆はうんと深まりました。コロナ禍でこの2年間はあまり活動できていませんが、またみんなで思い切り踊れる日のために郁さんはがんばっています。

 仕事やよさこいチームでの経験を通じて、郁さんは何でもやればできる!やれないことはない!と超ポジティブになりました。やれるからあたわる。引っ込み思案で人見知りだった少女はいつの間にか積極的に人の中心に立つ存在になったのです。でも、何かを人に頼むことは今も苦手な郁さんです。だから、ついつい自分で何でも抱えこんでしまいがちになるのでした。でも、教える時も心配して何でも教え込んでしまうとその人が自分で考える力を削いでしまいます。失敗させる勇気も必要なんだ、そう思って最近は手取り足取り教えたくなるのをぐっと堪えているのでした。

 そんな忙しい郁さんがホッとできるのは猫とたわむれる時間です。郁さんは家に一匹、事務所にも1匹猫を飼っています。事務所の猫は保護猫です。引かれてぺったんこになったへびを食べようとしていたやせ細った子猫を郁さんが見つけたのでした。このままでは死んでしまう。そう思ってそのネコにエサやりに通い、捕獲機を置くまでに7日、捕獲機を置いてから19日たって、ようやく捕獲機に入ってくれたのでした。その後、動物病院に通い、ちゃんと慣れてくれるまでと思って事務所で飼っていますが、いまだに触らせてくれません。事務所で飼い始めて2か月。あと1か月ほどたったらお家に連れて帰って、2匹一緒に飼いたいなぁと思っていますが、果たしてどうなることやら。そんな郁さんの猫ちゃんとの日々はYouTubeにもアップされていますので、ぜひ、ご覧ください。
猫ねこ親バカ日記https://www.youtube.com/channel/UCVEVrZ-feBF9iMm28l_4pDA
どんぐりちゃんネルhttps://www.youtube.com/channel/UC1lZnTqkSUDs-wzzMHTv3LA
ご覧いただくとお分かりになるように、郁さんは他にも食レポ等もいろいろアップしているので、ぜひ皆さん登録してくださいね。

 温泉やドライブに行くのも大好きです。福井くらいなら近所という感覚。へっちゃらでどこまででも走る郁さん。最近登山も始めました。なんだかハマりそうな予感がしています。

 でも、やっぱりなんといっても現場が好き。現場で仕事をしていると落ち着くという根っからの女職人なのでした。建築の世界では女が見下されていた時代も確かにあったけれど、今は女性の細やかさが逆に武器になると思っています。痒いところに手が届く、そんな職人魂をこれからも発揮していくことでしょう。

 何もしない日に罪悪感を感じようにしたいと郁さん。いつも走り続けているので、たまにはゆっくりのんびりしてください。温泉でのんびりする時はぜひご一緒しましょう。