今日の人208.塩谷洋平さん [2021年05月17日(Mon)]
今日の人は、建設業を通じて社会問題の解決を目指し、新たな課題にチャレンジし続けている塩谷建設代表取締役社長 塩谷洋平さんです。
塩谷さんは1979年、高岡の伏木で生まれ育ちました。ガキ大将というわけではなかったけれど、おとなしくはなかったので、幼稚園の年中の時は、自分を泣かせた年長の子たちを呼びだして、ジャングルジムのてっぺんからその子たちに向かっておしっこをかけて全員泣かせたという逸話も。年上だろうが、そんな調子だったので、小学生になってお母さんが保護者会に行ったとき、この子は柱に縛り付けておきなさい、と言われたそうです。もっとも、塩谷家は壁式コンクリート造で柱がなかったので、縛り付けられることはありませんでした。その代わりと言ってはなんですが、塩谷家の伝統でもある柔道を習わされたのです。柔道に限らず、水泳や習字など週の大半は習い事をしていました。それでも、友達と遊んだり、海に釣りには行っていて、落ちている釣り糸を結んで、たばこのフィルターをくっつけてルアー替わりにしてサヨリを釣ったり、カニを獲ったりしていました。将来なりたいものは特になかったのですが、何もないと書くわけにもいかないので、くるしまぎれにおまわりさんと書いていました。 小学6年生の時に、隣の小学校とケンカすることがあって、その小学校に乗り込んだ時に止めに入ったおばさんが実は進学予定の中学校の生徒指導の先生だったので、中学校に進学するとずっとその先生に目をつけられることになってしまいました。 中学校は柔道部へ入りましたが、その頃はリーダーシップを発揮するタイプではなく、ちょうど反抗期だったことも相まって、敷かれたレールの上は絶対に歩きたくないと思っていました。塩谷建設はおじいさんが作り、お父さんが跡を継いだ会社でしたが、自分は家を継ぎたくない、自分は自分の人生を歩きたい、そう思っていました。いろいろなことを人のせい、親のせい、学校のせいにして、よく親に怒られていたのもこの頃です。自分でもわかっているけど、反抗してしまう、そんな時に3歳年上の先輩が横浜にある桐蔭学園高等学校に進学します。医者になろうか、柔道を続けようか迷って桐蔭に進学した先輩を見て、自分もそこに進学しようと思うようになりました。今の環境から抜け出たかったという思いも強かったのです。 こうして高校から横浜の桐蔭学園に進学しました。当然入った柔道部でしたが、当時、神奈川県では井上康生さんのいた東海大相模が絶対的王者でした。桐蔭はいつも決勝で東海大相模に負けていました。塩谷さんが1年の時、3年の先輩がすごく強くて、もしかしたら東海大相模に勝てるんじゃないかと思ったのですが、桐蔭は優勝できませんでした。塩谷さんはその桐蔭の中でも決して強い方ではありませんでしたが、絶対に神奈川県チャンピオンになると決めて猛特訓を始めます。 神奈川県は富山とちがい出場校も多く、いかに強豪校でも一校につき一階級に2人までしかエントリーできませんでした。塩谷さんが2年生の時、60kg級で塩谷さんはエントリーしてもらえませんでした。塩谷さんは先生に訴えます。エントリー選手が校内予選なしで選ばれるのは不公平だ。せめて校内予選をしてほしい。その願いはかなえられ、塩谷さんは見事校内予選を突破し、エントリー選手に選ばれたのです。 試合当日、途中から先生がセコンドについてくれて、当初名簿に名前もなかった塩谷さんが、なんと強豪ひしめく神奈川県大会の60kg級で優勝したのです。それだけではなく、その年桐蔭は5階級中4階級を制覇し、団体戦でも優勝したのでした。東海大相模の3年生にあの井上康生さんがいた中で、桐蔭が初優勝を果たしたのです。柔道界の流れが変わった瞬間でした。 優勝したことで、塩谷さんは先生にも格段にかわいがってもらえるようになりました。多分この時の柔道部員の中でいちばん伸びた選手でした。この経験は今も生きていて、塩谷さんは社員に対してチャンスは平等に与えること、結果ではちゃんと差をつけることを徹底しています。(結果を出した人と出さない人を同じに扱うと結果を出した人のやる気が失せてしまうので) 神奈川県大会で優勝した塩谷さんには大学の推薦もたくさん来ました。ただ父の行っていた中央大学には行きたくないと思っていて、同志社大学に進もうかと思っていました。しかし、同志社は1人しか推薦の枠がなく、塩谷さんが譲ればキャプテンが同志社に進むことができました。父と同じ大学に行くことに少し抵抗はありましたが、指定校推薦の枠外でも中大に進むことができた塩谷さんは同志社の推薦をキャプテンに譲って、中央大学に進学したのです。 結果的には中央大学に行ってとても充実した学生生活を送ることができました。けれど、大学1年で柔道だけを追求することはやめました。オリンピックで優勝することを目標にしている人を目の当たりにして、その彼と、神奈川県チャンピオンを目標にしてそこで優勝して満足している自分とではあきらかにちがうと思ったからです。親への反抗もあって、高校で家を飛び出したけれど、やはり心の中で親に恥をかかせたくないという思いもあってそれまでがんばってきた部分もありました。けれど、オリンピックで金メダルという目標までは自分は描けないと思った時に、柔道一本道を歩くのはやめたのです。 柔道一色でなくなった塩谷さんは大学生活の中でたくさんの経験をし、たくさんの人に会い、大学の寮ではいろいろな部活の人と仲良くなりました。その一人に、元関脇豪風の押尾川親方がいます。押尾川親方は来春独立されるのですが、その新たな部屋の設計・施工を塩谷建設が請け負いました。塩谷さんは、親方が入門した頃から「部屋をつくる時はよろしく」と頼まれていて、約20年越しで“約束”を果たすことになったのです。こんな縁が生まれたのも、大学時代からのつながりを大事にしていたからに他なりませんね。大学時代からの大切なつながりといえば、忘れてならないのが奥さまとの出会い。スポーツ選手に多いなぁと思うのですが、塩谷さんの家も実は姉さん女房です。 こうして充実した大学生活を送った後に、塩谷さんは大手ゼネコンの大成建設に入社。営業職に就きました。3年目には法人営業でトップの成績を収めたのですが、自分はサラリーマンには向いていないと感じていました。そして、26歳の時に富山に戻って塩谷建設に入ったのです。しかし、入社当初はいったい自分は何をすべきなのかわからず、悶々としながら時間を過ごしていました。それが変わったのはリーマンショックの時です。会社の売り上げが95億円から55億円へと一気に減り、そこで塩谷さんの負けん気根性に火が付きました。マンションのディベロッパーが倒産し、連鎖倒産の危機もありましたが、建てたマンションだけは残っています。このマンションを売れるのはこの会社できっと僕だけだ!大成建設での営業の経験がこの時役に立ちました。こうしてマンションを売り、連鎖倒産の危機も脱出。この経験を生かして、今は自分たちでディベロッパーになってマンションを建てています。 目標は常に過去を超えること。建設業の定義を変えるために、らしくないことをやって歴史を変えたい。その結果、今は塩谷建設は再生可能エネルギーや苔を使った屋上緑化など新たな分野にどんどん取り組んでいます。また、敷地内には学童保育や、先日ブログで紹介した難病や精神疾患にも対応した特に小児の専門性が高い訪問看護ステーションわか木と、重症心身障害と認定されているお子さんを対象とした多機能型重症児デイサービスおはなもあります。こうやって従来の建設業の枠にとらわれることなく、会社の事業形態を少しずつ増やしてきました。ORではなくANDな会社、それが塩谷建設なのです。 塩谷さんは言います。社会の少子高齢化は進んでいくけれど、企業の少子化は止められる。そのために社員の採用には泥臭く力を入れています。即戦力にするのに、経験のある中途採用者を増やすという考えもあるでしょう。でも、塩谷さんはたとえ初期費用がかかっても、若い子を育てた方が何倍もいいと考えています。できれば世界中からおもしろい子を採用したい。そのために素敵な社員寮も作りました。なんと社員寮は月12000円で住むことができ、外国人社員も一緒に住んでいて、国際色豊かな場所になっています。今はコロナ禍でなかなか外国人社員の採用が進みませんが、将来的には同じフロアで5か国の人が一緒に仕事をしている、そんな職場を目指しています。 若い子が入ってきたので、いさぎよく身をひけるよと言ってやめていかれた社員の方もいました。こうして塩谷建設は平均年齢がうんと若い勢いのある会社になりました。ですから、これからまちがいなく伸びる!そう確信しています。42歳の塩谷さんは、50歳で社長を交代しようと思っています。そのためにリーダーになる子を育てていきたい。リーダーを担える人が育ったら、塩谷という名前のついた人が社長をする必要はないと思っています。でも、自分の息子にどこの会社よりも塩谷建設がいちばんおもしろい会社だと思ってもらえる会社にしよう!その想いは心に強くあります。 そうやってリーダーになる社員を育てるために、社員教育への投資は惜しみません。今は、コロナで富山を離れての研修はなかなか難しいものがありますが、社員が気軽に勉強できる場を作ろうと塩谷アカデミーも創設しました。アカデミー内ではE−ラーニングを導入し、スマホやタブレッドでいつでも学習できるようになっています。まさに企業は人なり、を実践されているのです。 やるかやらないかは常に紙一重の判断の積み重ね。塩谷さんは常に自身も勉強し、その判断力を磨いてきました。だから、おっしゃいます。今は仕事をしている時がいちばん楽しい、と。よく趣味は何かと聞かれるけれど、柔道は趣味ではないし、趣味といえるのは釣りくらいかもしれません。そうしてひとたび釣りに出ると釣果は上々なのでした。 でも、夢を熱く語り合うことは大好きです。昔からあまのじゃくなところがあったので、やれないと言われると余計にわくわくするのです。そういう所もイノベーターと言われる所以なのでしょう。 社長を交代するとおっしゃっている50歳まであと8年。この8年間で塩谷社長はどんな一本を見せてくださるのでしょうか。社是の「誠意と創意」、経営理念の「未来の元気を創造する」の言葉通り、きっとわが故郷の高岡が元気になる街づくりの一端を担ってくださるにちがいないと確信した今回のインタビューでした。 |