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今日の人175.小泉英児さん [2018年05月30日(Wed)]
 今日の人は「施術院 空のヒカリ(クウノヒカリ)」院長の小泉英児さんです。空のヒカリは、全身のバランスを整え、神経の流れと内臓の働きを高める神経伝達調整(NTA)を軸とした施術院です。「どこに行っても治らなかった症状がよくなった」と小泉さんの所には老若男女を問わず連日患者さんが訪れています。
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 小泉さんは高岡市御馬出町で5人兄弟の次男として生まれました。兄弟が多いので小さい時から我慢することが多かったといいます。欲しいものをすぐに買ってもらえる友だちがうらやましくて仕方ありませんでした。両親、祖父母とも同居の9人家族だったのですが、小泉さんが頑固なことからおばあちゃんから育てにくい子だと言われていました。言うことを聞かず、家の外に出されることもしょっちゅうでした。家の教育方針がお兄ちゃんの言うことは絶対というものだったので、それを守ってお兄ちゃんに逆らうことはしませんでした。ただ、その分、下の兄弟たちとはよくケンカしていました。

 小学校は平米小学校。実は、小泉さんの親戚には高岡出身のプロ野球選手がいて、その姿を見て育ったので自分もプロ野球選手になりたいと思っていました。しかし、平米小には少年野球チームがなく、小泉さんのお母さんが働きかけて、少年野球チームができたくらいでした。こうして小学校3年生からは野球漬けの毎日となりました。
 高岡には古城公園という大きな公園があるのですが、小泉さんが遊ぶところはもっぱらそこでした。友だちと基地を作ったり魚やザリガニを捕まえたりして遊んでいました。お堀に落ちてしまったこともあるくらい活発でした。そんな風に外で遊ぶか、野球をしているかどっちかというような日々だったのです。
 相変わらずおばあちゃんには厳しくされていて、座る時に背中にものさしを入れて姿勢を正されたりしていました。家は貧乏ではなかったのですが、つましく暮らすのを良しとする教育方針だったのか、おにぎりも塩おにぎりしか食べたことがありませんでした。一度学校で好きなおにぎりを作ってもいいと言われた時に、みんなは様々な具を持ってきていたのに、小泉さんは塩だけ持っていったことがありました。『え?おにぎりって塩だけじゃないのか?』初めていろいろな具を入れるということを知ってショックを受けたのです。でも、そのおかげでハングリー精神が身につきました。

 中学校は高陵中学に。ここでももちろん野球を続けました。高陵中学は公立の中学校ですが、小泉さんの時代の高陵中学は中教研で県下でトップの成績を取るくらい優秀でした。そんな中、小泉さんはクラスで成績があまりよくなく、中2の時の先生は小泉さんのテストだけ教室に張り出しました。それはこんな風にだけはなるなという見せしめのためなのでした。他の生徒達には席替えがあるのに、小泉さんだけ固定の席にされていたくらいです。最初は『勝手にやってろ』と思っていましたが、先生がそういう態度なので、生徒も次第に小泉さんのことを馬鹿にするようになっていきました。これはさすがにこたえました。
 また中2の時は大けがもして野球が半年できませんでした。小泉さんのポジションはショートなのですが、練習にしても自分はこんなにやっているのに、なんでみんなはやらないんだろうとよく他の選手の態度にイライラしていました。そんな中での怪我だったのです。しかし、みんなと練習ができない間、独学でトレーニング方法について勉強し、単独トレーニングをしていました。怪我が治って復帰した後、みんなより遅れているどころか小泉さんだけ上達していたので、自分のトレーニング方法は間違っていなかったと思いました。それだけストイックに野球に取り組んでいたのです。
 中3になると、家出もしました。学校でも途中から全員にシカトされていて、本当に居場所がない状態でした。中学校が終わったら就職しようと思っていましたが、中3の時の先生から、「甲子園に行きたくないんか?」と言われ、私立の高岡第一高校の特待生の話を持ってこられました。 
 しかし、親は私立高校はダメだと言いました。親戚が高商出身のプロ野球選手ということもあって、高岡商業の自慢話ばかり聞かされていました。それに反発心を抱いた小泉さんは絶対に高商はいかないと決めて、その当時野球の強かった氷見高校を受験。成績が悪いと言われていたけれど、県立高校の普通科にすんなり受かったのでした。

 入ってみると氷見高校はとても地元色が強く、野球部の監督から、「高岡の奴は3年間レギュラーになれないけど、それでもいいか?」と聞かれます。でも、そこでシュンとならないのが小泉さん。逆に『なにくそ、必ずレギュラーになって監督を見返してやる!』と、毎日家でも血豆ができるほど素振りをし、トレーニングに汗を流す日々を送ったのでした。1年の時にもレギュラーになれそうだったのですが、それはつぶされました。でも、2年からはレギュラーとしてショートに抜擢されたのです。しかし、努力の甲斐むなしく、甲子園には行けませんでした。試合の前にキャプテンのうちに泊まり込み、一緒に練習もしたのですが、その子の練習を見て愕然とします。自分はホントに血豆をつぶすほど家でトレーニングしていたけど、その子は素振りもほんの数分するくらい。ああ、こんなんじゃ甲子園に行けるわけないじゃないか、と急に熱が冷めたのです。プロにも行きたかったけど、そもそもプロになる子は素質からして全然ちがうということも身近でまざまざと見せつけられたので、プロに行く道はあきらめました。

 それまで野球バカで野球しかしてこなかった小泉さん、ここでタガが外れました。夜遊びしたり家に帰らなかったりするようになったのです。しかし、野球を頑張っていたこともあり、私立大学からはいくつか推薦も来ていました。でも、それは全部断りました。
 しかし、親はどこでもいいからとにかく進学しろといい、お父さんも卒業したという柔道整復師の専門学校に入ることになったのです。しかし、柔道整復師の専門学校は柔道をやっていない学生はいじめの対象になりました。何かにつけてしめられることが多く、教科書を忘れただけで腕立て伏せを2時間やらされたり、殴られている学生もいたくらいです。また、柔道部だった学生は下駄をはかせてもらえるのですが、やっていなかった小泉さんはたった1点足りないだけで、留年の憂き目にあいます。しかし、これで持ち前の反骨精神に火がつきました。なにくそと1年間猛勉強したところ、次の年は楽勝で柔道整復師の国家試験にも合格できました。それまで全く読書もしてこなかった小泉さんですが、その時からいろいろな本を読むようになりました。

 こうして晴れて柔道整復師の資格を取り、整形外科に就職した小泉さん。しかし、その世界は、ドクターをトップとして形成されるピラミッド型で、ピラミッドの下の位置にいた小泉さんは、思ったことがあっても何も言えない、何も通らない、そんな状況だったのです。親にお金を返していたので、お金も全然たまらない、それでとうとう鬱状態に陥り、その病院は辞めました。
 次に働いたのは接骨院でしたが、ここでもグレーな部分をいっぱい見てイヤになってしまい、3か月で辞めてしまいます。
 そして、また別の整形外科でも働きはじめたのですが、ここもトップダウンの組織でした。小泉さんは専門職ではなく、バスの送迎係をやらされ、それについて意見したところ、君はそういうことを言えない立場でしょ、と言われ、また失意のうちに仕事を辞めることになったのでした。
 その後、特養ホームでの仕事を紹介されて、給料の話もしないままに働き始めたのですが、実際に働き始めると、とても安い給料で、結婚もしていた小泉さんはこのままでは食べていけないと整体とかけもちで仕事していました。
 そんな無理もたたったのか、急性腎不全を発症。水で体重が13sも増えてしまい、緊急透析が必要だと言われました。しかし、一度人工透析を受けると、その後ずっと透析を受け続けなければいけない体になってしまいます。それだと家族に迷惑をかけることになってしまうと、小泉さんは人工透析を断りました。パンパンになっていた体のむくみが、透析を断った次の日から奇跡的に引いてきて、2か月入院することにはなりましたが人工透析を受けずに済んだのでした。
このまま、組織の中で働き続けるのか、それとも自分が目指す道で行くのか、大病をした小泉さんの中で答えは出ていました。自分で開業しよう。
 こうして2015年に施術院 空のヒカリを開業したのです。

 実際にNTAに出会ったのはそこからさかのぼること5年の2010年のことです。実は、小泉さんは2009年にお子さんを死産で亡くされています。そういうこともあって、NTAの勉強を始めました。勉強初めてすぐに感銘を受けました。こういう価値観が世の中にあるんだ。なんだか世界がグルンと回ったような気がしました。いいと思うことも悪いと思うことも、全ては自分の心が作り出しているのだと気づきました。そうしてあらゆることに感謝することを始めました。見える状況はそんなに変わってはいない。けれど、人生が好転しはじめたのです。しかし、特養ホームでNTAを使った施術をやっても評価されることはありませんでした。それまで歩けなかった人が歩けるようになったりするので、逆に困ると言われることもありました。症状が軽くなると点数が減点されて、施設に支給される額も減るからです。

 そういうこともあって、小泉さんは独立の道を選びました。自身が病気になったことで、出会う人も変わりました。そんないろいろな人との出会いでここまで来れたのだと思っています。

 NTAは奥が深く、雲をつかむような感覚があります。やればやるほどますます奥行きが深くなるので、2回くらい本気で辞めようと思ったこともありました。でも、その度に、いや、この施術で救われている人がこれだけたくさんいる、信じてやっていこうと続けてきました。開業して一つの目標はクリアできました。しかし、やっていく中で、また迷いも出てきました。よくいつも目標設定しろと言われますが、それがしっくりきませんでした。単に喜ばれることを目的にしていてそれでいいのだろうか?腑に落ちないことが続いて自分がパニック障害のような状態になってしまったこともありました。そうしているうちに、ネフローゼが再発し、健康に不安を抱えているこんな自分がやっていていいのかという気持ちにもなりました。けれど、家族を抱えている以上生活がありました。
 不安や怖れに襲われている時に、笛奏者の福井幹さんに会う機会があり、そこで話をしている時に、不安や怖れがなくなり、ストンと落ちた瞬間がありました。人に喜ばれることが大義名分であるとしたらそれは水面にあるもの。それが息苦しくなるとしたら、そこにいるステージがちがう。ライトワーカー(光の仕事)という役割の人もいて、その役割のある人はニコニコ笑っていたらいい。それはやっていて自分も楽しいし、周りも楽しくする。でも、ライトワーカーの人が人を喜ばせるためにという大義名分を掲げるとしんどくなってしまう。メンターに欲を失くして自分を律するしかないと言われるととてもしんどい。そうではなく、自分も楽しめるライトワーカーとしての役割を担えているのならそうありたいと思った時に、心がすうっと軽くなりました。ですから、小泉さんは今、自分がやりたいことをやってできることを楽しんでいければいいなと思っています。病気に一喜一憂しないことも身を持って学びました。薬を使わない人体実験もしています。施術院の名前が「空のヒカリ」なのは、希望の光になれたらいいなという思いと空(くう)というのは根源でもあるからです。

 ある時、寝ている時に小泉さんに愛、希望、感謝そしてサハスーラという声が何度も聞こえ、頭にすうっと光が入っている感覚がありました。その時はサハスーラという言葉に意味があるとはわからなかったのですが、後にサハスーラとは第7チャクラ(頭頂)のことを意味すると知ったのです。光のエネルギーをツールにして自分の持っている色で仕事をしなさいという意味だと確信しました。自分も幸せでみんなも幸せになる世界を目指したい、小泉さんはそう思っています。

 興味のある人は一度小泉さんの施術を受けてみてください。西洋医学でもない、整体や接骨院でもない、大自然とつながるような不思議な感覚になります。身体の不調だけでなく、心の不調も和らげてくれるのが、空のヒカリなのです。