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今日の人188.佐藤慎司さん [2019年07月24日(Wed)]
 今日の人はアメリカの超名門大学プリンストン大学日本語プログラムディレクター・主任講師の佐藤慎司さんです。佐藤さんは毎年夏にプリンストン大学の学生たちを連れてIJSP(石川ジャパニーズスタディーズプログラム)で金沢に来られていて、その時にお話を伺いました。
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 佐藤さんは1969年東海市で生まれました。妹さんが2人いて、小さい時からおしゃべりしんちゃんと呼ばれるくらい愛嬌のある子でした。かといって、いつも大勢に囲まれているのが好きなわけではなく、一人でいても平気な子でした。いろんなグループに行けるけれど、どこにも属さない。群れるという行為が好きではなかったのかもしれません。
 本は一度ハマると全部読んでしまいたくなるタイプだったので、忙しい時にそれをやってしまうと、大変なのでした。推理小説も大好きで江戸川乱歩やシャーロックホームズ等のシリーズ物は大体読破していました。
 自分から言い出してピアノや絵も習っていて、サッカークラブに剣道クラブなどにも入っていましたから、なかなかに忙しい子ども時代を過ごします。学校が大好きだったかというとそうでもなく、日曜夜にサザエさんを見ると、明日から学校かぁと憂鬱な気分になっていたものです。
でも、佐藤さんのご両親は子どもに何か指図することは決してしませんでした。一人の人格としていつもちゃんと意見を聞いてくれるのです。お母さんは小学校の6年生の時に子ども会の会長をされていたのですが、「子ども会の遠足をどうしたい?」と聞いてくれました。それまでは毎年同じお決まりのコースだったのですが、お母さんは佐藤さんの意見を組んでそれまで行ったことのない場所を提案します。行ったことのない場所で何かあったらどうするの?など、保守的なお母さん方の声もありましたが、その年は子どもの意見を尊重した子ども会の遠足になったのです。結果、子ども達からも大人からも大好評。佐藤さんのいろんな慣習に囚われずに新たなことにチャレンジしていく姿勢はきっとご両親の影響も大きいのでしょう。
お母さんは子ども達の健康にもとても気づかいのある方でした。夏休みも家に置いてあるおやつは冷やしたトマトと麦茶。ポテチ等のスナック菓子は家には一切なかったので、たまに友だちの家で食べるくらいだったのです。
お父さんはドライブ好きでしょっちゅう家族をあちこち旅行に連れていってくれました。お父さんはまだ1ドル360円の固定相場制だった頃に仕事でアメリカに行ったことがあり、広い野原で行われるバーベキューの集まりに参加し度肝を抜かれたり、英語が通じない中でもモテルのおばちゃんに親切にしてもらった経験から、子ども達にもいろいろなことを経験してほしいと、いろいろな場所に連れていってくれたのです。佐藤さんが旅行好きになったのは、そんなお父さんの影響も大いにあります。こうして、ご両親の愛情をたっぷり受けて育った子ども時代でした。

 中学高校時代はオーケストラでフレンチホルンを吹いていました。学生時代はピアノ、フレンチホルンをしていました。そして今は尺八もやっているので、常に音楽に囲まれた生活を送っている佐藤さんです。
 しかし、高校2年生の時に佐藤さんを大きな悲しみが襲います。大きな愛で包んでくれたお母さんが乳がんで亡くなったのです。お母さんが亡くなってからしばらくは、台所からふっとお母さんが出てくるような気がして仕方ありませんでした。生と死の境目ってはっきりしない、そして人ってこんな簡単に死んじゃうものなんだ、だったら、やりたいことをやらないと、高校2年の佐藤さんが胸に刻んだことでした。でも、お母さんが亡くなる前の3か月間、佐藤さんは毎日学校帰りに病院に寄ってお母さんに顔を見せていました。だから高校生の自分にできるせいいっぱいの親孝行はできたのではないかと思っています。
今も、お父さんに できるだけ顔を見せようと、アメリカから帰国した時は必ず実家に寄る佐藤さん。もっとも、お父さんは定年後も全く暇そうにしていることはなく、自分史を書いたり、マラソンやウォーキング、コンピューターを使ったり、料理もご自分でされたりと、とてもお元気です。

 お母さんが亡くなってから、3日に1回料理当番が回ってくるようになりました。最初こそ、ハンバーグにつなぎを入れなかったり、すき焼きなのにみそを入れたりしましたが、そのうちに残り物を使っての料理もお手の物になり、料理は全く苦にならなくなりました。そうして家族はみんなおしゃべりなので、いつも笑いの絶えない佐藤家だったのは、幸せなことでした。

 大学に入る時に、佐藤さんがお父さんから言われたことは2つありました。ひとつは自分の家から通うな、もうひとつは卒業する前に海外を経験しろ、ということでした。
 そこで佐藤さんが選んだのは東北大学の経済学部でした。ゼミは日本人が5人、留学生が5人でダイバーシティがありました。留学生といろいろ話をする中で、佐藤さんは異文化コミュニケーションの楽しさを感じました。日本人も全国から集まってきているので、各地の言葉の違いも楽しかったのです。もちろん東北名物の芋煮もやりましたし、アルバイトもいろいろやりました。家庭教師、カフェや立ち食い蕎麦屋の店員、交通量調査、試験監督、町工場で選挙ポスター掲示板の設営、パン工場等、とにかくいろんなジャンルのバイトをやりました。
 お父さんとのもう一つの約束は大学4年の時に果たします。夏休みにニューヨークのロングアイランドにホームスティをしました。ホストファミリーは決してお金持ちの家ではなく、変に親切でもなかった。でもそれがすごくよかった。ホストファミリーのお父さんはベトナム退役軍人で日雇いの仕事をしていて、お母さんとは再婚でした。信号が赤で止まったら車もガス欠。それでもなんとかなるさと陽気に笑っている家族でした。天気もよく、空も広い、言葉が通じなくてもなんとかなる、それを肌で感じたとてもいい時間になりました。
へんてこな旅行にもよく行きました。青春18きっぷで下関まで行き、下関からフェリーで釜山へ、フェリーの中で仲良くなった早稲田の韓国人留学生から簡単なフレーズを習って韓国に初上陸。釜山からソウルまではバスで、ソウルから中国遼東半島までフェリーで行きました。そのフェリーに乗っていた外国人は3人だけで、着いた場所は青島の近くの威海です。中国語は話せないので筆談で勝負。すると中国人用の安い切符を買ってやるから車内で話すなと言われ、地元の人しか乗らない列車に乗って上海に行くことになりました。車内は床で子どもにおしっこをさせているなど、まさにカオスな空間に日本人の佐藤さんが紛れ込んでいたのでした。
上海では中国人の友だちに会いました。当時上海で外食は中国人平均給与の半分程の値段だったのですが、ご馳走してくれ、中国の人のもてなしの心に触れたのでした。上海から香港までは、打って変わって一番いい寝台で行きました。昔も今も、自分の心がワクワクするところを佐藤さんは常に追いかけていらっしゃるのかもしれませんね。

 こうして大学を卒業した佐藤さんは、クレジットカード会社に就職します。社員の90%が20代でノリは体育会系、すごくおもしろい人が集まっている会社でした。でも、会社にはゼミに日常的にいたような外国人がいませんでした。佐藤さんにはずっと外国の人と関わっていたい思いもあり、新聞で見つけた日本語ボランティアに参加することにしました。会社の寮は鶴見にありましたが、世田谷まで日本語ボランティアに通いました。その教室にはいろいろな国籍の人が来ていて、どうやったら心を開いてくれるか、どうやったらおもしろくなるか、いつも考えていました。教科書通りに教えてもちっとも盛り上がらない。けれど、「これはあなたの国の言葉で何て言うの?」そのひと言で、学習者との距離がぐっと縮まりました。こうして言語学習を通じていろんな人とコミュニケーションを取る時間は佐藤さんにとってとても大切な時間となりました。

 長期休暇はやはり旅行に出かけていました。ヨーロッパに行った帰りに飛行機の中でフィリピンの人と友だちになり、翌年その人の住所だけを持ってフィリピンに行ったこともありました。フィリピンに着いてから、ここにどうやって行けばいい?と現地の人に聞くと、バスターミナルに連れていってくれました。バスの中で寝てしまい、降りるべきバス停がわからなくなってしまった佐藤さん、はてどうしようかと途方に暮れていると、乗り合わせた一人の学生がその友だちの家の前まで佐藤さんを送っていってくれたのです。お礼に佐藤さんはその子にハンバーガーをおごってあげました。訪ねて行った友人はホアンくんといい、その当時の佐藤さんにはかなり貧しく見える地域に住んでいました。ホワンくんのうちには家族親戚の小さいお子さんがたくさんいて、なんでこんなに目がきれいなんだろうというくらい、みんな目がきらきらしていました。日本ではほとんど見ることのなかったようなこの目の輝きは一生忘れられません。せっかく来たから観光しようと、大砲に十字架がある所に登って写真を撮ったりもしました。その時は、フィリピンの人たちはみんなニコニコして何も言わなかったけれど、日本に帰ってきてからその地について調べた佐藤さんは愕然とします。日本軍が攻撃した戦争の地で、自分は何を陽気に砲台に登って写真を撮っていたんだ。あの中には身内を日本兵に殺された人もいたかもしれない。それなのに、何も言わずに日本人の自分に優しくしてくれた人々。胸がチクチク痛みました。その時の痛みを佐藤さんは今も忘れていません。

 会社に勤めて4年、佐藤さんは仕事を辞めて留学する決意をします。会社の人は、「イヤで辞めるわけじゃないし、がんばってこい」と胴上げしてくれました。お父さんにも電話をかけました。「僕、海外の大学院に留学することにしたよ。」すると、お父さんは言いました。
「お前が一生会社に勤めるとは思わなかったよ。慎司は学者になると思っていたから」
お父さん、お見通しだったんですね。

 そして佐藤さんはマサチューセッツ州立大学で修士号を取ります。この時、佐藤さんのメンターともいえる先生との出会いがありました。その先生は学問に対する確固とした哲学を持っている先生で、自分に厳しく、人には優しい観音様のような先生です。その先生が佐藤さんに「博士号も取りなさい。そして教育学部に行くならできるだけ名の通った大学院で学びなさい」とおっしゃったのでした。こうして、佐藤さんは、名門コロンビア大学教育大学院(ティーチャーズカレッジ)の博士課程で再び学び始めました。しかし、常に孤独で苦しかった。パートタイムで日本語を教えてはいましたが、お金がない、時間もない、トンネルに入って出口が見えない、そんな日々を過ごしていたのです。それでも、ふんばりました。
 佐藤さんは当時文化習得に興味がありました。そのフィールドとして日本の保育園や幼稚園を10か所周りましたが、行く所によっていろいろなことが全部ちがっていました。教育観、宗教(仏教、キリスト教系など)、その地独特の風俗、そういうものによって園は全くちがうものになっていたのです。しかし、ひとつだけ共通していることがありました。それは、保育園にしても、幼稚園にしてもそして外国語教育の現場にしても、目の前の子供や学習者を大切に思う心ある多くの女性によって現場が成り立っているということです。それを搾取する心ない人がいて、それでも子どもたちや外国語教育を受けている学生たちのために、文句も言わずにがんばっている。ここをちゃんと研究者として明らかにして教育者を束ねていかないと、そう佐藤さんは思いました。
教育人類学の博士号を取得した佐藤さんは、ハーバード大学、ミドルベリーサマースクール、コロンビア大学講師を経て、2011年よりプリンストン大学日本語プログラムディレクター、主任講師となり、今、世界中を駆け回っています。

佐藤さんには大切にしている信念があります。それは、子どもも外国人も一人の人として意思を尊重すること。佐藤さん自身が幼少のころから、周りのみんなに意思を大切にされアイデンティティを育んでくることが出来た。だから相手がどんなに幼い子どもでも、人として尊重しているか、それを大切にしたいのです。尊重するからこそ対話が成立する、一方通行だとそれは対話とは言えないのだから。

対話によるコミュニケーションの大切さ、それをもっともっとちゃんと伝えていける教育者でありたい、仲のよい人とだけやっていくのは気持ちはいいけれど、相容れない人ともちゃんと話すこと、対話していくこと、それによって1+1が100になることだってある。だから、恐れずにどんどん対話をしていける世の中にしていきたい。
教育と人類学は佐藤さんの研究のテーマであり続けるのでした。

 佐藤さんがプリンストン大学の学生を連れてIJSP(石川ジャパニーズスタディーズプログラム)に来るようになって、今年で7年目になりました。日本語教育の大家でプリンストン大学名誉教授の牧野成一先生から引き継いだ事業です。学生たちにとって、古都金沢でホームステイしながら学べるこのプログラムは、本当にすばらしい時間となっていて、佐藤さんにとっても金沢で過ごす時間はとても大切な時間です。そして、佐藤さん自身も後継者を育てていくことの大切さを思うようになりました。そんなことも考えこの夏には石川県国際交流協会との共催で「みんなで考えよう石川の未来」というイベントも主催しました。佐藤さんに会うことになったのも私がこのイベントに参加したためです。

 佐藤さんには、今、日曜のサザエさんの憂鬱はありません。いつも楽しい。時々、ペースダウンした方がいいかなと思うこともありますが、自分じゃないとできないことが増えている、そんな使命感も感じています。50代はまだまだ働き盛り。後継者を育てながら、ご自身も最前線を突っ走ってくださいね。

 そんな佐藤さんが楽しいことは人と人とのつながりを感じるとき。そして人と人を会わせて起こる化学反応にわくわくするのです。そう、佐藤さんはとにかく人が好き。プリンストン大学といえば世界の大学学術ランキング2018で6位(東京大学は22位)、プリンストン大学の合格率は、アイビー・リーグの8校のうち、3番目です。トップ3(ハーバード、イェール、プリンストン)の大学を総称して、ビッグスリー、またはイニシャルをとってHYPとも呼ばれています。そんな超有名大学の先生にもかかわらず、佐藤さんはえらそうな所はひとつもありません。本当に気さくで、日本語教育の世界に新しい風を吹き込んでくださる先生として期待大なのです。
 
 いろんな趣味があって、尺八、民藝や骨董集めも好きですし、ジムに行くのも好き、手でものを作るのも好き。料理も好きでコーヒーも豆から自分でひきます。もちろん、旅も大好きです。とにかく好奇心が半端なく、いくつになっても少年のような佐藤さん。
 これからも、おしゃべりしんちゃんの本領を発揮して、いろいろな場所で人と人をつないでいってくださいね。この世界を平和に導くのは、対話しかないと私も思っています。いろいろな見方を自分の味方にするのは、対話で生まれる愛だから。そしてその愛ある対話が日本語でも出来るように、私たち日本語教師は、今日も留学生や外国人労働者や外国にルーツを持つ子ども達と向き合っているのです。

演劇佐藤さんには近著「コミュニケーションとは何か―ポスト・コミュニカティブ・アプローチ 」を始め数々のご著書があります。
ぜひご覧になってください。下指差し
佐藤慎司さんの執筆本
今日の人187.小田島 道朗さん [2019年07月14日(Sun)]
今日の人は(公社)北海道国際交流・協力総合センター 交流・協力部課長で多文化共生マネージャーでもある小田島 道朗さんです。北海道の多文化共生推進の中心とも言える小田島さんに、札幌でお話を伺いました。
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小田島さんは1970年に北海道旭川で生まれました。小さい時から外で遊ぶのが大好きで、家で遊んでいた記憶はあまりありません。両親とも先生だったこともあり、躾にはなかなか厳しく、ゲームは買ってもらえませんでした。それで、ゲームをしたい時は友だちの家に行ってやっていたものでした。
小さい頃から生き物が好きで、当時やっていた「野生の王国」等の動物番組をよく見ていました。図鑑を見るのも好きでした。でも、小学生の時に、当時飼っていたポメラニアンが死んでしまい、それが本当にショックだったので、それ以来ペットは飼っていません。
スポーツ少年でもあった小田島さんは、小学生の時は野球とテニス、冬になるとスキーをやっていました。北海道には長靴に履くミニスキーもあって、子どもの時はよくそのミニスキーでも遊んだものでした。(それ、富山にもありました。懐かしい!)
そんな小田島さんが小学生の頃になりたかったのは、ラーメン屋さんです。それくらい地元の旭川ラーメンが大好きでした。だから、大学で札幌に出た時は札幌ラーメンの味に全然馴染めなかったのです。さすがに今は、札幌ラーメンの味にも慣れましたが、やっぱり一番好きなのはずっと旭川ラーメンです。
また、高学年の時は、仲良しの女の子と交換日記をしたりもしていました。そう、当時は交換日記がとても流行っていたのです。多分、同年代の人はみんな交換日記の経験があるんじゃないかなぁ。はい、もちろん私もやっていました。

中学生になると、バスケ部に入ります。小田島さんの通っていた北海道教育大学附属中学校は当時バスケ部がなかなか強かったのです。テニスもやりたかったのですが、中学には軟式テニス部しかなくて(小学生の時は硬式テニス)、バスケ部を選んだのでした。運動好きな小田島さんのことですから、バスケも真剣に取り組みました。1,2年の時はポイントガード、3年の時はセンターがポジションでした。中学の時は、将来体育の先生のなりたいと思っていました。

高校に入ると、硬式テニス部に入ります。といっても、そこまで真剣にはやっていませんでした。高校には夏の間は自転車で、冬になるとバスで通っていました。いろいろと友だちとつるんで遊んでいました。今は布袋寅泰に似ている小田島さんですが、この頃は野球の清原に似ていると時々言われていました。

大学進学で、札幌に出てきた小田島さん。大学では英語英米文学科に進みます。テニスを教えるアルバイトで人に教える楽しさを知り、将来は英語教師になろうかと思っていました。けれど、2年の時に、このままでいいのかと痛切に思うようになります。このままでいても、自分は英語も身につかないし、中途半端なまま卒業を迎えてしまいそうだと思ったのです。
 そこで小田島さんはハワイの大学に留学することにしました。学びたい教授がいたこともあって、アメリカ・ハワイ州へ留学することに決めたのです。
でも、アメリカの大学ではでは成績が悪いと除籍になります。次の授業まで原書で100ぺージ読んでいかなくてはいけないこともざらにありました。それで、最初の頃はとにかく必死で勉強しました。ハワイにいても日焼けをする暇はなかったのです。
4年生になって、ようやく自由な時間が増え、アルバイトをする余裕もできました。タンタラスの丘という観光客に大人気のワイキキの夜景の広がる場所で、リムジンに乗って来る観光客の写真を夜景をバックに撮るというバイトをしていました。そうして、ゴルフをするのも大好きになりました。なにしろ、ハワイは現地に住んでいる人は、日本でのカラオケ一回分くらいの料金でラウンドできるのです。今もゴルフをするのが大好きな小田島さんは、毎年12月に奥様と一緒にハワイに行ってゴルフをするのが何よりの楽しみです。
 こうしてとても充実したハワイでの大学生活を終えて、日本に戻ってきたのでした。

 帰国して、最初は英語教師になろうと英会話学校へ面接に行きます。けれど、学校は会話はネイティブの先生が欲しい、文法のクラスだったら教えてほしいと言いました。文法を教えるクラスなんてつまらない。それなら、自分のために英語を使おう。そう思った小田島さんは北海道庁の国際課で通訳翻訳のアルバイトを始めます。そこで、知ったのが今、小田島さんが勤める北海道国際交流・協力総合センター(HIECC、当時は北方圏センター)の存在でした。

こうしてハイエックで働くことになった小田島さん。それ以来さまざまなことを手掛けてきました。
 ます、携わったのは、海外技術研修員の担当者としての仕事でした。南米や中国から来る技術研修員を受け入れ、北海道との懸け橋の役割を担う人材の育成を図りました。
 次にJICA北海道国際センターで研修事業の実施を担当しました。
 その後、本部に戻ってからは北欧との大きな交流イベントを手掛けたり、道内の高校生を開発途上国に派遣し地球規模の問題を身近に考える現地研修を行う「高校生・アジアの架橋養成事業」を手掛けたり、今も続く様々な取り組みを作ってきました。
 
 でも、その頃、小田島さんはまだ多文化共生という言葉を知りませんでした。その言葉を知ったのはハイエックに就職して何年も経ってからです。国際交流ではなく、多文化共生、そんな視点があったのか。その頃、ちょうどニセコにどんどん外国人が増えてきていました。なぜ、過疎で苦しんでいた町にこんなに外国人が来るようになったのか?その部分を深く知りたくて、多文化共生マネージャー養成講座を受けることに決めました。
 小田島さんが多文化共生マネージャー養成講座を受けたのは、2009年のことです。2008年にリーマンショックが起き、日本に住む外国人にも激震が走った翌年のことでした。

 それ以来、小田島さんは北海道の多文化共生をずっと牽引してきました。
救急救命表示板を作成して、道内の全救急車に配備したのも小田島さんの尽力です。
言葉が通じず救急車に乗ってもお互いに何も伝えられなかった外国人と救急隊員にとって、この表示板はどれだけ心強い味方になったことでしょう。
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小田島さんの手掛けた救急救命表示板

 また札幌国際プラザと一緒にワークショップを開催する等して、多文化共生マネージャー同士でお互いの知識と意識を高めあっています。そんな仲間がいることもとても嬉しいと小田島さん。その一方でどんなに頑張ってもなかなか人の意識が変わらず、はがゆい想いをしてきたことも事実です。広い北海道全土に多文化共生の考え方を浸透していくのは、本当に大変なことだと思います。でも、小田島さんたちの一歩一歩は、確実に広がっているにちがいないのです。

 今、全国的に外国人ワンストップセンターが動き出しましたが、ハイエック内にもワンストップセンターが開設されることになり、今年は北海道の多文化共生を更に前に進める年になると思っています。
今、吹いてきた風をとらえて、北海道の地域国際化協会として、信頼される団体にしたい、それは小田島さんが必ずやろうと思っていることです。また、道庁と災害時協定を締結するなどし、被災した外国人への支援などの活動がHIECCとしてできる体制を構築していきたいとも思っています。昨年9月に発生した「北海道胆振東部地震」の時の様に、何かしたくても何も出来ない、そんなジレンマはもうたくさん。そのために、小田島さんは今日も走っています。