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今日の人192.笹川征一さん [2020年02月02日(Sun)]
 今日の人は、笹川建築、笹川建築設計事務所、オーダー家具sasagaku、空き家アドバイザー、古民家再生等、住みやすい住環境のためにさまざまな取り組んでいらっしゃるsasakawa family代表取締役の笹川征一さんです。笹川さんは他にも一般社団法人富山県中央古民家再生協会代表理事、一般社団法人住教育推進機構 富山県支部長、富山県新民家推進協会 会長、富山県木の住まい支援協会 会長とさまざまにご活躍です。
IMG_5810.jpg

 笹川さんは昭和47年に3人兄弟の長男として射水市大江で生まれ育ちました。小さい頃から何か作るのが大好きで、家から材木を取ってきて(お父さんも大工さんでした)、木の上に家を作って遊んだりしていました。小学校高学年になる頃には、自転車を改造して、ハーレーダビッドソンに見せかけた自転車を作ったりもしました。グリップをつけてエンジン音もなるようにするなかなか凝ったものでした。モトクロスも好きで、自分でジャンプ台を作ったり、プラモデルを作って、それに爆竹を入れて壊して、どこが壊れたのか調べるなんてこともやっていました。とにかくそういう研究や発明は大好きでした。
 ところが、机の上の勉強は大嫌い。読書はおろか漫画もほぼ読みませんでした。
体を動かすのは大好きだったので、少年相撲やサッカーでも活躍しました。サッカーは小6の時に全国大会に行ったくらいです。そんな笹川さん、小5の時から彼女がいました。もっとも、手紙を交換するくらいだったので、それを彼女と言っていいのかどうかはなんとも言えないのですが、その手紙の交換は中学校まで続いたのでした。

 小杉中学校に入った笹川さんは柔道部に入ります。小杉中学の柔道部と言えば、強豪で全国でも有名です。なぜ、わざわざそんなきつい部に入ったかというと、最初卓球部に仮入部した時に、ひたすら走らされるのがイヤで、なんとなく柔道部に行ったら、入部届に名前を書かされてしまったからでした。柔道部の練習はとにかくスパルタで、とても人間と思われていないような厳しさでした。でも、その後の大工の厳しい修行時代を乗り越えられたのは、この3年間で、忍耐と根性を叩きこまれたからだと思っています。
 そんな柔道部で3年間を過ごしたのだから、きっと推薦で高校に、と思うとさにあらず。三者面談の時に、先生から「この子に県立を受けさせたら他の子に迷惑がかかる」と言われ、私立高校だけ受けることになりました。

 高校では、リーゼントをして、赤いカーディガンに白い靴が定番の格好、相当なやんちゃぶりだったようです。この頃、親にはホントに迷惑かけたなぁと感じます。体育指導部に呼び出されたことも数知れずでしたが、なんとか退学にならずには済みました。やんちゃの数々をしていた笹川さんでしたが、夏休みにはお父さんに現場に連れていかれて、大工の仕事の手伝いはちゃんとやっていたのでした。
 
 進路を決める時になり、先生に俺でも入れるところはないかと聞いて、北陸工業専門学校に入って建築を学びました。学んだというのは語弊があるかもしれません。学校に行って、名前だけ書いて、後はパチンコ屋に行くような毎日でした。車を改造してぺしゃんこにして、2年間遊びまくりました。ナンパの成功率もとっても高かったそうです(笑)
その頃の友だちとは今もいい仲間です。

 ただ、専門学校卒業後の修業先はお父さんにもう決められていました。お父さんの跡を継いで大工になるという気持ちは決まっていましたから、そこはすんなりと受け入れました。
修業先の親方は昔気質の無口な人で、仕事は見て覚えろというタイプでした。だから具体的なことは何も教えてくれませんでしたが、笹川さんは目で見て体で覚えていきました。

 ある時、お客さんにほめられたことで、大工っていい仕事だなと心から感じ、大工の道に入っていく覚悟が出来ました。刃物を研ぐにしても、ただ研ぐんじゃなくて、気持ちで研ぐ。
真冬も真水でしか研ぐことはできないので、だんだん手の感覚がなくなってきます。でも、柔道部の時に雪のグラウンドを裸足で走った根性も役に立ちました。そうやって鑿と向き合っていると、ある時、ふっと鑿と一体化できる時が来るのです。その感覚をつかめた修行時代でした。

 こうして5年2ヶ月を親方の元で過ごし、その後は、お父さんの元で大工を始めました。
1999年には結婚、3人の子宝にも恵まれました。小さい頃からの発明好きも功を奏して、大工道具の特許もいくつか取得し、大工が天職だと感じる笹川さんなのでした。
 
 でも、大工は大手の工務店の下請けになると、お客さんと直接対話することは少なくなってしまいます。自分から動かないと9割以上は工務店の下請けになってしまう。下請けはダメだ、元請けでしっかりお客さんと話さなきゃだめだ。そうしないと、昔からある古民家や伝統工法がどんどん消えていってしまう。大工としての誇りを守っていかなくてはいけない。職人としての道を作ってあげる誰かがいなければならない。その誰かに自分がなろう。そう思った笹川さんは、8年前に笹川建築を株式会社にしました。そのことにお父さんは何も言わずに自由にさせてくれました。

 大工さんになりたいという子はたくさんいるけれど、実際に大工になる子はとても少ない。それは、大工になる道が少ないから。だったら、ちゃんとその道を作ってあげないと、笹川さんにはそんな熱い想いがあります。今は何でもチャンレンジすることがとても楽しい、と笹川さん。
笹川建築だけがよければいいんじゃなくて、日本全体の建築業界がよくないとこの業界は生き残っていけない。そんな風に大きな視点で建築業界のことを考えている笹川さんなのでした。
かつてのやんちゃ坊主はすっかりステキな社長さんになって、今日も若い社員たちと熱く語り合っています。これから、笹川さんとその仲間たちが、建築業界に起こしていくであろうイノベーションを楽しみにしています。