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今日の人162.長崎悦子さん [2016年12月10日(Sat)]
 今日の人は会計に困ってる個人事業主や中小企業向けの会計セミナーを開催したり、うつ病・発達障害当事者おしゃべり会を定期的に開催している長崎悦子さんです。
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『糸あわせ(しあわせ)』というホームページも開設していらっしゃるので、ぜひお読みください。
http://nagasakietsuko.com/
 
 長崎さん、愛称えっちゃんは富山県のいちばん東に位置する朝日町で生まれ育ちました。
家は自営業だったので、小さい時からいつもお客さんが出入りしていましたが、どう挨拶していいかわからなくていつも黙って何もしゃべらない子でした。年子のお兄ちゃんがいて、お兄ちゃんの後をついて歩くか、それ以外の時は1人でぼーっとしている時間が多くありました。絵本は好きでいつも読んでいました。

 小さい時からえっちゃんには不思議な感覚がありました。みんなは遊んでいるけれど、自分だけ透明な丸い入れ物に入っていて、そこはみんなとは遮断された世界。そこにいるとえっちゃんは落ち着くのでした。だから、みんなと交わらなくても殊更寂しいという思いを抱くことはありませんでした。むしろ一人が落ち着いて好きだった。
 実はえっちゃんのお父さんはお酒に酔うとひどく暴力をふるう人でした。それは幼いえっちゃんにも容赦なく向けられました。だから、えっちゃんは暴力のある毎日が日常だったのです。その透明なバリアは、そんな怖い思いからもえっちゃんを救ってくれていて、いつの間にか、その怖いという思いすらも覆い隠してしまったのかもしれません。

 保育園の頃は、周りはみんな夢中でピンクレディを踊っていましたが、中には入りませんでした。小学校に入って、みんなに遊ぼうと誘われても、その輪に入ろうとはしなかったえっちゃん。担任の先生に「なぜ中に入らないの?なぜ一緒に遊ばないの?」と理不尽にお説教されていました。当時は(いや、学校では今もその傾向が強いですね)「みんなちがってみんないい」ではなく、「みんな同じでみんないい」と思われていたので、先生も何の疑いもなく、「みんな一緒に遊びなさい」と言っていたのでしょうが、それがえっちゃんには苦痛でなりませんでした。遠足に行っても誰かと一緒にご飯を食べることはなく、いつも一人で食べていました。バスも一緒に座る人がいなかったので一人で座っていると、先生が隣に座ってきて『いやだなぁ。一人にしておいてくれたらいいのに』と思っていたものです。

 また、えっちゃんには『宿題はしていくべきもの』という意識がなかったので、していかないことが多くありました。夏休みの宿題も自由研究は好きでやるけれど、日記を書くのは嫌い。でも、学校の決まりに反抗している気持ちはなく、単にそんな決まりを守るのは苦手だったのです。しかし、そんなことを許してくれるような雰囲気は当時は全くありませんでした。その上、2年生の時に担任になった先生は、超熱血な人で、給食が食べられなかったり、逆上がりができなかったり、絵を描くことができなかったりすると、ことごとく居残りをさせたのです。給食が食べられなくて、1人掃除の時間まで食べさせられていたこともしょっちゅうでした。えっちゃんは五感が鋭くて、特に食感が敏感なので、給食を残さず食べろというのは本当に苦痛でした。肉は噛んでも噛んでも飲み込めなくて、ゴムのようにしか感じられなかった。その先生は結局2,5,6年の担任だったので、えっちゃんはずっと熱血指導に苦しむことになります。えっちゃんは家で怒られることに慣れ過ぎていたせいか、怒られても平気な顔をしていました。これが先生にはとても反抗的だと映ったようです。それでますます怒られるの繰り返し。この時のことがトラウマになっているせいか今も熱血を全面に出してこられると、うっとなってしまうのです。

 そんなえっちゃんが大好きだったのは算数でした。図形は嫌いだったけど、とにかく数字が大好き。そろばんもならっていたので、計算も得意でした。それで、この頃は将来は数学の先生になりたいと思っていたのです。

 中学校に入ると、いろいろな小学校から生徒が来ることもあって、以前より人とおしゃべりするようになりました。部活はソフトテニス部に入ります。しばらくは大丈夫でしたが、そのうちテニス部で仲間外れされるようになりました。えっちゃんは何でもストレートに言ってしまうタイプ。それが他の部員にはカチンと来たようで、仲間外れにされてしまったのです。もちろんイヤだったけど、部活は休んでも学校は休みませんでした。その頃、学校はイヤでも行かなくてはいけないという思いがありました。それで休もうという思いには至らなかったのです。中学校でも忘れ物をよくするし、先生には怒られてばかりで職員室で正座させられたこともありました。それでもやっぱり怒られることに耐性がついているえっちゃんは平気な顔をするので、先生はますます怒ってしまうのでした。怒られているこの子が透明なバリアで必死で自分を守っているのにも気づかずに。

 中学生の頃は漫画を読むのが大好きでした。家にはたくさん漫画の本があって、貸本屋のようにみんな借りに来ていました。お兄ちゃんもいたので、少年漫画もありました。でも、アニメは見なかった。漫画はいろいろ想像できるけど、アニメでは想像できない。えっちゃんは自分の頭の中で想像できるものが好きだったのです。

 この頃、えっちゃんはお母さんから「こんな仕事があるんだよ」と税理士を薦められます。自分でも数字が好きだったし、家は自営だけどお金がないから税理士を頼めない。じゃあ私が税理士になればいい、そう思って将来税理士になると決めたのです。

 こうして泊高校の商業科に進学します。商業科の科目はどれも本当に楽しかった。簿記なんて面白くてたまりませんでした。特に勉強しなくても商業科の科目では常にいい成績を取っていました。

 高校では最初ソフトテニス部に入っていたのですが、途中でやめて先生に誘われた科学同好会へ転部します。ここはメンバーが楽しかった。何より、試合の勝ち負けでピリピリしなくていいのがいちばんありがたかった。えっちゃんは体育の授業が小学生の時から大っ嫌いでした。自分が原因で負けてしまうことが多く、勝ち負けがつくのはとってもイヤでした。だから今でも勝負事は嫌いです。

 税理士になりたかったえっちゃんは税理士コースのある専門学校を目指していましたが、成績がよかったため進路指導で大学に行けと言われます。英語がきらいだから大学に行くのは嫌だ、私は本当に税理士になりたいんだ、そう突っぱねてなんとか思いはわかってもらえました。

 こうして大原簿記専門学校に入学。2か月で日商簿記の1級に受かったえっちゃんは、本校舎とは離れたプレハブの教室でマンツーマンで勉強するという環境になります。何か月かは1人で税理士コースの勉強を、1年の後半からは2人になり、2年生からクラスが4人にはなりましたが、少人数教育に変わりはなく、在学中に税理士を取れというプレッシャーを感じながらの学生生活を送りました。サークル活動などもなく、本当につまらない学生生活でしたが、唯一よかったのは大嫌いな体育がないということでした。
 こうして在学中に税理士試験の科目のうち3科目に合格して卒業しました。

 卒業後は会計事務所に就職しましたが、ここは本当にパワハラがひどい所でした。
「ただいま戻りました」と言うところを「ただいま」と言ってしまっただけで2時間もお説教されたり、ちょっとしたことでもすぐに怒鳴られたりしました。先輩からは、「何をしても怒鳴られるから」と言われましたが、とても耐えられたものじゃないと7か月で辞めました。
 次にスーパーの事務として働きました。悪気はないけど言いたいことを言ってしまうえっちゃんは上司とうまくいきません。仕事はできるので、新しく入った子の教育係をさせられるくらいでしたが、上司との関係が悪化して辞めてしまったのでした。
 その次も別のスーパーで働きました。ここは学生時代にバイトしていたスーパーでした。なにしろレジのスピードが半端なかったえっちゃんは最初にレジを担当しますが、その後、青果部門の担当に。すると、また人間関係が悪化し、手も痛めてまた辞めることに。

 その後、就職したのはまた会計事務所でした。普通4~5年たたないとお客さんをつけてもらえないのですが、一番若くて資格もあるえっちゃんは入ってすぐに制服が支給され、お客さんもつきました。そして所長さんにすごく可愛がられたので、他の女性社員から妬まれてしまいます。お客さんともストレートにぶつかるので、だんだんお客さんとやり取りするのが苦痛になってしまいました。こうしてまた人間関係が悪化。だんだん苦しくなって、パソコンで鬱病のチェックすると「あなたは鬱です」とパソコンに診断されます。けれど、苦しい中でも仕事は続けました。体もおかしくなっていきました。「長崎さんだけ所長の態度がちがう。長崎さんは怒られないでしょ」と言われ、飲み会に行くのも苦痛でした。もう精神的にも限界の状態で体の具合も悪く、仕事を辞めて卵巣嚢腫の手術をしたのです。

 その後もいくつか仕事をしましたが、何をしても被害妄想がひどくなっていきました。いつも悪口を言われている感覚が続き、まわりと一切かかわらない、しゃべらなくなりました。そして全く動けなくなってしまいました。内科に行っても脳の検査をしても異常なし。とうとう鬱と診断されたのです。仕事に出てこいと言われても、行けるわけもありませんでした。全部が怖かった。その時に行っていた会社は、最後の挨拶もせずに終わりました。

 その後はひたすら家の中で過ごしました。もう自分なんか消えてなくなりたい。どうやったら楽に死ねるかを自殺サイトで探してばかりいました。
 けれど、1年たたないうちに文房具屋で働き始めます。えっちゃんは文房具に詳しく、店長とも仲良くやれましたが、どうしても他の女の人と仲良くなれないのです。とにかく女性の団体が一番苦手なえっちゃん。それは今も変わっていません。その文房具屋は一日無断欠勤をした後に辞めてしまいました。すると医者から、「なんで働けないの?」と言われたのです。そう言われるのが苦痛で、医者にも行かなくなりました。しばらくは薬がなくてもOKでした。
 
 その後、一人暮らしをしようと実家から引っ越しして富山の会計事務所で働き始めました。しかし、やはり症状がひどくなって、富山市の医者に行き始めます。最初はよかったのですが、次第に先生と合わなくなっていきます。「周りで何か起きたとき、自分の思い通りにいかないと納得しない」と書かれたえっちゃん。「仕事を休みなさい」との診断書を会社に見せると「会社をやめてくれ」と言われ、この仕事も辞めたのでした。

 こうしてアパートを引き払い、数か月で朝日町の実家に戻ります。その後もいろいろな仕事をしました。経理の仕事をした時は、夢ばかり語って現実を見ない上司にぞっとしたし、また会計事務所で働いた時は、入ってすぐに100人規模のセミナーをその事務所で一番のお局様と一緒に担当させられておかしくなりました。嫌いなカラオケでも無理やり歌わされるような体育会系のノリにもついていけなくて、立ち直れないくらいにダメージを受けました。この時にいちばん死にたいと思い、会計ももう一生できない、そう思っていました。

 その後はしばらく仕事をしていません。やがて、学生時代のアルバイトでお世話になった方が店長をしているスーパーで働き始めました。店長は、鬱病でもWelcomeだよと言ってくれました。チーフも鬱病の本を読んで勉強してくれていました。きっとそのスーパーがなかったら、今も元気にしていないと思うのです。けれど、5時間のパートからフルタイムのパートへと変わった時に、やらなくてはいけないことが増えすぎてパンクしてしまったのでした。

 間をあけずに、今度は黒部の事業所に事務として入りました。この時に、初めて自分が発達障害だということがわかりました。
 それが分かった時、最初はものすごく混乱しました。そうして、次の段階では、何でも発達障害のせいにしている自分がイヤになりました。ただ、そこも吹っ切れると、検査してよかったと思えるようになったのです。

 自分は国語の能力はないと思っていたけれど、言葉を使う理解能力があると言われて、そうだったんだと初めて思いました。実際に、えっちゃんの書く文章はとても読みやすくて、スッと入ってきます。発達障害者支援センターありそでは、自分は努力できないと思っていたけれど、めちゃめちゃ努力していると言われました。できることとできないことがわかったし、頭の回転が速くてパンクするタイプだということもわかりました。こんな風に自分の得手不得手がわかったことはとてもよかったと思いました。

 黒部の事業所でしばらく働いていたえっちゃんは、そこの所長とケンカして「やめてください」と言われてしまいます。この先どうしたらいいんだろうと思って、発達障害者支援センターありそに相談に行くと、ありそと職安の人が本気で怒って動いてくれました。その後は、職業訓練でホームページ制作の技術も身につけました。その後、コンサル会社で働いた後に、障害者枠で仕事をしたりもしました。けれど、事務やシール貼りやパソコン業務などの仕事をしていたら皆の視線が突き刺さるように思いました。なんでこんな雑用ばかりしなくちゃいけないんだろう。障害者枠で働く自分がみじめに思えてなりませんでした。女の人たちが裏で固まっているのも相変わらず苦手でした。その後子宮筋腫で体調がおかしくなり、手術。何か月も家にいる状態が続きました。

 ようやく回復できたのは昨年の12月です。会計で困っている人を手伝う仕事をフリーランスで始めました。確定申告のお手伝いなど、お客さんに合わせるのがとても楽しいと思いました。そうして、会計セミナーも開催するようになっていきました。えっちゃんのお手製のテキストは会計の素人が読んでもとてもわかりやすいと評判です。教え方もとてもうまいのです。得意な会計のことで誰かの役に立てるのは、とてもやりがいのあることでした。
それまでは人と話すことは苦手でした。特に慣れない人と話すのはとても緊張があったのです。でも、会計セミナーを通して、いろいろな人と普通に話せることが増えていきました。そして人と話すことがあまり苦痛ではなくなり、むしろ楽しいと思える時間も増えてきました。

 今はもう一つ楽しいことがあります。それは税理士試験の試験勉強です。今、えっちゃんは再び税理士になろうと挑戦しているのです。努力家の彼女のことだからきっと残りの試験も通るに違いありません。

 また【うつ病・発達障害の当事者おしゃべり会】を月に一回開催するようにもなりました。
告知文に彼女の思いがよく現れているので、ここに掲載します。

「ゆる〜く、うつ病・発達障害の当事者
おしゃべり会をやります。
 
適当にくつろげる居場所です。
 
みんなどうしているんだろう。知りたい。
何でも話せる場所が欲しい。
家に居ずらいから居場所が欲しい。
そんなカンジで気軽に使ってください。
 
しゃべりたくなかったら、
しゃべらなくても大丈夫。
だやかったら寝ていても大丈夫。
  
自分が居やすいように居てください。
 
本当に不安でたまらない時、
人がいるってわかるだけでも、
心が落ち着き、安心していられます。
 
聞いてもらうだけでも、
楽になるコトもあります。
 
気が向いたら、ふら〜っと立ち寄ってください。
途中参加、途中退出も大歓迎です。
事前申し込みは、不要です。」

自分が苦しかったとき、どうしようもなかった時、きっとこんな場があればよかった、
えっちゃんはそんな風に思っているのかな、そう感じます。

  税理士試験に受かって、晴れて税理士になったら、えっちゃんは一軒家を借りたいと思っています。それはこだわりの一軒家で、2階は税理士事務所、1階は当事者会などが開ける集いの場にします。そして、その集いの間は、必ず畳の部屋にします。今も当事者会は畳の部屋でやっています。畳の上だと好きな時に寝転がれるし、なんだかあったかい。
 
  そんな糸あわせ(しあわせ)な一軒家が出来たら、きっと遊びに行かせてね。

  小さい時、えっちゃんを包んでいた透明な丸い入れ物は、もうなくなったでしょうか。いえ、きっとそのバリアがある時もあるけれど、今、えっちゃんはそのバリアから外へと歩きだしています。私も一緒に歩いていけたらいいなと思います。そこはきっと、ダイバーシティが広がる場所だから。