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今日の人196.米山勝規さん [2020年08月24日(Mon)]
 今日の人は人と住まいを結ぶ不動産屋株式会社リボン代表取締役の米山勝規さんです。
リボンの名前には御縁結びのribbonと生まれ変わりのrebornの意味が込められています。
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会社の前で

 米山さんは1984年7月1日に砺波市で生まれました。3人兄弟の末っ子で、家は4世代同居の大家族だったので、みんなから大事にされて育ちました。小さい時はおとなしくて甘えん坊で、ドラクエやファイナルファンタジー等のゲームをするのが大好きな子でした。ドラクエの中のキャラクターに影響されてか、おばあちゃんに将来の夢を聞かれた時は「遊び人」と答えていたものです。
 小学校5年生の時に、スノボに出会いめちゃめちゃハマりました。お年玉がなくなるまでひたすらスキー場に滑りに行っていました。もっとも、今から考えると文句も言わずに南砺市のたいらスキー場まで送迎してくれていたお母さんには本当に感謝です。
 中学ではソフトテニス部へ入ります。相変わらずゲームも好きで、部活とゲームで日々が過ぎていく感じでした。中2の時に、ロサンゼルスで2週間ホームステイをしたのですが、あまり感情を表に出すタイプではなかったので、「思っていることをちゃんと言葉にしないと伝わらないよ」と言われとてもショックでした。でも、そうやって文化の違いを肌で感じられたのは得難い体験でした。
お母さんの勧めで小説も読み始めました。課題図書じゃないものを読むのはそれが始めてでした。それからホラー系の小説を読むのが好きになりました。
 高校は地元の進学校砺波高校でやはりソフトテニス部でした。多感な時代、女の子にちょっと変わった振られ方をして、そこから女性恐怖症になってしまいます。純粋な高校1年生はその後、グレてうっかり勉強に打ち込んでしまい、現役で早稲田の理工学部に合格しました。

 大学では硬式テニスサークルに入りました。夏はテニス、冬はスノボとまるで絵に描いたような大学生活を送っていたのです。女性恐怖症を克服しようとしていましたが、その頃はすごくやきもち焼きだったので、まだそれを払拭できていなかったようでした。
電気系の学科だったので、地元の電力会社に就職したいと思いましたが、就職が決まらなかったので、大学院へと進学します。都庁へ勤めた先輩の話を聞いて、それまで考えたこともなかったけれど、公務員の道もいいなぁと考え始めました。電力会社に就職したいと思ったのもコンセントに電気が常に来ている状況ってめちゃめちゃすごいことで、そんな公共性のある仕事に関わりたいと思っていたからです。その意味でいうと公務員は公共性のある仕事No.1なので公務員もいいなと思ったのでした。そこで、マスター1年の時に、国家公務員の試験を受け、厚労省に採用が決まりました。1年目はあまり上司に恵まれなかったのですが、2年目は仕事の基本をきっちり教えてくれる上司に出会いました。この時に、怒ると叱るの違いを感じて、自分は決して怒る上司にはなるまいと決めました。
ただ、公務員の世界はやはり縦割りがひどく、なかなか他部署の人の話を聞く機会がありませんでした。バーで知り合った人と飲んでいて世界が広がるのを感じた米山さんは、中央省庁横断飲み会を企画します。2〜3ヶ月に1回開催し、1年半で11省庁70人にまで参加者が増えました。そう、米山さんは自分も飲み会が大好きなので、飲み会を企画するのがすごく得意なのです。この頃は、女性恐怖症も克服されて、極端なやきもち焼きも治っていました。厚労省の中では若手飲み会に誘われ、そこで出会ったのが1歳年下の奥さまになる人でした。東京で出会った彼女はなんと富山市出身の人でした。
3年目の異動ではまたそりの合わない上司になりました。でも、自己啓発の勉強会で出会った人に自分がご機嫌でいると上司との関係も良くなる。相手じゃなくて全ては自分と言われ、それを実践すると確かに上司との関係は良くなりました。ただ、公務員の仕事自体には興味が持てなくなっていました。その思いに拍車をかけたのは2011年3月11日に起きた東日本大震災でした。実はその翌日の3月12日から米山さんは奥さんと一緒に住むつもりにしていました。その前日に襲った地震。幸い住んでいるところはそこまで大きな被害はありませんでしたが、米山さんは思います。ずっとここで仕事をしていたらきっと後悔する。

 そして様々なことにチャレンジをしはじめ、経営者になるためにいろいろ試行錯誤してきました。けれど、いろいろなことが全然うまくいかず、体に無理がたたったのか金属アレルギーなって左半身全体に蕁麻疹が広がりました。経営者のお父さんからは毎月50万円しっかり稼げるのなら続けたらいい。でも、それさえ稼げないようならやめておけ、と言われました。しかしその頃の米山さんは遅くやってきた反抗期の絶頂期でなかなかお父さんの言うことを素直に聞けませんでした。無理に無理を重ねて体も心もボロボロでした。でも、お母さんからの「富山へ帰ってきてください」との手紙で心が溶けました。ああ、富山へ帰ってやり直そう。

 こうして富山に戻った米山さんは2014年の7月にエコフィールへ入社。それは人生の師匠であるお父さんが紹介してくれた不動産会社でした。そしてエコフィールの社長は今も仕事の師匠と言える人です。その社長についていきながら体で仕事を覚えていきました。

 社長のもとで修行を重ね、2016年12月に独立。不動産会社リボンを立ち上げました。今、事務所がある場所は、奇しくもお父さんの会社ワイケイホームが始まった場所なのです。そんな場所で自分も仕事を始めることができたのはとてもラッキーなことでした。
 お父さんのアドバイスもあって売り上げの目処が立たない状況からパート社員を入れていました。自分の給料はゼロの状態が続き、コンビニに入って就職情報誌でバイトの欄を見たりしていましたが、寝る時間を削ってバイトしたりしたら仕事のクオリティが絶対に下がってしまう。そんなことをしては絶対にダメだ、と自分に喝を入れました。
売り上げのない時に「チラシを出したらどうだ」と言われ、出費が痛いのも事実でしたが、チラシを出していたらそのうち売り上げがついてきました。
 また、倫理法人会で経営者の倫理に出会ったのがとても大きな出来事でした。一流の経営者仲間が多くできたのも大きいし、モーニングセミナーはダイレクトに人生に影響を与えてくれていると感じています。苦難福門であったり、子は親の鏡であったり、得るは捨つるにありであったり、学びのひとつひとつがとても響いてくるのです。
 そしてそれらを実践していくことで、次第にリボンの経営も安定してきました。今年は初めてのアパート経営にも取り組んでいます。何と畑付きのアパートです。
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完成間近の米山さん経営の畑つきメゾネットタイプのアパート

他にも空き家管理もとても重要な仕事です。今、空き家はどこでも問題になっていますが、使えるものはちゃんと使い、本当にボロボロな家だけ解体して土地を利用する。そんな風に土地も家も人も適材適所で生かしていきたい、そう思っています。今、コロナでますます田舎で住むことの大切さが言われていますが、都会からの移住も促進していきたいし、移住してきた人が働けるように雇用もサポートしていきたい。そんな風に夢はどんどん広がっています。

 公務員時代からずっと米山さんを支えてくれた奥さまとの間には今、4歳と1歳の可愛い娘さんがいます。その子たちと遊ぶ時間が何よりリラックスできる時間です。そして、米山さんには夫婦円満の秘訣があります。それは奥さまを褒め続けること♪米山さんのSNSを見るといつだって、奥さまに最高の褒め言葉を贈っていらっしゃいます。私たち世代の平均的日本人男子は、奥さんのことはまぁ褒めない!(うちの旦那を筆頭にw)ので、隔世の感があるのでした。
 
 テニスもまた再開しました。米山さんは常に新しいことにチャレンジするのが好きなので、今両利きを目指してトレーニングしています。富山マラソンでフルマラソンを走ったり、司法書士試験を受けたり、アパート経営を始めたり、何かしら毎年新しいことにチャレンジしています。
そして、経営者仲間と家族ぐるみでバーベキューをしたり、飲み会をしたり、やはりいろいろ企画するのが大好きな米山さんなのでした。
 まだ36歳になったばかりの若手経営者はこれからどんなことに挑んでいくのでしょう。きっとこれからの富山をもっともっとワクワクする場所にしていってくれるに違いありません。
今日の人195.池田 薫さん [2020年08月11日(Tue)]
今日の人は養蜂家であり、はちみつやhttps://hachimituya.jp/の池田薫さんです。
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 薫さんは1964年、東京オリンピックの年に大沢野町で生まれました。大沢野は自然に囲まれたところです。小さい頃は友だちと秘密基地を作るなどしてよく外で遊んでいました。けれど、活発というよりはおとなしい子でした。家は祖父母もいる7人家族で、テレビのチャンネルの主導権はおじいちゃんが握っていましたから、芸能界の話題には全くついていけませんでした。
 小学校高学年の時は、お琴やお茶も習っていました。何か伝統的なものに心惹かれる少女だったのです。お茶は最近また習い始め、当時はわからなかった所作の意味が腑に落ちるようになって、茶道の奥深さを感じています。

 中学校では剣道部に所属。この頃は友だちとお菓子作りをするのもハマっていました。よくケーキやクッキーを作って、学校で友だちと分けていました。「詩とメルヘン」というポエム雑誌も好きで、よく自分で詩を書いていました。それをどこかに投稿するということはなかったのですが、文章を書くのが好きだったのです。
 
 高校は家から遠いところに行きたくて、富山北部高校へ。大沢野町は富山市の南にあるので、一番南から一番北まで通っていたわけです。富山駅で乗り換えなければならないのですが、それは億劫なことではなくてむしろ好きでした。まだ駅前周辺は雑然としていた時で、駅周辺にはバラックのようなお店も残っていました。入ってはいけない場所という雰囲気だったのですが、なんとなくワクワクしたものです。家はお小遣い制ではなかったので、まとまったお小遣いはもらえませんでした。友だちとカフェに入ることなんて滅多になく、たまにハンバーグを買うのが楽しみでした。

 ある時、立山町の粟巣野にあるKAKI家具工房に友だちと遊びに行って、そこで染色家の方とたまたま出会いました。その方に京都に染色の学校があると聞き、とても心惹かれた池田さん。そうして、高校卒業後に京都にある川島テキスタイルスクールに入り、2年間染色の勉強をしたのです。古都京都で開催される蚤の市もとても素敵で、よく足を運んでいました。
 
 卒業後は富山に戻っていたのですが、アフリカを旅した友だちの話に刺激を受け、自分もアフリカに行ってみたい!と思うようになります。アフリカに行くための資金を貯めるために、大和のモロゾフでバイトを始めました。この時、包装の仕事が結構多かったのですが、その時身につけた包装の技術が、今の仕事にも生かされているので、人間万事塞翁が馬ということを感じる薫さんなのでした。そして、友だちを誘って3ヶ月間アフリカ大陸を旅しました。女友達との二人旅でしたが、トラブルに巻き込まれることなく、楽しいアフリカ旅行になりました。ただ、とても残念なのは、その時一緒に旅した友だちがずいぶん早くに逝ってしまったことです。今もいろいろな仲間のいる薫さんですが、アフリカ旅行に3ヶ月も一緒に行ってくれた友だちの存在はとても大きかったのです。
 
 日本に戻ってからは、モロゾフでバイトを再開。そうしているうちに、自然に結婚という流れになったのです。そして今はちみつやの店舗も構える、富山市茶屋町に嫁いで来た薫さんなのでした。
 結婚後は3人のお子さんの子育てに追われる日々でしたが、一番下のお子さんが幼稚園の時に、ヤクルトやんない?と誘われてヤクルトレディを1年くらい経験しました。その後、近所の大学内での事務の仕事に誘われて11年間勤めました。

 そんな薫さんに転機が訪れたのは2010年のことです。家に配られて来たフリーペーパーに立山町の養蜂家佐伯元さんのことが載っていました。何か心がワクワクして、佐伯さんに一度見学に行かせて欲しいと頼むと「6月9日に来て」と言われました。きっと見学希望者が何人もいて、まとめての見学になるんだろうなと思って行くと、見学者は薫さん一人だけ。佐伯さんは6月9日のロックの日にはちみつを採りたかったらしく、その写真を撮ってくれる人がいなかったので、それを薫さんに頼みたくて6月9日を指定して来られたのでした。
見学をした薫さんの指に、佐伯さんは雄蜂を一匹のせてくれました。それを見て、可愛いなと思った薫さん。佐伯さんは「養蜂をやりたかったら、やってみたらいいよ」と言ってくれました。佐伯さんのやっているみつばちに優しい養蜂がとても気に入った薫さんはその年から本格的に養蜂の勉強を始めたのです。
翌年の2011年に東日本大震災が起きて、お金をもらうことに価値観を置くのは違うという思いが決定的になりました。生産性のあるものを持っていたい、そういう生き方をしたい、それは自分にとってみつばちだ、そう思いました。
そうして、家の庭でみつばちを一群飼い始めました。最初は可愛いから飼ってる、はちみつが採れなくてもいいやと思っていましたが、案外たくさん採れました。そして道具代くらいは儲けようと思ってはちみつを売ったら売れたのです。薫さん自身知らなかったのですが、呉羽でみつばちを育てる養蜂家はかつては何人もいらしたのです。でも、それを受け継ぐ人がいなかった。薫さんはますます、この地で養蜂することの意義を感じるようになりました。そしてみつばちの巣箱を増やし、庭ではなくて、呉羽丘陵の畑の中で養蜂を続けています。
アカシア、ハゼノキ、カラスザンショウ、ウラミズザクラ、クズ、そして他にも多くの花々。みつばちはせっせとその花蜜と花粉を巣箱に持って来てくれます。そんな薫さんのはちみつは何も加えず、熱もかけない本物のはちみつです。ですから、その時々で味が違い、その時集めた花の香りがするはちみつです。みつばちの命はたった3ヶ月。その短い命を、楽しそうに、そして精一杯生きているみつばちが愛おしくてたまらない薫さんなのでした。
 3年前、自宅を改装して「はちみつや」をオープン。珪藻土の壁は自分で塗りました。庭にはたくさんの花々も咲いています。庭にある花々で花束を作ったり、ミツロウキャンドルやミツロウラップを作るワークショップも開催しています。
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たくさんの植物が迎えてくれる「はちみつや」さんの入り口
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季節季節の花の香りのする生はちみつが並びます。
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ミツロウラップやミツロウキャンドル
ワークショップで作ることもできます♪

薫さんは生活の場の中で仕事をするのがいいと考えています。仕事の場と生活の場が離れているのは、不自然だと思うのです。ですから、家の近くの呉羽丘陵にみつばちの巣箱を置き、自宅の敷地内にあるはちみつやではちみつを売ったり、ワークショップをしたり、花を育てたりできる今の暮らしは、本当に肩の凝らない、自然体で暮らせる暮らし方なのです。
みつばちの世話もみつばちが増えるのを見ることも、庭づくりも、友だちがはちみつを買いに来てくれる時間も、愛犬と過ごす時間も、全部が楽しい時間です。
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落ち着くお部屋

そして今、息子さんも養蜂家になって、一緒にみつばちを育てています。受け継ぐ人のいなかった呉羽の養蜂を薫さんが受け継ぎ、そのバトンを息子さんが繋いでくれた。なんて素敵なリレーでしょう。
薫さんの名刺には表面に「いえがあり かぞくがいて 庭がある」と書かれています。そして裏面はLand of milk and honeyという聖書の言葉から始まります。直訳するとミルクとはちみつの土地になりますが、豊かな大地という意味があります。
「大切な人と、作りだす喜びを分かち合う 生活の場を持つこと。そんな豊かさの中で、ミツバチと共にある暮らしを。
何も足さない 加熱もしない 粗しぼりそのままの 生はちみつの生産・販売」それが薫さんの名刺の裏面の言葉です。
これからも生活の場の中で仕事をして、いろいろな人と作りだす喜びを分かち合っていきたい。そしてずっとみつばちと仕事をしていきたい。薫さんはそう思っています。
皆さんも一度、はちみつやさんに足を運んでみてください。そして花の香りいっぱいの生はちみつの美味しさを味わってみてください。そして薫さんの話を聞いてみてください。
きっとはちみつの価値観、変わります。
今日の人194.古川陽一さん [2020年08月02日(Sun)]
今日の人は、Webサイト・システム開発を手掛けるマルチメディア工房陽https://creators-navi.jp/archives/1711代表の古川陽一さんです。
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 古川さんは1962年、魚津市で生まれ育ちました。小さい頃は恥ずかしがり屋で保育園で劇をする時も、やりたい役になかなか手が挙げられず、最後に残ったアヒルの役を女の子に混じってやっていた思い出があります。
 ご両親とも音楽の先生で仕事が忙しかったこともあり、小学校4年生までは知り合いのお宅に預けられていました。そこのおばさんがとても優しい人で、古川さんはその近所の女の子と一緒に遊んでいました。おままごともやらされていたそうです。
 高学年になってからは缶蹴りや野球など、積極的に外遊びもするようになりました。その頃はやっていたケーキ屋ケンちゃんの影響もあって、将来はケーキ屋さんになりたいと考えていた古川さん。家にお菓子作りのレシピ本もあって、レシピ本を見ながらよくケーキを作っていました。ある時、プリンを作って蒸した時に、冷ますのが待てなくて、外の雪の上に置いておいたら、野良犬に食べられてしまったことがありました。せっかく美味しそうなプリンだったのにショックでした。そういう記憶ってずっと残るものですよね。

 中学校では、軟式テニス部に入りました。自分ではおとなしい性格が変わったとは思っていなかったのですが、勉強も得意で文武両道だったからか、キャプテンをやらされました。文化委員会の委員長もやっていました。部活も学校も忙しかったのですが、海釣りに一人で行く時もありました。さほど釣れた訳ではありませんが、一人で釣り糸を垂らしている時間はなにかホッとできる時間でした。

 高校は地元の進学校、魚津高校へ。高校2年生の時、他校からお父さんが赴任してきました。古川さんの芸術の選択科目は音楽だったので、2年間、お父さんから音楽を習うことになってしまいます。頑張っても普通点しかつけられなかったので、なんだか腑に落ちなかったのですが、今となってはいい思い出です。高校でも軟式テニス部のキャプテンだった古川さん。部活と勉強で忙しく遊びに行った記憶はほとんどない高校時代でした。
 
 そうして金沢大学工学部電気工学科入学します。大学でも体育会の軟式テニス部に入ったのですが、体育会なだけあって上下関係も練習も大変厳しかったのです。そして、先輩に教えられた麻雀やパチンコにもハマってしまい、わずかな単位が取れずに2年生の途中で留年が決まってしまいました。そこで、古川さんは軟式テニス部を辞めました。留年と言っても取れていない単位はわずかだったので、その1年間はバイトに精を出しました。縄文式土器を発掘したり復元したりするバイトです。貯めたバイト代で自転車で四国一周もしました。金沢から名古屋へ出て、そこから大阪、そして神戸からフェリーで四国へ。23日間の旅の間、ほとんどはユースホステルに泊まりましたが、野宿をした日もありました。旅の中では思い出に残る出来事もいくつかありました。四日市では膝が痛くなってしまい、コンビニで休んでいると、女性に「膝が痛そうですね」と声をかけられ、手を当てられました。すると、本当に痛みが引いたのでとても不思議に思いました。愛媛の食堂では帰り際に食堂の女将さんに「お金はいらないから」と言われ、常連さんらしきお客さんに冷やかされたりしました。
愛媛県の一番西の佐田岬半島の突端まで行った時は雨も降っていたのですが、着いた時にさーっと晴れ間が出て、海を挟んだ大分県の佐賀関半島も見えてとても感動したのを覚えています。

 専門課程に入ってからは、勉強に専念します。自分が長男だということも考え、富山に戻って就職することにした古川さん。県内の大手企業から複数内定をもらいましたが、その中から就職先に選んだのはYKKでした。新入社員だけで100人以上もいた時代です。そして、職場の隣にいたのが奥様でした。就職して2年目に初めて話した二人。最初はグループ交際をしていましたが、やがて付き合うようになり、古川さんが26歳の時に結婚しました。

 この頃、古川さんはコンピューターの設計部門にいて、工場で使う制御パソコンを作っていました。とにかく厳しい部署で、朝の8時半から夜の7時半まで集中して仕事をして毎日ヘトヘトになるという生活が続いていました。
 古川さんは走るのが好きで、駅伝に出たり、ハーフマラソンに出たりもしていたのですが、練習が終わって何か膝が痛いと感じるようになったのは30歳を過ぎた頃でした。湿布をしても痛い日が続き、そのうち足首まで痛くなってきました。医者をいくつか転々としましたが、原因がわかりませんでした。関節リウマチに近い症状だけれど、リウマチ因子は見つからず、それでもどんどん腫れてきて歩くのも大変になってきました。

 そうして34歳の時に、1年仕事を休んで治療に専念することにしたのです。金沢の病院にも通いました。それでも症状は一向に改善せず、これ以上会社で仕事を続けるのは無理だと判断した1年後、会社を辞めたのです。

 この時には古川さんには二人のお子さんがいました。二人のためにも仕事はやらなければなりません。しかし1998年、36歳の年、腰まで痛くなってきて、とうとう寝たきりの状態になりました。ちょうどその頃、インターネットが世の中に普及し始めていました。富山県でもホームページを作りませんか、という仕事があって応募します。県の仕事を請け負っていたのがCAPで、CAPから仕事が来るようになりました。某ホームページの動画編集の仕事の依頼もあり、毎日2〜3時間、動画編集をするようになりました。全く仕事がない中での仕事は本当にありがたかった。それからは徐々にホームページ制作の依頼が来始め、仕事が広がっていきました。

 2002年日本と韓国が舞台のW杯が開催されます。その時、中田英寿の姿から勇気をもらった古川さん。自分もずっと寝たきりじゃダメだ!と強く思いました。そして看護師の友人に相談し、手術をする決意をします。それは腰と膝に人工関節を入れるというものでした。こうして2002年の夏に腰、冬に膝に人工関節を入れる手術をし、見事成功。運転までできるようになったのです。
それまで寝たきりだったことを思うと、何をしても楽しい、第2の人生が始まったと思えるのでした。徐々に仕事も増えていきました。

 次の転機になったのは、8年前にWordBench Toyamaの勉強会のコミュニティに参加したことです。最初は高岡の伏木で開催していましたが、その後富山でやるようになり、富山開催から古川さんが代表をすることになりました。Toyama WordPress Meetup https://www.meetup.com/ja-JP/Toyama-WordPress-Meetup/という名前に変わりましたが、活動は今も続けています。そしてこの中で人脈がとても広がり、それが仕事にもつながっています。
SOHOの集まりも富山で立ち上げていて、その時は会員が100人くらいいました。そこで知り合ったのが以前このブログでもご紹介した齋藤秀峰さんです。齋藤さんに誘われて2012年の富山ドリプラの支援会でプレゼンターの動画作りを手伝った古川さん。それがご縁で私もお会いすることになりました。
  
 古川さんは、50代後半になって、自分の知識をもっと後進に伝えていきたいと思うようになりました。自分のように体の都合が悪い人がよりしっかり仕事できるように伝えたいとも思っています。古川さんの仕事は言ってみればずっと前からリモートワークでした。それが今急速に広がって、古川さんたちスペシャリストの知識を必要としている人はたくさんいます。だからこそ、人と人をつなげる仕事も自分の役割だと思っているし、そうやって社会貢献できることがとても楽しいのです。いろんな人に助けてもらって今の自分があるから、これからはお返ししていく時だと思っています。寝たきりになっていた4年間も心のどこかではなんとかなるだろうと思っていて、実際にその時に回ってきた仕事もあった。それは古川さんが腐らずに、できることに最善を尽くしてきたからに違いありません。

 そんな古川さんは好きなこともたくさんあります。カメラもライフワークの一つで14、5年前に一眼レフに出会ってからはいろいろなメーカーを使い、今はキャノンのカメラを愛用しています。その腕は古川さんの作るホームページにも生かされています。こちらは3年前に撮った蜃気楼の写真。なんとこの写真、フジテレビのあまたつのお天気コーナーに使わせて欲しいと連絡があったのだとか!
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映画やテレビドラマを見るのも好きです。以前は週1で映画館に行っていたくらいでした。そしてもちろんスポーツ観戦も大好きです。野球、サッカー、バレーボール観戦はテレビだけでなく、スタジアムに足を運ぶことも多かったのです。今年はコロナで小休止ですが、また生で観戦できる日を楽しみにしている古川さんなのでした。そしてご自身で体を動かされることも好きです。25mプールで息継ぎせずに泳げるので、パラリンピックに出られるかなと思ったのですが、調べてみたら、パラリンピックに出る基準タイムには遠く及びませんでした。そんなわけでオリパラは応援することに専念しようと思っています。
 
 スポーツマンで健康でマラソンまで走っていた方が、全然歩けなくなって寝たきりにまでなったら、人生を絶望して悩んでどん底にまでいってしまいそうですが、古川さんはそうならなかった。いつもケセラセラ、なるようになると人生を歩んできました。そこに古川さんの強さを見た気がした今回のインタビューでした。