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今日の人206.舘谷美里さん [2021年02月27日(Sat)]
今日の人は、しゃみせん楽家店長の舘谷美里さんです。
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美里さんは1990年3月25日に八尾町下新町で生まれ育ちました。
8歳年上のお姉さんがいる美里さん、小さい頃は天真爛漫で、外遊びが大好きな子でした。人形遊びなどの女の子らしい遊びはせず、外で鬼ごっこや砂遊びや花いちもんめをして遊んでいました。越中おわらの八尾町らしく、よちよち歩けるようになると、もうおわら踊りについて踊っていました。DNAに刷り込まれているかのように、おわら踊りは美里さんの体の一部になっていったのでした。
 小学生になっても相変わらず外で遊ぶのが好きでした。一輪車や竹馬をしたり、男子と一緒に野球をしていました。とにかくじっとしているのが嫌いだったのです。バトミントンクラブに入ってバトミントンでも汗を流していました。
ものづくりも好きで、漫画を書いたりするのも好きでした。ただ、自分から何かを取り組むのはいいのですが、なにか課題を与えられてそれをやるのは苦痛でした。興味のあることはとことんやるけど、興味のないことには見向きもしない。それは今もあまり変わらないかもしれません。
中学生になると部活はバスケ部に入りました。週1回あったクラブ活動の時間は英語やお茶などある中、三味線を選びました。おわらでお父さんがずっと地方(じかた)で三味線をしていた影響もあったのかもしれません。三味線クラブには地域の人が教えに来てくれてとても楽しかったのです。

高校は地元の八尾高校へ。そこで美里さんは郷土芸能部に入りました。その頃、八尾高校郷土芸能部はほとんど帰宅部と化していてほぼ活動していませんでした。中学の3年間三味線をやっていて、一緒に三味線をやっていた仲良しの友達も郷土芸能部に入りました。入った1年生は3人。美里さんは郷土芸能部で毎日練習を始めました。すぐには無理でも目標は高等学校文化祭に出場することでした。美里さんの働きかけで地元の地方(じかた)の方やお父さん、そして音楽の声楽の先生にも交渉して、いろんな方の協力で練習を続けました。ただ三味線、胡弓、歌、太鼓、囃子を部員だけで全部そろえなければなりません。人が足りませんでした。美里さんが2年で部長になったとき、1年生が4人入ってくれました。そこで、茶道部に入っている友達に兼部をしてもらって、2人の助っ人に入ってもらい、9人で高校文化祭に出ることが出来たのです。帰宅部だった郷土芸能部が高文祭に出られたのはそれだけで快挙でした。ただ、控室では平高校の郷土芸能部と一緒になりました。そこで実力の差を実感します。その時、平高校で尺八を吹いていたのが、今シンガーとして活躍しているCHIKOさんです。
時を経た今、八尾高校の郷土芸能部は全国大会にも出場するほどの実力校になりました。いろいろな舞台への出演もひっぱりだこです。その礎を築いたのは、間違いなく美里さんだったのです。

こうして部活に明け暮れる高校生活を送り、美里さんは推薦で富山大学経済学部に入学しました。バイトもいろいろやりましたし、サークルは軽音楽部に入ってベースを弾いていました。
美里さんは夜間部だったので、卒論のいらない夜ゼミでよかったのですが、卒論のいる昼ゼミに入って卒論も書きました。昼の授業も取って3年の始めには卒論以外の全ての単位をとり終わっていました。それだけ頑張れたのは、将来公務員になって八尾に貢献したい、地元をもっと元気にしたい、そんな思いがあったからです。
しかし、公務員試験に落ちてしまい、2度目のチャレンジをしようとは思いませんでした。リーマンショックの次の年で、公務員志望者がいつもよりうんと多い年でした。
 
卒業ギリギリに内定をもらって、倉庫業の会社に就職しました。最初は梱包や発送の仕事で人間関係もうまくいっていました。しかし、車椅子や介護用ベッドのレンタル等福祉分野の営業やメンテナンスに配属先が変わって、そこで大きな挫折を味わいました。自分の仕事のできなさ加減におちこみ、人間関係もうまくいきませんでした。会社に行く前、朝ごはんを食べると吐き気が襲ってきました。仕事に行きたくなくて、怒られるのが怖くて、何をするにもびくびくするようになっていました。3年間は我慢しようと思いましたが、体がいうことを聴かなくなりました。こうして、美里さんは会社を辞めました。

美里さんは、2013年、23歳の時からしゃみせん楽家で津軽三味線を習い始めていました。ずっとおわらの三味線をやっていたけど、一度津軽三味線をやってみたいと思っていた時に情報誌で津軽三味線の教室を見つけたのです。それがしゃみせん楽家との出会いでした。仕事を辞めた後のレッスンの時に、先生の濱谷拓也さんに「私仕事辞めたんですよ」と言いました。その時、濱谷さんが「じゃあ、うちでバイトする?」と言いました。こうして、美里さんはしゃみせん楽家でバイトを始めたのです。バイトをしながら、職業専門校でパソコンのデザインの勉強も始めました。濱谷さんは三味線への夢を熱く語っていました。その想いに触れ、大好きな三味線を通して、やりたかった地元への貢献もできるかもしれないと思うようになっていきました。
こうして、「一緒に夢を実現しよう!」との濱谷さんの熱い想いに共感し、2015年の春から、しゃみせん楽家の正社員になりました。

今、美里さんは楽家でレッスンもしますし、三味線の教則本もたくさん作っています。今までの教則本とはちがい、イラストがたくさんあって、とてもわかりやすくなっています。そのイラストには、昔漫画を描いていた時の腕が活かされています。
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三味線が好きだから、好きな三味線に携われるのが嬉しい。そして、演奏して喜んでもらえるのも嬉しい。知り合いも増え、新しい世界にもたくさん出会えました。
一方、お客さん商売なので、怒られることももちろんあります。できないことに落ち込んでしまう癖はまだ直っていません。でも、少しずつ考え方を変えてこられたかなとも思っています。
こうして6年間、楽家で仕事をしてきた美里さん。Web担当としてしゃみせんBOXが初めて売れた時の喜びはいつまでも忘れられません。Webの月商が着実に伸びていっているのもシャミリー(三味線family)が増えているのを実感できてとても嬉しいことです。

そんな美里さんがこれからやっていきたいことは、胡弓をもっと普及させていくことです。高校の郷土芸能部の時、胡弓には触らなかった美里さん。こんな難しい楽器無理、と思っていました。けれど、2年前から胡弓もやり始め、いろいろな演奏の機会でも胡弓を取り入れていく中で、胡弓の存在を知らない人が多いことに愕然とします。中国の二胡と同じ楽器だと思っている人も多い。八尾のおわらには胡弓はなくてはならない楽器だけど、胡弓を使っている民謡は全国的にはとても少ないのです。胡弓の魅力をもっともっとたくさんの人に知ってもらいたい。そのために今、シャボの胡弓版も作成中です。これが完成すると、胡弓は格段に手に取りやすくなります。そして、胡弓のYouTubeチャンネルも配信しようと思っています。楽家のYouTubeのラインナップを超かんたん三味線、シャボチャンネル、そして胡弓チャンネルの3本柱でやっていきたい、美里さんの想いはどんどん膨らんでいます。

美里さんの故郷八尾町はおわら風の盆でとても有名になりました。でも、いつの間にかこんなことをしちゃいけない、あんなことはしちゃいけない、そんな枠にとらわれすぎて小さくまとまってしまっている感は否めません。もともと、おわらは芸者遊びから始まりました。もっと自由闊達におわらを楽しむ雰囲気を作っていきたい、そのためには八尾町の中からだけではなく、外からの力が必要だと思っています。町の外にもおわらが好きな人たちもとても多いから、そんな人と八尾町をつなぐ役割も美里さんは担っていきたいと考えています。そして、魅力がある人、人の集まる町にしなくちゃ、そう思っています。
美里さんはおわらの踊りの名手でもあります。昭和初期のおわらを踊れるのは今たった二人しかいません。美里さんはその貴重な一人なのです。パンフレットにも美里さんの美しい踊り姿が載っています。
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美里さんが中学生の時、お父さんに県外に連れて行ってもらって踊ったことが何回かあります。その時、美里さんの踊り姿を見て泣いて喜んでくださる人がいて、美里さんは八尾がもっと好きになりました。だから、公務員になって八尾町を盛り上げたいと思ったのかもしれません。でも、今はしゃみせん楽家の舘田美里として、八尾町をもっともっと盛り上げていきたい、大好きな八尾を元気にしたい、そう思っています。
そうして、三味線や胡弓をもっと身近な楽器にしたい、そのために自分がやれることはどんどんやっていく決意です。
あなたも、一度、三味線や胡弓の音色に触れてみてください。そして自分の手でつま弾いてみてください。心の奥底でなにかくすぐったい感じがしたら、あなたも今日からシャミリーの一員です。

今日の人205.サリム・マゼンMazen Slmさん [2021年02月15日(Mon)]
 今日の人は、TMC富山ムスリム協会代表のサリム・マゼンさんです。
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 マゼンさんは1974年にシリアのダマスカスで生まれました。小さい頃からエンジンが好きだったマゼンさんは、おもちゃもエンジンがないものは興味が持てませんでした。それで、ラジカセを分解してモーターを取り出し、レゴで作った車にエンジンをつけて走らせたりしていました。
 水泳も得意で、ダマスカスで水泳のチャンピオンになったこともあります。お母さんは厳格な人で、子どもの頃はとても厳しく育てられました。マゼンさんは5人兄弟の長男で、みんなのお手本でもあったので、特に厳しく育てられたのでした。外遊びもさせてもらえませんでしたが、マゼンさんは勉強もとても得意だったのです。厳しく育てられたことに対して感謝こそすれ、反発を覚えるようなことはなかったそうです。日本だったら、思春期に反抗してしまいそうですが、イスラムの教えを厳しく守っているマゼンさんは親に反抗するなんて思いもよらないことでした。
 語学も好きで、アラビア語、英語、ロシア語が堪能です。
 ロシアに留学したマゼンさんはモスクワ大学に入りました。その後ロシアで7年過ごしました。イスラム教徒として、いろいろリミットのある生活をしていたマゼンさんは、ロシアにいるときに、一度リミットなしの生活をしてみました。リミットがないはずなのに、逆に自分は一人になってしまった、という孤独感が襲ってきたのです。それは、イスラムのリミットのある生活をしている時には感じたことのない感覚でした。マゼンさんはそこで思います。やはり神はいる。そしてそれはイスラムのリミットのある生活の中でこそ感じられるものだと。

 ロシアで車のトランスポートの仕事などに携わった後、日本に来たマゼンさん。日本でも車のトランスポートの仕事をしています。そうして、1年に2回シリアに帰り、帰った時は1か月シリアで過ごすという生活をしていました。帰国している時に、出会ったのが奥様です。マゼンさんは奥様にひとめぼれします。奥様は当時まだ大学院生だったのですが、マゼンさんと日本に行くことを選びました。それで、ダマスカスでひらがなとカナカナを勉強して、マゼンさんと一緒に日本に来たのです。その後、シリアの内戦が激しくなり、今は両親も日本に呼び寄せて一緒に暮らしています。今、小学校5年生と3年生の子どももいます。外国につながる子どもたちは勉強の面でサポートが必要になる子も多いのですが、マゼンさんの子どもたちは全くそんな心配はなく、逆に日本の小学校でクラスリーダーとして活躍しています。
 そうして自らの仕事の傍ら、2013年には仲間と一緒に富山ムスリムセンター(TMC)の組合を作り、2014年には富山市五福にTMCの建物をオープンさせました。マゼンさんはTMCの代表を務めています。そして、マゼンさんはTMCの活動は全てボランティアでやっています。活動の原点は、人としての義務を守らなければならないという想いです。マゼンさんのいう人としての義務とは、困っている人がいたら助けなければならない、ということです。そしてムスリムとして宗教を守ること。これらの活動をやっていかなくてはならない。それが自分の使命だと思っています。
 マゼンさんは自分が死ぬまで、一人でもたくさんの人を助けたい、そして平和へ到達する道をほんの少しでも短くしたいと思っています。そして、その想いを子どもたちが継いでいってくれることが夢です。
 自分がボランティアをしたことによって、困っていた人たちが心からの「ありがとう」を言ってくれた時、どんなに疲れていてもその疲れは吹っ飛ぶと言います。マゼンさんは内戦の続くシリアの難民キャンプに富山学校を設立し、現地の子どもたちが教育を受けられるようにせいいっぱい支援しています。今、シリアの別の場所でも富山学校を建てる予定でいます。また現地に車椅子を送るなどの活動も続けています。シリアにとどまらず、バングラデシュに避難したミャンマーの少数派イスラム教徒ロヒンギャの難民キャンプに寺子屋式の学校も開校しました。
 ボランティア活動は日本国内でも同様に行っており、日本各地の災害の時には、支援物資を積んですぐに駆け付け、現地でハラールに対応したカレーを作ってふるまいます。熊本でも、広島でも、岐阜でも、TMCができた2013年以降に起きた全国の災害はひとつの漏れもなく駆けつけています。そんな時に、皆さんからの「ありがとう」を聞くと、またやりたいという気持ちがむくむくと湧きあがってくるのです。それが自分の魂のリフレッシュになり、魂のビタミンになります。ですから、TMCとしてのボランティア活動は、自分が病気になって動けなくなるまではずっと続けていきたいと考えています。
 本当にエネルギッシュなマゼンさんですが、そんな風に駆け回っているマゼンさんがホッとできる時間は、やはり子どもたちと遊ぶ時間です。

 マゼンさんの住んでいる高岡市牧野地区は、富山県内でいちばん外国人住民比率が高い地区です。そこでマゼンさんたちが中心になって、多文化共生の地域づくりを実践しています。地域に住む外国人と日本人が一緒に牧野校下多文化共生協議会も発足させ、さまざまな活動に取り組んでいます。マゼンさんの大きな願いは世界平和を作るということですが、まずその第一歩は自分たちの暮らす場所を平和にしていくということです。その一歩一歩のステップを大切にしていきたい、そう思っています。

 このコロナは、もちろん社会的に大きなマイナスをもたらしましたが、いいこともありました。まず、戦争が止まったこと。そして、人々は、人間の力のリミットを否応なく自覚できた。世界でみんなちがっても、みんな人間だということを意識させてくれた。そして、なかなか人に会えないことで、逆にコミュニケーションの大切さを、より深く感じさせてくれた。マゼンさんはそう思っています。

 マゼンさんは、外国につながる子どもたちの居場所作りにも今後取り組んでいきたいと考えています。できることなら、インターナショナルスクールを作りたい。日本はとてもすばらしい国だけど、日本の人々はもう少し、インターナショナルな考え方になってほしいと思っています。外国の考え方をもっと理解できれば、コミュニケーションはより取りやすくなります。マゼンさんの作るインターナショナルスクールで、外国につながる子どもたちも、日本の子どもたちも一緒に学べるようになれば、富山の多文化共生はさらに進むことでしょう。
 マゼンさんは自然の中で遊ぶのが大好きです。だから自然に囲まれた富山が大好きです。
これからも富山で一緒に多文化共生に取り組んでいける心強い仲間がいることがとても心強く感じたインタビューでした。