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今日の人203.渋谷秀樹さん [2020年12月17日(Thu)]
 今日の人は、NPO法人バンブーセーブジアース代表や焚き火フェスin大長谷実行委員長、ヨットチーム竜神のメンバー、そして企業と求職者の未来をつなぐ有限会社hs style代表として多方面でご活躍中の渋谷秀樹さんです。
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幼竹伐採にて

 
 渋谷さんは1970年4月に富山市奥田で生まれました。小さい時はお父さんに連れられて海釣りに行ったり、近所のガキ大将について外で遊びまわる元気な子どもでした。
 おじいちゃんは渋谷鉄工所という鉄工所を営み、お父さんは転職が多かったものの大工をしていたので、祖父や父が高いところでかっこよく働く姿にあこがれて大工になりたいと思っていました。
 
 しかし、小学校4年生の時に、お父さんが事故死してしまいます。大きな大きなショックでした。でも、さらにショックだったのはお母さんが1週間あまりずっと仏壇の前で泣いている姿を見ることでした。でも、その後のお母さんは強かった。渋谷さんと2つ下の妹さんをちゃんと育てていかなければと固く誓われたのでしょう。ノエビア化粧品の販売をがんばってどんどん業績を上げ、ご自分で販売会社まで作られたのでした。
 そういうわけで、小4からはほとんどじいちゃんばあちゃんに育てられたような感じでした。ばあちゃんが作るおかずは茶色いおかずが多く、弁当箱を広げてもちっともおしゃれじゃないので、当時はそれがすごくイヤでした。今となればそんなばあちゃんの料理が何よりのごちそうだと思えるけれど、子ども時代はそうは思えなかったのです。
 普段忙しいお母さんも、運動会の時は弁当を作ってくれました。しかし、なぜかお母さんの作る弁当には必ずと言っていいほど、駄菓子屋で売っているイカフライがドーンと入っているのでした。今でもイカフライを見ると、それを懐かしく思い出します。
 
 渋谷さんはラジオが大好きでした。オールナイトニッポンも小学生の時から聴いていたし、洋楽ベスト20という番組が大好きでいつも洋楽を聴いていました。草むしりやふろそうじのお手伝いをするときも、いつもハードなロックを聴いているのでした。

 中学校は奥田中学に。その頃の奥田中学は荒れてることで有名でしたが、上学年に仲良しの子がいたので、あまりそういうゴタゴタには巻き込まれずに済みました。
 部活はサッカー部に入りました。町内の1つ上のガキ大将がサッカー部に「お前入れ」と言われ、答えは「はい」か「イエス」しかありませんでした。好きで入ったサッカー部でもなかったので、そんなに性根は入りませんでした。ゲーセンにはしょっちゅう行っていました。そして中学生のころもまだ大工になりたいと思っていました。
 中3の時には卒業旅行として自分たちで東京へ行きました。当時通っていた歯医者においてあった週刊誌に黒服日記という連載があって、その中にはこんな芸能人が来たなどの記事があり、そこへ行けば自分も芸能人に会えるような気がして、東京へ旅行したのです。当時流行っていた六本木サーカスというディスコビルへ行ったけれど、まだ誰もいない時間でもちろん芸能人には会えませんでした。友達は先にホテルへ戻ってしまい、六本木をプラプラ散歩して部屋に戻ると友達が寝込んでいて、ホテルの部屋に入れないというおまけつきでした。

 高校に行ってからは富山のディスコにしょっちゅう出入りするようになりました。部活は一応サッカー部に入りましたが、遊ぶのが楽しくて名ばかりサッカー部でした。そしてその頃、バンドに目覚め他校の人と一緒にバンドを組んでコンテストに応募したりライブで歌ったりしていました。そうして友達の家で週末は過ごすという高校時代を送っていました。

 高校を卒業した後は、神戸の大学へ。音楽好きの友達と音楽パブに入り浸っていました。いろんなバイトもしました。海辺のレストランで働いたり、バーテンダー、クラブの黒服、いろいろやりました。黒服をしていたクラブは老舗の品のいいクラブでしたが、ヤクザとマルボウの警察官が同じフロアで飲んでいたり、有名な会社の社長が来ていたりして、すごくいい社会勉強になりました。

 渋谷さんは自分で新しいことを企画したり何か作り出すのが好き(作るのが好きという点では大工との共通点がありますね)だったので、広告会社に就職したいと思うようになっていました。就職活動で富山に帰ってきていたとき、息子に自分の会社を継がせたいお母さんは、ある社員と息子を飲みに行かせました。そこで4軒はしごさせられて、その時に「ノエビアに若い世代が来れば、富山を変えられますよ」と熱く語られ、すっかりその気になった渋谷さんはノエビア本社に入社することに決めたのです。

 こうして社会人1年目。赴任地は名古屋でした。半年の研修では47000円の化粧品のセットを10セット飛び込みで売り切るという課題も課せられました。150人いた同期の中でも、10セット売り切ったのはトップクラスでした。
1〜2年経って慣れたころには仕事帰りに毎日タワーレコードに寄って3時間レコードを聴き、ハッピーアワーのビールを飲んで家に帰るというのが日課でした。
 そんなある日、ダイビングショップにふっと立ち寄った時に、ダイビングの魅力に惹かれ、50万円のダイビングセットを買ってしまいました。そうして、ノエビアの仲間と、伊豆、福井、京都、グアム、いろいろな場所へ潜りに行きました。
 冬はドライスーツを着て冬の海に潜るほどではないなぁと思っていた時に、今度はスノボのショップに顔を出して、20万でスノボのセットを買ってしまいます。
 専門ショップに顔を出すと、年齢、性別、社会的な地位を超えたつながりができる感覚が渋谷さんは好きでした。その感覚が、NPO活動でつながりを作っていくときの原点になっているのかもしれません。

 こうして名古屋で充実した日々を過ごし、27歳の時に富山に戻ってきました。
けれど、ずっと富山にしかいない人の考え方や行動範囲がすごく小さく見えて、埋められない距離感を感じました。一人で金沢チームの人と飲みに行くなどして、自分のスケール感は小さくならないように意識していました。今でもそれは意識していて、自分の経験不足を感じさせてくれる10歳年上の人、新しい感覚を教えてくれる10歳年下の人と意識的に付き合うようにしています。

 その頃は素潜りしてアワビやサザエを獲ったり、何か面白いことをしたいといろんな企画を立てました。市内で自販機を探してシールを貼るチキチキバンバンレース(詳しい内容は渋谷さんに直に聞いてみてくださいw)をしてその後に飲み会をしたり、とにかく何かを企むことが大好きだったのです。
 ある時、飲み会で知り合った女性が「私、あんたのことを知っとるよ」と言いました。なんと、渋谷さんが高校の時に付き合っていた子の友達だったのです。二人は意気投合し、二人とも五福で一人暮らしだったことから、よく会うようになりました。その時32歳。
 するとお母さんから食事会をしよう、向こうのご両親も一緒にと誘われ、食事会の流れになりました。そして、「一日も早く結婚せんとダメやちゃ」と言われ、その後大学時代を過ごした神戸に行ってプロポーズ。こうして33歳で結婚し、35歳と39歳の時には、男の子ができました。

 結婚した翌年、山を持っている奥さんの実家からタケノコ堀りに連れていってやると言われました。その竹林は整備していなかったけれど、タケノコ堀りはとても楽しかった。ネットで調べると、放置された竹林が多くなって問題になっていることを知りました。かつては竹は生活と結びついていたけれど、プラスチックにとって代わられた。でも、竹を使って代替燃料にしたり、繊維にしたりと研究をしているところもあります。そして竹は無尽蔵にあるといっていい。これはビジネスになるのでは、と最初は思いました。竹のボランティアチームを作ろうと思い立ち、とやま森の楽校に所属してボランティアのノウハウを身につけていきました。きんたろうクラブにも入って、NPOについていろいろ勉強しました。
そして属していた商工会議所青年部で、協力してくれそうな仲間に声をかけました。それが、今もバンブーセーブジアースで一緒の活動している酒井隆幸さんや田畑さんでした。
 奥田商店街の一角で火曜に打ち合わせが始まりました。今もバンブーの打ち合わせは火曜日なのですが、この時からずっと火曜の打ち合わせが続いているのですね。

 こうしてバンブーセーブジアースは2007年にスタートしました。
 最初に仕掛けたのは、竹で花器を作って、そこに花を飾って奥田商店街の店先に飾るというものでした。商店街の竹の花器作戦は新聞にでかでかと載って、渋谷さんはアドレナリンが出まくりました。メディアをジャックするのが楽しくなって、ローカルメディアすべてにバンブーの活動が取材されました。新聞に継続的に載っていると、手伝いたいという人が現れ始め、15人超のメンバーになりました。そうしてバンブーセーブジアースをNPO法人化したのです。2010年のことでした。
 イベント関連はどれも大成功でした。しかし一方でこれをビジネスにするのは無理だとわかりました。それからは、週末活動としてのサードプレイスと割り切るようになりました。そうするとNPOの活動ももっと楽しめるようになりました。次はどんな楽しいことをやろうか、どんどん提案してそれを実現させていきました。竹のブランコを作ったり、竹でジャングルジムを作ったり、その中で次第にバンブーの認知度もアップしていきました。NPOが次々になくなっていく中で、バンブーセーブジアースは今も確実に活動を続けている団体だという自負があります。

 仕事の上では48歳の時に大きな転機が訪れます。27歳から21年間、母が代表の会社でずっと働いてきました。しかし、48歳の時に独立し、自分で会社を立ち上げたのです。最初はお母さんを説得するのが大変でした。でも、今ではお母さんも「大きい経費がかからなくなったわ」と冗談交じりに言ってくれるまでになりました。
 仕事が忙しくなり、バンブーの活動は控えざるを得なくなると、代わりに副代表の酒井さんががんばってくれるようになりました。今では、バンブーセーブジアースのほとんどの活動は酒井さんに任せるようになっています。
 バンブーの活動拠点もいくつか変わりましたが、今は八ケ山で落ち着いています。多分、ここがバンブーの終の棲家になるのではないかと思っています。酒井さんたちバンブーのメンバーもここで流しソーメンや地域の縁日を開催するなど、地域の交流の拠点になるようにがんばってくれています。

 大長谷にも2011年くらいから通うようになりました。最初は市の広報にそば畑のオーナー募集という記事を奥さんが見つけて、「あなたこれ好きそうだよね」と言ってくれたのです。もちろん飛びつきました。そうして大長谷のそば祭りや山菜祭りの手伝いをするようになって何度も行き来するうちに、大長谷の人たちとも仲良くなって大長谷そばクラブを結成しました。大長谷で作った小麦粉とそば粉を合わせた二八そばの絶品さと言ったら。(ちなみにその小麦とそばを育てたのは先日ブログにご登場いただいた杉林さんです)
 大長谷の郵便局の跡地を友達3人で買ってダッシュ村にしようという計画も立てました。
でも、大長谷に住む若い人たちは決していい給料とは言えません。何か若い人が収益を上げられることができないか、と考えたときに思いついたのが焚き火フェスでした。焚き火をしながらみんなで飲みながら語らう。今年はコロナのこともあって、あまり大きくはできませんしたが、これからもやりたいことを楽しみながらみんなでやって、大長谷のような、限界集落だけどかけがえのない魅力のある地域の宝物のような場所を大切にしていきたいと思っています。

 ヨットも趣味の一つです。富山で開催されたタモリカップには4回とも出場しています。最初に乗っていたヨットはエンジンが動かなくなって手放したのですが、その後、竜神というヨットのメンバーになりました。船のオーナーはヨットを70歳で始めたのですが、82歳になる今も海竜マリーナからロシア、チンタオへとヨットで回り、世界中の船とレースしている憧れの存在です。年を重ねると、憧れの存在がだんだん少なくなってくるけれど、そんなにすごい人が身近にいて、一緒に活動できることが本当に楽しいのです。仕事をがんばるモチベーションの一つがヨットでもあります。平日の3〜4日、ヨットに乗れるように仕事もがんばろう、そう思うのです。

 渋谷さんのポリシーのひとつに「楽しいからやろう」があります。NPO活動もそう。会社の中だけにいては到底出会うことのない人たちとも出会え、そんないろいろな人たちからたくさんの刺激をもらえるのがNPO活動のいいところ。そこを義務感だけでやっていては長続きしない。やはりやっている人たちが楽しめないとだめだ、そう思っています。

 そんな渋谷さんがご自分の会社を立ち上げたのは2018年の4月でした。その会社ではNPO精神も大いに発揮されています。渋谷さんが代表を務める有限会社hs styleは富山の会社の魅力を伝える動画を作っています。ローカル会社がハローワークに求人を出しても、人が集まりません。それは会社の魅力がちゃんと伝わらないからです。動画なら、その会社の魅力をちゃんと伝えることができる。動画の力を使って、求人の力になりたい!そう思って始めた会社です。ノエビア時代の飛び込み訪問のノウハウも生かして、飛び込みで注文をもらっていきました。富山の家族経営企業には、大手に負けない魅力があるところがたくさんあって技術もたくさん持っているのに、広告を出せないばかりに人が集まらない企業がたくさんあります。そんな企業の動画を作って、その魅力を伝えたい。そんな動画がこちらで見られます。一度ぜひご覧になってください。
https://www.youtube.com/channel/UC97w1Pn5_v9W5XKxtftfv6Q?view_as=subscriber
もちろん、渋谷さん自身の会社もどこよりも魅力のある会社にしたいと思っています。会社の理念は「富山でいちばん家族を入れたい会社づくり」そして、子どもに「俺、親父の会社に入りたい」と言ってもらえる会社にしたいのです。働き方も出社、帰社時間の縛りはなし、そして社員がみんなで顔を合わせるのは金曜の夕方だけ。ワーケーション制度を取り入れていて、沖縄に行きたかったら沖縄で働けばいいし、場所と時間を縛っていないのです。働き方の満足度をうんと高めて、どんどんとんがった人に働きに来てもらいたいと思っています。新卒じゃないと終わりみたいな風潮はもうクソくらえです。失敗した人にこそどんどん来てほしい。面接マニュアルに書いてあるようなきれいな答えは求めていない。自分の足で歩かないと自分の言葉がみつかるわけがない。自分の言葉でどんどん語って、ぶつかって、いい会社にしていきたい。渋谷さんのそんな熱い想いがガツンと伝わってきます。
そうして、これからも自分がNPOで培ってきたことを会社で活かしていきたい、そして今度はバンブーに営利的なものをフィードバックして、バンブーセーブジアースをもっと人が集まる場にしていけたらいいなと思っています。
 マルチステークホルダーの仕組み作りがうまくいけば、きっと企業もNPOもハッピーになりますね。私たちもその一端を担っていけたらいいなと感じた今回のインタビューでした。そしていつか、渋谷さんのヨットに乗せてもらえる日を楽しみにしています。
今日の人202.森 和宏さん [2020年12月10日(Thu)]
 今日の人は、PainAllier パンアリエの店主でパン職人、そして野菜ソムリエでもある森和宏さんです。パンアリエでは国産小麦粉、農家さんから直接仕入れたこだわりの旬野菜を中心としたパンを提供します。店名はフランス語でpain=パン・ allier=結ぶ、調和を意味し、パンを通じて様々な人と物を結んでいきたいという想いがあります。
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 森さんは1982年1月に射水市金山地区で生まれました。金山地区は自然が豊かなところで、森さんも家のすぐ裏にある山が遊び場所でした。子どもたち同士で木の上に秘密基地を作ったり、あたりまえに自然の中で遊んでいました。
 金山地区は保育園から小学校6年生まで全学年1クラスずつの小さな学校です。でも、森さんの学年はスポーツができる次男坊が多く、長男であがりやの森さんは自分はスポーツもできないし、勉強もできない、何の取り柄もない、と劣等感の塊だったのです。
少年野球チームにいてもレギュラーにはなれず、なんでみんなスポーツできるんかなぁ、自分なんかがんばってもなぁという心境でいました。
 でも、細々としたものをつくるのは好きでした。家にあるものをなんでもバラシて、それをまた組み立てるのです。自分では何の取り柄もないと思っていたけれど、本当は手先が器用でものづくりが得意な子だったのです。
他には「こち亀」のマンガが好きで、マンガ本を小学校の頃からコツコツとずうっと集めていました。小学校の時から集めた全200巻は今も大事に持っています。
 でも、将来これをやりたい!というものはなく、親が配管業をしていたので、なんとなくそれを継ぐのかなぁという気持ちで過ごしていました。

 中学校ではサッカー部に入りました。ちょうど小6の時にJリーグがスタートして、世の中サッカーブームだったので、サッカー部に入ったのですが、ここでも全然燃えてはいませんでした。ただ、部活の練習時間はとても長く、家に帰ると疲れて宿題もせずに寝てしまっていたので、家で宿題はしたためしがありません。
 このころからはまりだしたのが、車でした。特にスポーツカーに興味があって、よく車雑誌を買って食い入るように見ていました。そういうわけで、この頃は車関係の仕事ができたらいいなぁと漠然と思うようになりました。
 
 高校を選ぶときに、何科に行くか迷いましたが、車関係のことがしたいと思っていたので、車のエンジンの勉強ができると思って、高岡工芸の機械科へ行きました。しかし、実際はエンジンのことが書いてあるのはテキストの1ページに過ぎなくて、拍子抜けしてしまいます。
 部活は陸上部に入り、種目は棒高跳びでした。けれど、同じクラスに棒高跳びの県チャンピオンがいました。するとまた「俺なんかががんばっても」という気持ちがむくむくと湧いてくるのです。棒高跳びという枠で同じ学校から出られる人数は決まっていました。そんなチャンピオンがいるのに、自分が出られるわけがない、最初からそうあきらめてしまっていたのです。
 
 結局、中学も高校も不完全燃焼のままなんとなく過ぎていきました。そうして、車関係の仕事に就きたいと思っていた気持ちもいつのまにか、整備士になるより普通に会社員として働いて好きな車を買ったほうがいいんじゃないか、と思うようになっていました。
 3交代で働けばいい給料がもらえると聞き、高校卒業後は3交代の工場で4年働きました。ミニバンのカスタムカーを買いましたが、事故って車がぺしゃんこに。新しい車を買うためにまたガムシャラに働きましたが、上司との関係が悪化して仕事を辞めてしまいました。
 
 その頃、実家は配管業だけでなく、代行の仕事もしていました。それで、森さんは、夜に代行の仕事をすることにしたのです。昼はブラブラ、夜は代行という生活が何か月か続いたとき、「台風の被害で瓦が飛んでしまって、今、瓦屋が忙しい」と親に聞き、昼は瓦屋で働き、夜は代行の仕事をするようになりました。

 ある時、友達の紹介で奥さんになる人と出会います。しばらくしてから付き合うようになりました。奥さんの実家はパン屋でした。森さんは婿になってパン屋になってほしいと言われました。家族と仲良く暮らせるなら仕事は何でもいいと考えていたので、婿に入ってパン屋になることに抵抗はありませんでした。25歳の時でした。

 2008年から奥さんの実家のパン屋で働き始めました。最初はパンの製造補助や販売や配達が主な仕事でした。けれどパン屋で仕事をするうちに徐々に、自分自身の手で自分らしいパンを作りたいと思うようになりました。これまでずっと受け身の人生を送ってきた森さんが初めて自分から積極的にやりたいと思うことに出会ったのです。
 そんな時、大阪でおいしい野菜のパンを作っているパン屋が新店舗をオープンするのに人を探していました。「今いくしかない」森さんはそう思いました。
 こうして子ども2人と奥さんを富山に残して、一人単身で大阪へ修行に旅立ったのです。

 大阪で朝早くから夜遅くまでパンと向き合う日々、休みもあまりない中、月1回くらいしか富山には帰れませんでした。もちろんいつかは富山に帰って、自分のパンを焼きたい、そう思っていました。
「大阪の有名なお店で修業を積んだのだから、帰って来るのならすぐにでも自分でお店をやってみたらどう??」そうアドバイスをくれる人がいたのですが、まだ足りないと思っていたので、富山に帰ってきて、他のパン屋さんで働きつつ、奥さんと相談しながら、自身の店の開業をぼんやり考えていました。 野菜のパンがおいしい店で働いていたし、自分も野菜を使ったパンを焼きたい。でも、野菜そのもののことを自分はあまり知らないじゃないか!そう思った森さんは野菜ソムリエの勉強も始め、野菜ソムリエの資格も取ったのです。2017年の春のことでした。

 野菜ソムリエになると、イベントで、農家さん始めいろいろな人とつながりができました。これで、野菜を作った人の名前入りのパンも作ることができる、自分のやりたいことを形にできるパン屋ができる、そう確信した森さんはついにご自身のパン屋PainAllier パンアリエをオープンしたのです。

 PainAllier パンアリエのオープンは2018年3月でした。そうしてオープン以来、野菜や小麦粉にこだわったパンを毎日30〜40種類のパンを作っています。このやり方では、もちろん大量生産はできません。でも、お客さんに少しでも体にいいおいしいパンを食べてもらいたい。森さんは熱い想いで今日もパンを焼きます。小さいころからいろいろなことが不完全燃焼だった少年は今、パンに情熱を注げる職人になりました。もし、奥さんとの出会いがなければ、パンとの出会いもなかったでしょう。そう考えると、人と人の巡りあわせは本当に不思議です。でも、その巡りあわせを生かせるかどうかは、結局その人自身にかかっているのでしょう。

 ただ、やはり一人でやり続けるのは限界があります。今、コロナ禍で感じるのは、店もちゃんと休みを増やさないともたない、そして何も長時間営業しているからいいわけじゃない、長く営業しなくてもできるんだ、ということを実感したことでした。奥さんにもちゃんと休みの時間をあげたい、お互いの負担を減らせるような仕組みを作っていきたい、そう思っています。

 森さんには11歳の女の子を筆頭に、8歳の男の子、4歳の女の子、3人のお子さんがいます。忙しくてなかなか時間も作れないけれど、子どもたちと一緒に遊べる時間はやはり何より楽しい時間です。
「パパのメロンパン、おいしい!」というので、商品化したのがパンアリエのメロンパン。新しいパンを商品化するのは大変ですが、それでも子どもたちの「おいしい」は何よりのエネルギーになります。

 地産地消にもこだわっています。野菜もそうだし、小麦粉も、なるべく県産のものを使いたい。例えばドイツには風土に合ったパンがある。富山でも、富山に合ったパンを作りたい。そしてそれをこの土地に定着させたい!
 ネット販売も始め、インスタグラムで県外からもフォローされるようにもなってきました。パンアリエのインスタ、皆さんもぜひフォローしてください。
https://www.instagram.com/painallier/?igshid=1x1hpv4r4d49a

 とある巡りあわせからパン屋さんになったけれど、今はパン職人という仕事に誇りを持っています。何にも取り柄がないと言っていた消極的な少年は、パン作りを通していろいろな人と出会い、パンで富山を盛り上げていこうという志を持った素敵な大人になりました。これからも、パン職人森和宏さんが作り出す富山のパンに乞うご期待です!
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野菜がたっぷりでとってもきれいな森さんのパン もちろん美味しいです♪
今日の人201.塩井保彦さん [2020年12月01日(Tue)]
 今日の人は、株式会社広貫堂代表取締役で、この4月から富山経済同友会代表幹事にも就任された塩井保彦さんです。
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広貫堂の営むイタリア料理店BERAERバルツェルにて

 1954年に富山市安野屋で生まれた塩井さん。元北海道知事の高橋はるみ(旧姓新田)さんとは同級生で、安野屋小学校の時には塩井さんがチェロ、新田さんがピアノでヘンデルの「王宮と花火の音楽」より平和と歓喜を演奏したのでした。弟の新田八朗さんは盟友で、八朗さんが日本青年会議所会頭になられた時も、そして、今回の富山県知事選挙も、いちばん傍で支え続けたのは塩井さんだったのです。

 塩井さんはスポーツ少年でもありました。小学校の時から野球やスキーが得意で、ご自身が高校生になってからは安野屋1丁目の少年野球チームの監督もしていました。その時に鹿島町の少年野球チームの監督だったのが、若き日の中尾哲雄さんでした。中尾さんは監督としての采配が抜群にうまく、塩井さんの安野屋1丁目は安野屋校区20チームの試合で3年連続鹿島町に決勝戦で敗れます。塩井さんと中尾さんとの出会いは財界人としての出会いではなく、若き日の少年野球チームの監督としての出会いだったのです。

 塩井さんは中央大学に進んだ後も、少年野球チームの監督を務め、中尾さんのチームに3年連続負けた後は、3年連続優勝しました。3年連続勝つと、富山市大会にも出場できて、その時は校区のチームからも選手を補強できるのですが、その時補強のピッチャーとしてチームに加えたのが、芝園町1丁目の小泉稔さんでした。この小泉さんが実は、今回の知事選挙で大きな働きをされたのですが、それはまた後ほど。

 塩井さんは野球の監督だけではなく、八方尾根でスキーのインストラクターもしていました。最初はスキー宿でアルバイトをしていたのですが、その宿の主人が八方尾根のスキースクールの校長もしていました。その頃、スキーツアーのお客さんがどっと来てインストラクターの数が足りなくなっていました。塩井さんのスキーの腕を知っていた主人に見込まれて、宿でのアルバイトに加えてインストラクターもしていたのでした。

大学2年生の時からは、議員秘書のアルバイトもしていました。当時でいうとかなり高額な一日1万円のバイト料だったので、塩井青年は豪快に飲んだり麻雀したりと破天荒な学生生活を過ごしていました。大学4年の頃、巷でブランドが流行り始めました。塩井さんは富山の中央通りにあったお店から買い出しを頼まれ、本場ヨーロッパのブランドショップで「ここのネクタイを端から端まで全部ちょうだい」という爆買いをしたりもしました。なんとも豪快な大学生だったのですね。

大学4年生の12月から2月まではロンドンに滞在し、その後友達2人を呼び寄せてレンタカーを借りて3人で1か月ヨーロッパを廻ります。その時に特に印象的だったのが南フランスの地中海沿岸部コート・ダジュールのエズでした。コート・ダジュールには切り立った岩山や丘の頂に城壁をめぐらして築いた小さな村がいくつも存在し、鷲が卵や雛を守るために他の動物の手の届かない小高い場所に巣を作るので、鷲の巣村と呼ばれています。ニース近郊の鷲の巣村の中で、特に絶景なのが地中海を見下ろす海抜427mの岩山の上にある Èze(エズ)です。ここの景色は本当に素晴らしく、またここのオーベルジュの料理がたまらなく美味しくて、これが塩井さんがグルメに目覚めたきっかけでした。その頃はまだ1ドル360円の時代。そんな時代に、こんな旅をする行動力と実行力がある なんとも豪快な学生だったのです。

 そんな豪快で破天荒な塩井さんが就職先に選んだのは、大塚製薬でした。そこには、塩井さんに負けず劣らずの突き抜けた社員たちがいました。大塚製薬で大いに鍛えられた塩井さんが広貫堂に入るのは30歳のときです。
 
その後、ずっと第一線を走り続けてきた塩井さん。新田八朗さんが日本青年会議所の会頭に立候補したときは、切込み隊長として大活躍されました。
 ご自身も、富山市長選に出るつもりで準備していた矢先の20年前、脳梗塞で倒れます。毎日大量にお酒を飲んでいたけれど、自分の体力を過信していたところもありました。
ある朝、自室でふらつき、会社に行こうかと思ったけれど何かおかしいとホームドクターに相談したところ、すぐに救急車を呼べと言われ、病院に。病院に着いてCTを撮ると、小脳に梗塞があって、血圧は上が200に達していました。20日間入院したあと、高志リハビリ病院に転院。最初はピクリとも動かなかった左手でしたが、リハビリでとにかく動くと念じろとソフトテニスボールを渡されて、握り続けました。すると、3日でピクリと動いたのです!こうして毎日毎日リハビリを続け、3か月の入院を経て、退院します。それまでは何次会にも行って大変な量を飲んでいた酒豪でしたが、退院後、アルコールはポリフェノール豊富な赤ワインに変え1次会で帰ることにしました。リハビリ生活を続けていた時に、リハビリが終わったらどこのレストランへ行って、どこのワインを飲もうかと思っていたのですが、入院中に新田さんが持ってこられた沢木舞さんの著書『ミキータの人々』に「私の好きなワインはアマローネ」と書いてあるのを読み、1年後にイタリアに行ってそのワインを飲む計画を立てました。アマローネというのは、 ヴェネト州のヴェローナ地区で限られた生産者がごく少量生産し、かつては王侯貴族しか口にできなかったと言われるほど贅沢に造られた稀少なワインです。塩井さんはまずフランクフルトへ行き、アルプス越えをしてヴェローナへ。ヴェローナはあのロミオとジュリエットの舞台としても有名です。塩井さんはヴェローナのワイナリーでアマローネを何本も買い、充実の時間を過ごしたのでした。

 そして脳梗塞で倒れてから2年後の2001年6月、広貫堂の社長に就任します。
塩井さんが就任する前、社長室の前はいつも決済のハンコをもらう列がずらっとできていました。それでは考えない社員を作ってしまう。今、イノベーションを起こして変わらないと会社に明日はない。塩井さんは破壊と創造をキーフレーズにどんどん社内改革を進めました。そして社長室もなくしました。社用車や専属の運転手も持ちません。最初は営業のど真ん中に自分の机を置いていました。5〜6年たって机を置くのもやめました。会社に1〜2週間顔を出さないこともあります。社長の顔を知らない人もいるので、パートの人たちからは「どこのおっちゃんが来たんや?」という目で見られることもあるとか。

コロナのずっと昔から、塩井さんにとってテレワークは当たり前になっています。コロナが流行する前には南アフリカに行っていました。タブレットがあれば24時間いつでもどこにいても仕事ができるのです。社員に破壊と創造と言い続けて20年、ようやく社員たちの顔つきが変わってきたと感じています。ですから、この先がとても楽しみなのです。
社員の福利厚生を願って作ったイタリア料理店BARZERバルツェルでインフォーマルミーティングとして無礼講の食事会を開いて社員の話を聞くのも楽しみです。これは、内定者懇談会でもやっています。そしてもちろんバルツェルには、あのアマローネが常においてあるのでした。
広貫堂と言えば、薬膳カフェ癒楽甘 春々堂も人気ですね。

 ここ最近は特に忙しく過ごしていましたが、週に3回のジムとスポーツマッサージはかかしません。脳梗塞になる前は、ゴルフもシングルを目指してハンディ15で回っていましたが、今は歩くことを目的としたゴルフにしています。ですから今は昔より健康と言ってもいいかもしれません。

今回富山県内で大きな渦を巻き起こした富山県知事選挙で、塩井さんは「新田はちろうを囲む会」会長として大変大きな働きをされました。それは新田さんが青年会議所の会頭になられた時の切り込み隊長としての働きさながら、まさに参謀本部長といえるものでした。

新田さんが知事選へ出ると表明された1年前から、ひたすら動き続けていた塩井さん。新田さんの総決起集会ではアメリカの大統領選挙さながらの演出に皆さん度肝を抜かれ、これまでの選挙戦で見たことがないくらいの盛り上がりになったのは記憶に新しいと思いますが、これも実は塩井さんの働きがあってのことでした。
総決起集会をどんな風にやるか考えていた時に、塩井さんが相談したのがイベント企画立案を幅広く手掛けていた小泉稔さんでした。そう、かつて塩井さんが少年野球チームの監督をしていた時のピッチャーです。小泉さんは言いました。「アメリカの大統領選挙は狭い場所でいかにたくさんの人がいるかのように見せて、そして最大限に盛り上げる。それでみんな熱くなる。総合体育館に3000人集められたら最高に盛り上がる決起大会にできる!」
幸い総決起大会の予定日に総合体育館は空いていました。塩井さんはすぐに予約を入れ、総合体育館に3000人集めるべく動き出します。それはなんと総決起大会から10日前のことでした。そして、10日後の総決起大会は、今まで誰も経験したことがないような皆が興奮に包まれたすばらしいものになったのです。そこから一気にボルテージが上がったのは言うまでもありません。かつて少年野球チームの監督だった塩井さんの依頼に全力で応えた小泉さん。いろいろな出会いの1つ1つのピースが組み合わさって、新田さんのワンチームを作り上げていきました。
 そしてもちろん、塩井さんはこれからも盟友として新田さんを支え続けていきます。

 塩井さんがこれからやっていきたいことは、大きく2つあります。
 ひとつはwithコロナ、そしてnextコロナのグローバリゼーションの時代に、いかに広貫堂の製品を海外に事業展開していくかということ。
 もうひとつは未病予防としての製品開発です。未病予防として、一番大切なのは食で免疫力を上げること。農薬や化学肥料をたくさん含んだ野菜を食べてもそれは健康にはつながらない。ミネラル、ビタミン、微量元素がたっぷりの野菜を食べることが免疫力を高め病気にならない体を作ることができる。私たちが今やっている多文化共生畑もまさに同じ考えで、いかに土の微生物の力をとりこんだ野菜を作るか、そのために土作りに徹底的にこだわった畑つくりを農業家の杉林外文さんに指導してもらいながら取り組んでいます。
理想は食で免疫力を上げることですが、そうはできない人もいる。そんな人たちのために、機能性食品や医薬品で免疫力を上げる未病予防になる製品開発を塩井さんはやっていきたいと考えています。
免疫力を上げるとびきりおいしい野菜や未病予防になる広貫堂の製品を富山発で発信していけたら、それは世界に誇れる富山ブランドになるにちがいありません。

 広貫堂の社名には「救療の志を広く貫通する」という意味が込められています。創業以来140年の「救療の志」を世界へ広げるべく、これからも塩井さんは豪快に笑いながら歩み続けられることでしょう。
 経営者として懐が深い人ってこういう方のことを言うんだなぁとつくづく感じた今回のインタビューでした。