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今日の人159.久保あきさん [2016年07月14日(Thu)]
 今日の人は東洋学専門スクールHappyLecture Lively(易経勉強会・気学塾・名付け・家相・引越し・ビジネス鑑定)主宰の久保あきさんです。
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 あきさんは昭和53年に富山市で生まれ、3歳まで富山で過ごしました。
幼稚園からは東京に。その幼稚園の給食のカレーライスが大好きでした。(正確にはそのカレーライスの上にのせられていたゆで卵のスライスが大好きだったのですが)
 その幼稚園は、いろいろなことが習える幼稚園で、あきさんは日本舞踊とピアノを習っていました。けれど、小さい頃は引っ込み思案で発表会の時にトライアングルで前に出た時に、自分がどこで弾くのかわからなくなって、そのまま引っ込んでしまう、そんな子でした。でも、幼稚園の先生は大好きで、将来は幼稚園の先生になりたいなぁと思っていたのです。

小学校に入っても、その先生の家に遊びに行くくらい、その先生のことは大好きでした。電車遊びやレンジャーごっこをして遊ぶのが好きという、男の子っぽい一面もありました。もっとも、レンジャーごっこでは、ピンクレンジャーを取り合っていたのですが…。あきさんには弟がいるのですが、弟に髪の毛を引っ張られても怒りもしない温厚な姉でした。しかし、勉強はさっぱりわからず大嫌いでした。わからなくても「わからないから教えて」が言えませんでした。わからないとお母さんに怒られ、怒られるからますます教えてと言えなくなる。そんな繰り返しでした。その頃、お母さんとお父さんは折り合いが悪く、お父さんは2週間に1回くらいしか家に帰ってきませんでした。ですから余計にお母さんのイライラがあきさんに向かってしまったのです。

 やがて、両親は離婚。あきさんと弟さんはお母さんの実家のある富山に戻ってきました。小学校では東京からの転校生というだけで目立ちます。しかも、東京の小学校では大丈夫だったヘアバンドも富山では禁止されていました。ですから、何かと窮屈な思いをしていたのでした。そんなあきさんの救いになったのが、吹奏楽でした。あきさんの小学校のブラスバンドの顧問の先生が、たまたまクラス担任の先生でした。その先生に薦められて、あきさんはブラスバンドに入ったのです。こうしてホルンを吹き始めました。全国大会に行くような小学校で、あきさんは4年生からはレギュラーとして活躍しました。

 しかし、クラスではなかなかなじめませんでした。そこで、5年のクラス替えを機に、今までの標準語ではなく、富山弁で話すことにしました。くだけた感じを出したことで友だちもできました。そうやって出来た友だちが4〜5人で家に遊びに来ました。でも、その時、あきさんの家は散らかっていました。お母さんはあきさんや弟さんを養うために水商売をしていました。夜中遅くに帰ってきて、朝あきさんたちが学校に行くときはいつも寝ていました。それで、家の中は常に散らかっているような状況だったのです。そんな家を見て、遊びに来た子たちは「もう遊びに行けん」と言いました。そこからまた友だちができにくくなりました。体育で2人組を作る時も、なぜか自分だけが余って1人になってしまいます。そんな時でも自分からはなかなか声をかけることができず、つらかった。そんなあきさんを救ってくれたのは、やはり吹奏楽だったのです。なにしろお盆とお正月以外は休みがありませんでした。ですから、練習をしている時は、あまり余計なことを考えずにすんだのです。

 お母さんとおじいさんおばあさんとのケンカもひどいものでした。朝、学校に行くときはお母さんはまだ寝ていたので、朝ごはんはありませんでした。給食であまったパンをもらってきて、校門で食べていました。栄養状態が悪かったせいもあるのでしょうか、100mを走るのに20秒もかかっていました。勉強も出来ず、運動も出来ない。クラスの子からも避けられている。暗くて重い心を子ども時代のあきさんは抱いていたのです。

 あきさんの家の前にはお寺がありました。あきさんはそこの子と仲良くなりました。その子はお寺の子なのですが、ぐれていました。そういう子といると、なぜかホッとしました。
お父さんは1〜2か月に1回会いに来て、一緒にご飯を食べたり、キャンプに行ったりもしました。お父さんにもらったお年玉で、弟さんとお揃いのラジカセを買って重い思いをして持って帰ってきたことを懐かしく思い出します。弟さんとの時間が、あきさんには心穏やかに過ごせる時間でした。

 横浜の友だちとはずっと仲良くしていました。一緒に豊島園に行ったり、友だち家の別荘がある越後湯沢にスキーに行ったりもしました。保母さんになりたいという思いはずっとありましたが、お父さんのお姉さんがやっていたグラフィックデザイナーにもあこがれました。

 しかし、とにかく勉強が嫌いでした。音読させられる時も、漢字が読めません。覚えたり、応用したりすることが苦手でした。あきさんが高学年になった頃は祖父母は埼玉の伯父さんの所に引っ越しました。それで、夜、家には大人がいないので、宿題をしなくても、誰も叱ったりはしなかったのです。

 ただ、さすがにあきさんにもお母さんにも焦燥感があったのでしょう。5,6年の時には家庭教師に来てもらっていました。この時の先生がとてもいい先生で、ニベアのいい匂いがする大学生でした。しかし、2人目の家庭教師が不真面目な大学生で、夏休みにパタっと来なくなってしまったのです。人によってこんなにも対応がちがうということを、小学生のあきさんは学んだのでした。

 ブラスバンドは相変わらず強くて、盛岡や静岡へも行っていました。練習でもとても達成感がありました。でも、パートリーダーの友だちを超えられない、というのが常にありました。けれど、ブラスバンドに支えられたと言ってもいい小学校時代でした。

 中学校でも吹奏楽部に入ります。この時、打楽器を選んだことで一気に芽が出ました。そして、あきさんは上の学年の男子にとにかくモテました。あきさんの姿を見たいがために打楽器パートの前に男子が群がりました。そんなわけで、同学年の女子から反発を買います。その頃、向かいのお寺のうちの子と夜遊びにも出かけるようになっていました。
勉強は相変わらず苦手で、後ろから2番をキープしていました。受験できる高校がなく、吹奏楽の推薦で、マーチングで有名な龍谷富山高校(当時は女子高)の音楽コースへ。

 春休みにはすぐに部活が始まりました。マーチングの強い部だったので、2年生の時にはフランスに2週間遠征したほどでした。しかし、この頃、家ではお母さんの彼氏がDVであきさんたちにも暴力をふるったので、家にはほとんど帰りませんでした。あきさんは、年上の彼の家で泊まっていました。おしゃれにももちろん興味があったので、いろいろな服やファッショングッズも買っていました。実入りのいいコンパニオンのアルバイトをしたりもしました。心の空洞を埋めるために、楽しいことに向かっている気がしました。弟も高1の時にはすでにDJを目指すなど、2人してぐれている感じでした。けれど、お互いに悩みを悩みとしてとらえていなかったのです。夜中に遊びに出ているのですから、危険なこともよくありました。でも、お母さんはあまり怒らない人でした。

 高校卒業後は渋谷にある美容学校に入ろうと受験しましたが、落ちてしまいます。それで働きながら美容師になる道を歩こうと美容院に就職しましたが、わずか3日で仕事を辞めました。そこは2年位働いてようやくシャンプーを任されるような美容院だったので、とてもじゃないけど無理だと思いました。それからは美容院を転々としましたが、どこも長続きはしませんでした。そうして高岡の歓楽街 桐木町で夜のバイトを始めます。それが19歳の時でした。
 その後は、アパレル関係で昼に働きながら、夜は富山市の歓楽街 桜木町に勤めていました。生来の美貌に加えて、話術も巧みなあきさんは、あっという間にお店のナンバー1に上り詰めました。お店にはVIPルームもあって、それこそ富山の政財界の重鎮が集っていました。あきさんはそこで、稼ぎ方、男の選び方、人生の機微、いろいろなものを学んだと言っても過言ではないでしょう。
ある時、あきさんはあるブティックのオーナーから、うちで働かないかと誘われます。こうしてそのブティックで働き始めたのですが、ブティックのオーナーがバーを出した時に、そのお店をあきさんに任されたのです。そのバーで出会ったのが旦那さまでした。旦那様も相当にモテる人でした。モテる男とモテる女が出会って結婚しようというのですから、そりゃあもういろいろあるわけです。

その頃、あきさんは気学に出会っていました。初めて「これは本物だ!」と思えるものに出会えた喜びは大きく、すっかり気学にはまっていきました。気学に叶うものはない、そう感じたあきさんは気学を猛勉強しました。それまで勉強に全く興味が持てなかったのを取り返すように、ひたすら学びました。ビジネス、政治の世界にも気学はなくてはならないものだということが、学べば学ぶほどわかりました。

そしてあきさんが、彼の名前を鑑定したところ、今までお付き合いした誰よりも鑑定結果が良かったことも手伝って、結婚へ踏み切りました。旦那さんは結婚するなら、お店を辞めてというので、お店は辞めました。しかし、実はその時まだ旦那さんはたくさんいた彼女たちとちゃんとは別れていなかったのです。

結婚当初は旦那さんの実家で同居していたあきさん。けれど、日常会話ひとつとっても受け入れられていない感じがして、子どもが生まれて2歳の時に、別居に踏み切ります。そのころ、旦那さんは自分でやっていた店を辞めて夜勤の工場で働き始めるようになっていました。けれど、帰ってきてすぐにパソコンのスイッチをつけてゲームをし始めるのにゲンナリしました。彼女たちと別れられないことも原因になり、旦那さんとも離れて住むことにしたのです。

1年離れて生活し、別れるか、それとも自分が我慢するか…と思っていたところ、旦那さんが泣いて謝ってきました。別居している間、新たに正社員として務めることになり、また一緒に住むようになったのです。
会社勤めになったことで、生活が規則正しくなり、一緒に住めたことが嬉しく感じました。けれど、次第に『家にいるなら手伝ってよ、いろいろやってよ』という求め心が強くなっていきました。そうして、また事あるごとにぶつかって、破局寸前という感じにもなりましたが、その時に心理学の手法を使うようにしました。そうすると、いろいろなことが不思議とうまくまわるようになりました。気学の先生に言われたことを、疑いの心を持たずに「ただやる」ということも徹底しました。そうすることで、心のモヤモヤがなくなり、あきさんが笑顔でいることで、旦那さんも大変穏やかになりました。旦那さんとずっと一緒にいるということを決めたあきさん。一緒に生きようと決めると、何かあっても解決できる方法が先に思い浮かぶようになりました。そして今では3人の子どもたちと旦那さんと一緒に幸せに暮らしています。

あきさんが今いちばんやりたいと思っていることは、たくさん来てくれるお客さん一人一人の思いにちゃんと応えられるようにしたいということです。そのために情報発信していきたいし、自分自身もずっと勉強していきたい。人はいくつからでも変わることができる、それを見事に実践して見せてくれているあきさんなのでした。

そして、今、楽しいと思うのは、ご飯が美味しく出来た時。仕事に没頭しすぎると、ついついご飯のことも忘れてしまうのですが、ご飯がある家庭というのは、愛情に包まれていて幸せだと思うのです。だから、タスクを明日に回してでも、ご飯は作るようにしています。

 あきさんは子どもの頃の自分のような家庭環境にいる子どもたちに声かけできる環境を作りたい。そして、いつからでも人は変われるんだよ、ということを伝えたいと思ってもいます。それは小さい頃に悩んでいた自分自身に一番伝えたいことなのかもしれません。そして、DVなどの負の連鎖を親になる時に断ち切りたい。そのために家庭訪問型で子どもと遊んだり、ご飯を作りにいったりする活動もスタートさせたい、そう思っています。

 気学の方も法人を作って、目の前の人に必要なものをすぐに提供できるようにしていきたいと思っています。とにかくやりたいことが目白押しですが、ひとつひとつ確実に歩みを進めているあきさんなのでした。
 今、いろいろ悩んでいる人がいたら、一度あきさんの話を聴きにいってみてください。きっと新たな扉が開くにちがいありません。