今日の人199.星井 光さん [2020年10月15日(Thu)]
今日の人は、NPO法人PCTOOL理事、NPO法人市民活動サポートセンターとやま理事の星井 光さんです。
光さんの自宅の仕事部屋&ルームシアター 超大型テレビで映画鑑賞するのが最近の楽しみのひとつです。 光さんは1962年12月に富山市で生まれました。お父さんは北朝鮮出身の人でしたが、韓国に亡命してその後日本に渡ってこられたそうです。どうやって韓国に亡命したのか、そしてどうやって来日して名前を手に入れたのか、詳しいことは光さんも知りません。なぜなら、別にご家庭がある中、お母さんと知り合って光さんと妹さんが生まれたので、光さんの戸籍には父親の欄に何も書かれていなかったのです。 お父さんは岩瀬で焼肉屋をしていた後、石坂で養豚場を始めました。また、共同経営でパチンコ屋も始め金融業も営んでいて当時はとても羽振りがよかったのです。けれど、とても気性の激しい人で、飲んではケンカをして、家へ帰ってからまた外へケンカをしに行くといった風でした。幼い光さんも、もぐさで灸させられたり、病気の豚小屋に入れられたり、お父さんも怖かったのですが光さんも相当きかんかったらしいです。 そんな風な毎日だったので、光さんが小学校へ上がる前にお母さんは光さんと妹さんを連れて家を出ました。そこからは3人でのアパート暮らしが始まったのです。お母さんは、昼夜働き、夜は西町で自分のスナックを経営していました。とても気さくな人で、お客さんもたくさんつき、また隠し事もしない人だったので、アパートに彼氏を連れてくることもありました。それが嫌だったこともありましたが、逆に隠し事を一切しないことで、母への絶対的な信頼感がありました。 1ヶ月に1回はお父さんとも会っていました。その時はお父さんも優しくて、光さんと妹さんに、何でも好きなものを買ってくれました。そういうわけで光さんたちは当時の女の子が欲しがっていたおもちゃは一通り持っていたと言っても過言ではありません。 今はとても明るくて、誰とでも気さくに話す光さんですが、小さい頃は人見知りでおとなしい性格でした。人と話さず、編み物が好きな小学生でしたが、小さい時から、なぜか機械が好きで、ビデオデッキなども自分で設定していたものです。 そんな機械好きが高じてか、入った高校は富山工業高校の設計計測科でした。中学校では部活も入らなかった光さんでしたが、高校では部活に入ろうと思って、最初はテニス部に。しかし、女子が自分だけだったという事もあり生徒会誌を作る、会誌部に入部したのです。そこがすごく楽しかった。夏、バンガローで合宿をするというのに、ワンピースにサンダル姿で行って周囲を驚かせたりもしました。でもみんなとても仲良くしてくれて、光さんのおしゃべりで明るい性格はそこで開花したと言ってもいいでしょう。 だんだん行動的にもなっていきました。大好きだったロッド・スチュワートのコンサートに東京の武道館に一人で行ったりもするようになっていました。もっとも、東京駅にはすでに上京していた部活の先輩が迎えに来てくれていたのですが。 けれど、高校生活でも理不尽な思いをしたこともありました。就職先を選ぶ時、第一志望の会社は母子家庭の子はダメだと言われました。なぜ本人の実力ではなくて、そんなことで差別されなくてはいけないのか、すごく悔しかった。でも、光さんは第一志望の会社に行かなくてよかったのです。なぜなら、光さんは最初の就職先で最愛のご主人に出会うことになったのですから。 光さんは高校を出て就職し、ご主人は大学を出て就職して同期になったのでした。会社は荏原の駅から歩いて20分の所にあり、光さんもご主人も駅から歩いて通勤していました。会社でテニス合宿があって、光さんはご主人のことをいい人だな♡と意識し始めるようになりました。それで、仕事の帰りにご主人が出てくるのを待ち伏せして、一緒に帰ったりしていたのです。人見知りだった少女がうそのように、とっても積極的になっていたのです。 やがて二人はつき合うようになり、結婚の話も出てきました。しかし、ご主人は田舎の長男です。お義父さんは興信所を使って光さんの身元を調べ、光さんの出自で結婚に反対しました。しかし、お義母さんが「息子が選んで連れてきた子なんだから、もらおう」と言ってくれたのです。 そして光さんは21歳の時に結婚しました。結婚式にはお父さんも来てくれて、嫁入り道具も一式揃えてくれました。 でも、市役所に婚姻届を出す時に、つらい思いもしました。窓口の人が「なぜ父親の名前がないのか?」としつこく聞いてきたのです。その対応に光さんは泣いてしまいました。その時、ご主人が毅然とした態度で光さんを守ってくれたのです。そのことを子どもたちに話すと、「お父さん、かっこいい所あるんだね」と言ってくれるのがまた嬉しい光さんなのでした。 息子の連れてきた人だから、お嫁にもらおうと言ってくれたお義母さんでしたが、実際はとても厳しい人でした。同居だったので、つらい思いをすることもたくさんありました。 でも、自分を振り返った時に、分岐点に出てくるのはいつもお義母さんだったのです。光さんにはお子さんが2人いるのですが、下の子が4歳くらいの時に、お義母さんが大病をして半年入院しました。最初の1週間、朝の6時から夕方6時まで毎日病院に詰めていました。きらいなお義母さんと日がな一日一緒にいなければならないので、3日くらいで気が変になりそうでした。でも、その時、ふっと「ああもう、どうなってもいい」と自分の心を解放しようと思ったのです。限界まで来たときに、もうなんでもいいや、なるようにしかならない、と心を解放したら、すごく楽になりました。それからは光さん自身の行動が変わり、お義母さんと普通に接することができるようになって、仲良くなれたのです。 お義母さんは2年前の3月に亡くなられました。ちょうど、その頃は光さんが自分の心を見つめ直していた時で、お義母さんは自分の道先案内人だったんだと気付けたのでした。 もちろん実家のお母さんのことも大好きでした。隠し事をしないさっぱりとした母の態度は光さん自身の子どもたちへの接し方の道標でもありました。お母さんは光さんが30歳の時、そしてお母さん自身が54歳の時にステージ3の癌を発症し、56歳で亡くなったのでした。 光さん自身がお子さんを生んだのは24歳と28歳になる歳でした。どちらも夏生まれにしたくて、実際に上の息子さんは7月30日生まれ、下の息子さんは8月1日生まれなのです。その間も仕事はやり続けました。船舶の図面の設計をしたり、サッシ周りの図面の設計をしたり、そのうち3番目の会社にヘッドハンティングされたり、そして、設計とはおよそ畑ちがいの化粧品販売の代理店をしたりと外で積極的に活躍する光さんの力が発揮され始めていたのです。 子どもたちが小学校から高校までの間はずっとPTAの役員もしていました。ある時、同じ役員をしていた人に、情報工房でインストラクター養成講座っていうのがあるから受けてみない?と薦められました。なんでも新しいこと好きの光さん、もちろん受けました。 講座を受けていた小杉の4人で話が盛り上がって、小杉でIT講座を始めようよ!という話になりました。その中の一人が毎日役場へ通って、役場の講座を1コマだけゲットしてきました。こうして、2001年に小杉電脳塾を立ち上げ、IT講座を始めたのです。 でも、実は、その時は光さん自身もパソコンの使い方をまだよく知らなかったのです。学びながら教えていく、そんな感じのスタートでした。でももともと機械をいじるのが大好きだった光さんはあっという間に技術を身につけていったのです。小杉電脳塾は大好評でどんどん広がっていきました。最初は1コマだけだった講座がどんどん増えて、月7〜8講座を担当するようになりました。企業の社内パソコン教室のアシスタントも担当するようになりました。そのメイン講師の一人がPCTOOLを立ち上げた能登さんでした。能登さんにメイン講師としてやってみないか?と言われ、一緒にいろいろ仕事をするようになっていきました。大山町では老人福祉施設で高齢者パソコン教室の講師をしました。最初は技術があまりなかったのが逆によかった。それは生徒の皆さんと一緒の気持ちで成長していけたことです。うまくなっていく喜びが共有できてそれが続けていくモチベーションにもなったのです。 光さんの教え方は大変評判がよく、公民館での講座もどんどん増えていきました。南太閤山公民館から始まって、いろいろな所で10クラス立ち上げました。そんなクラスがもう十数年続いています。Word、Excel、ブログ、SNS、いろいろな講座をその時々に応じて開設しています。受講生の皆さんとも一回きりのつきあいではなく、ずっと長いつきあいが続いていて、そんな中から食事会を企画したり、デジカメ撮影会を企画したり、とにかく光さんは何かを企画して皆さんを楽しませることが大好きなのです。 そんな企画は、コンサートの主催にも及びました。初めてコンサートを主催したのは2001年。6月城端中学校であった新垣勉さんのコンサートに誘われたのがきっかけでした。 新垣勉さんは沖縄で在日米軍人だったメキシコ系アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、生まれてすぐに間違って劇薬を点眼されて盲目になってしまったテノール歌手です。両親は1歳の時に離婚し、父はアメリカに帰国。育ててくれた祖母も他界し、自分の境遇に絶望して自暴自棄な中、教会に通うようになり、歌の道を志すようになります。ずっと父親を恨んでいましたが、歌の勉強をしている中で、「君の声は日本人離れしたラテン的な響きがある。神様からのプレゼント。お父さんに感謝だね」と言われ、ずっと憎んでいた父親の血が、自分を歌手として立たせてくれる大きなプレゼントになったのだ、父を許す気持ちになったのでした。光さんも負けず嫌いな性格はどう考えてもお父さん譲り。ともに外国人を父に持つ身として共感せずにはおれなかったのです。それよりなにより、新垣さんの歌声は本当に心の奥底に響いて、「私も新垣さんのコンサートを主催したい!」とコンサートなど企画したこともなかった素人が、800人入るラポールのひびきホールに9月に予約を入れてしまったのでした。いったい何人来てくれるのかもわからないコンサートの3日前、新垣さんのコンサート開催の記事が、地元紙のコラムに載りました。そこからは問い合わせの電話がひっきりなしにあり、なんと当日、ホールがいっぱいのお客さんで埋まったのです。そこからずっと、光さんはコンサートの主催をやり続けているのでした。 2008年には盲目のバイオリニスト穴澤雄介さんに出会います。最初はやはりコンサートを聞きにいったのがきっかけでした。穴澤さんの曲の中に、「あの木によりかかって」というお父さんのことを想って書かれた曲がありました。G線上のアリアと同じように、G線だけを使って書かれたその曲を聴いた時、光さんは涙があふれて止まらなくなりました。ちょうどその前年にお父さんを亡くしていた光さんは、その曲を聴いてお父さんへの想いが溢れ出したのです。泣いて泣いて泣き尽くして、なんだか浄化された気分になりました。 そこから、穴澤さんのおっかけを始めて、なんとファンクラブの会長になってしまったのです。また、当時、穴澤さんはホームページを持っていませんでした。もうこれはパソコンに強い光さんの出番です。ホームページを作りましょうか、と提案し、富山のファンの集いの時にホームページのお披露目をしたのです。そうして2008年から12年間ずっと、穴澤雄介さんのホームページ作りに携わり続けているのでした。 2012年にはマラソンにも挑戦を始めました。42.195qを2qずつタスキをつないでいく「いっちゃんリレーマラソン」に出場したのです。全く走ったことなどなかったのですが、「出る?」と言われたら、「いいよ」と答えてしまうのが光さん。こうして18人の仲間を集め、PCTOOLのTシャツも手作りして臨んだマラソン当日。リレーゾーンからはだんだん人が消えていき、PCTOOLチームはとうとう最後に残った1チームになってしまいました。でも、最後のランナーを迎えてみんなで抱き合って泣いている様子がテレビにも大写しになり、とても思い出深いリレーマラソンになったのです。 その後もマラソンの挑戦は続きます。仲間の松岡さんという60歳の方が射水海王丸マラソンの10qコースに出る!と言われ、じゃあ、私も出来るはず、と10qに挑戦。すると、なんと松岡さん、富山マラソンにも出る、と言い出した。そして、そこはやっぱり負けず嫌いの光さん。2013年には10q、2014年にはハーフマラソン、そして2015年にはとうとうフルマラソンに挑戦したのです。フルマラソンを走った年は、なんと5月にひどい捻挫もしました。講座もスカイプで開講しているくらいでした。でも、2ヶ月半走るのを我慢して、11月1日の本番までにハーフマラソンを、そして当日、なんとフルマラソンを完走したのです。ゴールする時に泣いちゃうかなと思っていましたが、いろいろなことを思い出して1q前にポロポロ泣いたので、ゴールする時は思ったよりすっきりした顔でゴールできたのでした。次の日は歩けないかなぁと思ったけれど、ちゃんと歩けたので、おお私まだまだやれるじゃん、と思ってしまった光さん。というわけで、今も走り続けています。 仕事でもよく使うデジカメの写真をきれいに撮りたいと思っていた時には、滝をスローシャッターできれいに撮ることにはまり、そこから滝にはまり、滝の近くのおいしいお店を見つけて、滝を見て写真を撮っておいしいものを食べて帰るという滝ツアーも月1で開催していました。 そんな光さんのチャレンジは進行形で続いています。出町小学校の校長先生から光さんがファンクラブ会長を務める盲目のバイオリニスト穴澤雄介さんをコンサートに呼びたいとおっしゃった時、ちょうど散居村マラソンが開催されることを知った光さん。穴澤さんにマラソンに挑戦してもらいたい、穴澤さんはきっとやるにちがいない、そう思って、マラソンの伴走を申し出たのです。そうして穴澤さんは散居村マラソンの10qマラソンを走ることを決め、光さんたちは4人体制で伴走することに。東京へ行ったときに、伴走の練習をし、その時にストッキングでしばったら一番しっくりくることを感じたり、まさに手探りでの伴走マラソンでした。そうして穴澤さんは伴走者と共に見事10q完走!穴澤さんの走りたい意欲はヒートアップして、次は20qのハーフマラソン、次の年はフルマラソンを6時間で完走されたのです!自分だけじゃなくて、周囲の人のモチベーションもアップさせるのがお得意なのです。 光さんは断食道場にも参加したり、皇居の勤労奉仕にも参加しています。皇居の勤労奉仕では団長になって、天皇陛下から直々にお言葉を賜りました。ありがたいことに、皇后陛下からもお言葉を賜ったそうです。そして万歳三唱の発声をしたのも光さん。そうやって、得難い体験を次から次へと成していくのでした。 楽しくなければ、PCTOOLじゃない!それが光さんのモットーにもなっています。外から見ている景色と中に入って見える景色はちがう。だから行きつくところまでいきたい。そうするといろんな気づきが生まれます。やったことがないことをやりたい、そしてみんなと楽しくやりたい、だから光さんはいつもキラキラしています。 これからは独自の活動にも力を入れていきたいと考えています。若い人が一歩を踏み出したい時に、背中をポンと押してあげたい。リアルでもオンラインでもノウハウはあるので、そんなサポートをしていけたらなと思っています。 もちろん社会貢献活動もずっとしていきたい。今まで自分がやりたいことにいろいろな人を巻き込んでやってきたから、これからは、誰かのきっかけを作るサポートに力を入れていきたいのです。 きっとこれからも、多方面でいろんな仕掛けをしていくにちがいない光さん。興味がある人は、ぜひ一度光さんの講座の門を叩いてみてください。とても楽しい世界がそこには広がっています。 |