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今日の人158.齋藤秀峰さん [2016年06月21日(Tue)]
 今日の人は、I CAN コーチング ミッションコーチであり、一般財団法人ブランド・マネージャー認定協会 認定シニアトレーナーなど、様々にご活躍中の齋藤秀峰さんです。
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 昭和38年生まれの秀さんは富山市で生まれ育ちました。秀さんのお父さんは戦争で満州から戻った後に箪笥職人の修行をしていた人で、その時にお母さんと知り合います。お母さんは家具屋の娘さんでお嬢様でした。けれど、お父さんは事情があって箪笥職人を辞めてサラリーマンになり、家族で社宅に住んでいました。その社宅が、秀さんが2歳の時に、もらい火で全焼。お父さんはサラリーマンを辞め、職人になろうとトタン屋で働きその後独立します。独立直後はお金がなく、一家はベニヤ板一枚で仕切られているような家に住み始めたので、近所からは貧乏人扱いをされていました。秀さんはそんなに惨めな思いをした記憶もないのですが、当時幼稚園でお絵かきがあった時に、画用紙の右上の3センチ角にしか絵を描かなかったそうです。そんなに小さくしか絵を描かないことを心配した幼稚園の先生がお母さんを呼び出しました。しかし、お母さんはそういうことを全く意に介さず、それをギャハハと笑って「うちの子ったらね」と周り中に伝えるような人でした。そういう所がお父さんとは合わなかったのか、2人は顔を合わせるたびにケンカをしていました。

 子どもの頃、秀さんは野球が大好きでした。いつも何人かで集まっては三角ベースをしていました。田んぼや空き地が野球をする場所でした。家の夕食時間は18時で、時間厳守だったので、いつもその時間までは外で遊び、18時には家族そろって晩御飯を食べるのでした。家では家族に加えて、職人さんが2〜3人いつも一緒に食事をしていました。職人さんがいる時はさすがに食事中の夫婦ケンカもなかったので、比較的穏やかな時間が流れていたのでした。

 そうしているうちにお父さんの仕事もうまくまわり始め、小学3年の時にはちゃんとした家を建てました。今度はクーラーもついていました。しかし、幼い時から我慢してきた習慣はなかなか抜けないものです。秀さんは少年野球のクラブチームに入りたかったのですが、親にユニフォームや用具を買ってくれと言うことができませんでした。それでクラブチームに入ることはあきらめたのでした。人に何かを頼むというのは、今でも苦手な秀さんです。

 その頃、父の現場であまったものを使って、自分でものを作るのも好きでした。お金をかけずに遊ぶのがうまい子でした。でも、そんな時に、2歳年上のお姉さんがエレクトーンを買ってもらったのです。お姉さんは未熟児で生まれたので、いつも両親からチヤホヤされているように秀さんは感じました。自分はクラブチームに入りたいと言えないのに…。悔しくて、お姉さんとはことあるごとにケンカばかりしていました。

 そんな我慢ばかりしていた秀さんが変わったのは中1の時でした。中学校では野球部に入りたいけど、クラブチームの子は強いし…という思いもあってか、バトミントン部に入りました。でも、おもしろくなくて、半年で退部。その後興味を持ったのは、音楽でした。オーディオを買ってもらい、ユーミンや井上陽水にはまりました。ギターも買ってもらい、バンドを組んで曲を作っていました。マイクも買ってもらってレコーディングもしていました。服にも興味が出て、自分で服を買ったりもするようになりました。今まで我慢していた分を取り返すように、この頃は何でも買ってもらっていたのでした。ギターを始めたのは、音楽が好きということもありましたが、ずばりモテるためでもありました。秀さんは初恋が幼稚園の時、という結構なおませさんなのです。

 こうしてみんなが受験勉強で忙しい時も、曲を作ったり詩を書いたりしていました。そしてあまり勉強もすることなく高校受験。進学したのは富山南高校。それまでは大学進学について考えたこともなかったので、志望調査票に書き込むことができなかった秀さん。それでも、いつも学年上位の成績だったそうです。そんな秀さんは、周りが受験勉強一色になっているのに、高3の10月まではバンド活動を続け、いろんなコンテストにも出場していました。伊藤俊博さんとも同じコンテストにも出たりしていました。

 数学が得意だったので理系を選択。心理学関係か音楽関係に進みたかった秀さんですが、音楽関係に関連があると思い芝浦工業大学の通信工学科を選びます。1,2年の時は大宮に住みました。秀さんが大学2年の時に、新幹線の大宮駅ができ、街がどんどん変わっていくさまを間のあたりにしたのでした。3年からは芝浦へ。田町の駅で降りると三田地区には慶應大生がいます。歩いていてもパッと見でどちらの大学生かわかったとのこと。通信工学科は140人いて女の子が2人だけという、男ばっかりの学科なのでした。秀さんたちは体力維持同好会というソフトボールサークルを作り、その同好会はなんと学内のソフトボール大会で優勝。名前とそぐわない実力派のサークルでした。
 また今や全国区となった二郎系のラーメンの元祖、「ラーメン二郎」は田町にあり、週に2〜3回通うほどはまった秀さん。あの味を超えるラーメンにはまだ出会えていないとのことです。ボウリングにも週に1度は行っていました。大学生活を満喫していました。

 こうして4年生になって就職活動の時期を迎えたわけですが、この時は売り手市場でした。大手企業にもすんなり入れるような時代だったのです。東京で就職する選択肢もありましたし、あまり人の目を気にせずに過ごすことのできる東京は、秀さんにとってはとても過ごしやすい場所でした。でも、秀さんは富山に戻ることを選びました。心の中に長男だから富山にもどらなくてはいけないという思いを抱えていたのかもしれません。しかし、就職を決めながらも、自分はサラリーマンには向いていないなと感じている部分がありました。それでも何をすればいいかわからなかったので、とりあえずサラリーマンになろうと思ったのです。こうして、富山村田製作所に就職しました。

 まず配属になったのは製造ラインを改良する技術分野でした。2年目になると、大きなテーマをたくさん任されるようになります。
 ある会議の席で、秀さんが報告していた時のことです。「この改善は無理だと思います」と言いました。すると、黒字の神様と言われていた部長が「技術屋が無理だと言うのは無限にある可能性を全部やってから言うもんだ。」とおっしゃったのです。それを聞いてはっとしました。そこからの秀さんは仕事を取り組む姿勢を学んでいったのです。

 製造技術から商品設計、そして商品開発へと。13年の間に秀さんが村田製作所で歩いた道です。就職2年目には社内のバトミントン部で一緒になった女性と結婚しました。
特許もたくさん取りました。常に考える癖がつき、寝て起きた時にひらめいてそれが特許に繋がったこともありました。あきらめずにやってみる。それがすっかり秀さんの中に定着したのです。

 しかし、34歳になった時、ふと、「自分はなぜ会社にいるのだろう?」と思ってしまった秀さん。もともと会社にずっといるつもりはなかったのですから、13年の会社勤めは長すぎるほどでした。それでも、会社員時代は秀さんにとって貴重な時間となったことも間違いないでしょう。

 次に秀さんは立山町でローソンの店舗経営者になりました。田舎にコンビニが出来て、近所の人はびっくり。でもとても喜ばれました。しかし、フランチャイズはアイディアを出しても誰も評価してくれない。秀さんは、ローソンの仕事から離れ、次に始めたのはDTPの仕事でした。車のグラフィックは誰もやりたがらないので、それをやりましたが、これは大はずれ。店舗をたたみ、自宅横の工房に移り、インターネットで集客をせざるを得ない状況。でも、いろいろな方法を取り入れてやっていくうちにどんどん売り上げが伸びるようになりました。

 こうしてマーケティングをし、ウェブの制作に取り組むようになっていった秀さん。当時はまだ富山では少なかったSEO中心のウェブマーケティングと制作を始めました。
 ホームページを作っていく中で思ったのは、ブランドを構築することの大切さ。ブランドを構築することで与えられる価値の大きさは本当に計り知れません。2008年からは、自社でウェディング小物のブランドを立ち上げて実践も開始。そして、基礎からブランドを学びたいと思っていた2010年、秀さんの家は2度目の火事に遭います。今回の火事は秀さんが外で飲んでいる時に起きました。連絡が携帯電話に何度も入っていたのですが、秀さんは電話に出ませんでした。帰ると家は焼け、お父さんが逃げ遅れて救急車で病院に運ばれていました。他の人は「重体ならもうダメだ」と言っていましたが、秀さんだけは、『この親父がくたばるわけがない』と思っていました。そうして秀さんの思った通り、お父さんは奇跡的に危険な状態を乗り越えて、1週間もすると病院を抜け出してこっそりお酒を買いにいっていたほどでした。そんなお父さんは今もお元気でいらっしゃいます。

 そして、ブランド・マネージャー認定協会でブランドについて学び、そこでたくさんの人たちと出会います。この出会いも秀さんにとって大きなものでした。2011年にはブランドトレーナーの資格も得ます。そして同年9月から、コーチングも学び始めたのでした。この年の年末から、秀さんは積極的に外に出るようになっていきました。倫理法人会に参加したり、ドリームプランプレゼンテーションの支援会に参加したり、人にたくさん会うようになりました。人と会ってみないと、課題が見えてこない。秀さんはたくさんの人と出会うことで、自分の中の課題にもぶつかっていきました。いろいろな思いがまだ混沌とあったのです。2012年の夏からはアチーブメントでも学びはじめました。

 いろいろな学びの中で、52歳まではそれ以降の準備期間、そんな風に感じることが多くありました。実際にコズミックダイアリーでは52歳で一度周期が終わり、52歳の誕生日から新たな周期が始まるとのこと。
 そして迎えた52歳。これからの自分は、成長したいと思っている人、夢を追いかけている人を支える、そんなコーチとして生きていきたい、そう強く思いました。秀さんの新たな旅立ちのテーマはズバリ「人」です。本気の人を支援する形を作っていきたい。オリジナルで作っていきたい。今までいろいろなことを身につけてきたのは、全てここに至るための準備期間に過ぎなかったのだ、そんな風に感じています。

 秀さんの夢は独立起業したい人を応援すること。困っている人、つぶれそうな人を見ると放っておけないのです。これまでは、どうやったらうまくいくか、やり方を教えていたけれど、それではダメだと気付きました。クライアント自身が自分たちで考えて自力でつかんでいけるように支えていきたい。やり方を教えた方が改善は早いけれど、5年後10年後を考えたら、自力でできるようにしていくことがすごく大切です。そんな風なクライアントが各都道府県に少なくとも1人ずついて、何か月かかけて各都道府県を泊まり歩きたい、今はそんな日が来るのを楽しみにしています。

 ですから、秀さんが今、楽しいことは、ズバリ仕事!楽しくない仕事はやらない!と決めています。だから仕事が楽しくないわけがないのです。もう一つはお孫さんと遊ぶこと。秀さん、まだまだお若いのですが、もうおじいちゃまなんです。この時ばかりはお孫さんにデレデレになっちゃうんでしょうね。

 山に登ることもとても楽しい時間です。山のきれいな景色を見るのが好きなので、雨が降ってまで登ることはしたくありません。雨が降ったら登らない。晴れたら登る。そんな登山が好きです。

 世界の山にも行ってみたいと思っています。麓の湖にポツンときれいな山小屋があるそんな景色が大好きです。
 いつかそんな山小屋を秀さん自身が持ってみたい。ボーっとしていたら誰かがフラッと山小屋に遊びに来て、いろいろしゃべって帰っていく。最初暗い顔をしていた人も帰る頃には笑顔で帰っていく。そんな素敵な山小屋が誕生する日も、そう遠くはなさそうです。そんな日が来たら、私も秀さんの山小屋にぜひ遊びに行かせてくださいね。