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今日の人210.井上純子さん [2021年06月26日(Sat)]
 今日の人は富山留学アカデミー代表で、青年海外協力隊OB会会長をこの6月まで務められた井上純子さんです。
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 純子さんは1971年11月7日、射水市放生津で生まれました。
 小さい時から歌ったり踊ったりするのが大好きで、花に向かって歌っていたりしたので、よく変な子だねぇと言われていました。ピアノも大好きでしたが、家にはピアノがなかったので、友だちの家に行ってはピアノを弾きまくっていた純子さん。そんなにピアノが好きなら…というわけでピアノを習わせてもらえるようになると、ますますピアノが好きになって、小学生の時になりたかったのはピアニストでした。でも、ピアノばかり弾いていたのかというと、そうではありません。外遊びも大好きで、野原を駆け回ったり、バケツいっぱいのオタマジャクシをとって、それが全滅して大泣きしたり、昆虫も大好きな活発な子だったのです。また、純子さんは小さい時からお母さんに「自分の意見を持ちなさい、はっきりYes,Noを言いなさい」と言われて育ったので、しっかり自分の意見を言える子になりました。日本人はそれが苦手な人が多いけれど、お母さまの教育、素晴らしいですね。
 
 純子さんは音楽の道に進もうと呉羽高校の音楽コースに進みましたが、15歳の時に自分にそこまでの可能性がないなぁと音楽の道に進むのはあきらめました。東京の専門学校に進学して児童教育を専攻していた純子さんは、東京の養護施設で職員をしていました。しかし、お母さんが倒れたと聞いて富山に戻ってきます。お母さんは大丈夫だったのですが、東京には戻らず、富山で働くことにしました。富山では保育士としてではなく、新聞社で働き始めました。その時に日本語の持つ面白さに気づきます。その後、その新聞社の記者と結婚し、彼の転勤に伴って旭川に行った純子さんでしたが、知り合いもなく夫も激務でほぼ家にいなかったのと、価値観の違いもあり離婚。自立しなくてはいけなくなった純子さんは、自身が新聞社で働いていた時に興味が出てきた日本語についてもっと勉強しようと札幌の日本語教師養成学校へ行って日本語教師の資格を取得しました。そして、日本語教師としてJICAの日系社会青年海外協力隊になります。高い志を持って青年海外協力隊に入ったのかと言うとさにあらず。実は純子さん、言語学の本場アメリカの大学に留学したかったのですが元手がなく、青年海外協力隊に行けば任期明けにまとまったお金ができるという動機で協力隊員になったのでした。

こうして31歳でパラグアイに日本語教師として派遣されます。南米と聞くと、危ないイメージなので大丈夫なのか?とよく心配されましたが、パラグアイは日系人が多いのでとても親日的で、日本人とわかるとどこに行っても歓待されて、どこに行っても優しくされました。一人で歩くのは危ないと常に守ってくれて、勤務先の学校のPTA会長さんがいつもアパート前まで送ってくれました。アパート前には3mの塀があって、その塀の鍵を開けて、その後、アパートの入り口の鍵を開けて、さらに部屋の鍵を開けて部屋に入るのですが、PTA会長さんは純子さんが部屋の窓を開けて手を振るのを見届けてから帰っていかれるのです。そんな風にいつも誰かに守られていたパラグアイでの生活でした。でも、ハプニングもつきもので、タランチュラがスニーカーからでてきたこともありましたし、窓を開けて仕事をしていると、そこが蜂の通り道になっていて、気が付いたらびっしり蜂がいて、キャミソール姿だった純子さんはなんと蜂に35か所も刺されたこともあったのです!想像するだに恐ろしいですね。
 パラグアイに行って、本当に良かったと思うのは、あたりまえのことがあたりまえじゃない、ということを身を持って知れたことでした。5歳の子が1歳の子をおんぶしながら物乞いをしている姿が普通にあったり、電気もしょっちゅう止まります。ワールドカップで3位になった時は街中が大騒ぎになって、大勢の人が空に向かって銃を撃って、銃声が鳴り響くのです。空に向かって銃を撃つなんて、日本ではバカボンの保安官くらいしか思い浮かびませんが、そういう経験を直にしたので、日本にずっといたら気づけないことが山ほどありました。大変だったんじゃない?と聞かれることもありますが、パラグアイでの時間は本当に楽しい時間でした。青年海外協力隊の時間がとても有意義だったので、シニア海外協力隊にも必ず行こうと思っている純子さんです。

 日本に帰ってきた後、アメリカに留学するのにもっと資金が必要だったので富山県市長会で契約社員として働きました。残って正社員にならんけ?と言われましたが留学する意思が固かったのでそれは固辞しました。こうして前富山市長の森さんに送別会をしてもらって送り出された純子さんは渡米し、コミュニティカレッジで2年、ユニバーシティで1.5年勉強し、アメリカで専攻が社会科学(特にcultural diversity、性差別、年齢差別、人種差別、宗教差別等を勉強する専攻でした)副専攻が言語学の学士を取得したのでした。
 実は渡米してすぐに出会ったのが今のパートナーでした。その時34歳だった純子さん、週末に出かけたパーティで出会ったのが19歳の彼だったのです。彼は同じ大学の学生でした。その後彼はUCLAに純子さんはUCIに行くのですが、UCLAと言えば世界のトップ15の大学です。年の差はありましたが、彼といると不思議と気持ちがリラックスできました。それは彼にしても同じでした。
 コミュニティカレッジに行っている間はまだ週末にパーティに行くくらいの余裕はあったのですが、編入したユニバーシティに行くと、勉強漬けの毎日でした。通学時間とトイレに行っている時間以外は勉強という毎日だったのです。純子さんは成績にC(70%以上)が付くのは許せませんでした。ですからCがついたときは、オフィスアワーにその教授のところに行って、なぜCなんだと大泣きして抗議しました。講義で教授が言っていたことをそのまま答案に書いたのに間違っていたからです。せっかく留学しても自分の意見をちゃんと言えない日本人は本当に多いのですが、純子さんは子どもの頃から自分の意見をはっきり言う習慣がついていました。これは留学生活では本当に大切なことでした。こうして純子さんは優秀な成績で大学を卒業できたのです。
 
 帰国後、純子さんは4年半子どもたちに英語を教えていました。150人の生徒がいましたが、話せる英語ということを考えると限界があるなぁと感じていました。親御さんから留学について相談されることも増えました。留学したい人はたくさんいるけれど、やり方を知らずに、ブローカーに高い手数料を払って留学してアフターケアもしてもらえず泣き寝入りしている人がたくさんいることに憤りを覚えていた純子さんは、富山の人にはそんなことをさせたくない、と強く思いました。でも、アフターケアもしっかりしているいい留学仲介業者が見当たりませんでした。ないなら、自分でやればいいんじゃないか?そう思って富山留学アカデミーを設立したのです。日本は例えば就職活動ひとつとっても全員が同じようなリクルートスーツに身を包み、何か月も就職活動をしてそれだけで疲弊してしまう学生もとても多い。(コロナで就職活動の在り方も変わりましたが)でも、例えばアメリカのジョブフェアは3日間で世界中の名だたる会社が集まって、学生たちもみんなフランクに質問をしてうるさいくらいの盛り上がり。そうして、その3日間だけで何社もの世界の超有名企業から内定をもらっちゃう日本人学生もたくさんいます。そういう可能性があることを知らない日本の学生たちに伝えたい。そんなに就職活動で疲弊しなくてもいいんだよ、世界にはもっとチャンスがあるんだよ、知っていて選ばないならいいけれど、知らずにいるのは本当にもったいない。いい高校に行っていい大学に行っていい会社に入る、そんな一辺倒の生き方で本当に楽しい?世界に行くとみんな一緒っていうのは逆に重宝されないんだよ、あなたらしさ、あなたの原石をもっと磨こうよ、人生にはたくさんチャンスがある。それを富山の子に伝えたい、みんなに世界でチャンスを作りたい!それが純子さんの思いです。
 大手の留学仲介業には、出発する日さえわからないところがあります。留学先で困ったときに相談したくても出来ず途方にくれてしまうこともあります。純子さんは、留学した後の学生たちも細かくケアしています。例えばアパートも日本と海外では全然ちがうこともあるので、留学した学生たちからヘルプの連絡が入ることがあります。留学先のアパートの様子を動画で映してもらいながら、それはこうしたらいいよ〜とアドバイスしている純子さん。だから学生たちも安心して留学することが出来るのです。本当に姉御肌という言葉がぴったりなので、年下だけど、「お姉さま」と頼りたくなる雰囲気の純子さんなのでした。

 純子さんは青年海外協力隊OB会の会長も3年間務めました。この3年間で若い協力隊OBもいろいろ自主的にやってくれるようになりました。若い人を育てるのが得意な純子さんなのです。
 様々な場所や機会に素晴らしい経営仲間や様々な方々ににもたくさん出会えてその方たちと切磋琢磨できるのもとても刺激になっています。
 仕事が楽しい!と言い切る純子さんですが、癒しの時間は美味しいものを食べに行ったり、温泉に入ってゆったりする時間。いつか温泉にご一緒しようとお約束して、今回のインタビューを終えました。
 留学を考えている学生さんや、お子さんの留学を考えていらっしゃる親御さんがいたら、ぜひ一度富山留学アカデミーに問い合わせてみてください。きっと、そこから新しい世界が広がります。
今日の人209.村尾英彦さん [2021年06月19日(Sat)]
 今日の人は地質調査・防災工事・測量設計を通して国土開発事業やインフラ整備事業等に携わり、土木・建設・防災・環境の分野で、社会の発展に貢献している村尾地研代表取締役社長 村尾英彦さんです。
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お茶目な村尾さん

 村尾さんは1970年12月8日、富山市旅篭町で生まれました。12月8日はジョンレノンの命日だったりパールハーバーの日だったりなので、なんでこんな日が誕生日なんだと思ったこともありました。でも、考えようによってはすぐに覚えてもらえるいいお誕生日ですよね。
一人っ子だった村尾さんにはひとつちがいのいとこがいて、そのいとこといつも祖父の家に遊びに行っていました。夏休みはずっと祖父の家で一緒に寝泊まりしていたものです。おじいさんは村尾地研の創業者でもあり、村尾さんにいろいろ影響を与えた方でした。おじいさんに連れられていとこと一緒にブルースリーの映画に行って、その後ずっと真似をしていたのもいい思い出です。そんな風に馬の合ったいとこでしたが、彼はインドア派だったのに対して、村尾さんは根っからのアウトドア派でした。自然の中で遊ぶのが大好きだったのです。
 小学3年生からは同級生に誘われてサッカーチームにも入りました。みんなと一緒にやるのが楽しくて、練習も苦になりませんでした。サッカーばかりしていましたが、村尾さんにしたら遊びの一種という感覚でとても楽しかったのです。
 その頃、これになりたい!と強く思ったものはなかったのですが、宇宙飛行士がかっこいい!と憧れたときはありました。でも、その時々でこれがいいなと思ってはそれが何かも忘れるくらい流されやすかったなぁと振り返って思います。サッカーもそうですが、何か始めるときは、自分からやりたいというよりは誰かに誘われてはじめる方が圧倒的に多かったのです。

 中学校は南部中学へ。その時の南中はサッカー部にうまい人が集結していて、ドリームチームと呼ばれていました。でも、1,2年の時は、先輩からしごきがあって、今から思うといじめに近いような練習もさせられていました。下級生をキャディに見立てて、先輩がサッカーゴルフと称してボールをわざと川に落としたりするのです。下級生はそれを川に入って取りに行かなければならないのでした。そういうのがいくつも重なると、みんな先輩が嫌いになっていくのですが、不思議と村尾さんは嫌いにはなれませんでした。そんな時でも、友達と楽しく過ごせればそれでいいや、というような感覚が村尾さんにはあって、その時その時が楽しければ、過去のイヤなことはどうでもいいと思うのでした。中学生からそれができるなんて、すごいなぁと感心します。でも、当の本人は全くそんなことは思わずに飄々としていたのでした。サッカーのために越境入学してきた友達が、先輩のやり方に悔し涙を流しているのを見て、ああ、こいつは真剣なんだ、と妙に感心しつつ、でも自分はどこかそれを離れたところから見ている感じでした。その頃の南中はとても荒れていた時代で、校舎の窓ガラスが全部割れているのも日常の光景で、連帯責任で丸坊主にさせられたこともありましたが、それすらも楽しんでいました。何かみんなでガヤガヤとやっているのがとにかく楽しかった。みんながつらいことも楽しいと感じる変わりものでした。学校のすぐそばに裁判所があって、校舎から裁判所が見えるのですが、裁判所から出てきた友達に校舎から手を振って、先生に後ろから叩かれたこともありました。「今日から俺は」のワンシーンがたくさん出てくるような中学校生活だったのですね。
 村尾さんが3年生の時に、サッカー部は全国大会に出場します。南中が全国大会にいったのは初めてのことでした。村尾さんは背番号9だったのですが、相手チームから「あいつは9番なのに影が薄い。きっと秘密兵器にちがいない。」と噂されていたそうです。村尾さん自身は、うまいやつはみんな10番台の背番号を欲しがって、9が空いていただけなんですよ、と笑われました。
 部活を引退した後は、本ばかり読んでいました。好きな勉強はするけれど、テスト勉強や受験勉強と名がつくと途端にしたくなくなります。ですから、テスト期間はひたすら本を読む期間でした。
 でも、成績は良かったし、志望校の模試判定もA判定。落ちるはずはないと思っていました。ただ、受験の時に先生から内申点のことをすごく言われたのが引っ掛かっていました。上記のように荒れていた中学校です。全国大会に行ったサッカー部だったとはいえ、そのサッカー部には問題を起こした生徒が相当数いて、連帯責任を取らされたこともありました。富山県の県立高校は内申点をかなり重視します。それを知らなかった村尾さん。合格発表を見に行って愕然としました。自分の番号がない!

 釈然としない思いもありつつ、私立の富山第一高校特別進学コースに入った村尾さん。サッカー部に入ろうかとも思いましたが、富一は当時からサッカー部には強い選手が集まってきていたので、そんな中にいてもなぁという思いもありました。そんな時、教室にラグビー部の顧問の先生が来て、「俺と一緒にラグビーをしよう!俺とだったらお前は輝ける!」というのです。まるでスクールウォーズを地で行くような先生に圧倒されて、ラグビー部に入りました。サッカーを始めたときもそうでしたが、自分でどうしたいというよりはいつの間にかそこにいる、そんな感じで始まったラグビーでしたが、みるみるうちにラグビーの魅力に取りつかれ、その後はラグビー一色の高校生活になりました。体格もよく足も速かった村尾さんのポジションはインサイドセンター。試合中スタンドオフに近い位置でプレーするインサイドセンターは、第2の司令塔としてゲームをコントロールし、パスや突破、キックで攻撃を組み立てることが求められます。花園には行けなかったけれど、菅平に合宿に行ったときは強豪校の関東学院大の学生と試合をして、痛かったけどとても楽しかった。ラグビー界は平尾、松尾、そして村尾とよく冗談も言っていました。

 相変わらずテスト勉強は嫌いでしたが、数学、物理は好きでした。将来の進路を考える時に、航空宇宙学科がかっこいいなぁという思いがありました。ロケットのエンジンの力を計測したり、ジェットエンジンのどこがいちばん威力があるのか等そういうことを研究したいと思ったのです。ただ、村尾さんが行きたかった大学の航空宇宙学科のレベルは相当高く、これは受かりそうにないなと悩んでいました。そんな時、じいちゃんが「行けるんだったら行けばいいけど、行けないんなら土木に進んだらどうだ?」とアドバイスしてくれたのです。それまで跡を継ぐことは考えなかったけれど、そうか、土木も力学の世界だから、宇宙の流体力学ではなくて土木の固体力学をやるのもいいかもしれない、そう思った村尾さんは名古屋大学に入って土木工学の道へと進んだのです。サッカーの時は友達に誘われて、ラグビーは先生に誘われて、土木工学はおじいさんの言葉がきっかけで、いずれも誰かにいざなわれてその道に入ってきたので、自分で何も決めてきていないんですよ、とおっしゃる村尾さん。でも、きっかけがそうだったとしても、その後はしっかりその道を進んで行く力があるのが村尾さんなのです。大学でも仲の良かった友達に土の研究室に行こうと誘われて、これでいいかとその研究室に入りましたが、土の力学的な解析がすごく面白くて、のめりこんでいきました。昔の読書然り、好きなことにはとことんハマる性格だったので、研究室にずっといる、そんな学生生活でした。そしてこの研究をもっと続けたいと大学院へ。マスターだけではなく、ドクターにも来いと教授が言ってくれて、そのままドクターへと進みました。そうしてPh.D工学博士を取得したのでした。まだまだやりたい研究もたくさんありましたが、大学の中で一生生きていこうとも思わなかった村尾さんは、この時初めて自分の実家の仕事をどうしようかと真剣に考えました。思い返せば、おじいさんとお父さんが苦労している姿をずっと見てきました。会社がとても苦しい時期もあり、家で満足に食べられない時期もありました。それでも、祖父や父が守って作り上げてきた会社でした。おじいさんが入院していた時に見舞いに行った村尾さんが「大学で測量をしたよ」と告げると、おじいさんは嬉しそうに村尾さんの話を聞いていました。そんな姿も思い出して、村尾さんは会社を継ごうと決意したのでした。

 富山に帰ってきて、会社の仕事に慣れてきたころに入ったのが富山青年会議所です。ここでの多くの先輩経営者とのつながりは、村尾さんにとってなくてはならないものとなりました。JCの先輩に経営のことが全然わかっていないと言われて盛和塾にも入りました。盛和塾では真剣にやらなければだめだということを叩き込まれ、初めて本気で真剣にやることを自覚できました。ここで教わったことが社長としての今の自分の土台になっていると実感しています。今、社長になってから6年経ちましたが、社長を継いでからの4〜5年は本当に大変でした。でも、どんなに大変なことがあっても、大丈夫だと言ってくれる人が周りにいて、助けられてきました。実際JCの先輩たちは自身が事業の失敗をしている時でも、つらさを見せずに世話を焼いてくれるのです。そんな姿を見せられると、自分もやはりそうでありたいと覚悟が決まってくるのでした。

 そして今、村尾さんは富山で外国人材のネットワークを立ち上げようと東奔西走していらっしゃいます。企業だけではなく、行政や大学やNPOも入ったマルチステークホルダーの新しい外国人材をめぐるネットワークを作りたい。何かを決める時にいつも受け身で決めてきた少年はいつの間にか、自ら先頭を切って社会課題に切り込んでいく切り込み隊長になりました。立ち上げたネットワークもいずれは若い世代がドライブしていってほしい、そう思っています。
 そんな思いになったのは、未来の子どもたちのためにも未来ある富山を残していきたいと思うようになったからです。
 富山は災害が少ない県だと言う人も多いですが、今たまたま大きな災害が起きていないだけで、富山県の歴史はずっと災害とともにあったのです。1858年4月9日、マグニチュード7と推定される飛越地震が立山連峰を襲いました。この地震により立山カルデラ内の斜面が大崩壊を起こし、崩れた土砂が常願寺川をせき止めました。川をせき止めた土砂が決壊し土石流が発生、富山平野には氾濫した土石流が押し寄せ、死者140名、負傷者8,945名の未曾有の被害をもたらしました。そして2億㎥の崩壊土砂が今もカルデラ内に残っているのです。この土砂量は、富山平野一帯を約2mの厚さで覆うほどの量なのです!のちに「日本砂防の父」と呼ばれる赤木正雄先生は大正14(1925)年7月、その現状を見て、何としても直轄工事にしなければこの地の人々を守れないと思い、国にその必要性を報告します。しかし、砂防工事実現には多額の予算が必要でした。難色を示す声に囲まれるなか、「日本における治水の根本は砂防にある」と砂防の重要性を説き、着工承認を得たのです。こうしてその後ずっと、そして今も、砂防工事は続いているのです。立山砂防工事が行われていなければ、富山は災害がない県だなどととても悠長には言っていられなかったことでしょう。赤木先生によって培われた砂防技術は、荒廃山地、急流河川を数多く有する日本で大きく発展、その技術は世界に広まり、今日では「SABO」は世界共通の言葉となっています。
  
 富山の未来のためにずっとやり続けてくれた先人がいたから、今の自分がある。だから、自分も未来の子どもたちのために少しでもよくなることをやっていかなければ!村尾さんは表面は静かで穏やかな方ですが、とても熱い想いをお持ちなのです。
 でも、不思議と肩に力の入っていないのが村尾さん。仮に大変なことがあったとしても、その状況を楽しむことができる力は昔からある特技の一つと言えるかもしれません。そんな村尾さんのホッとできる時間はプールで泳ぐ時間です。親しい人たちと飲みに行く時間も好きなのですが、これはコロナ後の楽しみです。
 これからも自分のやれるところをコツコツやっていきたい。キラキラしていない地味なところにある大切さを忘れずにいたい。何かをずっとやり続けられる力は何よりの強さです。そして村尾さんは、そんな強さを持っているのでした。
 私も富山外国人材ネットワークの始動、楽しみにしています。未来の富山の、日本の、そして世界の子どもたちのために。