• もっと見る
« 2021年09月 | Main | 2021年11月»
<< 2021年10月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
プロフィール

宮田妙子さんの画像
カテゴリアーカイブ
リンク集
最新記事
https://blog.canpan.info/diversityt/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/diversityt/index2_0.xml
月別アーカイブ
このブログをSNSで紹介
最新コメント
おかうえ
今日の人152.吉谷奈艶子さん (08/21) りんりん
今日の人114.村木真紀さん (05/19) ゆかり
今日の人114.村木真紀さん (05/09) 宮田妙子
今日の人149.河除静香さん (09/24) 橋本桂
今日の人149.河除静香さん (09/08) 高木敏夫
今日の人123.高橋太郎さん (04/14) 大太
今日の人4+.森本耕司さん (07/17)
最新トラックバック
今日の人214.小路晃さん [2021年10月30日(Sat)]
 今日の人はかつて「ミスターPRIDE」と呼ばれ一世を風靡した総合格闘家で、今は富山でラーメン「とんこつえびすこ」「ガッツリ!えびすこ」を経営する株式会社A-style代表取締役の小路晃さんです。
IMG_4485.jpg

小路さんは昭和49年1月31日、魚津で生まれました。
3人兄弟の末っ子だった小路さん、小さい時はウルトラマンや仮面ライダーが好きで、よくウルトラマンごっこをして遊んでいました。末っ子で甘えん坊だった小路さんですが、小学校1年生の時に、テレビのプロレス中継でタイガーマスクを見て、体の中に稲妻のような強烈な電流が走りました。その日から、ウルトラマンごっこはプロレスごっこに変わりました。漁師だったお父さんは家でテレビを観戦する時はもっぱら相撲かプロレスでした。そんなわけで、小路さんもいつもプロレスを見て、そのかっこよさにしびれていました。将来は絶対にプロレスラーになるとその時から決めていたのです。
スポーツ少年団に入って柔道も始めました。プロレスラーになるという確固たる目標があったので、その頃から自主トレーニングもやっていました。プロレス好きだったお父さんと一緒にトレーニングもやりました。でも、もちろんトレーニングだけしていたわけではありません。海が近い魚津ですから、友だちとよく釣りにも行きました。灯台近くでキスやカレイ、ヒラメを釣っていました。朝早く起きてお父さんの船に乗せてもらうこともありました。お父さんは富山を代表するブリやホタルイカ漁をして、漁が終わると朝からでも飲んでいる昔ながらの漁師さんでした。

中学に入ると柔道部に入りました。その頃になると食事にも気を遣うようになって、タンパク質を多く取り、腕立てやスクワットなどのトレーニングも欠かさずやっていました。もちろんプロレスラーになるという夢は変わりませんでした。中学を卒業したらすぐに新日本プロレスの入門テストを受けようと思っていましたが、周囲から高校だけは出ておいた方がいいと強く言われ、中卒でのプロレス界行きはあきらめます。
そうして柔道部でキャプテンも務めていた小路さんはスポーツ推薦で富山第一高校へ。一高の柔道部は強く、県下で1,2を争っていました。その頃はまだまだスパルタ式の部活の時代。365日ほぼ休みなしですし、もちろん部活中に水は飲めません。殴られない日はないくらい厳しい練習でした。そんな厳しい練習をしながらも、プロレスラーになるために家でも2時間くらい自主トレを続けていたのです。柔道一直線ならぬプロレス一直線で、富山にプロレス興行があった時は必ず見に行っていました。大好きだったレスラーは、タイガーマスク、アントニオ猪木、藤波辰爾でした。

高校卒業後にプロレスの道に入ることももちろん考えましたが、スポーツ推薦で中京大学の体育学部へ。体育会の柔道部ですから、練習は厳しかったのですが、アルバイトをしたり、合コンに参加するなど、大学生らしいこともさまざま経験した学生時代でした。全日本学生選手権でも戦績を残し、柔道部を引退したあと、スカウトされて覆面レスラーとしてプロレスのリングに上がっていました。しかし、大学を卒業後に本格的にプロレスの道に進もうと上京しようとした時、両親の猛反対に合います。お父さんから「プロレスを本気でやりたいなら、この家を出ていけ!勘当だ」とまで言われました。それでも、小路さんはこの夢だけはあきらめるわけにはいきませんでした。そうして置き手紙を残して家を出たのです。「人生が2度あるなら、1度はお父さんとお母さんの言う通りにするけれど、人生は1度しかない。だったら、僕の道を歩かせてください」と書いて。

上京後は築地で住み込みのバイトをしながら、トレーニングに明け暮れていました。朝3時から昼までは仕事、その後は練習という生活を続けました。睡眠時間は毎日3〜4時間しかありませんでしたが夢があるのでへっちゃらでした。そして、上京して半年後の10月に格闘技の聖地後楽園ホールのメインイベントでデビュー戦を飾ることになったのです。前座ではなく、いきなりメインイベントで聖地でデビューできるのは稀有なことでした。そういうこともあって、小路さんはシンデレラボーイと呼ばれました。
ちょうどその頃、総合格闘技に人気が出てきていました。プロレスより更に総合格闘技に魅力を感じた小路さんは、プロレスラーから総合格闘家に転向し、翌年総合格闘家として東京ドームでデビュー戦を飾ります。それがPRIDE.1で、PRIDEの記念すべき第一回大会だったのでした。小路さんは最初の大会PRIDE.1と最後の大会PRIDE.34にも出場したこともあって、「ミスターPRIDE」と言われたスター選手でした。時の人、高田信彦と肩を並べて同じリングで戦えるなんて夢のようでしたし、格闘技の情報バラエティにも毎週出ていて、MCの藤原紀香に寝技をかけるシーン等もありました。ウッチャンナンチャンと一緒にチューハイのCMに出たり、奥田英二監督の「少女」という映画では準主役を務めるなど、まさに八面六臂の活躍ぶりでした。選手時代の小路さんのことはたくさん出ているので、ぜひ皆さん、ググってみてください。
小路さんは身長172pで、格闘家の中では小柄です。それが大きな外国人に臆することなく立ち向かっていくので、よく「あんな外国人怖くないの?」と聞かれました。ケガもしょっちゅうでしたが、それでやめようと思ったことはありませんでした。両親の反対を押し切って退路を断って出てきたので、やるしかない、と思っていたのです。多分、両親の反対がなかったら、甘えが出てそこまで自分を追い込むことはできなかったに違いありません。ですから厳しく接してくれた両親には心から感謝しています。

上京して15年、ひたすら走り抜けた選手生活でしたが、前日の疲れを残したままの練習や試合が続くようになりました。そして、自分が万全の戦う準備をして試合できなくなってしまった今、リングに上がるのはお客さんに対して失礼だと思うようになりました。後進に道を譲ろう、そう考えた小路さんは引退を決意。やり切ったから悔いはありませんでした。引退試合をできずに辞めていく選手が多い中、PRIDEの最後の大会PRIDE.34で引退試合をして引退した小路晃は、まさに「ミスターPRIDE」そのものでした。

そうして37歳で故郷富山に戻ってきました。第2の人生に選んだのは、全く畑違いのラーメン屋。なんでラーメンなのかというと、小路さんはとにかくラーメンが大好きだったのです。よく試合後の自分へのご褒美に東池袋のラーメン屋のつけ麺を食べていた小路さん。そんなおいしいつけ麺は当時富山にありませんでした。いつか富山のみんなにとびきりおいしいつけ麺を食べさせたい、おいしいラーメンで故郷のみんなに恩返ししたい、そう思って「つけ麺えびすこ」を開店することにしたのです。飲食の世界は右も左もわからなかったけれど、だからこそ飛び込めたというのはありました。とにかく、やろう!と思うと一直線の漢、それが小路晃なのです。2011年4月に総合格闘家を引退し、東京のラーメン屋で修業を積んだ後、同年10月に南富山で「つけ麺えびすこ」1号店をオープンさせました。
やると決めるととことんやる小路さんは、寝ずにスープを炊いたり、麺を作ったり、とにかくひたすらラーメンに向き合いました。ラーメンで世界を狙うという思いでした。こうして開店2年目には富山ラーメンフェスタで優勝し、東京ラーメンショーにも進出するなど、ロケットスタートを切りました。

 第2の人生のラーメン屋を始めてから今年でちょうど10年。今、つけ麺えびすこ、とんこつえびすこ、ガッツリ!えびすこ、そして県庁内にも新たな店舗をオープンした小路さんですが、もちろんこの10年全てが順調だったわけではありません。特に大変だったのは雇用の難しさです。最初は道場と同じ感覚で、ひたすらスパルタで教え込もうとしていました。スパルタが善だと思っていたのです。でも、そのやり方でやると、人が育ちませんでした。やめていく人が後を絶たず、なぜだろう、小路さんは自問自答します。そして経営や能力開発の勉強会にも積極的に通うようになりました。そこで小路さんは気づくのです。理念もビジョンも何もないまま、とにかく自分の熱い想いだけで突っ走ってきた。でも、それではダメなのだと。
 4年目くらいからスパルタではなく、相手を尊重しながら話を聞く姿勢に変えました。昔の自分だったらすぐにぶっ飛ばしていたであろうことも、じっくり話を聞いて話す姿勢に変えたのです。すると徐々に従業員も定着するようになり、会社の雰囲気も変わってきました。
 今、小路さんの会社株式会社A-STYLEには確固とした理念があります。
「一杯のラーメンを通じてお客様に生きる希望と勇気を提供すること」
「一杯のラーメンを通じて社員の物心両面の幸福を追求すること」
「一杯のラーメンを通じて社会の発展と幸福の実現に寄与すること」
ここに向かって邁進しているので、気持ちがぶれることはうんと少なくなりました。

食を通じて「和を以て貴しとなす」を実現すること、それが小路さんの夢です。ラーメンを通じてみんなを元気にしたい。免疫力を高めてもらいたい。学生にはガッツリお腹いっぱい食べてもらいたい。自分自身も学生時代にライスを腹いっぱい食べさせてもらっていたから、恩送りをしたい、そんな思いでライスは50円で食べ放題にしています。富山大学近くのとんこつえびすこでは、今日もお腹を空かせた大学生がご飯を山盛りにして美味しそうにラーメンを食べています。そんな光景を見るのが小路さんはとても好きです。

 いつもそうやって忙しく過ごしている小路さんが心安らいで楽しめる時間は、小学校3年生の娘さんと一緒に過ごす時間。ゲームをしたり、時には人形ごっこをしたり、リングの上で勇ましく戦っていた小路さんからはとても想像できない姿ですが、娘さんと一緒の時間を過ごすことで新たな活力が湧いてくるのでした。
 ホッとできるのはサウナで汗を流す時。サウナで汗を流し、水風呂に入ると、シャキッとして心身が整えられるのです。

 そして、小路さんには、これからやっていきたいこともあります。それは女子選手を育てて世界チャンピオンにすることです。【本当に生まれ変わりたい!人生かけて挑戦したい!】と思っている人なら経験がなくても構いません。プロレスをやってみたい!世界チャンピオンになりたい!と思っている人は、一度小路さんを訪ねてみてはいかがでしょう。小路さんが0からみっちり育ててくれますよ。迷いがあっても大丈夫。「僕が心に火をつけます!」とスパッと言い切られました。

 スポーツ業界に恩返しをしたい、という思いも強いので、アスリートのセカンドキャリアの応援もしていきたいと思っています。自身も何もわからないまま飲食の世界に飛びこんだので、この10年苦労もとても多かったけれど、自分の経験がきっと後進の役に立つと信じているからです。

 そしてなんと小路さん、近々ユーチューバーとしてもデビュー予定だそうです。どんなYouTubeチャンネルになるのか、楽しみですね。

 総合格闘家、ラーメン屋、人材育成、ユーチューバー…、これから小路さんはどんな顔を見せていってくれるでしょう。これからの小路さんの活躍からも目が離せない、そんなことを強く感じた今回のインタビューでした。