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今日の人156.荒井里江さん [2016年01月27日(Wed)]
 今日の人は、フジ創ホーム代表取締役、高岡まちっこプロジェクトの仕掛け人でもある荒井里江さんです。
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 里江さんは1974年井波町で生まれ育ちました。2人姉妹の長女で外遊びの好きなおてんばな女の子でした。といっても学校では人前で話すようなタイプではありませんでした。でも、5年生の時にチェッカーズが好きになり、その歌を歌っている時に友だちから「うまいね」と褒められたことで自信がついて、人前で話すことも苦にならなくなっていきました。男の子に告白されたりしたのも自信につながりました。その頃になりたかったのは、アイドルや女優です。お父さんが「お前社長になれ」と言ったことがあって、深く考えずに社長も夢のひとつにしていました。

 中学1年の時はソフトテニス部に入ったのですが、中2で高岡に引っ越して志貴野中学校に転校してからは演劇部に入りました。演じるのがとても楽しくて、この頃もまだ女優になりたいという気持ちを持っていました。社長が夢というのはすっかり忘れていました。
志貴野中学校はマンモス校で当時1学年に12クラスもあったのですが、中3の時の友だちがすごく仲がよく、仲良し4人組でいつも職員室に入り浸って先生にいろいろ質問していたのをとても懐かしく思い出します。先生もイヤな顔ひとつせずに夜遅くまで付き合ってくれました。

進学したのは小杉高校です。高校では放送部に入りました。2年生の時、朗読部門のコンクールで暗記をして本を持たずに出場したところ「それは朗読ではない」と言われ失格に。とても悔しかったのですが、3年の時はしっかり朗読して、入選したのでした。
部活の時は発声練習と称して高校近くのカラオケボックスに行っていたこともよくありました。それもとても楽しい思い出です。

卒業後は京都の亀岡にあった短大に進学します。経営学部でしたが、友だちや彼氏と遊ぶのに忙しく単位が足りなくなる羽目に。しかし、就職が決まっていたのでゼミの先生が単位が取れるように働きかけてくれて無事に卒業できたのでした。

こうして就職したのが、プロミスの高岡支社でした。けれど、半年で三重に転勤しろと言われ、その時に高岡の人と付き合っていた里江さんは三重行きを断り、わずか半年で会社を辞めてしまったのです。しかし、その頃は就職難の時代でした。なかなか次の仕事が見つかりません。アルバイトをして過ごしていたのですが、友だちが工場でプログラムの仕事をしていて会社に誘ってくれました。こうして放電加工機をプログラムして機械を動かす仕事を始めたのです。

しかし、23歳の時に胸がずっと苦しく感じてそのうちチクチクし出す症状に襲われます。病院に行っても、痛み止めを注射しても治りません。最後に大学病院に行った時に、胸腺が腫れていると言われました。赤ちゃんがしゃっくりを流すためについている場所があり、大人になるにしたがって小さくなるはずなのに、里江さんは逆に大きくなってしまっていたのです。幸い手術をして症状は治まったのでした。

その後、友だちと一緒に遊びにいった中のお1人と付き合いだして25歳で結婚。1月に両親に結婚したいと言った時はまだ早いのではないかと言われましたが、1月末に同居していたおばあちゃんがあと何か月かだと言われ、急いだ方がいいと、4月に結婚。孫の花嫁姿を見届けたおばあちゃんは5月に浄土に往かれたのでした。

それまでは宗教的なことに全く興味がありませんでした。せっかく京都で短大生活を送ったのに、神社仏閣に行ったことも全然ありませんでした。けれど、小さい頃からおばあちゃんがお経をあげて仏壇に手を合わせている時は一緒に手を合わせていました。そして、おばあちゃんが亡くなってからは、毎日仏壇に参るようになっていました。そのうちお経ってどんな意味があるんだろうと思うようになりました。そうしてお経についての本を読んで、お経というのは人生の説教が書いてあるというのを初めて知ったのです。
26歳で出産した里江さんは、25歳から26歳の1年の間に生と死の両方を経験して、生と死について初めて真剣にいろいろ考えたのでした。そうして人生の意味についても考えるようになりました。

里江さんは結婚した時に、モデルハウス代わりに家を建てました。お父さんはその頃もう住宅会社を経営していて、その時売り出していたローコスト住宅を建てたのでした。しかし、子どもが裸足で床の上を歩いているのを見て、冷たそうだと思いました。けれど、小さい子はやはり裸足で歩きたがります。こうして次第に住宅に興味を持つようになっていきました。

出産前まで三協アルミでCADの仕事をしていた里江さんは、育休が明けたあと、会社に戻ろうと思っていました。でもお父さんの会社で経理をしていたお母さんから会社に入ってと言われ、お父さんの会社に入り、経理を手伝うようになりました。しかし、その頃はまだ経理だけだったので、主婦業が中心のような日々でした。

しかし、2人目の子を出産した後、本格的に仕事に取り組むようになっていきました。新潟の夢ハウスに加盟して、そこのモデルハウスを見たときに、なんて気持ちのいい空間なんだと感動したのです。そうして、家の造り、間取り、営業、なんでも教えてもらいながら住宅業界の裏の話もたくさん聞かせてもらいました。でも、一般の人々にとって住宅のことは複雑で本当にわかりにくい。とっても大きな買い物なのに、みんな詳しいことを全然知らない。里江さんはお客さんにできるだけわかりやすく伝えていきたいと思いました。ですから、たくさん勉強しました。

下の子は生後半年で幼稚園に通い始めました。そうやって受けいれてもらったことで里江さんは安心して働くことが出来ました。子どもたちの世話を担ってくれているお母さんにとってもすごく負担が軽くなりました。(里江さんは婿取りだったので実のご両親と同居しています。)年少になった頃はもうボス的存在になっていて、年少から幼稚園に入ってきて登園時においおい泣いている子に「お前ら泣いてもお母さん戻ってこんぞ」と言って面倒をみてあげるような自立心旺盛な子になってくれたのでした。

お父さんは経理、現場、設計、なんでも自由にやらせてくれました。でも本当に危ない時はビシッと言ってくれるのでした。そうやって、いろいろな場に出してくれたおかげで、たくさんのつながりも出来ました。社長さんたちは里江さんにいろいろなことを教えてくれました。里江さんは人の話を聞いて、そこから学ぶのがとても得意でした。人から盗める力というのはとても大切です。もちろんそうやってたくさんの人に教えられて育ててもらえたので、自分も誰かに何か聞かれた時は出し惜しみすることはしません。

そうやってお父さんと一緒に住み心地のいい家を模索してきましたが、35歳の時にドイツに視察したことで家づくりに対する意識がまた大きく変わりました。暑くても冷房がいらない、寒くても暖房がいらない、そんな家を見て、「私もこんな家づくりをしたい!」と強く思うようになりました。そして、400〜500年前の家が残っていて、街にうまく調和している。街の中にはトラムが走っていて、車が排除されている。トラムを走らせる時も高くても再生可能エネルギーを使っていました。ああ、高岡もこんな町にしなくちゃいけないな。気付いた私がやらなくては!これがまちづくりの出発点にもなっています。

 そして里江さんは36歳の時に、会社の注文部門を引き継いで独立。そこから株式会社フジ創ホーム代表取締役として活躍する日々を送っています。住むことで健康になれる、そんな住まい、ドイツで大きな衝撃を受けた時のような、低燃費で住みやすくて健康に良い家を富山で建てたい。お客様にとって大きな買い物なのだから、とことんわかりやすく説明して、心から満足してもらえる家をつくりたい!
社員からは「社長は前しか見ていない」といつも言われますが(もちろんいい意味で)、乗り越えられない壁はないと思っている里江さんなのでした。

 そして、まちづくりにも本格的に動き始めました。まず突破口になればと思って、高岡まちっこプロジェクトを立ち上げました。中心市街地の空き家を活用し、若者の「まちなか居住」を促進するためのまちっこプロジェクトは、富山大学芸術文化学部の学生をはじめ、若手クリエーターの「まちなか」居住を推進することで、高岡のまちが抱えている様々な問題を解決してしまおう!というイカしたプロジェクトです。
そこから生まれたのが、空き家を活用したギャラリーカフェ「メリースマイルカフェ」であり、今実際に大学生が住みまちなかの盛り上げにも一役も二役も買っている「ほんまちの家」でした。
今では、まちっこサポーターになる人が続出。ワークショップをしてたくさんの人の意見を取り入れることで、その町に住んでいる人たちが率先して考えるようになるいい循環が生まれています。そして、大学、企業、行政、そしてもちろんそこに住む町の人、そんないろいろな人が協働してこのプロジェクトに取り組んでいます。

 社長をしてお子さんもいて、更にたくさんのプロジェクトに関わっている里江さんですが、忙しいと思ったことは一度もないと笑顔できっぱり!やっていることは全部、自分のやりたいこと。やらなくちゃ!ではなく、あれもしたい、これもしたい!ああ〜楽しすぎる!な毎日なのです。
 もちろん、いろいろなことを言う人はいます。でも、ねたみやひがみ、そんなマイナスのエネルギーに振り回されないことが大切。なにしろ人生は一回きりなのです。楽しまずに生きるなんてもったいない。自分が正しいと思う道を行けばいい。そして、里江さんは言います。「本当に私は人に恵まれているんです。だからいつも感謝しています。感謝の気持ちで神社にお参りに伺うと、ああ、神様に守られているなって思うんです。」と。ホントにその言葉通りにあたたかなエネルギーに包まれていらっしゃる里江さんなのでした。

 未来の子どもたちが笑って過ごせる高岡にしていきたい。だからとにかくやる。やれば道は拓ける。
 そんな言葉にこちらがたくさんあたたかい気持ちとパワーをいただけた、今回のインタビューでした。