今日の人204.長尾実香さん [2021年01月01日(Fri)]
今日の人は、株式会社ラ・ファミーユ代表取締役の長尾実香さんです。ラ・ファミーユは、在宅医療を必要とする小児から高齢者まで全ての方を対象に、難病や精神疾患にも対応した特に小児の専門性が高い訪問看護ステーションわか木と、重症心身障害と認定されているお子さんを対象とした多機能型重症児デイサービスおはなを運営しています。La・Famille(ラ・ファミーユ)という社名には1つの家族という思いが込められています。家族の一員のように、ケアを必要とする方々の日々の暮らしを支え、笑顔を支え、その人たちが地域の中で輝き続けられるように…そんな実香さんの想いが込められているのです。
実香さんは昭和51年に大門町で生まれました。子どもの時は、出血すると止まらなくなる血液の難病で、特によく鼻血を出すことがよくあり、また天然パーマで髪の毛がクルンとしていたのもあっていじめの対象になることがしばしばありました。そういうこともあってとても引っ込み思案な女の子でした。泣いて家に帰ってくると、おばあちゃんが話を聴いてなぐさめてくれました。お父さんは自営で、お母さんは仕事で忙しかったので、実香さんにとって、話を聴いて認めてくれるおばあちゃんはとても大切な存在だったのです。 それでも小学4年生くらいになると、だんだん体力がついてきて、水泳や卓球の選手に選ばれるようになってきました。 そんな実香さんがなりたかった職業は小さい時から看護師でした。というのも実香さんは4歳の時に入院したことがあって、その時の看護師さんとの出会いが忘れられなかったからです。4歳になると、もうお母さんが病院の付き添いをしてはいけなかったので、夜中に起きるとお母さんがおらず、実香さんは大泣きしていました。そんな時、その看護師さんは実香さんをずっとおんぶして歩いてくれたのです。看護師さんはおんぶしながら、保育器に入っている赤ちゃんにミルクをあげていました。看護師さんの背中で見たその光景が実香さんの頭の中にはずうっとあったのです。そういうわけで、看護師、特に小児科の看護師になりたいと思っていたのでした。ただ、絵を描くのが大好きで、実香さんが描いた作品はしょっちゅう入選していたので、一時デザイナーになりたいなと思ったこともありました。 大門中学校に入ると体操部に入りました。ひとつ先輩の林原りかさんが体操部でバク転をしているのを見て、かっこいいなぁと思ったのです。そして、がんばって林原りかさんの次の代のキャプテンになりました。部活は楽しかったけど、苦行でもありました。それでもずっと部活のことばかりを考えていた中学時代でした。 中学生になっても、なりたい職業は看護師だったので、最速で看護師になるために衛生看護科のある高校に入ろうと思いました。お母さんもおばあさんも「あんたは体が弱かったから看護師みたいな激務は務まらんちゃ」「やめとかれ」と言いましたが、実香さんの意思が固いのがわかってからは「どうせ看護師になるなら、上に立てる看護師になりなさい。そのためにまずは普通科に行った方がいい」とアドバイスをくれ、実香さんは大門高校の普通科に入りました。 高校に入ると、志貴野中学の体操部のキャプテン、小杉高校の体操部のキャプテンもそろっていました。その時、大門高校には男子体操部しかなかったのですが、中学の女子体操部のキャプテンが3人も揃ったので、これはもう女子体操部を作るしかないでしょ、と女子体操部を作りました。ただ、実香さんは部活もしましたが、勉強をよりがんばる方にシフトしていました。高校時代の3年間ほど勉強をがんばった期間はないと言ってもいいくらい必死で勉強しました。そんな実香さんを見て、高校1年の時の先生がすごく応援してくれました。わざわざみんなを集めて視聴覚室で医療系のドキュメンタリーを見せてくれたりしたのです。 本当は推薦で行きたかった大学もありましたが、大門高校は当時まだ新しい学校で、推薦で行くのがなかなか難しく、進学したのは金沢大学医療技術短期大学の看護学科でした。結果的にこの短大に進学したのは大正解でした。なぜなら、同級生も先生方もみんなとても熱心で、人生観が変わるくらいの影響を受けたからです。実習の時には、レポートを夜中の2時3時まで書いていることもありましたが、そんな遅い時間でも先生も残って指導してくださるくらいの熱血ぶりでした。 実香さんは特に小児の実習への思いは強く、自分と同じ難病の子の受け持ちになると、3歳の子でも病気が理解できるようにと絵本を描いてプレゼントしました。 そんな風にとても充実した時間を過ごし、金沢大学附属病院の内定ももらったのですが小児科で働けるという確証はありませんでした。でも、どうしても小児科で働きたいという思いの強かった実香さんは、その内定を蹴って東京にある国立小児病院へ就職しました。 小児病院で4年、国立成育医療研究センターで5年、ひたすら小児医療の現場に身を置き続け、新生児期から成人期を迎えるまでの患者さんを一通り担当しました。特に成育医療研究センターに移ったあとは、大変なことがたくさんありました。成育に入院している子たちの中には、生まれてから一度も退院した事がなく、ずっと何年も入院している子がいて、家に帰る場所を確保しておかないと、親御さんが面会に来なくなることもありました。2歳のTくんという子は実香さんに懐いて、実香さんを母親のように思っていました。そのTくんが亡くなってしまった時のショックは今も心から離れません。 だんだん進行していく神経の病気を抱えたお子さんのいる親御さんのレスパイトをどのように受け入れていくべきなのか、病院ではなく、家にいてサポートしてあげるべきではないか、そういうことをよく考えていました。 その頃、移植の子を送り出す場面もありました。その時は、自分がもし親の立場だったらつらいだろうなと思っていましたが、まさかそれが自分に課されるとはその時は夢にも思いませんでした。 東京で9年を過ごした後、実香さんは広島の呉へ行きました。お医者さまをしているご主人と知り合い、その実家のある呉へと行ったのです。長女も生まれ、その長女の通う幼稚園のママ友とは仲良くしていたのですが、夫の実家にはどうしてもなじめませんでした。そこで、病院の院長をしていた義父に頼んで、病院で働くことにしました。お義父さんはとてもいい人で、病院の裏方の仕事についていろいろ教えてくれました。この時の経験は今も役に立っていると感じています。 長女を生んだ後、3年後に長男がその3年後に次女が生まれました。子ども2人の時も育児は完全に実香さんのワンオペ状態でした。3人になって、ワンオペはとても無理だ、そう感じた実香さんは、次女が生まれる前に富山に戻って子育てをする準備を始めていました。ワンオペがきつかった以上に、広島では自分の子育てはおろか、存在意義さえ全否定される日々が続きました。もうこれ以上は耐えられない。限界が来ていた実香さんは、長女を富山の小学校に、長男を富山の幼稚園に入れる準備をしていたのです。 そうして富山の病院で次女の澄花ちゃんを産んだ時、実香さんは孤独でどん底の気分でした。それに追い打ちをかけるように、出産13日後、澄花ちゃんは重症の心不全に陥ってしまったのです。すぐに富山大学附属病院のNICUへ入りました。澄花ちゃんは心不全の2回目の重症化の時に心臓が動かなくなりましたが、1週間後に動き始めました。しばらく薬でコントロールしていましたが、子どもの補助人工心臓の治験が日本で3台だけ行われて、その3台目を澄花ちゃんに、という話が持ち上がりました。 4か月富山大学附属病院の小児病棟で過ごした後、大阪大学医学部附属病院に救急車で転院しました。しかし、状態が悪くなり、ICUに入ります。血圧が40にまで下がり、心不全で高熱を出したまま澄花ちゃんはオペ室へ。そしてすぐに補助人工心臓の手術が行われたのです。幸い術後の経過は順調でした。安静度も制限がなくなりました。それまで飲むものも制限されていましたが、飲みたいものを好きなだけ飲めるのは本当にありがたいことでした。 病棟で7か月を過ごし、一緒に入院していた子の親御さんとは連帯感が生まれました。 もちろんそれで終わりではありません。治験が終わったらいよいよ渡航移植に向けての準備が始まりました。ご存じのように渡航しての心臓移植には莫大な費用がかかります。ですから、募金でその費用を集めるしかありません。 大阪大学の先生がいろいろ打診してくれた中で、アメリカのピッツバーグ小児病院で受け入れてくれるという返事がきました。ピッツバーグ小児病院で日本人を受け入れてくれるのは澄花ちゃんが初めてでした。 しかし、澄花ちゃんは脳梗塞を起こしてしまいます。そうなると、募金活動もあきらめなければならないかと思われましたが、そんな時いつも澄花ちゃんは持ち直してくれるのでした。 こうして「澄花ちゃんを守る会」が結成され、2014年3月から募金活動が開始されました。富山でも有志が募金を続け、広島ではママ友が頑張ってくれました。そしてわずか3週間で目標額を達成することができたのです。 澄花ちゃんの心臓移植の渡航準備は整いました。その時、ピッツバーグから移植チームがくまのぬいぐるみを持って日本に澄花ちゃんを迎えに来てくれたのです!その中には日本人の医師もいました。 こうして澄花ちゃんは補助人工心臓2台を積んだチャーター機でアメリカピッツバーグへと旅立ちました。 ピッツバーグに渡ってから、待期期間が2か月ありました。でも、アメリカは待期期間もただ待っているだけではなく、いろいろなイベントがありました。そうして、プロムパーティで澄花ちゃんが猫のフェイスペイントをした翌日に、ドナーが見つかったのです。 手術は無事に終わりました。けれど、心臓がうまく動いてくれず、もう一度胸を開いてエクモを取り付け、血漿を交換しました。もし72時間を超えても動かなかったらあきらめなければなりませんでした。でも、澄花ちゃんはがんばりました。心臓は動き始め、エクモを離脱することができたのです。 つらいことがある時は、阪大の心臓外科の先生にメールしたり、富山の友人で今も同僚の中谷さんに電話したりしていました。ピッツバーグの日本人コミュニティにも助けられました。そうして術後1か月経って、退院できたのです。 もちろん退院したからと言って、すぐに日本に帰れるわけではありませんでした。実香さんは澄花ちゃんと一緒にマクドナルドハウスに滞在し、2か月目に上のお子さん2人と妹さんもピッツバーグに呼んだのです。ずっとお母さんと離れ離れの生活に、上の子たちのストレスが極限に来ていたので、呼び寄せてアメリカで学校に通わせることにしたのでした。兄弟の真ん中の3歳の長男は日本では幼稚園に通えない状態でしたが、実香さんのそばで元気を取り戻し、アメリカの幼稚園に通うようになれたのです。長女はアメリカで小学校に通いました。 こうして1年アメリカで滞在した後、実香さんと3人の子どもたちは日本へ戻ってきました。帰国後は阪大病院で2〜3週間入院し、その後、富山に帰ってきたのです。 その2か月後、実香さんを大事にしてくれた義父が亡くなりました。そうして、もう広島へ足が向くことはありませんでした。 澄花ちゃんは、感染症で下痢をずっとしていた時もありましたが、入院をきっかけに復活し、その後は検査入院以外はしていません。 就園に関しても就学に関しても、苦労らしい苦労はありませんでした。 保育園も小学校も、澄花ちゃんに寄り添った就園就学支援をしてくれて、澄花ちゃんはすんなり学校生活に入っていけたのでした。そんな澄花ちゃんも、今年小学校2年生になりました。 澄花ちゃんが元気になって、実香さんは中谷さんが立ち上げた訪問看護の仕事を週に2〜3回入るようになっていましたが、もっともっと仕事がしたい、小児の訪問看護をしたいと思うようになりました。そして、澄花ちゃんのような子を預けられる場所も作りたい、そう思いました。 こうして作ったのが、訪問看護ステーションわか木と多機能型重症児デイサービスおはなを運営する株式会社ラ・ファミーユでした。 今、ラ・ファミーユには富大病院で澄花ちゃんの担当だった看護師さんもスタッフとして加わってくれています。嘱託医は、当時澄花ちゃんの心不全を見つけ、緊急搬送に付き添って下さった先生がなってくれました。志の高いスタッフに囲まれて、実香さんの思いもどんどん高まっています。 ラ・ファミーユを18歳を過ぎた介護が必要な子も預けられる場所にしたい、訪問看護で関わる高齢の方々の介護や穏やかな最期を過ごせる場所にしたいと、看護小規模多機能の設立も目指しています。ここにくれば子どもたちもそして親もホッとできる、一時期だけではなくてずっとそうなる場所にしたい、いやそんな場所にしていこう、そう決意しています。 壁の絵もとってもかわいくて本当に居心地がいい場所です♪ そして今、実香さんの活躍の場所は富山にとどまりません。ひょんなことからネパールとインドの心臓専門のこども病院のお世話をしている人と知り合いになり、日本で暮らす海外の子どもたちやお母さんの医療サポートをして欲しいと頼まれ、Sri Sathya SaiSanjeevani Hospitals trust Japan の理事になりました。そしてまた今度は、子どもたちの医療移送を担い、海外の子供達も安心して在宅医療を受けられるようにと小児専門の訪問看護ステーションを立ち上げて欲しいと頼まれ、一般社団法人『Ohana International』を設立する事になり、そこの代表理事に就任する予定になっています。 ですから、この後、実香さんはますますワールドワイドに羽ばたいていかれることでしょう。 毎日仕事に追われている実香さんはなかなか時間も作れませんが、土日は子供たちと一緒に過ごす時間を大切にしています。平日は実香さんのご両親に子どもたちの食事も任せているのですが、土日は実香さんが作り、「ママのご飯を食べられるのが嬉しい」と子どもたちが言ってくれるのが嬉しいとお母さんの顔を見せる実香さんなのでした。 ラ・ファミーユのリーフレットには英語でこう書かれています。 Who is a precious one for you? Who is the light of your life? 大切な人を守り、その人もそしてその人を支える家族も輝き続けられるように、実香さんたちは今日も家族の一員としてとびっきりの笑顔で全力でサポートしていかれるのでしょう。 |