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今日の人198.柳原 修さん [2020年09月19日(Sat)]
 今日の人は、人と未来をつなぐ仕事のプロモーター、傳楽denraku代表の柳原修さんです。
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 柳原さんは1957年1月1日に富山市丸の内で生まれました。お父さんは丸の内で建具屋を営み、お母さんは高岡伏木で美容院を営んでいました。それで、幼い頃はお母さんと一緒に伏木の六渡寺に住んでいたのです。当時、その地域は大気汚染がひどく、柳原さんも喘息になってしまいます。お母さんは息子の体を慮って六渡寺の美容院を引き払い、丸の内で美容院を開店させました。やがて喘息も治り、お父さんの建具屋もお母さんも美容院も繁盛していたので、何ひとつ不自由のない少年時代を過ごしました。
 小学校は今はなき総曲輪小学校へ。街の子なので、商店街も庭のようなものでした。街中や学校のグラウンドを走り回っていました。小さい頃からリーダーシップがあって、自然にガキ大将になっていました。というよりガキ大将の集まりのような学年で、どの子も元気で活発でした。今でも同窓会を開くとみんなが集まって賑やかなのですが、60歳の記念同窓会の時に開けたタイムカプセルから昔の文集が出てきました。そこには「ぼくは自動車レーサーになりたい、すばらしい生活をしたい」と書いてありました。子どもの頃からとにかく車が大好きで、本屋に行くと手に取るのは車の本ばかりでした。文集の結びの文は「絶対できるとぼくは自分自身を信じたいと思います」でした。そして実際にそれを実現させた柳原さんなのです。
芝園中学校では陸上部とバトミントン部₊補欠選手に入りました。部活は一生懸命やっていたわけではないのですが、バトミントン部の推薦で不二越工業高校へ進学しました。
 しかし15歳のときに、お母さんが他界。いろいろな物事を斜めに見るようになり、グレ始めました。それでなくても当時の不二越工業高校は男子校でツワモノ揃い。そして特に柳原さんの学年は元気な人が多く、上級生と戦っても1年生が勝つということが続きました。他校と格闘してももちろん柳原さんたちが勝ちました。そして暴力事件沙汰で新聞報道されてしまい、その年はありとあらゆる学校行事が中止になってしまいました。でも、学校行事はなくとも、退屈とは無縁の高校生活でした。お母さんの代わりにいろいろ世話を焼いてくれたのは叔母さんでしたが、叔母さんにしろお父さんにしろ、ケンカ沙汰で怒るようなことはありませんでした。男はケンカの一つや二つ当たり前だろうという肝の太い考え方だったのです。それにしてもケンカはしょっちゅうだったし、走り屋のリーダーをしたりもしていたので、警察には完全に目をつけられていました。取調室のお世話になったことも何回もあります。少年院送りの一歩手前だったと言っても過言ではありません。でも、窃盗の類は決してやりませんでした。バイクの免許代やガソリン代、自分の遊ぶお金を稼ぐのに、早朝から豆腐屋でアルバイトをしてお父さんの建具屋でもバイトをしていました。学校は寝に行くところでした。そんな柳原さんですが、生徒会の副会長に推されてなりました。けれど、やはり相変わらずケンカで直ぐに退任の道に。
人を殴ったら自分の拳も痛い、体の痛みは感じていましたが、高校生の頃は心の痛みは感じませんでした。その時はグレーゾーンにいたかった。その中でもトップになりたかった。ただ、そのグレーゾーンも何十人、何百人も集まると、リーダーがいないとまとまらない。そうとは意識しないままにリーダー術を身につけていった柳原さんなのです。そして、グレーゾーンの高校生はかろうじてブラックにならずに高校を卒業しました。
 高校卒業後、知り合いの自動車工場に就職します。何しろ車が大好きな柳原さん。車をいじるために自動車工場に入ったようなものでした。独学で学んでいたので、エンジンをばらした時にボルトが一つ余ったりすることもありましたが、それでも徐々に技術を身につけていきました。さぁ、そうなると走り屋の血がうずきだします。富山城前から流葉スキー場までどのくらいで行けるかを計るのにぶっ飛ばしたりもしました。パトカーに追いかけられても逃げられるようにナンバー灯を消すスイッチを自作したりもしました。そうは言っても、何度も捕まって罰金を取られるのでそんなことで罰金を払うのがもったいなくなってきました。そんな時に、ヤンキーのたむろになっていた喫茶店に来ていたレーサーになった先輩がいて、「お前そんなに走るのが好きならサーキットに連れて行ってやっちゃ」と鈴鹿サーキットに連れて行ってくれたのです。鈴鹿サーキットを見た途端、体に電気が走りました。「これだ!」と思いました。そしてレースカーを作るためにメカニックの腕も磨いて、ドライバー兼メカニックとして、鈴鹿サーキットや新潟の日本海間瀬サーキットに参加するようになりました。ある時、サーキットに友達が女性を連れてきました。彼女は無造作においてあった柳原さんの服をハンガーにかけて吊るしていました。サーキットが終わってレーシングスーツを脱いでおいておくと、今度はそのレーシングスーツがハンガーにかけてあるのです。そんな気遣いのできる女性は初めてでした。そして上着の襟が立っているのを直してくれた時に思ったのです。「結婚するならこいつだ!」と。そして、その彼女と24歳の時に結婚しました。しかしスポンサーもいない中でサーキットにしょっちゅう出ていては、とてもお金が続きません。もっとお金を貯めようと考え、ダートトライアルのドライバーを始めました。柳原さんはこのダートトライアルの成績がとてもよかった!タイヤメーカーもスポンサーにつき、全日本にまで進みました。どうやったら車が早く走れるかの構造もわかっているので全日本の仲間の車を富山の町工場で作ってあげたりもしました。25歳と29歳のときには女の子も生まれました。子どもが生まれてもラリーはずっと続けていました。そんな31歳のとき、ある競技会で走っていて20〜30mダイブしてしまったことがありました。そこまで飛んでしまったので柳原さんは鞭打ちで入院してしまいます。その時、奥さんや娘さんたちに言われました。「パパ、お願いだからもう現役をやめて」
この家族の言葉は無視できませんでした。そして、走る側から主催者側に、モータースポーツをオーガナイズする側に転身して、レーサーを育てる方に回ったのです。

 そんな頃、ブリヂストン富山販売(当時は北信産業)の社長だった稲田一朗さんから口説き落とされ、入社を決断。この稲田さんとの出会いが柳原さんの人生にとって本当に大きな出会いとなりました。稲田さんはとにかくなんでも自由にやらせてくれました。「やってみればいいじゃん。失敗したらやめればいいでしょ」と言ってくれたおかげで、柳原さんの行動力や企画力は輪をかけてグングン磨かれて行ったのです。日本人のメカニックが少なくなって来た時期で、フィリピンからメカニックを連れてくるのに、何度もフィリピンにも行きました。部品もろくに揃っていない中で作業をしているフィリピンのメカニックの器用さにびっくりした柳原さん。世界はやはり実際にこの目で見てみるものだ、と実感します。世はちょうどバブルの頃でF1も大変人気がありました。そこで、1991年から93年にかけてテクノホールで北陸版オートサロンの企画運営をし、中嶋悟をゲストに呼んでサロンショーを開くなど、大いに盛り上がるイベントを仕掛けたのです。
 新しい仕掛けはどんどん生まれます。F1にベネトンが参入したことで、ベネトンフォーミュラ1のアパレルをやろう、と、なんとアパレル業界にも進出。ベネトン本社にも行って打ち合わせをし、服屋さんにまでなってしまった柳原さんなのでした。しかし、幼い頃からお母さんや叔母さんたちが美容院をし、街中で育った柳原さんにはお洒落のセンスも備わっていました。人生の全ては何かにつながっているけれど、その縁をちゃんと生かせるかどうかは、その人次第なのかもしれません。柳原さんはその一つ一つの縁を大事にしてきた人なのです。
 稲田さんはラジャスタンというカレー屋も経営していました。今でこそ本場のカレー屋はあちこちにありますが、当時はインド人やスリランカ人が働いているお店は少なかったのです。ここで多くの外国の人と日本人の違いを感じました。多様な価値観があっていいと実感したのです。

 
 月刊タウン情報とやまに新車の試乗コラムを書いてくれと言われ、10年間連載しました。試乗した車の数は154台に上ります。パリダカールラリーにも参加する予定にしていましたが、テロが活発になって中止になって断念せざるを得ない憂き目にもあったりしましたが、とにかくなんにでも挑戦。Try&Error で失敗したりできなかったりしたことをくよくよしたりすることはしませんでした。むしろError は次につなげる大きなステップでしかないのです。

 小売のタイヤ販売もやってほしいと言われタイヤ館も作ります。インテックと協力してシステム作りから全てやりました。卸しでタイヤを売っている時と違い、小売になるとお客さんはその店で買うか買わないか、店に入った数秒が勝負になります。その数秒の間にお客さんの心をキャッチするにはどうしたらいいのか、いろいろな「どうしたら?」を真剣に考える時間はものすごく楽しかった。経営の勉強もとことんしましたし、人の使い方、経理の大切さ、そういうものを深く学べたのはこの小売の経験が教えてくれたと言っても過言ではありません。
 どうやったら人は動いてくれるのか、毎朝毎夕気づきがありました。課題を一つ一つ潰していくと、選んでもらえる会社、選んでもらえる売り子になれるのです。従業員たちには言っていました。「独立したかったらしてもいい、でもうまくいかなかったら戻ってきてもいい。お前の場所は残しておくから」そんな風に上司に言われたら、この人には絶対についていこう、と思っちゃいますよね。
 ただ、仕事が楽しすぎて休みなんてなくてもいいと思っていた柳原さんは部下にも同じことを求めて、それで離れてしまったり嘘をつかれたりしたこともありました。なんで嘘をつくんだと、その時は部下を責めましたが、自分が部下を追い込んでいたんだとハッとしたのです。この小売の経験が柳原さんに更なる人脈、人望をもたらしてくれました。
柳原さんはとにかく富山県中の面白い人、素敵な人とつながっています。そんな人たちにいつも言います。「俺の面倒を見たら面白いよ。面倒みない?」そうして意気投合して飲みに行ったりすることもしょっちゅう。もっとも、柳原さん自身はあまりお酒は強くはありません。でも、それが逆に良かったのかもしれませんね。お酒に強かったらきっと話し込んで朝まで飲んじゃうタイプだと思うので。
 こうして2005年にはブリヂストンタイヤ富山販売の取締役 販売本部長に、2009年には代表取締役専務に、そして翌2010年には代表取締役社長に就任しました。
 富山をもっともっと元気にしていこうと2013年には「アザーッス」という異業種交流会も発足させました。たくさんの会員が集まり出会いが出会いを呼び、素晴らしいキャッチボールが生まれ始めました。会員数はいっときは200人を超えるくらいになりましたが、今は130人くらいで落ち着いています。いつまでも柳原さんが引っ張っていくべきじゃないと考え、マンネリも打破したかったので、今は若い子に任せて、相談役に徹している柳原さんなのでした。

 会社の方も自分が60歳、会社創立70周年の時に会社から身を引こうと考えていました。社長に就任してからの8年間は後進を育てることに力を尽くし、会社創立70周年の2018年に実際にスパッと退任しました。残ると口を出してしまうから、と一切の手を引いたのです。男は引き際をカッコよく、それが柳原さんの男の美学です。
 社長を退任してすぐに数社からオファーがありました。その中で特に強く来てくださいと何度も懇願された小川博司さんの株式会社オリバーに取締役で入るつもりでいました。しかし、そんな時に、株式会社ガネーシャの本田大輝さんから、「一緒に楽しい事をやりませんか」と口説かれ、柳原さんはガネーシャで顧問をすることを引き受けたのです。今、オリバーでも顧問をしていて、両社ともぐんぐん業績を伸ばしています。
 傳楽という人と未来をつなぐ仕事のプロモーターもスタートさせています。人との縁を大事にしてきた柳原さんの周りにはとにかく熱くて素敵で変で面白い人たちがたくさん。そんな人たちをマッチングさせて富山にどんどん元気に楽しくいきたいと、考えています。口説き文句の一つは「俺にお前の力を貸してくれ」柳原さんにそう言われたらきっと誰だって何かしたいって思っちゃいますね。
 
 柳原さんは本を読んで、会いたいと思った著者にはどんどん連絡して実際に会ってナンパしてきます。知り合いに「新幹線の移動の時間だけ話をする時間をください」と頼んでどんどん会いたい人に会って人脈を広げている人がいますが、柳原さんの行動力を見るにつけ、やはりちゃんと自分から動く、そして動くだけじゃなくて、その後をどうするかが大切だと思わずにはいられないのでした。
 
 こんな風にたくさんの人に出会い続けている柳原さんですが、特に大きな出会いと感じているのは4人の方との出会いです。お一人はもちろん、ブリヂストン富山販売で様々な挑戦をさせてくれた稲田一朗さん。そして、宇宙人みたいにぶっ飛んだ太閤産業の八木さん、同じく宇宙人みたいな翔建工業の笹島さん、もうお一人はアルカスコーポレーションの岩崎弥一さん。岩崎さんとは57歳の時に出会いましたが、それからはすっかり意気投合し、お互いに読んだ本を紹介し合うなど常にやり取りしています。岩崎さんは私もお世話になっているのでなんだか嬉しい繋がりです。岩崎さんのインタビュー記事はこちら
https://blog.canpan.info/diversityt/archive/169

 仕事を辞めた後は、もっと元気が出てきて、どんどんいいアイディアが出てくると柳原さん。できる力を持っているのにできない人の背中を押して羽ばたかせてあげたいといつも動き続けています。男塾という若手男性経営者のための塾も始めました。あるセミナーで講話した時に、個人的に会ってくださいという若手経営者が数名いて、それならばと男塾を始めたのです。みんなが問題と思っていることは問題じゃない、それは課題なんだ。課題を一つ一つクリアしていくと、みんなあっという間に伸びていきます。ちゃんとやれるんだから待つな、自分から進んで前に出ろ、柳原さんの一押しで伸びていく若手経営者はこれからもっともっと増えていくでしょう。

 柳原さんは63歳とは思えないくらい、身体作りもしっかりされています。ゴルフのやり過ぎで半月板を取った後はスポーツサイクリングもやり始めました。すると自転車の楽しさに目覚め、自転車での街おこし企画を上市町で仕掛けました。競輪選手との自転車イベントも始め、富山競輪にくる選手たちとはみんな仲良しです。半月板を取るという一見マイナスに思えることもプラスにしかしない。後ろ向きになるな、常に元気で笑顔でいた方が楽しいよね、問題って言ったらダメだよ、問題って言ったら重くなる、問題じゃなくて課題なんだよ。柳原さんと話していると、私もいろいろできそうな気がしてくるから不思議です。いや、決して不思議ではないんでしょうね。実際にそうやって背中を押されて前に進んでいる人たちは本当にたくさんいるのです。
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颯爽と

 今、顧問をしているオリバーさんやガネーシャさん社員さん達ともディスカッションしている柳原さん。社員さん達の話には決して拒否をせずにちゃんと聞き、でも、こういう考えもあるよね、とちょっとヒントを出してあげる。とにかく気遣いの人なのです。だから社員はみんな笑顔になって頑張れるのでしょう。
 男塾の塾生たちにも無償で様々にアドバイスをしている柳原さん。塾生たちにはこう言っています。
「お前ら香典が少なかったら化けて出てやるw」 まだまだずっと先の話でしょうけど、なんだかとんでもない額の香典が集まるお葬式になりそうですね。

 柳原さんは言います。「本当のリーダーとは人の上に立つ勝者ではなく人の役に立つ勇者である」それはまさしくご自身が実践されてきた道に他なりません。
 これからの経営者の皆さんに特に言いたいのは、「定年を迎えてから、その人が一線で働いていた時の人脈・人望が浮かび上がってくる。今からでも遅くないので、一日でも早く『与えられる人』から『与える人』になって、その人達を引き上げステージに上がってもらい、羽ばたいてもらえるように導く。」ということです。そして「所詮、1人では何もできないのだから素直に助けてと言える人に」それが柳原さんからのエールです。

「俺、失敗しないから」と日焼けした顔でニッコリ笑う顔は人生を楽しむ達人の顔。人生を楽しむ達人、そして仕掛けの達人の柳原さんがこれから富山でどんな仕掛けをして、どんなイノベーションが生まれてくるのか、ますます楽しみになってきた今回のインタビューでした。



今日の人197.中川博司さん [2020年09月10日(Thu)]
 今日の人は児童発達支援・放課後等デイサービス「ミックスベリー」管理者の中川博司さんです。
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ミックスベリーは富山市平岡に昨年10月に開所した障害がある子ども向けの放課後等デイサービスです。4500uの広い敷地には築150年の古民家「いいとも広場」や広い畑もあり、利用者だけでなく、地域の人たちとも交流できる場になっています。
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いいとも広場
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いいとも畑

 中川さんは昭和46年3月に福岡町で生まれました。家の周りは田んぼだらけだったので、小川で魚をとったり野良猫を追いかけたり仮面ライダーごっこをしたり、とにかく外遊びばかりしていました。中川さんが子どもの頃はまだゲームと言えばウオッチマンくらいだったのです。家族はみんなヤクルトファンで、中川さんも杉浦亨選手の大ファンでした。ヤクルトが優勝した時は家族でヤクルトで乾杯したものです。
その頃、笑っていいともや俺たちひょうきん族などフジテレビの番組がテレビ界を席捲していました。テレビからスタッフの人たちの笑い声が聞こえてきて、とても新鮮な感じがしました。「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズも心に響いて、中川さんは大人になったらフジテレビのカメラマンになりたいという夢を持ちました。

 中学校ではブラスバンド部に入ります。最初はサッカー部に仮入部したのですが、中学入学当時は142cmだった中川さんはサッカー部で3年過ごしても活躍できる余地は少ないなと感じたのでした。小学生の時から縦笛が得意で音楽の先生にも一目置かれていたので、ブラスバンド部の方が自分を生かせると感じたのですね。選んだ楽器はユーフォニアムでした。ユーフォニアムはいろいろなメロディが吹けてソロ部分もあってとてもやりがいのある楽器だったのです。
中学校で身長が30pも背が伸びた中川さんは女の子にも結構人気があったようです。部活の仲間や学級委員の仲間と一緒に誕生日パーティをしたり、川遊びをしたり、とても楽しい中学生時代を過ごしました。

 高校は地元の福岡高校へ。開校間もない入学当時は吹奏楽部がなかったので部活には入らず、勉強中心の生活になりました。理系だった中川さんが好きだった教科は数学と物理です。といっても、ずっと勉強ばかりしていたわけではありません。友達と高岡に出て遊んだり、青春18きっぷを使って京都に遊びに行ったりもしていました。

 そして富山大学工学部電子情報工学科へ入学。大学では1年生の時から車に乗り、オーケストラ部に入ってクラリネットにものめり込みました。大学時代はとにかくクラリネットと車とそしてバイトに明け暮れていました。バイトはいろいろやりました。レストランや居酒屋、結婚式場、イベント会場等、中でもいちばん長かったのはテレビ局のアルバイトです。記者とカメラマンの補助をしていたのですが、普段入れないところにも入れて、とても刺激的でした。でも、同時に思いました。やはりテレビ局のカメラマンというのは難しい仕事で、おいそれと目指せるものではないと。

 大学の4年間はとても楽しく、クラリネットに没頭したことで一つのことを極める楽しさも知りました。当時工学部の学生には一人当たりに20社ほどの求人がありましたが、中川さんはどんな生き方をしていくべきか悩んでいました。テレビ局のカメラマンはあきらめていましたが、このまま企業に就職するのはどうなんだろう、もっと自分の視野を広められることはないか、そう思っていた時に見つけたのが青年海外協力隊員だったのです。これだ!と思った中川さんは青年海外協力隊に応募し見事に合格。こうして研修期間を経て、青年海外協力隊員としてインドネシアに派遣されることになったのです。インドネシアでの派遣先は肢体不自由者リハビリセンターでした。ここで初めて福祉の世界と出会った中川さん。インドネシアで出会った障害を持った貧しい生徒たちの笑顔と元気さが中川さんが福祉に携わる原風景です。

 インドネシアに行く前はインドネシアに行ったら精神疾患になる人が多いから気をつけてと言われたけれど、中川さんはとても充実した2年間を過ごすことが出来ました。協力隊に行く前に言われたのは、理想を高く持ち過ぎていくとしんどくなるから、自分のできることをやるというスタンスで行けということでした。実際、大学を出たばかりの中川さんは現地で教えることより教えられることの方が多いと感じた2年間でした。

 こうして協力隊を終えて帰ってきた中川さんはこの先も福祉の世界で生きていこうと心を決めていました。
そして就職先に選んだのは、立ち上がって2年目の障害者支援施設いみず苑でした。それまでの障害者支援施設はコロニー型で人里離れたところにあることが多かったのですが、いみず苑は県内で初めて平野部にできた障害者支援施設だったのです。若い職員がとても多くてみんなが施設をよくしようと意気込んでいました。その時掲げられていたのは「ノーロックで利用者主体」というとてもわかりやすいスタンスでした。そこに向かってみんなが一つになれたのです。やがて、さまざまな仕事を任されていく中で、地域支援も担当します。地域生活体験ホームも作りましたが、施設自体が壁になって、その壁を乗り越えるのが大変だと痛感しました。施設からではなく、地域から変えていかないといけない、その時そう痛感したのです。そんな時に出会ったのが惣万佳代子さんが創設された富山型デイサービスの「このゆびとーまれ」でした。
「お年寄りはお年寄りの施設」「障がい者は障がい者の施設」と仕切りを作るのではなく、おじいちゃんも、
おばあちゃんも、こどもたちも、赤ちゃんも、障がいがあってもなくても、いろんな人たちが一緒に楽しく過ごす・・・そんな福祉サービスが「富山型デイサービス」です。(このゆびとーまれのホームページより)
 地域を知ろうと地元の特養ホームで1年働いたあと、このゆびとーまれで13年半働いた中川さん。
できることもできないこともあっていい、お互いがお互いを補って現場を作り上げる心地よさが共生型福祉にはありました。一方で高齢者福祉の現場では、例えば転倒のリスクを減らすために、床に一滴の水も落とすな等、専門性を突き詰めることもあり、職員の心理的負担は多い。それは取りも直さず利用者のストレスにも直結するのです。障害福祉の現場にも同様の話は意外と多い。じゃあ、福祉って何だろう?中川さんは考えました。例えば、よそ見をして食事が進まない子に、職員が自立を促す声掛けをする。そんな姿をよそに、一緒に生活しているおじいちゃん、おばあちゃんは、優しい声をかけて食べさせてくれたりする。いろんな愛情を受けることで人の生活は豊かになる。それは床に水一滴すら落とすな、という現場では体感できない感覚です。利用者だけでなく、福祉に携わる人が福祉って楽しいという心の余裕がないところでどうやっていい福祉ができるのでしょう。強みも弱みもお互いに補える環境でチャレンジしていきたい、そしていつまでも惣万さんたち富山型の先駆者に頼っているのではなく、自分たちでチャレンジしていきたい、それが惣万さんたちに対しての恩返しにもなる。そんな中川さんの熱い思いが素敵な場所と素敵な人との出会いを引き寄せ、今の場所で放課後等デイサービスミックスベリーを開所する運びになったのです。

 昨年の10月に開所して来月で1年を迎えるミックスベリー。スタッフと忌憚なく話し合える関係もとても心地よく、みんなそれぞれ好きなことをやれていると感じています。今まで好きな生き方をしてきたから、自分の子どもたちを含めて次世代のために何かしていきたい。惣万さんたち大先輩が築いてきた大事な共生型福祉を次世代へちゃんとバトンをつないでいけるように。自分に与えられた使命のようなものがあって、残りの人生でやらなくてはいけないと思っています。でも、それは肩に力を入れてやるのではなく、自分もスタッフもそして利用者もみんなのQOLを大切にしながらやっていきたいと思っています。

 そんな中川さんが今、楽しいことは1400坪ある敷地の中にみんなが遊べる空間を作ったり、DIYでいろいろなものを手作りしたりすること。ワクワクな空間がどんどん増えています。
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中川さん手作りのバスケットゴールやBBQ台が置かれています

 いつか時間ができたら、かつて青年海外協力隊で2年を過ごしたインドネシアにいって、のんびりしてみたい。奥さまと一緒に家でビールを飲みながら、ゆっくりそんな話をする時間も大切にしています。

中川さんたちの活躍で、富山の共生型福祉はこれからもっともっとワクワクする場になっていくことを予感させる、そんなインタビューでした。
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明るくて開放的な雰囲気のミックスベリー
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