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今日の人161.佐藤 剛(タケシィ)さん [2016年10月10日(Mon)]
 今日の人は、唄三線奏者として日本全国のみならず海外でもご活躍中のタケシィさんこと佐藤剛さんです。
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 タケシィさんは小田原で育ちました。小さい時は虫捕りや野球をして遊んでいましたが、カエルはなぜか苦手な少年でした。(実は今も苦手です。) 家の中ではトランプや人生ゲームをして遊んでいました。進んで先頭に立つタイプではありませんでしたが、まわりの子に注目はされたいなぁと思ってはいました。
 ロボットアニメやNHKの人形劇も好きでした。特に好きだった人形劇は新八犬伝です。当時流行っていたアメリカ横断ウルトラクイズのマネをして、友だちと一緒に「ニューヨークへ行きたいか~」と言ってクイズを出し合っていたのもいい思い出です。テッパンのサザエさんや意地悪ばあさんもよく見ていました。そしてタケシィさんは子どもの頃からなぜか目上の人に可愛がられる性分でした。今もそうですが、人懐っこい笑顔が周囲を和ませていたのだと思います。

 小学校の高学年の頃は、鉄道が好きな鉄ちゃんだったので、将来は車掌になりたいと思っていました。特に憧れていたのは、ブルートレインの車掌でした。学級委員はいつも引き受けていて、小学校では児童会長もやりました。

 中学ではひたすら勉強していました。ひたすらやったらトップクラスになり、そこから落ちないようにまたひたすら勉強するのでした。そんなタケシィさんの息抜きは音楽でした。聴いた音を耳コピーして弾けたので、当時はまっていたYMOをオルガンやシンセサイザーで弾いていました。自分でDJをしてラジオ番組を作って、それをカセットテープに吹き込んで友だちに回したりもしていました。

 こうして進学校の小田原高校に進んだタケシィさん。高校では鉄道研究会に入ります。駅名はほとんど全部わかったし、駅名を聞くと、距離感もわかるという相当な鉄道好きでした。それなのに、大人になってからタケシィさんは鉄道とは関係のない仕事に就き、鉄道に興味のなかったお兄さんがJRに就職したのですから、不思議なものです。

 この頃は鉄道研究会のみんなと野球をやったりもしていたし、音楽の幅はもっと広がって、フュージョン、ラテンフュージョンもいつも聞いていたし、洋楽にもはまりました。MTVやベストヒットUSAをずっと流しっぱなしにしていたし、基地向けの英語の放送も聴いていました。片思いの女の子もいました。といっても、恋に恋してる感じでした。

 最初、理系を選んでいたタケシィさん。でも理系科目の物理や化学が不得意科目で、英語、国語、社会が得意だったので、途中で文系にチェンジします。そうして、つぶしが利きそうな法学部を受験することに。途中で文系に変えたし、浪人も覚悟していたのですが、第一志望の中央大学の法学部に現役合格しました。

 法学部に入ったからには弁護士を目指そうかと、最初は意気込んでいたのですが、大学の授業を受けて、あ、無理だと思い、すぐにあきらめてしまいます。代わりに、大学時代に夢中になったのは、ギター・マンドリンクラブでの活動でした。家にギターがあったのを思い出し、軽い気持ちで入ったのですが、入ると体育会系の超ハードなクラブだったのです。春と秋の定期演奏会に加え、合同演奏会や部内発表会、合宿と、まるでクラブをしに大学に行っている感じさえしました。パート毎に合奏練習をし、夜中に個人練習をする毎日。時には徹夜で練習している時もありました。4年生の時には4年のギターパートが1人になってしまい、やめるなんてとてもできない状況に。そしてトップリーダーも任せられ、おまけにその年はなんと中央大学ギターマンドリンクラブ50周年という節目の年だったからさあ大変。50周年記念コンサートをOBも交えて東京、大阪、名古屋で開催することになったのです。おかげで4年になっても就活する暇など全くありませんでした。記念コンサートが終わった後は、感動というより脱力という言葉がぴったりでした。それほど力を使いはたしたタケシィさんなのでした。

 そして、4年の6月からようやく就職活動を始めます。その時、世の中は超売り手市場でした。タケシィさんは、ほとんど就職活動することなく、最初に受けた企業から内定をもらったのです。就職事情の厳しい今の学生から見ると、考えられないことかもしれませんね。内々定の日には、箱根のコテージにご招待されました。当時は、内定を出した学生がほかの所に行かないように、一流ホテルや豪華客船に缶詰にされるなんてこともあったのです。
結局、部活は11月まで続け、卒業に必要な単位を取った後で、卒業旅行にも出かけました。

卒業後、トステムに営業職として入ります。研修が終わって配属になったのは福島県の郡山でした。一人暮らしはこの時初めてだったので、知っている人が誰もいない、日曜に誰とも話さないで過ごす、そんなこともあり、親のありがたみをひしひしと感じました。

 2年目になって、少し仕事に余裕が出てくると、何かやろうと思えるようになりました。そうだ、自分は泳げないから泳げるようになろう、そう思ってプールに通うようになりました。すると、プール仲間が出来て、スキューバーダイビングにも誘われるように。たくさん仲間が出来て、一緒に猪苗代湖でキャンプをしたり、スノボにも行くようになりました。この時、スノボに ものすごくはまりました。まだスノボ人口は少ない頃だったので、本気でオリンピック選手を目指そうかしらと考えたほど のめりこみました。タケシィさんは、のめりこむと とことんな人なのです。週末遊ぶために、仕事もがんばれました。この時、キャンプで知り合った女性と結婚しました。なんと彼女は、同じビルの同じフロアで働いている人だったのです。なんだか運命の糸を感じて、2人は結婚したのです。

 こうして6年半の福島勤務を経て、東京に転勤に。でも、この頃になると仕事への情熱はなくなっていました。営業相手がエンドユーザーではないので、客の顔が見えにくいというのもあって、なんだかノルマのためだけに働いているような気になることもしばしばありました。けれど、嫁をもらった以上、仕事を辞めるわけにはいかない、そう思って働きました。この頃は旅行に行ったり、映画を見たりして余暇を過ごしていました。

 しかし、奥さんにどうしてもやりたいことが見つかって、2人は離婚。なんとか気持ちを奮い立たせようと、プールに行ったり山登りに行ったりしていました。

 その頃、朝ドラで「ちゅらさん」が人気になり、沖縄料理の店が流行っていました。そんな時に、夏川りみと古謝美佐子のジョイントコンサートがあって、見に行くことに。そのコンサートで、沖縄民謡も歌われました。舞台で正座で弾く生の三線の音に、タケシィさんは一気に心を持っていかれました。これをやりたい!そう思いました。すると、会社の子が、すぐ近くに三線教室がありますよ、と教えてくれました。
 その門を叩いて三線を習い始めたタケシィさん。三線の楽譜は、五線譜とは全然違う工工四という楽譜です。最初「なんだ、これは?」と思いましたが、好きになるととことんのめり込むタケシィさんの本領発揮です。あっという間に工工四の譜面を読めるようになり、弾くのが大好きになりました。もっともっとと練習しているうちにあれよあれよと上達し、先生のデモ演奏に一緒に行くようになりました。そして1年もたつと、人前に出て三線の演奏をするようになっていました。

 カウンターしかない音楽バーにも顔を出すようになって、そこで三線でジョイント演奏をすることもあり、仕事以外は三線にどっぷりという日々を過ごしていました。しかし、そのお店にもなじんできた頃に、名古屋への転勤が決まります。名古屋へ行く前に、お店に行くと、名古屋のお店を紹介してくれました。名古屋に行き、そのお店で素人ミュージシャンと仲良くなりました。けれど仕事は最悪でした。そして、名古屋に行って1年、とうとう仕事を辞めました。

 仕事を辞め、東京に戻ったタケシィさんは、昭島でアパートを借りました。そして、再就職したのですが、その会社がいわゆるブラック企業で、こちらは1年で辞めることに。辞める時に、1年続いた奴は珍しいと言われたほどでした。この時、タケシィさんは、40歳。

 いろいろ考える前に3か月遊ぼう、そう思いました。沖縄で過ごしたり、Liveに出させてもらったり、そうして過ごしているうちに、『音楽でやっていきたい』その思いがどんどん強くなって、ミュージックバーのママに相談しました。はじめは「絶対やめた方がいい」と強く反対されました。いや、こんなこともう出来ないから絶対やる!タケシィさんの強い思いを聞いて、ママは最後には応援すると言ってくれました。

 こうして唄三線奏者のタケシィが誕生しました。最初のうちはご祝儀的にお客さんが来てくれました。しかし、その年リーマンショックがあり、お客さんはガクッと減りました。
 でも、タケシィさんはもう迷いませんでした。この道でやっていくと決めたんだから、動揺することはするまい、そう思っていたのです。とにかく場数を踏みました。そしてステージをこなせばこなすだけ、たくさんの出会いが生まれていったのです。

 そんな出会いのひとつに富山の竹野佑都さんがいました。竹野さんに、富山でどこか演奏するところがあったら教えてほしいと言ったところ、氷見にある「紅茶のとびら」を紹介してくれました。こうして4年前に初めて富山でのLiveを行いました。紅茶のとびらで、金沢のお店も紹介してもらい、金沢ともつながりが出来ました。しゃみせん楽家の濱谷さんとも知り合って、おわら船で三線を弾いたりもしました。そしておわら風の盆の時期には、八尾で過ごす場所も出来ました。タケシィさんは本当に人とつながる才能がおありなのだと思います。どこに行っても、すうっと友達が出来るのです。

 今年の富山ではいろいろな所でLiveを行いました。日本全国でそうやってLiveが出来る日々が本当に楽しいとタケシィさん。サラリーマンをしていた時に比べると、手元に残るお金は少ないけれど、心はうんと豊かです。人との出会い、土地との出会い。日本のことでも、いかに知らないことが多いかというのを毎回思うのです。そして、この日本の文化を海外の人にも知らせなければ、と思うのです。そんなタケシィさんは、海外でもLiveをしています。この秋にはカンボジアでもLiveします。どんな出逢いが待っているか、とてもワクワクしています。

 芸の道に終わりなし。唄三線の道はまるで人生そのもののようだと感じています。もちろん、プレッシャーを感じることもありますが、でもそれをはるかに勝って楽しいのです。

 自分は沖縄の人と同じように伝えることはできない。けれど、沖縄の人とはちがう役割で伝えることができる。自分は沖縄の音楽の入り口的な役割を担って、それを人々に伝えていきたい、そう思っています。

 タケシィさんの周りでは、そんな生き方の影響を受けて、自分のやりたいことをやる人が増えています。唄三線奏者として歩き始めて9年目。本当に勢いだけで始めたと言ってもいいけれど、その前に20年間サラリーマンをやっていたからこそ、9年続けていられる自分がいるとも思うのです。

 そんなタケシィさんに、夢を伺ってみました。夢はずっと現役で歌い続けること、そして世界各地で歌うこと。いつかは紅白歌合戦にも出る!その夢、きっとかないますね。
 だって妄想したら、もう そうするしかないですから。

 土地を愛し、人を愛し、三線を愛す、そんなタケシィさんはこれからどんな唄を紡いでいってくれるでしょう。今度あなたの土地でタケシィさんのLiveがあったら、ぜひ、訪ねてみてください。きっと居心地のよい時間が、そこにはあります。

 タケシィさんのLive情報右矢印1http://takec.jp/schedule.html