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今日の人182.前田大介さん [2018年12月30日(Sun)]
今日の人は、前田薬品工業株式会社代表取締役社長の前田大介さんです。前田薬品工業は創立以降50年、ジェネリック医薬品及びOTC医薬品の研究開発、製造を手掛けてきた会社で、軟膏剤、クリーム剤、ゲル剤、ローション剤、液剤、そして、テープ剤、外用剤における様々な “モノづくり”を得意としています。女性も働きやすい会社で女性管理職の割合が25%、そして外国人の採用にも積極的なダイバーシティ度のとても高い会社です。また前田薬品工業は“第二創業”とも言える数々のチャレンジの種を撒いていて、その一つとして富山県立山町で建設中の美容と健康をテーマにしたリゾート施設「Healthian―wood(ヘルジアン・ウッド)」を2019年5月に開業します。約4万平方メートルの敷地にラベンダーや日本古来の和ハーブなどの日本最大級のハーブ園を整備し、建物の設計は新国立競技場などを手がけた建築家の隈研吾氏が担当。オープンが本当に楽しみです。
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とってもお洒落な社長室で

 前田さんは昭和54年に上市町で生まれました。両親は2人とも塾の先生で塾を経営していました。じいちゃんは富山地方鉄道の運転士で、両親が塾の仕事で忙しかったこともあって、よくじいちゃんばあちゃんと遊んでいました。

 でも、前田さんが幼稚園の頃に、上市から浜黒崎に引っ越し。その頃住んでいたのは、なんと前田薬品の倉庫だったそうです。前田薬品工業の創業者、前田實氏は、前田さんのお母さん側のおばあちゃんのお兄さんにあたる方でした。前田さんは田んぼでサッカーや野球をしたり、雪合戦をしたりと外でのびのび遊ぶ幼少期を過ごしました。

 しかし、そこは塾を経営しているご両親のことです。前田さんはお母さんの経営する英数塾にも通い、小学生の時から新聞のコラムを読まされ、基礎英語も毎日聞かされました。成績は常にトップで、小6の時は児童会長も務めます。当時から世話好きで仕切るのが得意でした。運動も好きで、小1から小4までは水泳教室に通い、サッカーもやっていました。5年生でバスケに出会うと、バスケにのめり込み、本気になりました。スラムダンクは今も愛読書です。小学校は海のすぐ近くにありました。蜃気楼が出たらみんなでベランダに出て見ていられるような、そんなのんびりした学校が前田さんは大好きでした。

 前田さんが10歳の時に、お父さんが前田薬品工業に入社されています。前田薬品工業の経理担当者が退職し、お父さんの几帳面な性格が見込まれて創業者の實氏に経理担当として入社を請われたのでした。

 前田さんは小6の秋に、「附属を受けるから一緒に受けない?」と親友に誘われます。それまでそんなことは考えたこともなかったのですが、親友も受けるからやってみようかと、秋から勉強を始め、見事合格。けれど、その友だちはなんと不合格でした。前田さんが入った年から富山大学付属中学のバスケ部はとても強くなり、前田さんはバスケのために学校に通っていたと言ってもいいほどでした。バスケ部では副キャプテンを務め、点取り屋のシューティングガードでした。試合は全試合ビデオに撮ってもらってそれを分析。バスケ部顧問の社会科の先生が担任でもあり、その先生が大好きだった前田さんは、自分も将来社会の先生になろう!と思っていました。ちなみに歴史上でいちばん好きな人物は黒田官兵衛、そして一番好きな政治家は小泉進次郎さんだそうです。

 3年の6月の引退試合が終わってからも10月まで毎日部活に行くほどで、この時の友だちは今も財産です。運動会や球技大会でも大会委員長として活躍した前田さんは、とってもモテて、卒業式はボタンは全てなくなりました。
 受験勉強は10月にようやく始めましたが、そこからぐんぐん成績が伸びてトップ10に入り、先生からは理数科に行けと言われます。そこで、バスケの強い富山高校を進学先に選びました。

 高校でもバスケ一色でキャプテン。この時の富山高校は本当に強くて、2年連続で北信越に出場します。部員も55人いて、前田さんは選手兼監督のような立場で皆を引っ張っていました。しかし、成績はいつも赤点で、学校の先生からは怒られ、その点では やさぐれていました。3年の時は、下級生にとても優秀な選手が入ってきて、前田さんはキャプテンながらフルで出場せずにベンチをあたためることが増えました。高校の時は6月の引退試合の後は部活をスパッとやめて、現役も通える予備校に通い始めます。そこで、浪人生の彼女と出会い一目ぼれ。2人はつき合うことになり、マックで一緒に勉強したりしていました。

 実は高校3年生の4月、新学期を迎える直前に、前田さんにとって、いや、前田さんの家族にとって大きな出来事がありました。前田さんの家族はそれまで実は前田姓ではなくて、鈴木姓でした。しかし、前田薬品工業創業者の前田實氏に肺がんが見つかります。實氏には子供がおらず、それでお父さんと寛氏が話し合って、一家ごと前田家の養子に入る決断をされたのでした。そうして一家は前田姓に変わったのです。

 勉強モードに切り替わった前田さんは、同志社大学商学部に現役で合格。歴史が好きで、大都市の人混みが苦手だった前田さんにとって京都はいちばん行きかった場所でした。彼女も京都に進学したので、二人で神社仏閣巡りによく出かけていました。しかし、バスケ好きの前田さんの血が騒ぎだし、またバスケにのめり込むようになった頃に2人の関係はフェードアウト。前田さんはバスケサークルのキャプテンとして部員60名を引っ張りました。そして、関西全域の約70チームの中で9連覇を成し遂げたのです。
 就職活動はせずに、WスクールでTACにも通い、税理士の資格を取るための勉強も始めました。
 
 卒業して富山に帰ってからも、さらに税理士試験の勉強を続け、また新たにバスケサークルも作りました。そのバスケサークルで出会ったのが、奥様です。
 勉強しながら、新庄中学校で不登校の子をサポートすることもやりました。その後、税理士試験の一部を取って会計事務所トマック・ジェイタックスで働き始めます。将来、前田薬品の社長になることはわかっていたので、会計事務所で働いた7年間は毎日中小企業の社長や独立開業のドクターに会い、本当にいろいろ勉強させてもらいました。そしてこの7年で圧倒的に数字に強くなり、数字を通してトップと話せるようになりました。これは本当に大きな財産になりました。
 会計事務所にいる間は、仕事の後は毎日バスケかジムに行っていました。そして前田さんんが創設したバスケサークルは4部から2部まで上がりました。

 29歳で結婚。そして前田薬品工業に入社。その時からバスケはピタッと辞めました。会社に入ってまずは現場からスタートしました。現場は思った以上に肉体労働で、1か月で5s痩せました。そこで2年、そしてその後は生産管理の部署を作って2年。その間、30歳で長女が生まれ、33歳で次女が生まれました。
そうして5年目の34歳の時に執行役員になります。
前田さんは会社に入る時にお父さんと約束していました。「自分以降、家族を社長にするのはなしにする、自分の後は能力のある社員を社長に。そうでないと自分は跡は継がない」それをお父さんと約束して会社に入ったのです。

 前田さんが執行役員になってから、前田薬品は日本で一番大きな塗り薬企業との提携に動いていました。立山町に40〜50億円の新工場を作る準備も進めていて、100%の連結子会社にする、2013年の10月1日にM&Aが成立するはずでした。
しかし、その前日の夜7時半にまさしく青天霹靂の大事件が起こります。
5年持つはずの薬、その薬が3年目に既に基準値を下回っていたのです。これは、製薬会社としてあってはならないことでした。2012年の試験で、出荷後のせき止め薬と製造途中の胃腸薬の2品目について、有効成分含有量が規格を下回っていたにもかかわらず、品質担当者が試験結果を書き換えていたのです。それは社長以下ほとんどの役員は全く知りませんでした。品質管理の担当者が納期を優先して独断でやってしまったのです。

 この事件でお父さんは社長を引責辞任し、会社が一番危機的な状況の中で、前田さんは跡を継いだのです。2014年4月1日のことでした。
前田さんは工場と販売部門の品質保証部を統括する信頼性保証本部を新たに設置する等の組織改革に着手します。社員のリストラはしませんでした。
全ての行政処分が出て5月。過去最悪の赤字を抱え、明日はどうなるか本当にわからない状況でした。「会社がつぶれたらその日から地獄が始まるから偽装離婚した方がいい」とまで言われました。あまりの重圧に13sもやせました。辞めていく社員も大勢いました。

しかし、前田さんは屈しませんでした。改革アクションを起こし、毎晩12時1時まで仕事仕事の連続でしたが、残ってくれた社員と家族が支えでした。社長を辞めたお父さんも財務で残ってくれたのもとても大きな支えになりました。

 この頃、あまりに疲れがたまってぶっ倒れた時がありました。げっそり痩せて頭痛もひどく全然眠れなかった時にアロマに出会います。ラベンダーのアロマオイルでアロマテラピーの施術を受けた時に体がとても楽になって久しぶりにゆっくり眠れたのです。この時のアロマとの出会いが、今前田さんが作っているアロマオイルTaromaの出発点になりました。Taromaには前田さんのこだわりがたくさん詰まっています。どれも立山町産のラベンダー、ゆず、ヒノキから抽出した3種類のアロマオイルです。立山町で育ったものを作り、抽出も製造も全て立山町で行っています。私もラベンダー、ゆず、ヒノキの3本セットを買ってみましたが、本当に肌なじみがよく、なんといっても香りがすばらしい!香りは脳にダイレクトに伝わるからこそ、成分は本当に大事だと思うのですが、Taromaなら間違いないと断言できます。そして、今やフランスにもこのアロマオイルを輸出されています。http://www.maeda-ph.co.jp/information/18

 前田さんと社員たちの改革アクションで、赤字だった会社は次年度には黒字になり、今もどんどん業績を伸ばしています。50期(2016年)の売上高が24億を数えて以降、毎年増収を続け、51期は27億、52期は29億を記録。53期は30億円を突破します。そして前田さんは30ものちがうプロジェクトに取り組んでいて、大変やりがいのある忙しい日々を送っています。

 そんな中、来年の5月に開業するのが美容と健康をテーマにしたリゾート施設「Healthian―wood(ヘルジアン・ウッド)」です。富山湾を一望できる田んぼに囲まれたロケーションを選んだのは、都会や海外から来る人に富山の自然や豊かさを感じてもらうため。和ハーブを育て、レストランでは育てたハーブ、そして半径40q圏内で育った地の食材を使った料理を提供しよう、富山が気に入ってくれた人が住めるエリアも作りたい、どんどん住んでもらって限界集落になっていたところを復活させよう。和ハーブのジンの蒸留所も作ろう。そんな風に前田さんの夢はどんどん広がっています。
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 かつてのバスケット少年は今、50年後の富山を見据えて大きな夢を描いています。「妄想したら、もうそうするしかない!」という言葉はまさに前田さんにぴったり!どこまでも、さわやかな笑顔で突っ走っていかれることでしょう。富山にこんな素敵なダイバーシティ企業があることが、とても嬉しくなりました。
今日の人181.品川祐一郎さん [2018年12月20日(Thu)]
 今日の人は、株式会社品川グループ本社代表取締役社長品川祐一郎さんです。品川グループは、富山トヨタ自動車株式会社、富山ダイハツ販売株式会社、ネッツトヨタノヴェルとやま株式会社、株式会社トヨタレンタリース富山、トヨタL&F富山株式会社、品川商事カンパニー、山室重機株式会社を抱える県内自動車関連事業のリーディングカンパニーです。
品川グループのホームページはこちら⇒https://www.shinagawa-group.co.jp/
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 品川さんは1970年8月28日に生まれました。小さい頃は体が弱く、とても引っ込み思案でした。幼稚園の時には中耳炎や肺炎になっていつも休んでいました。特に、遠足や家族旅行などの楽しい行事の時には決まって熱を出してしまうのです。今のほぼ休みなく働く品川さんからはとても想像できない、虚弱体質の幼年期だったのでした。
そういうわけで小学校に入ってからも、なかなか自転車に乗れなかったり、逆上がりが出来なかったりと、運動に関しては自信が持てずにいました。

 そんな少年が小学校中学年の時にバスケットボールに出会い。スポーツの魅力に目覚めます。勉強はずっと得意だった品川さんですが、バスケットボールも得意になったことで、引っ込み思案も影を潜めるようになりました。

 品川さんは物心ついた時からずっと、富山トヨタを継ぐんだ!と心に決めていました。今は盤石に思える富山トヨタですが、品川さんが生まれるしばらく前につぶれかけたこともあったそうです。祖父や父が我が身を顧みずに必死で会社のために奔走する姿を見て、少年は尊敬の念を抱きました。そして、きっと自分もこの会社を継いで、この会社のためにがんばるのだ!少年の心にそんな灯がともったのでした。それが自分の天命だと思ってから、品川さんは積極的な少年に変わったのです。
 
 「トップに立つ!」常にそんな思いでいましたから、富山大学附属中学に入ってからは生徒会長にも立候補し、会長になりました。富山中部高校に入ってからも生徒会長、そしてコーラス部の指揮者でした。中学高校を通して悩みといえば、人間関係のことでした。正論でど真ん中を行ってしまう品川さんは思いや信念が強すぎて頑固なところがありました。運動会も文化祭も根をつめて夜中までとことん話し合いました。それで、うまくいかないと何故協力してくれないのだろうと思ってしまうのでした。自分目線でなかなか相手目線になれなかった。「実は最近までそうだったんです」と穏やかな口調でおっしゃいます。最近ようやく「あなた目線」で考えられるようになったと品川さん。

 大学は東京大学経済学部へ。生徒会や部活がどんなに忙しくても、「富山トヨタを継ぐ」という強い信念が勉学も疎かにはさせなかったのでしょう。でも、もちろん大学の時も部活に打ち込みます。選んだのは弓道部。部員を100人抱える部活でしたが、3,4年の時はレギュラーも勝ち取りました。実は、成人式も寒稽古と重なって帰ってきていません。
また富山トヨタの御曹司だから、さぞかし裕福な学生生活を送っていたのかと思えばさにあらず。お風呂もトイレも共同という学生寮で、4年間を過ごしたのです。でも、学生寮でも部活でも友と語り合い、とても充実した学生生活でした。

 大学卒業後はまず銀行に就職します。かつて会社が資金繰りに苦しんだので同じ過ちを二度と繰り返さないためにというのも頭にありました。外国為替やシステム開発に携わり、成果がなかなか出ずに苦しかったこともあります。でも、苦しいのは楽しいと品川さん。そう言い切れるのが、品川さんの強さなのでしょう。
実は、この銀行時代に出会ったのが奥様です。奥様も総合職で入ってこられたキャリアウーマンでした。
こうして、品川さんは27歳の時に結婚。そして29歳の時、銀行を辞め、富山に帰ったのです。

 富山に帰って、最初は富山トヨタ営業本部からのスタートでした。常に仕事のことばかり考えていました。それは昔も今もずっとそうです。自ら「仕事大好き人間」とおっしゃる品川さん。とことんやってみて、やってみたからこそ気付くことがある。そうしてビジネスを通じて社会に貢献し、それが自己の器を広げてくれるのだ、と。

 社員900人を束ねる社長になった今も、もっともっと自分自身成長していきたいと思っています。これから先、もっといろんなことができるはずだし、たくさんの人を巻き込むこともできる。その人たちは、立場に集まるんじゃなくて、生き方、在り方、考え方に集まるんだという思いがあります。かつては自分を曲げたくなくて人とぶつかる時もあった。しかし、そんな自分自身も含めて受け入れられるようになると心がラクになりました。ちがいはちがいで間違いではない、そう思えるようになりました。

 そんな品川さんがいちばんホッとできるのは、リビングのソファで家族と一緒にいる時間です。選択理論を学んでからは、家族と一切ケンカをしなくなりました。息子さんたちにも伝えるべきことは伝えるけれど、マインドは本人が気づくもの。決して強制はしません。現在高3と小6の2人の息子さんがいて、W受験を控えているのですが、受験が終わったら、海外に家族旅行出来ればいいなと思っています。高3の長男が大学進学で家を出るであろうから、家族で出かけておきたいというのがとてもお忙しい品川さんがいまいちばん叶えたいことです。

 社内では今、人事制度改革に着手していて、来年から始動の予定です。若い社員でも大きな仕事ができるようにしていきたい。多様な働き方を選べるようにして、たくさんの社員の夢を実現させたい。そして、夢だけではなく、志も実現できる会社にしたいのです。仕事を通じて社会の役に立つ、自分自身も富山トヨタグループも、それは常に品川さんの頭の中にあります。
品川グループは創業した1917年から今までずっと、富山にクルマの歴史を築いてきました。そしてこれからも、モビリティサービスを通じてすべての人々の幸せと発展に寄与していきます。詳しくはリニューアルされたばかりのホームぺージをぜひご覧ください。
https://www.shinagawa-group.co.jp/

 品川さんはご自身ももちろんクルマが大好きです。愛車は6速マニュアルの86。誰かが運転するクルマに乗るのは好きではなく、自分でハンドルを握るのがいちばん好きです。そして、いろんなアイディアが浮かんでくるのは、そんな愛車86でドライブをしている時。他にも、寝ている時、トイレにいる時、そんな時に仕事のアイディアがどんどん湧いてくるのです。

 100年前は馬車から自動車へとシフトした大変革の時代でした。そしてそこから100年経った今も、車の大変革期を迎えています。「CASE=ケース」が自動車業界を一変させると言われているのです。CASEとは4つのキーワードの頭文字を取ったもので、コネクティビティ(接続性)の「C」、オートノマス(自動運転)の「A」、シェアード(共有)の「S」、そしてエレクトリック(電動化)の「E」です。5年も経つときっと当たり前のように自動運転の車が走るようになり、10年経つと自動車の世界は一変しているかもしれません。いや、きっとそうなるでしょう。変わっていくもの、変えてはいけないもの、品川さんは今、そんな未来を見据えています。

 1917年の創業の社是「われわれは和をもって、誠実なサービスで信用を築き、愛社精神に徹しよう」の言葉を胸に抱いて、今日も品川さんは愛車86を走らせています。少年の時のように希望にあふれた瞳で。
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