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今日の人212.林広麗さん [2021年08月08日(Sun)]
 今日の人は、株式会社林インターナショナル代表取締役社長で、富山県華僑華人会会長等も務められ、富山で日中友好に長く貢献されている林広麗さんです。
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コロナ禍でマスク不足だった時にマスクを寄贈した林さん

 林さんは1968年11月2日、中国遼寧省瀋陽市で生まれました。両親とも大学教員で宿舎がキャンパス内にあったので、小さい頃は大学の中で育ったようなものでした。活発な子で外で体を動かすのも大好きでした。小学生のころから英語を習い始め、英語が大好きだったので、その頃 将来は外交官になりたいと思っていました。
 電力分野の教授だったお父さんが電力会社に転職したのをきっかけに引っ越しましたが、お父さんが夜間大学で教員もしていたので、一緒に夜間大学にいって、大学生に交じって英語の授業を聴講していました。14歳の時には、大学の英語の統一試験に最年少で合格し、新聞報道され一躍時の人にもなりました。

 中学生の頃は昼は中学校、夜は夜間大学に行って勉強する日々でした。この頃になると、英語だけではなく、哲学、心理学、歴史、宗教等、いろいろな本を読むようになりました。図書館は大好きな場所で、思索に耽るのが好きでした。でも、本ばかり読んでいたわけではなく、スポーツも得意でした。陸上は長距離も短距離も得意でしたし、スケートは試合に出るくらいでした。
 高校に入ると起業していたお父さんの傍でビジネスの世界にも触れました。お父さんは全国から作家を集めて数多くの電力関係の本を出版する敏腕編集長でした。その時、来ていた人民日報の記者から、「これから勉強するならフランス語がいいよ」、と言われ、フランス語とロシア語も勉強し始めた林さん。もちろん英語の勉強も続けていて、TOEFLの試験を受けるために北京に行ったときは、お父さんの友達にあちこち連れていってもらったのもいい思い出です。高校生の頃はローラースケートや卓球もやっていて相変わらずアクティブでした。もちろん図書館通いも続いていて、アメリカに留学したいと、中国東北大学の学生とも交流したりもしていましたが、まだ米国留学するには若すぎるからと留学は断念しました。今の中国なら可能ですが、その当時の中国では高校生のアメリカ留学などまだまだ難しい時代だったのです。

 アメリカ留学を断念した林さんは中国の大学に入りました。大学生の時は、英語の通訳としても活躍しました。広州や北京、いろいろな場所で通訳をしました。お父さんの関係で電力会社で働く道もありましたが、もっと貿易や翻訳の力を身に着けたい、という思いが日増しに強くなりました。その頃、瀋陽から私費留学生としてエリートの子どもたち30名が日本に留学する計画が持ち上がりました。林さんは留学したい気持ちをプレゼンし、ご両親を説得して、派遣メンバーの1人になりました。昔からプレゼン能力が高く、難しい相手であればあるほどやる気が出てくるのでした。1989年出国予定でしたが、天安門事件の影響で手続きが一時的にストップします。その時間も無駄にしないのが林さん。大学の1〜4年生まで全ての日本語の授業を聴講し、語学的センスの良さもあって、みるみる日本語も上達しました。
こうして出国する前の半年だけ日本語を勉強し、1990年11月に来日したのです。東京の日本語学校で10月生のクラスに入りましたが、そのクラスは簡単すぎたので、4月生のクラスに飛び級しました。東京での生活はいろいろ大変でした。バイト先でもトラブルが起きたり、留学生活の厳しさを味わった時期でした。4か月間、東京の日本語学校で勉強した後、林さんは富山大学人文学部の研究生になりました。しかし、言語学科や日本文学の授業は林さんにとってあまり心惹かれるものがなく、聞いていると眠くなってきてしまうのでした。せっかくだから一度しっかり経済を根本から勉強しようと、経済学部の受験を決めます。その頃、留学生の共通試験と言えば私費留学生統一試験でした。林さんは、統一試験の成績が大変よく、東大でも行けると言われましたが、そのまま富山に残りました。一緒に瀋陽から留学した30人のうちの1人が亡くなったこともあって、ストレスの多い東京での生活より、富山で留学生活を送ったほうがいいと感じたのです。その判断は大正解でした。林さんは富山では通訳としても貴重な存在で、学生生活の中で重鎮たちの通訳も数多くこなしました。大学3年の時にはカナダ留学も果たします。高校生の時、アメリカ留学はできなかったけれど、いろいろなことにチャレンジしているとチャンスの神様はやってきてくれて、何よりそれをしっかりキャッチできるのが林さんなのです。

 大学4年の時には、合弁会社設立のサポートもやり、会社に気に入られた林さんは中国にも工場を作るからとその会社に採用されました。そうして大学を卒業してから半年だけ、その会社で働きました。なぜ半年かというと、北京に作る予定だった工場がベトナムに作られることになったからです。

 大学を卒業した年の9月に自分の会社を設立した林さん。それが今の株式会社林インターナショナル。最初は数坪の一軒家での輸入食材や雑貨の販売からのスタートでした。
 しかし、ここで困った問題がありました。最初、会社に採用された時は通訳のビザだった林さんは自分が経営者になったことで投資経営のビザを申請しましたが、却下されてしまいます。この時は3か月の短期滞在ビザしかもらえませんでした。こうして泣く泣く通訳のビザに申請しなおしましたが、再上陸という形になってしまい、大きなショックを受けます。2年後、ようやく投資経営のビザが認められたのですが、申請の際に「なぜ通訳のビザなのですか?」と質問されるなど(入管が最初の申請を認めてくれなかったからなのにその質問はひどい)入管行政の在り方にはいろいろと疑問を持たずにはいられない出来事でした。

 1998年富山大連便初就航の時には、テレビ局の記者さながらにインタビュアーとしても活躍しました。多くの共感者の支援もあって、林さんの会社は急速に成長していき、今では6つの事業部を持つまでになりました。ひとつは、中国直輸入の食品、食材から雑貨までを取り扱う貿易事業部。ひとつは、中国直輸入の石材・墓石、墓地の販売管理までこなす石材事業部。ひとつは、中国自社工場で製造する金型・金属加工・自動機装置事業部。ひとつは、蛍光灯から看板まで幅広く取り扱うLED事業部。ひとつは、優秀な人材の派遣と中国進出起業のサポート人材派遣事業部。そして最後のひとつは留学生・実習生から特定技能のサポート支援、登録支援機関です。まさに八面六臂の活躍ぶりですね。

2006年、設立10周年の時は、当時大人気だった女子十二楽坊のコンサートを開催。2011年、15周年にはジュディオングのコンサート、2016年、20周年には林インターナショナルカップ・富山国際ユースサッカー2016を企画開催し、日中の文化交流やスポーツ交流にも尽力しています。
コロナ禍にあっても、いちはやく医療機関や保育園にマスク支援をするなどしている林さん。そして、今年は設立25周年の節目の年。今、林さんは考えていることがあります。それは外国語学校の開校です。技能実習生で培ったノウハウや、たくさんの企業とのつながりを活かし、留学生が生活やアルバイトで困らないようバックアップしていこうと考えています。林さんが創立の富瀋国際事業協同組合はコロナ禍の中でも600人を超える技能実習生を有し、富山の中小企業活性化の基盤にもなっています。これからの富山にとって優秀な外国人材を確保することは持続可能な地域づくりに必要不可欠なことです。私たちも多文化共生の活動をずっとやってきましたが、林さんの外国語学校が新しい風を吹かせてくださることを期待しています。

 読書好きな林さんですが、最近は特に儒教や道家の本をよく読みます。細かいことに敏感にならずにストレスをためず大きな心でいられると感じています。異国で経営者としてやっていく重圧に耐えられるのはすごいと思うのですが、子どもの頃から読んでいる哲学書や、儒教や道家の教えによって、林さんは心のバランスをうまくとっていらっしゃるんだろうなと感じます。
 そんな林さんの日々の小さな楽しみは美味しいものを食べに行ったり、ジムに行ったり、自転車に乗ったりする時間。今は行けませんが、世界中を旅行するのも大好きです。富山や大連でエステに通ったりする癒しの時間も大切にしています。林さんはいつもとってもかわいいネイルをしていらっしゃるのですが、はやくコロナが終わって大連にもいつでもいけるようになる日が一日もはやく戻るといいですね。

 林さんのまなざしはすでにコロナ収束後に向いています。「経営者は儲けてこそ社会貢献もできる」、とはっきりした口調でおっしゃるのが印象的でした。強い信念と自信が一人の留学生が作った会社をここまで大きく成長させました。そのまなざしの先にはきっと富山と中国を繋ぐ新たな1ページがあるにちがいありません。
今日の人211.森 弘吉さん [2021年08月03日(Tue)]
 今日の人は、「もったいない!」をカタチにする会社株式会社エムダイヤ代表取締役の森 弘吉さんです。
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 エムダイヤは中井貴一さんがナレーターを務める「夢の扉+」でも紹介されたことのある企業で、例えばリサイクルしにくく不法投棄されてしまっていた廃タイヤを、ゴムの部分と金属の部分に一瞬で分けてしまう夢のようなリサイクル機械を作ってしまうなど、数々の国内及び国際特許を持っている会社です。一言では説明しにくいので、以前に地元TV局で紹介された「モノヅクリその先へ」を是非ご覧ください。
https://www.knb.ne.jp/tsukuru-movie/article.html?sid=120

 森さんは1975年11月1日に上市町で生まれました。お姉さんと妹さんに囲まれ、母方のいとこが集まると8人中ただ1人の男の子で遊びに行ってもいつもおままごとに担ぎ出されるのが苦痛でした。でも、そういう環境で育ったので、しゃべることは昔から苦手ではありませんでした。
お父さんは森さんが幼い時に、脱サラして鉄工所を作りました。その時の工場は森さんの家の敷地内にあって、幼い頃の森さんは工場が遊び場所でした。鉄工所だったので、鉄板やいろいろな道具があって、それを見たり触ったりするのがとても好きだったのです。保育所の頃にはもう自分専用の工具箱を持っていて、いろいろなものを分解するのが大好きでした。お父さんも豪快な方で、車を1台廃車にするから、これを好きなようにバラセと言ってくれて、森さんはそれがとても思い出に残っています。その時、ドアの横についているスピーカーが紙製だということを初めて知りました。(私は52年生きてきて森さんに聞いて初めて知りました!)バラシていく中で電球の付き方がわかったり、とにかく自分でいろいろな発見ができました。それが小学校1年生の時でした。
 森さんが小学生の時に、お父さんは富山市内に新たに工場を建てました。小学校時代はファミコンやモデルガンでも遊んでいました。外より中で遊ぶ方が好きでした。柔道と野球をやりましたが、当時マスコットキャラのような顔をしていた森さんは上級生の女子にかわいがられ、それを羨ましく思った上級生の男子にからかわれました。それが嫌で嫌で、お母さんに辞めたいと言って柔道と野球は2年生でやめました。エレクトーンは3年生まで習っていました。4年になると、ブラスバンド部に入ります。最初はアルトホルンでしたが、ここでも自分以外は全員女子!ただ、どうにもその環境の居心地が悪く、5年になってトロンボーンに変更します。こちらはみんな男子で、それからはブラスバンドが楽しくなりました。6年の時には部長も務めました。ただ、ブラスバンドの強豪校だったので、指導も厳しくとても怖いものでした。しかし、そのスパルタの成果もあってか、2つ上の先輩たちは重奏の部で日本一に輝きましたし、森さんたちも県で優勝し、全日本吹奏楽コンクールの北信越大会に出場しました。

 上市中学校に入ると、お父さんに運動部がいいんじゃないかと言われたこともあって、剣道部に入ります。こちらも県下で剣道の強豪校で、スパルタ方式の指導法でした。ゴールデンウイークや夏休み、冬休みは必ず合宿がありましたし、普段も朝7時から朝練があったので、剣道部の生徒はへとへとで授業中はほぼ寝ている感じでした。大会前は五厘刈りにしなくてはいけなかったし、理不尽だと感じることは多々ありました。でも、理不尽なことに耐えなきゃいけないんだとこの頃に思えたのは良かったと思っています。もちろんそんなやり方がいいとは言えませんが、社会に出たら理不尽なことはたくさんあるし、そこでいちいちへこたれていたら社長業なんてとてもやっていられませんから。
 
3年生になって部活を引退し進路を決める時、森さんは富山高専を選択しました。なぜ富山高専だったのかというと、幼いころからお父さんにずっと「あの学校はいい学校だから行ったらいいぞ」と勧められていて、お父さんの戦略にまんまとハマってしまったのです。
結果的に富山高専を選んだのはとてもいい選択でした。富山高専は普通の高校とちがい、入った時から生徒ではなくて学生として扱われるので、とても自由な校風なのです。というわけで、森さんも高専に入ったあとはすぐにバイトも始めました。ガソリンスタンドでバイトしたり、スーパーの肉屋でバイトしたりしました。2年生になると、原付の免許もとって、上市から富山市本郷の高専までスーパー農道を通って原付で通いました。原付バイクであちこちに出かけるのも楽しみのひとつでした。
ただ高専に入ったのがゴールのような気持ちもあってその後全然勉強しなかったので、1年生の夏はたくさん赤点を取ってしまいます。その時の先生がとてもいい方で、このままだと2年生で留年して5年で卒業できないよと、成績の悪かった何人かのために夏合宿をしてくださいました。そのおかげもあってか、毎年何人も留年していく中、森さんは要をしっかり押さえて卒業する時は単位をひとつも落とすことはなかったのです。
高専は5年の本科の後、そのまま就職する道、大学3年生に編入する道、専攻科に進んで学位を取る道もありますが、森さんは専攻科に行くことにしました。しかし、その頃、家業は火の車で授業料が払えず、森さんは1年間休学してお父さんの元でほぼ給料なしで働きました。お父さんは根っからの発明家で自分の好きなことには没頭しますが、工場はいつも余裕の無い状態でした。それを経理担当のお母さんがなんとかがんばってしのいでいたのでした。
1年の休学の後、専攻科で機械電気システム工学科に入った森さん。ただ、研究だけに没頭できるわけではなく、バイトは必須でした。午後6時までは研究室で過ごし、夜7時から12時まではバイトという生活でした。専攻科2年生の最後の卒業論文は、日本機械学会で発表し、「工作機械技術振興賞(奨励賞)」に表彰もされました。学生の時からポテンシャルが高い森さんなのでした。

卒業後は石川の大手の工作機械メーカーへ就職します。将来家業を継ぐものという思いも多少頭にありました。在職中には、電気工事士や電気製図技能士等の様々な資格も取り、ITも勉強し、機械の開発設計にも携わりました。6年半石川県で過ごした森さん。土日には中国残留孤児への日本語ボランティアもされていたというから、日本語教師の私としては嬉しいお話です。そして、石川県にいる間に結婚もされています。お相手は高専時代のバイト仲間の友人でした。
就職して4〜5年経ったとき、なんとか持ちこたえていたお父さんの会社がとうとう立ち行かなくなります。とにかくお父さんは自分の作りたい機械を作ることに重きを置いたので、見積りよりも高い金額でもどんどん作ってしまうのでした。
就職して6年半、森さんは務めていた会社をやめることを決意。その時、奥さんは妊娠していました。そして会社に辞めますと言った日に第一子が誕生。運命に導かれているのかなと感じた出来事の一つです。上場企業で安定した給料をもらっていたのに、脱サラして、しかもお父さんの会社は無くなり、二次創業という形で作った会社に入ることにした森さんに文句ひとつ言わなかった奥さんには本当に感謝しかありません。

しかし、お父さんの会社に入った時、会社はもろに一人親方の世界でした。ルールというものが存在しておらず、今日は3時で上がるか、そんな感じだったのです。これではいけない、森さんは会社をちゃんと整えていくことを一歩ずつ進めていきました。そして3年経って、エムダイヤという社名にし、正式に代表取締役に就任しました。根っからの技術者で発明家だったお父さんの機械は確かに唯一無二で素晴らしいものです。発明家としてのお父さんは文句なく尊敬しています。けれど、やはり経営者としてはそれではいけないと、森さんは経営理念をしっかりと落とし込んでいきました。そして、それに賛同してくれる人を採用することにしました。議論はどんどんしていけばいいけれど、ベースの部分が食い違っていてはお互いにとって不幸だと思うからです。もちろんそれは簡単な道ではありませんでした。父に賛同していた年上の社員達は、次々に去っていきました。
会社は海に近いので、防波堤に寝ころんで海を見ながら一人で考える時間が唯一ホッとできる時間という時もありました。

社長になって15年。ようやく社内もなんでも言い合える明るい雰囲気になり、森さんの思いが浸透してきたと感じています。
エムダイヤ(R)のエムは、マシンMachine=機械、メカニズムMechanism=機構、仕組み、メカニックMechanic=修理工、整備工、メンテナンスMaintenance=補修、整備、森さんのMORI、ダイヤは、 ダイヤモンドのように小さくても「キラリと光る」会社にしたいと願って付けられました。その名の通り、今や日本全国、そして海外にもエムダイヤの製品は納品されて、キラリと光る存在になっています。エムダイヤの躍進は枚挙にいとまがないのですが、こちらの報道履歴でぜひその一端を垣間見てください。
https://www.m-dia.jp/report/

 森さんは、地域の活動にも積極的に取り組んでいらっしゃいます。児童数が、1000人を超える地元小学校のPTA会長だったときは、執行部会で森さん以外全員女性!(どうも女性に囲まれる星の下に生まれていらっしゃるようです)おやじの会のお父さんたちは会長が言ったことはとりあえずやってくれるのですが、執行部会のお母さんたちは、いくら会長が言っても、自分がやろうと思わないと動いてくれませんでした。そこで、どうしたら女性に気持ちよく動いてもらえるかを考え行動するようにしました。一人ひとりの悩みを聞き逃さず、素早く対応すること、小さな困りごとをひとつひとつ解決していくと信頼されることがわかりました。スイーツなどを配ることも忘れません。この時の経験は会社でも大いに役立っています。
 大学の附属中学校でもPTA会長を務め、経済同友会では教育問題委員会に所属。その中で経営と教育は似ていると実感することが多々あります。人に伝えるのが好きな森さんは、依頼があればいろいろな場所で講演活動も行っています。皆さんも機会があればぜひ森さんの生のお話に触れてみてください。

 楽しいのは仕事を通じた「気づきや学び」、と言い切る森さん。異質なものに触れるのが好きで、コロナ以前は全国を回り、2か月に1度は仕事で海外に行っていました。異質なものに触れないと自分の成長が止まるような気がするのです。2人の息子さんともそれぞれ一緒に外国への2人旅もしましたし、息子さんには旅も積極的にさせています。
 森さんは想定外なことに出会うことはとても大事だと考えています。いつも想定内の中にいると、成長もない。だからどんどん外国にも出かけていきます。森さんの会社が次々と新しい機械を生み出せるのも、想定外を大事にする視点を常に持たれているからなのでしょう。

 この先エムダイヤはもっともっと輝いていく会社になっていくにちがいありません。学生の皆さん、エムダイヤ、注目度大ですよ。
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