今日の人184.与島秀則さん [2019年01月27日(Sun)]
今日の人は、富山市に3箇所、高岡市2箇所、射水市1箇所、滑川市1箇所の合計7箇所で障害者(児)のデイサービスを行っている「つくしグループ」を率いる株式会社つくし工房代表取締役与島秀則さんです。
デンマークにて 与島さんは1956年10月に奄美大島で生まれました。小さい時はとてもシャイな子でした。お父さんはアル中気味で、酔った時はお母さんに暴力を振るうようなこともあったので、お母さんはお兄さんだけ連れて逃げたりもしていました。なぜお兄さんだけなのかというと、お兄さんは前の旦那さんとの間に生まれた子だったので、残しておくのが不安だったのでしょう。与島さんはお父さんの実子だったので、お母さんは残しても問題ないとの判断だったと思うのですが、それが子ども心に傷をつけることにもなったのでした。 お父さんはお菓子職人で、お母さんは食堂を経営していました。奄美大島は沖縄より一足早く本土復帰していましたが、それはつまり沖縄に行くにはいちいちパスポートが必要になるということでもありました。お父さんは沖縄から小麦粉を仕入れていましたが、通常のルートで手に入れるのは厳しく、闇のものを仕入れていましたが、それが見つかって追徴課税されてしまい、破産してしまいます。お母さんの食堂も差し押さえられました。 その後、お父さんは学校給食のパンを焼く仕事に就いたり、精肉店で働いたりしていました。しかし、戦時中にかかったマラリアがぶり返すなどし、あまり働けないことも多かったのです。 実は与島さんが4歳の時に、弟さんが生まれているのですが、その子は障害を持って生まれてきて、しゃべることも遊ぶことも出来ず、3歳になる前に亡くなりました。この弟さんの存在が、後に与島さんを福祉の世界に入らせるきっかけになりました。 与島さんは小さい時から、物作りがとても好きでした。竹藪がたくさんありましたから、竹を取ってきて、肥後守というナイフでいろいろなおもちゃを自分で作っていました。お父さんもお菓子職人の時に、落雁の木型を自分で作っていた方でした。そんな手先の器用さはお父さんに似たのかもしれませんね。絵を描くのも好きで、よく乗り物の絵を描いていました。もっとも、奄美大島には電車がないので、自動車か船の絵でした。船長さんの姿がとてもかっこよく見えて将来は船乗りになりたいなぁと漠然と思っていました。でも、お母さんが占い師から息子さんには水難の相と女難の相が出ていると言われて、水辺には近づかないように言われていたのでした。 奄美大島では、おやつはサトウキビ、スモモ、バンジロウというトロピカルフルーツ。富山に住んでいると、なんて羨ましいと感じるおやつですね。 島では、男の人の仕事が少なく、さとうきび畑で働けない冬場になると、特にそうなります。それは与島さんのお父さんも例外ではありませんでした。その頃、大阪万博開催に向けて大阪に出稼ぎに行く人が多くいました。お父さんも大阪に働きに出ることにし、一家で大阪へ行くことになりました。しかし、その時、お兄さんは鹿児島国体の水泳の強化選手に選ばれていました。それを与島さんが説得する形で一家で大阪へ引っ越したのです。ところが、引っ越し先の中学には、水泳部がなく、お兄さんの水泳の道はそこで潰えることになってしまいます。とても申し訳ないことをしたとずっとその時のことが引っかかっていた与島さんでしたが、後にお兄さんは、気にしていないよと言ってくれて、胸のつかえが取れたのでした。 与島さんは大阪の中学校で柔道部に入り、そこでキャプテンも務めます。優勝も飾り活躍しました。新聞配達のバイトもしていました。お兄さんはお父さんへの反発もあって、中学卒業後に東京に出ます。東宝ニューフェースに受かって俳優を目指しましたが、しばらくして定時制の高校に入学しました。そこで熱血のすばらしい先生に出会ってから、しっかり勉強し、卒業してからは杉並区役所で公務員になり、今は区のオリンピック委員の常務をされているのでした。子どもの頃はケンカもよくしましたが、今は本当に仲良しです。 公立工業高校の機械工学科に進んだ与島さん。でも、金属でモノを作るより、木でものを作るのがずっと好きでした。高校でも柔道部でしたが、優勝には届かず、いつも3位でした。それでも大阪150校の中での3位だなんて大したものです。ちなみにあの野茂英雄は高校の後輩なのですが、与島さんの柔道部の熱血先生が後に野球部の顧問になり、野茂を指導されて野茂は高校の時にノーヒットノーランを達成しているそうです。 ちなみに与島さんはその先生に「ボクサーにでもなるんじゃないか」と言われましたが、お母さんに「ボクサーと相撲取りにだけはならないで」と言われていたので、そちらに進むことはありませんでした。 高校卒業後に進んだのは海上自衛隊でした。船乗りになりたいという小さい頃の思いが心にずっとあったのかもしれません。舞鶴の教育隊に4か月半いて、8月に呉に配属になりました。先輩に誘われて自転車で走ることも始めました。当時で7万もした自転車を大枚をはたいて買い、週末になると先輩と2人で自転車であちこちの島めぐりをしました。 そんな時に、広島の原爆ドームと原爆資料館に行って大きな衝撃を受けた与島さん。自分はこのままではいけない、そう思って1年で海上自衛隊を辞めます。けれど、明確に何かしようと決めていたわけではありませんでした。 自衛隊を辞めた与島さんが、荷物だけ大阪の実家に送り、身一つで自転車旅行に出かけました。そんな時に岡山で備前焼に出会い、ものづくりが好きだった子どもの頃の思いがむくむくとよみがえってきました。自分は伝統産業をまなびたい、そんな思いで大阪の実家に戻ってからは奈良や京都に彫刻を見に行き、彫刻教室にも通いましたが、何か物足りません。奈良の一刀彫の所に弟子入り出来ないかと尋ねましたが、一子相伝で教えられないと言われました。でも、そこで、富山の井波では彫刻で弟子を取っているから行ってみたらどうか、と薦められます。井波は欄間などの井波彫刻で全国的に有名な場所です。そうして、与島さんは、自転車で一路富山に来ました。大阪から自転車で来たのに、なぜか富山市まで行ってしまった与島さん。そこからまた更に自転車を走らせて井波に着いた時は、もうすっかり日が暮れていました。駅前の電話ボックスで電話をかけると、石岡旅館という旅館が一軒だけ泊まれるということでした。遅い時間だから素泊まりしか無理だと言われましたが、行くとおにぎりを作ってくれていて、とってもあったかい気持ちになったのを覚えています。 事情を話すと、明日瑞泉寺(北陸最大の大伽藍で随所の見事な彫刻が施されている寺院。井波彫刻が発展した中心の寺でもあります)までの道中を上がっていって、その間にどこも見つからなかったら、紹介するからまたこっちに来て、と言われました。 次の日、瑞泉寺への街道を歩くとすぐにある工房で足が止まりました。そこに飾られていた宮崎辰児さんの彫刻がとてもよかったのです。工房を見学させてもらって、表に戻ると、「彫刻生募集」と貼ってありました。それで、「弟子入りさせてもらえませんか?」とお願いすると、突然笑いだされました。なんと、その日だけで3人も弟子入り希望がいて、与島さんはその3人目だったのです。宮崎さんの所には既に4人のお弟子さんがおられました。宮崎さんはいいと言われたのですが、奥さんに7人もどうやってまかないできるの?と怒られていたそうです。その時、与島さんはまだ19歳だったので、親に確認を取りたいと言われ、それで2日後にお父さんに来てもらったのでした。親方からOKをもらい、晴れて弟子入りすることになりました。年季は5年。井波には職業訓練学校もあって、週に1,2回はそちらにも行きました。そこは3年で卒業になり、その後の2年は修士課程のような感じでたまに学校に行くという感じでした。同級生は20人いましたが、いろいろな年代の人がいて、とても楽しかったのです。お給料は鑿代に消えましたが、職人の世界は道具・弁当・ケガは自分持ちなのでした。お金はあまりありませんでしたが、みんなで一升瓶を囲んでワイワイガヤガヤと芸術論を戦わせる時間がとても好きでした。こうして年季の5年が明けて、与島さんは福光の家具工房で働くようになりました。 家具工房でしばらく働いた後は、福野の酪農家で働きながら、彫刻に打ち込んでいました。朝4時〜8時までと夕方4時から7時までは搾乳をして、それ以外の時間に彫刻に打ち込んでいたのです。 そんな時、高岡で銅器のデザインをしている友だちから障害者の椅子作りを薦められました。「デザインの現場」という雑誌に、東京の「でく工房」の障害者の椅子づくりの特集記事があり、「これ、与島くん、いいんじゃない?」と薦められたのです。そこには「いすに座れない子のいすを作る」と書かれていました。障害を持って生まれ、椅子に座ることなく亡くなった弟の姿が浮かびました。吸い寄せられるように、東京のでく工房まで行き、木工でこんな風に作れるのか、と目からウロコの気分になりました。ちょうど、でく工房の荒井さんが金沢美大の先生になっていて、教えにきてくれると言ってくれ、与島さんは、「よし自分で障害者の座れる椅子を作る工房を立ち上げよう!」と決意したのです。そして、高岡でつくし工房を立ち上げました。27歳の時でした。最初は欄間も作りながら福祉用具の椅子を作っていました。障害の子を持つ親とも知り合い、こまどり学園や高志学園などの施設も回ると、一人一人に合ったオーダーメードの椅子の需要が高いことがわかりました。けれど、障害者手帳の枠で木の椅子を作ることに、高岡市の職員はけんもほろろな対応でした。木で作った椅子を車椅子と同じような扱いにはできないというのです。しかし、県職員の高倉さんという方が一緒に真剣に考えてくれて、高岡市にも掛け合ってくれました。車椅子が金属とは限らない。木でもいいと県から言ってもらったことで、市もようやくOKを出してくれたのです。この後、椅子だけではなく、食堂のテーブルとイスをセットで使いやすいものを作ってくれと注文が入りました。テレビ局からも取材が入り、全国放送のズームイン朝でも取り上げられました。こうして少しずつ、木製の福祉用具が広がっていきました。 実はこの頃つくし工房に、富山医科薬科大学を卒業してすぐの若い女医さんが訪ねてこられたのですが、これが運命の出会いになりました。しばらくしてからおつき合いが始まり、与島さんが28歳の終わりに、二人は結婚。奥様が富山市の協立病院に勤められたこともあって、30歳の時に、つくし工房を富山市に移し、生産を本格化しました。 18年前には介護保険制度が始まり、福祉用具をレンタルしたりすることも始めましたが、それは高齢者向けになってしまうので、何か後ろめたい気持ちがありました。そんな時に、福祉生協の立ち上げに参加。県内で最初の障害者のデイサービスで責任者になるなどしました。 50歳になった時、障害児用のデイサービスとしてウエルカムハウスつくしを立ち上げました。重度障害の子を中心に考えていたのですが、富大附属やしらとりの子ですぐに埋まってしまい、そこは知的障害や自閉症の子が中心になりました。そこで、身体的に重度の子のデイサービスとしてつくしの家を立ち上げます。2つにチャンネルを分けて取り組み、今は与島さんのつくしの家グループは県内7か所にまで増えました。 50歳で立ち上げたときに、最低10年はがんばろうとどっぷりハマって突っ走ってきたのです。 しかし、60歳を過ぎた頃に帯状疱疹になり、なんだか燃え尽き症候群のような症状も出始めました。そろそろリタイヤかなと思っていた時に出会ったのがデンマークのスタディツアーでした。実は私が与島さんと出会ったのもそのスタディツアーがきっかけです。 デンマークで実際にスヌーズレンハウスを見学し、与島さんは、富山にもスヌーズレンハウスを作ろうと思っていらっしゃいます。スヌーズレンハウスというのは、心も体も解放できる場所で、スヌーズレン(Snoezelen)とは,オランダ語で「鼻でクンクンにおいをかぐ」という意味のスヌッフレン(Snuffelen)と「ウトウト居眠りをする」という 意味のドースレン(Doezelen)からなる二つの単語 から構成される造語に由来しています。障害のある人にとってのスヌーズレンについては,視覚,聴覚, 触覚,嗅覚等の感覚を活用し,心地よい環境の中で 自由に探索活動を行える環境作りを進めることが基本的な理念です。 そこでは、疲れた親御さんたちもゆっくり休んでほしい、それが与島さんの思いです。 スヌーズレンハウスができたら、私も癒されに通っちゃうかもしれません。 与島さんは、建築関係や病院関係の仲間と一緒に「障壁を考える会」を作って、そのメンバーと月に1回集まって、福祉用具のことをいろいろ話しています。最初は40代だったメンバーが60代、70代になり、ずっと一緒にいろいろな研究をしているので、もう会わないとなんだかその月は落ち着かないそんな感じになっています。コミュニケーションを取るために障壁をどうやって取り除くのか、それぞれの得意を持ち寄って仲間と議論を繰り広げる時間はなくてはならない時間です。与島さんは、常に勉強していたいと思っていて、社会人になってから大学生にもなり、福祉系のさまざまな資格も取りました。年を重ねているからといって、知った顔をするのはおかしいし、若い人から学ぶことはとても大事だと思っています。その謙虚に学ばれる姿勢は本当に素晴らしいですね。 楽しい時間は本を読んだり、最近始めたギターの練習をする時間です。社長室にもギターが置いてありました。家で晩酌するのもホッとできる時間です。与島さんにはお嬢様がいらっしゃるのですが、娘さんは与島さんのDNAが強いのか、二科展の彫刻で特選を取るなど、彫刻家としてすばらしい実績を上げています。今は一緒に暮らしていますが、この春親元を離れてしまうので、ちょっと寂しげなお父様の顔を見せられました。 福祉の世界は、善意だけでは続かない、と与島さん。福祉業界に勤める人は優しい人が多い。でも、その人たちの善意に頼っていてはいけない。経営者として、ちゃんと働く人の収入や地位を安定させること、与島さんはそれをとても大切にしています。だから、つくしの家グループでは日曜日は必ず休みにしています。 今までは、いろいろな人に助けられて歩いてきた。だからこれからは、自分がサポートする側になって若い人たちを支えていきたい、そう笑顔でおっしゃいました。富山の福祉の現場は富山型デイのパワフルで素敵な女性陣で注目されることが多いのですが、こんなにも愛がいっぱい溢れるオヤジギャグのお好きなおじさまもいらっしゃるのです。与島さんは、ギターで涙そうそうを弾かれるそうなので、私の三線とセッションしていただける日を楽しみにしています。 |