• もっと見る
« 2018年07月 | Main | 2018年09月»
<< 2018年08月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
プロフィール

宮田妙子さんの画像
カテゴリアーカイブ
リンク集
最新記事
https://blog.canpan.info/diversityt/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/diversityt/index2_0.xml
月別アーカイブ
このブログをSNSで紹介
最新コメント
おかうえ
今日の人152.吉谷奈艶子さん (08/21) りんりん
今日の人114.村木真紀さん (05/19) ゆかり
今日の人114.村木真紀さん (05/09) 宮田妙子
今日の人149.河除静香さん (09/24) 橋本桂
今日の人149.河除静香さん (09/08) 高木敏夫
今日の人123.高橋太郎さん (04/14) 大太
今日の人4+.森本耕司さん (07/17)
最新トラックバック
今日の人178.有路由美子さん [2018年08月19日(Sun)]
 今日の人は、ほっこり堂主宰の有路由美子さんです。ゆらゆら体操の体操教室、うさとの服の展示販売、手相教室、山元加津子さんの映画の自主上映会や講演会の主催等々、いろんなことを手掛けていらっしゃるとってもアクティブな女性です。
IMG_0237.JPG

 由美子さんは富山の大沢野で生まれ育ちました。子どもの頃は体が弱く、体育の時はいつも休んでいるような子でした。外で遊んでいても、ゴム跳びは見ているだけ、その頃流行っていたピンクレディも踊れないし歌えませんでした。ごっこ遊びの時は、お母さんの箪笥から服を引っ張り出してくちゃくちゃにしてしまい、怒られていました。みんなで集まってもどうやって遊んでいいかわからない、そんな子ども時代だったのです。
 そんな少女は図書館で本を読むのが好きでした。4つ下の弟と一緒に近くの猿倉山まで犬を連れて散歩するのも好きでした。ガリガリに痩せていて大きい口が目立つので、クラスの男子から口とかガマガエルと呼ばれてからかわれていました。それが悲しくて、ホームルームの時に、「人の欠点ばかりを言うのはやめて」と抗議したこともありました。何か言われてただ泣き寝入りをするだけの子ではありませんでした。

 その頃の子どもたちの習い事と言えば、そろばんと習字でした。有路さんも両方習っていましたが、あまり長続きはしませんでした。習いに行ったふりをしてどこかに隠れて行かなかったこともありました。両親は共働きで鍵っ子だったので、自営業で子ども達におかえりって言える環境がいいなぁと漠然と思っていました。

 中学では、英語研究サークルを作ろうと言った友だちに誘われて、そこに入ります。英語劇を文化祭で発表したりしていました。英語や数学が好きでしたが、体育は嫌いでした。一度担任が体育の先生だったことがあり、ペーパーテストはできたのに、成績に2をつけられたことがあって、一層体育にコンプレックスを持つようになりました。そんな由美子さんが今ではヨガや自力整体を教えています。

 中学生の時は、保育士さんになれたら楽しそうだなぁと思っていました。その頃から、お母さんが何を決めるにも霊能者に聞くようになり、由美子さんが学校を決める時も、女子高がいいと言われるままに女子高に進学したのでした。保育士になるなら、ちゃんとオルガンとか弾けないとダメだわという軽い気持ちで音楽を専攻したものの、譜面も読めませんでした。他の子はほとんどピアノを習っていてちゃんと弾けるという状況だったので、選択して失敗した!と思ったけれど後の祭り。その後どうやって授業を受けていたのか覚えていないほどです。しかし、保育士になりたかったのに、家には進学させる余裕はないと言われ、一気にモチベーションが下がりました。すると番数もみるみる下がりました。由美子さんは勉強したくないメンバーとつるみ、授業が終わると街の喫茶店や友だちの家に集まっておしゃべりしていました。ドライブインでアルバイトもして、そのお金で自分の服を買ったりお茶代にあてたりしていました。友だちと買い物に行って衝動買いできることに自己満足を感じ、早く働いて自分の自由になるお金をもっと欲しいと思っていました。
就職組は1クラスにまとめられ、補習では簿記や珠算の授業もありました。夜も簿記の学校に通い、簿記の勉強はとても楽しかったのです。

 こうして女子高を卒業した由美子さんは病院で事務員として働き始めました。しかし、失恋をきっかけにショックで計算ができなくなった時期があり、それで仕事を辞めてしまいます。その後、コピー会社で働き始めたのですが、国泰寺に行ってお坊さんと一緒に修行する研修があると聞き、精進料理を食べなきゃならないと思い込んだ由美子さんはそれで仕事を辞めてしまいました。なんと由美子さん、お漬物が大の苦手で、漬物を食べなきゃならないと思い込んで仕事を辞めてしまったのでした。

 その後は内装材の卸しの会社で働き始めました。内勤で受注の電話を取って手配する仕事で、緊張するかなと思ったのですが、実際にやるととても楽しい仕事でした。ここは結婚して子どもができるまで働きました。
 
 由美子さんは23歳で結婚。お母さんが美容院で会った人に「うちの子、嫁さんを探してる」と声をかけられ、とんとん拍子で話が進んだのでした。見合い写真はよかったのですが、会うとやぼったい人だなぁと思いました。でも、友だちが多くて山登りしたりテニスをしたりする人だったので、この人といると退屈しないかなと思ったのです。
 ある日、家に帰ると反物が届いていました。なんと結納の品でした。5月にお見合いして、あれよあれよという間に事がすすみ、9月の結婚式の日取りまで決まってしまったのでした。相手のアラが見えてきて、嫌だな~と思っている絶頂期に結婚式を迎えてしまったのです。
 
 2年後には長男、3年後には次男が生まれました。結婚前に働いていた内装材の会社から来てほしいと言われ、子どもを連れて出社していました。子どもが保育園に行き始めてからは、フルタイムで働くようになりました。35歳まで事務員をしていましたが、世の中の流れがパソコンになり、事務員はいらないので、やめるか営業になるかの二者択一を迫られ営業の仕事をすることを選びます。ハシゴを積んで現場まで行ったこともありましたが、40歳で長年勤めていた会社を辞めました。エクステリアの営業所を立ち上げた知人から事務の募集をしていると言われ、そちらに転職したのです。しかし、そこの取引先の子が事務で入ってきたことでまた営業をやらされるようになります。それで、そこも辞めて内装材の会社で培った知識が活かせるカーテンの会社に事務員として入ったのでした。ところが、なんとそこも営業の人が辞めてしまってまたまた営業をさせられるということになりました。40代で営業で外回りはきついと思った由美子さんは、神島リビングに転職します。そこで輸入家具売り場の担当になり、インテリアコーディネーターの資格を取得します。神島リビングでの仕事は楽しかったのですが、姑が体調を崩し通院に付き添わなければならなくなったのでやむを得ず仕事をやめました。ある時、姑は腸閉塞を起こし、緊急入院。環境が変わったためか痴呆になり、要介護5になってしまいました。しかし、腸の中をきれいにすると頭もクリアになって退院し、すっかり元気になったのです。元気な姑と2人で家にいるのは苦痛だったので、ヘルパーの資格を取って介護の仕事を始めました。介護の仕事を始めて3年、姑が亡くなり、子ども達も独立してしまっていたので、夫婦二人の生活になりました。

由美子さんは神島リビングで働いている時に自分の体調が悪かったこともあって、自分の体のメンテナンスをしたいと自力整体の勉強もしていました。介護の仕事と並行してたまに西宮の先生のところに通うようになりました。それまで学校も職場も半径10q以内の生活圏で暮らしていた由美子さんが50代になって初めて外に出たのです。外ってこんなに楽しいんだ!由美子さん、50代の目覚めでした。こうして自力整体ナビゲーターになった由美子さんは先生から教室を開きなさいと言われます。そうは言われても何をしていいやらさっぱりわかりません。そんな時、リタクラブという貸しスペースがあると言われ、そこのオーナーの平木柳太郎さんに相談したところ、どうやって人を集めるかを教えてくれました。初めてFacebookで告知するということをやり、またヤマシナ印刷の山科さんのところでチラシを作り、初めて自分の整体教室を開いたところ、4~5人の人が来てくれました。人ってこんな感じで集まるんだなぁと初めての経験にわくわくしました。そうやって、マイペースに教室は続けています。そんなある時、整体仲間が山梨で山元 加津子さんの講演会を企画し、その山元 加津子さんの映画があるということを知りました。ちょうど富山でも上映会があって、「僕のうしろに道はできる」という映画を見たのです。その映画を見て、すごく感銘を受けた由美子さん。配給会社に問い合わせたところ、会員になったら少人数でも上映会ができると聞き、それならと会員になって、自主上映をするようになったのです。本当に淡々と毎日を過ごす日々だったけれど、自力整体が自分の殻を破るきっかけになり、やりたいことを次々にやっていくそんなアクティブな女性に大変身したのです。

 そんな由美子さんですが、子どもたちが高校を卒業するころまでは夫とコミュニケーションを取るのをあきらめていました。けれど、いろんな人と出会って話をするうちに、コミュニケーションが取れないのは私のせい?と思うようになりました。自分がコミュニケーションを取れないようにバリアを張っていたのかもしれない、そう考えた由美子さんは、ちょっとしたことでも夫に話すようにしました。そうして、ちゃんと「愛している」と口に出すようにしたのです。するとどうでしょう。冷たい空気が流れていたようにも感じていた夫婦関係が好転して、今は夫もとても優しくなりました。一緒にうさとの服の販売を手伝ってくれるようにもなりました。うさとの服というのは、タイで作られている手作りの服で、一度うさとを着ると他の服が着られなくなるくらい着心地のいい服だそうです。由美子さんはうさとの服販売のコーディネーターもやっていて、9月28日~30日は南砺市福野のギャラリー樫亭で展示会も行うそうなので、興味のある方は足を運んでみてください。うさとの服は由美子さん夫婦をつなぐとっても大事な服なのです。
うさとの服についてはこちら⇒http://www.usaato.com/jp/
 ご主人は今、由美子さんがいろいろな所へ出かけていっても口うるさく言うこともありません。そんなわけで、50代になるまでずっと半径10q圏内で生活していた由美子さんの行動範囲はうんと広がって、日本国内のみならず海外へも出かけるようになりました。一昨年はインドを12日間、昨年はベトナムを5日間旅をしています。そして今度はどこへ行こうかとワクワクして考え中です。

 イベントをしていくうちにたくさんの新しい友だちも出来ました。そうした中で、NPO法人かもめノートに出会い、発語のない障害者の方と言葉なしでコミュニケーションを取る楽しさも知りました。デイサービスは分刻みで忙しかったのですが、かもめノートは1対1でゆっくり時間を過ごせて、由美子さんはこちらの働き方が気に入っています。

 由美子さんは、最近、自分がいかに楽しいかが大事だと思うようになりました。やりたくないと思いながらやっていることでわくわくできるはずがありません。自分の心が動くことをやる、だから頑張れるし、人の心も動く。40代の初めに四柱推命の人に、あなたは今から下降して50歳を過ぎたら上昇すると言われました。その通りで50を過ぎたあたりから、もうなんでも楽しくて仕方がない、という感じになっている由美子さん。これからも自分が心が動く楽しいことをしていきたい、そして自分の経験してきたことを伝えていきたいと思っています。伝えていく、ということでいうと、実は由美子さんは手相を見ることもできます。そうして、それがズバリと当たって皆さんびっくりされるそうです。由美子さんに手相を見てもらう人はツキが良くなるそうなので、皆さんも一度見てもらってはいかがでしょうか。手相教室もこれからやっていくそうですよ。

そして来月9月8日にはかっこちゃんこと山元加津子さんの講演会と映画上映も企画されている由美子さん。そんな由美子さんのパワーがどんどん周りに波及しているのをビシビシ感じます。山元加津子さんの講演会はストレートにハートに響きますので、最近なんだか心が疲れているなぁと感じている方は、足を運んでみてください。
山元加津子さん講演会のお知らせはこちら⇒
https://www.facebook.com/events/389776028171381/

何かを始めるのに年は関係なく、やりたいと思ったらいくつになってもやり始めることができる!そんな勇気が湧いてくる今回のインタビューでした。