門野静江さんは1938年(昭和13年)4月18日に、富山市神通町で生まれました。5人兄弟の末っ子で、お兄さんやお姉さんとは、うんと年が離れていたので、家族みんなから大変可愛がられて育ちました。
小さい頃はお手玉やなわとび、ボール遊びなどをして遊んでいました。周り中子どもだらけだったので、遊ぶには事欠きませんでした。
当時お父さんはトラック運送業をやっていて、人を5〜6人雇うなどして、とても羽振りがよかったのです。お姉さん用にたくさんの着物をあつらえましたし、植木もたくさんありました。お兄さんに赤紙が来て、出征していく時は、それはそれはたくさんの見送りの人が来て、万歳万歳と叫んでいました。お母さんがお兄さんの無事を祈ってお百度参りをしている時に、ついて歩いていたのも覚えています。
しかし、やがてお父さんはトラックも従業員も軍に取られてしまいます。昭和20年の7月の終わり、いよいよ富山にも空襲があるとのうわさを聞いたお父さんは、呉羽山のふもとにある金屋町に疎開することに決めました。8月1日、残った家財道具を馬車に積んで、神通町から金屋町へと向かっていました。その馬車の荷台には静江さんも乗っていました。神通町から金屋町へと向かう道中には富山歩兵連隊の兵舎(現在の富山大学五福キャンパス)がありました。そこを通った時、たくさんの兵隊が慌ただしく動き回っていました。金屋町近くまで来た時に、空襲警報が鳴り始め、途中で焼夷弾も落ちてきました。大きな爆音が響きました。
「みんな山へ逃げろ!」お母さんにしがみついて必死で山へと登りました。山の上から見た光景は70年以上たっても鮮明に思い出しました。富山の街が真っ赤に染まって真夜中なのに昼のようでした。ガタガタガタガタ震えが止まりませんでした。1945年8月1日深夜に起きた富山大空襲で、神通町の家は焼け、友だちや知り合いのおじさん、おばさん、たくさんの人が亡くなったのです。その日、神通町から金屋町へと逃れていたことで、静江さんの家族は九死に一生を得たのでした。
それから2週間後の8月15日、終戦。それからしばらくは、食べることに必死でした。畑を借りて野菜や芋を育てました。それでも、まだ子どもだった静江さんは、そこまで苦しい思いをした記憶がありません。3年程たって、ようやく白いご飯も食べられるようになると、お母さんが「B29も飛んでこんし、白いご飯も食べれるし、ありがたいしゃわ(世の中)になった」といつも言っていました。
しばらくは学校も本当に寺子屋のような感じでした。寺町のどこかの会社の寮のような場所が学校代わりでした。
初めての遠足は小学校3年生の時。お母さんが朝早く起きてヨモギを摘んで、静江さんのために草団子を作ってくれました。でも、静江さんはその時、「こんなもん要らん」と言って、その草団子を放りました。「もったいないことする」と寂しそうに言っていたお母さんの後ろ姿が忘れられません。なんでそんなことをしてしまったかと胸がチクチクしました。歳を重ねるほどに、その後ろ姿をよく思い出しました。
お母さんは畑で作った野菜をリヤカーに積んで売りに行っていました。「何も買ってやれん」と言って、コツコツ貯めたお金で、静江さんにスカートを買ってくれました。末っ子の静江さんは、ことさらにかわいかったのでしょう。
中学校は富山西部中に。静江さんの時代は、急速に高校に行く子が増え始めていました。しかし、お兄さんが幼い子どもを3人残して早逝してしまったため、お父さんとお母さんは親代わりに孫も育てなければならず、静江さんを高校に行かせる余裕がありませんでした。「お前を高校にやられん。かわいや、かわいや(かわいそうに)」とお母さんが申し訳なさそうに言っていました。しかし、まだまだ中卒の子は多かったので、静江さんは特段気にすることもありませんでした。
こうして中学を卒業後、親戚の夫婦の家で間借りして、神岡の神岡鉱山の売店で働き始めました。3年程働いた後、家へ戻って和裁学校へと通い始めました。この頃はまだ花嫁修業として、和裁や洋裁をやるのが、一般的だったのです。
19歳のお正月、お父さんがトイレで突然倒れてそのまま帰らぬ人になりました。おもちが大好きで、いつもお正月のおもちをいくつも食べるのに、その年はなぜかひとつしか食べなかったのです。おかしいねぇと言っていた矢先の出来事でした。
その後、23歳でお見合い。新湊の堀岡から干物を売りに来るおばあさんがいて、その方が紹介してくれたのが、門野久雄さんでした。筆まめな久雄さんは、よく手紙をくれました。筆まめでない静江さんは、あまり返事を出しませんでした。
24歳の時に結婚。新湊の魚屋の2階に間借りした小さな部屋からのスタートでした。その後、高岡のアパートに引っ越し。アパートと言っても、当時は台所も共同でした。それでも、夫婦仲が良ければ、貧乏は苦にならないものでした。娯楽もまだ少ない時代です。よく、自転車に2人乗りして、映画を見に行っていました。3本立ての映画も当時よくありました。
昭和41年、待望の男の子を出産。本当に愛らしい子でした。しかし、わずか3か月で天へ召されてしまいます。3か月で止まった育児記録…。その悲しみは計り知れません。その前に死産でも子どもを失っていたので、2度も逆縁にあったのです。人生においてこれほど残酷なことがあるでしょうか。
深い悲しみを背負っていた2人がまた子どもを授かったのは昭和43年。今度は女の子でした。この子は健康優良児的にすくすくと育ちました。46年には男の子にも恵まれました。
男の子みたいなこの子が長女の妙子です。
内職をしながら子育てする毎日。米島の社宅にいた時は、橋の向こうにあるお風呂まで歩いて通いました。銭湯に行くときに、あかすりが一つしかなかったので、女湯から男湯に、「お父さ〜ん、あかすり投げるよ〜」とあかすりを投げて渡していました。昭和40年代の銭湯は、そういう作りだったし、まだおおらかな時代だったのです。
その後、木津に引っ越し。仕事も内職から、パートへと。パート先でもパートリーダーを任されるなど、仕事への姿勢はいつも前向きでした。ちょっとした工夫で売り上げを伸ばすのが得意でした。
職場の仲間たちと
贅沢はしませんでしたが、子どもたちには栄養のあるものを食べさせようといつも料理は工夫をしていました。未熟児で生まれた息子は186cmまで背が伸びたほどです。夫婦とも車を持っていなかったので、出かける時はいつも家族で自転車でした。子どもたちが小学生の頃は毎年夏休みに家族旅行に行くことにしていました。普段はつましく暮らしていましたが、旅行の時は特急や新幹線、そして飛行機で遠出しましたので、子どもたちは夏休みの旅行を楽しみにしていました。45歳の時に、久雄さんが会社で大やけどを負い長期入院。自転車で病院と家とパート先を行ったり来たりする毎日でした。病院は家から自転車で片道30分かかりましたが、2往復する日もありました。
静江さんは家族のためにほとんどの時間を使う昔ながらのお母さんでした。子どもたちにとっては、時々のお小言が煩わしいときもありましたが、いつも朗らかに笑うかわいい人でした。年の離れた末っ子だったからでしょうか、甘えるのもとても上手でした。「ホントに上手に人を使うのぉ」と久雄さんに感心されていたそうです。
庭いじりをするのが好きで、小さい庭ですが、季節ごとに咲く花をいろいろ植えました。大輪の花よりも、小ぶりなかわいい花が好きでした。日々、丁寧な暮らしをして過ごしました。そうして、2人の子どもたちはそれぞれ国立大学を卒業し、娘を無事に嫁に出しました。
平成10年、12年には孫も生まれます。2人とも男の子で、2人が小さい頃はよく久雄さんと2人で孫守りをしていました。また、孫と温泉に行ったりするのも楽しみでした。2人の孫も、じいちゃんとばあちゃんが大好きでした。
家の前でシャボン玉
久雄さんのお姉さんは、よく弟夫婦を旅行に連れて行ってくれました。オーストラリア、タイ、中国などにも行きましたが、静江さんがいちばん印象に残ったのはハワイでした。きれいな海の色が心に残りました。日本国内は北海道から九州沖縄まで、夫婦であこち出かけました。
ハワイにて夫婦で
ずっと穏やかに暮らしてきましたが、左耳の下に小さなおできのようなものが出来て、それがだんだん膨らんできました。おそらく良性のものでしょう、と言われましたが、平成26年7月に手術すると悪性の腫瘍でした。その時は無事に腫瘍が取れ転移も認められないと言われました。が、その後、肺や肝臓にも転移が見つかり、放射線、抗がん剤などいろいろ試みました。抗がん剤治療は自宅からの通院で行いました。しんどい中でも毎日家事もこなしていました。その頃の楽しみは、娘が小学生の時に書いていた何冊もの日記帳や作文を読むことでした。それらを読むと昔のことが鮮やかに思い出されるのでした。娘が来ると、昔話をよくしていました。
28年の春には孫の高校合格祝いも兼ねて孫たちと宇奈月温泉へ行きました。その後はいつも仲良くしている親戚と一緒に山代温泉にも行きましたが、これが最後の旅行になりました。
食べ物を受け付けなくなり、平成28年5月30日に再入院。お医者様の話では、腫瘍で肝臓がパンパンに膨れて、それが胃を圧迫していて何も食べたくない状態なのだとおっしゃいました。けれども、その時はまだ緩和ケアチームを組んで自宅で過ごし、8月に厚生連に緩和ケア病棟が出来たらそこに入りましょうというお話で、家でも点滴ができるように胸にポートを埋め込む手術をしたのも亡くなるわずか2週間ほど前の話です。
(ここから娘の目線で書きます)
6月18日の土曜に母から「キュウリの漬物が食べたくなったから持ってきてくれんけ」と電話がありました。急いで浅漬けを作り、お昼に病室に持っていきました。夕方、電話があり、「キュウリの漬物おいしかった。久しぶりにちゃんとものを食べた気がしたわ」と言っていたので、とても嬉しく感じていました。20日の月曜に病室に行ったときは、まだ自分で歩いてトイレにも行けていました。私は看護婦さんから呼び止められて、「お母さんが家に帰った時、お父さん、点滴とか変えるが大丈夫かね」と聞かれたりしていたので、まさかその数日後に危ない状態になるとは思っていませんでした。
父から、「お母さんが大変危険な状態だと先生から言われた」と電話があったのは24日金曜日の朝のことでした。急いで病院へ行くと、母は「お母さん、起き上がるがも出来んようになったがいぜ」と言っていました。それでも、はっきり話は出来て、私がノートパソコンに入れていた孫たちの小さい頃のビデオの様子を見て、嬉しそうに笑っていました。25日土曜日も話は出来ました。26日には2人の孫に「ありがとう、ありがとう」と言って何度も手を握っていました。昼過ぎくらいからは意識がはっきりしない時間が増えましたが、父が病室からいなくなると、「お父さん、どこにいったが?」と言っていました。その時になるともう目もはっきり見えなくなっているようでしたが、父がいなくなると気配ですぐにわかるようでした。「24-○○○8(自宅の電話番号)に電話かけて」とも何度も言っていました。「ちゃんとかけたよ。心配せんでいいちゃ」と言うとまた眠りにつきました。でも、痛がって、ずっと辛そうにしていました。私は息子が一緒にいたので、いったん息子を連れて家に戻りました。お昼から、お世話になったおばちゃん(よく旅行に連れて行ってくれた父の姉)が来た時は、母は「ありがとう」と何度も手を合わせていたそうです。まだいろいろ話せた数日前に、「お義姉さんにいっつもいろんな所に連れていってもらって、本当に感謝しとるがいぜ」と言っていたので、最後に感謝の気持ちを伝えたかったのでしょう。
夕方病室へ行くと、母は更に苦しそうにしていました。看護婦さんに痛み止めを入れてもらう回数が増えました。夜9時くらいでしょうか。ふっと目を覚まして、「妙子、まだおったがけ。あんた忙しいがいから、もう帰られ。ありがとう」と言いました。これが、母の私への最後の言葉になりました。父は何日もほとんど寝ないで、母の側についていました。私が、家に帰って、いろいろ家のことを済ませたのが午前1時過ぎ。うとうとしていた午前2時10分頃、父から電話がありました。
「お母さん、もう危ないからすぐに来て」
慌てて、車を走らせましたが、こんな時ってホントに遅く感じます。
2時35分過ぎに病室に着きました。
「間に合ってよかった」と父と看護婦さん。
「妙子も来たよ」と父が言うと、母の目が開きました。父も私も弟もいて安心したのか、その後、目を閉じました。看護婦さんに、酸素マスクを取ってもらいました。苦しいのに、よくがんばったね。向こうで、お兄ちゃんたち(幼くして亡くなった私の兄)に会えるね。
父と私と弟と3人でかわるがわる脱脂綿に含ませた水で口を湿らせてあげました。
そうして、母の呼吸がだんだんと弱くなりました。午前2時57分、息を引き取りました。享年78歳。
生前、母は父と二つの約束をしていたそうです。一つは延命治療をしないこと。もう一つは葬儀を家族葬にしてほしいということ。
その言葉通りに延命治療はせず、母は皆にありがとうと言ったあとに旅立っていきました。そして葬儀は家族葬で、家族や親族、そして母が好きだったたくさんのお花に囲まれて、たくさんの思い出を語りながら、送りました。
葬儀の前に母の棺に入れるものを探していると、私が母に送ったたくさんの手紙の束が出てきました。ずっと大事にしまっていたのですね。その中には小学生の時の母の日にあげた手紙とお手伝い券まで入っていました。お手伝い券、使ってくれたらよかったのになぁ、お母さん。
その手紙とお手伝い券、孫たちが書いた手紙も棺の中に入れました。私がそっちに行ったら、今度はちゃんとお手伝い券使ってね。
今頃そっちで、ばあちゃんが作ってくれた草団子をお兄ちゃんたちと一緒に食べているかもしれないね。
小学生の時の母の日にあげたお手伝い券と手紙