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今日の人150.濱田興隆さん [2015年09月23日(Wed)]
 今日の人は夫婦ユニット「ヨーコ&ハマーズ」として各地でコンサートを行いつつ、知的障害者楽団「ラブバンド」を長年指導され、ゴルフもシングルの腕前で教え子もいて、かつご自身が立ち上げられた広告代理店アドプロでも現役でお仕事をなさっていて、何足もの草鞋を履いてご活躍中の濱田興隆さんです。
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 興隆さんは1942年9月に3人兄弟の長男として入善町で生まれました。海が近かったこともあって暑い時は朝から晩まで海で遊んでいました。おかげでいつも真っ黒で夏休み明けの黒んぼ大会で(かつてはそれが学校であったのです)は、いつも一等でした。勉強も出来て生徒会長としても活躍。興隆さんは小さい時から音楽が大好きでした。家には蓄音器があって、2〜3歳の時から自分で蓄音器をならして歌っていました。そしてその歌を家に遊びに来ていたお客さんに歌って聴かせているような子だったのです。歌を聴いた人たちはみな、その歌のうまさにびっくりしていたものでした。

 音楽好きだったこともあって、小学校では器楽クラブに入りました。小学校4年生の時に来られた先生は当時としては珍しく、バイオリンをやっている先生でした。先生は「放課後にバイオリンを教えるから、やりたい人は残りなさい。」とおっしゃいました。この時に手を挙げたのは興隆さんを入れて3人。こうして、放課後バイオリンレッスンが始まりました。バイオリンは大人のバイオリンなので、子どもの手にはとても重いものでした。それで子ども用のものを買ってもらうように先生はおっしゃったのですが、当時は月給が2000〜3000円だったにもかかわらず、バイオリンは10000円もしたのです。それほど贅沢な楽器だったのですが、興隆さんのお父さんは捕鯨船の船長をしていたので家は割合裕福でした。それで興隆さんは念願のバイオリンを手に入れることができたのでした。こうして小学校時代は音楽に明け暮れ、中学校に入ってからそれはますます顕著になっていきました。

 中学校ではブラスバンド部、合唱団、バイオリン部の3つの部を掛け持ちして、音楽が体に染み込んでいく感覚でした。合宿もあって休みなし、まさに体育会系といった感じでした。
いろいろな音楽に触れていく中で自分はバイオリンには合っていないな、と思ったので、次第にブラスバンド部に特化していった興隆さん。クラリネットとサックスは一日も欠かさず練習しました。この頃は今と違って、吹奏楽のコンクールは中学校も高校も関係ありませんでした。ですから、興隆さんたちのブラスバンド部は、吹奏楽の名門の富山商業と張り合っていたのです。コンクールで次勝だった時に富山市の丸の内から総曲輪通りまで花吹雪を受けながら市中パレードをしたのはいい思い出です。

 そんな音楽に打ち込んでいた青春真っ只中の興隆さんに異変が生きたのは中学3年の4月のことでした。ちょうど遠足が予定されていた日の朝、興隆さんが起きるとなぜか足が痛くて地面につけません。ちょうど遠足も中止になったこともあり、近所の接骨院へ。そこで捻挫と言われました。しかし足の痛みはだんだんひどくなり、一週間後の音楽の時間に倒れてしまったのです。外科へと担ぎ込まれた興隆さんは、そこで骨膜炎だと診断され即入院を言い渡されます。入院して治療してもよくなるどころか逆に悪くなっていきました。1回手術をしたいけれど、このままいくと足が切断されてしまう。興隆さんは外科の名医がいると言われていた石川県の病院へ転院。そこでは治療法から何から今までのものとは全くちがっていたのでした。そうして闘病生活で学校に通えないまま6月になってしまいました。学校の先生からは2学期から来れば卒業できると言われていたので、なんとしても早く治したいと思い、手術を早めてくださいとお願いします。ある注射を10本打てたら手術をするがいいかと聞かれ、もちろんいいと答えたのですが、その注射で地獄のような苦しみを味わうことになるのでした。注射の前日はご飯抜き、そして剃毛をされ、足の付け根に極太の動脈注射を打たれました。目隠しをされ、手を縛られ、気絶しそうな痛みに耐えましたが、終わって30分は放心状態です。そこまで痛い注射は後にも先にも初めてでしたし、それを10回も続けるのはとても耐えることが出来ず5回でギブアップしました。そうして、注射を始めて1か月後、夏休みの少し前に手術に踏み切ったのです。その頃はまだ部分麻酔で興隆さんには手術道具が全部見えました。そこには金づちやノミといったものが並べられ、手術の音も全部聞こえる中での手術でした。しまいには麻酔が切れてきたにもかかわらず手術は続けられ、麻酔が切れたまま、興隆さんは傷口を縫われたのでした。術後の痛みにも苦しめられ、あまりに痛さに三日間泣き続けました。鎮痛剤を飲まない方が早く良くなるよと言われた興隆さんは健気にその教えを守ってどんなに痛くても鎮痛剤を飲まずに過ごしたのです。三日経つと泣くほどの痛さからは逃れられましたが、それでも痛いことに変わりはありませんでした。そんな痛みを乗り越えたのにもかかわらず再発の可能性は50%と言われました。夏休みに一応退院できてうちには帰りましたが、無情にも9月半ばに再発。そしてまた入院となりました。これで留年は確定したので、今度は腰を据えて治そうということになりました。12月20日にクリスマスプレゼントをしてあげると言われ、その日がまた手術日になりました。同じような痛さに耐えた後、今回は90%うまくいったので、5年再発しなければ完治だろうと言われました。

 こうしてようやく富山に戻ってきた興隆さん。医者からは走れないし正座も出来ないだろうと言われていました。この頃、興隆さんの家ではお母さんやそのお友達が三味線を習っていました。隣の部屋でその音を聴いていた興隆さん、何しろ音楽の才能は抜群で絶対音感もありますから、その練習の音のずれが気になりました。そしてとうとう自分でも三味線を練習し始めてしまったのです。一度やり始めたら夢中になってしまう興隆さん。三味線は正座してやった方がいい音が出ますから、いつの間にか正座しながら三味線を弾くようになっていたのです。これがとてもいいリハビリになりました。こうして正座できないと言われていた興隆さんは正座ができるようになり、走れるようにもなりました。

 そして高校に進学した興隆さんはやはりブラスバンド部に入部します。バンドも結成して朝から晩まで練習していました。こんなに音楽が好きなのだから音楽の先生にでもさせたらどうかと親戚のおばさんにも言われ、興隆さん自身も音楽大学に進学したいと思っていました。しかし、興隆さんの入院手術は保険が適応されておらず、治療に莫大なお金を使っていたのです。とても音楽大学に進学できるようなお金は残っていなかったのですが、興隆さんはアルバイトしてでも行きたいと思っていました。けれど、そこまで無理の効かない体というのも事実ありました。こうして音楽大学への進学を断念しましたが、お母さんは「大学に行かんでも好きな音楽をやるこっちゃ」と言ってくれました。

 そして卒業後もずっとバンド活動を続けました。「ブルーサウンズ」と名付けたそのバンドはあちこちで引っ張りだこになります。当時青年団活動が活発でダンスパーティがしょっちゅう開催されていました。ゴーゴー、ルンバ、タンゴ、ワルツ、ラテン、ブルース、なんでも演奏できるブルーサウンズは評判を呼び、旅行会社からも指名されました。宇奈月温泉で演奏することもしょちゅうだったのです。
 
 もちろん仕事をしながらのバンド活動でした。仕事は最初車販売の営業マンになり1年でトップ営業マンになりました。その後縁あって自動車学校の先生に。ここでも人気教師となり、指名が来るようになりました。当時自動車学校の先生はスパルタで大変怖い人が多かったのですが、興隆さんは感情で怒ってもますます生徒を萎縮させるだけだと思い、感情的になることは決してしませんでした。それで、興隆さんが乗っている車だけはいつも笑い声が絶えず、生徒たちもすぐに上達していきました。
 その頃、自動車学校の法令の教官は元警察官というのが通例でしたが、興隆さんは校長に自動車学校の改革を提案します。それは法令の教官の採用を試験制度にしたらどうかというものでした。校長も賛成してくれて、公安委員会にかけ合ってくれました。そしてその提案が通り、法令の教官の試験が開始されることになったのです。その試験を興隆さんも受けました。そしてそのために猛勉強をして、なんと興隆さんは全体のトップの成績で合格したのでした。こうして法令の授業も受け持つことになったのですが、笑いあり涙ありの本当に楽しい授業であっという間にこちらでも人気講師になりました。

 28歳の頃、興隆さんは慢性腰痛に苦しめられていました。自動車学校で生徒の運転する車の助手席に座っているのは常に緊張状態が生じています。それで腰が回復することは見込めませんでした。医者に転職を薦められたこともあり、また自身でもコースをくるくる回るだけのそんな毎日に疑問を感じていたので、思い切って転職します。その時に選んだのは家電屋でした。お客さんが喜ぶことを第一に考える興隆さんはまたあっという間に営業のトップになったのでした。家電屋で2年半働く間の30歳の時に、興隆さんはバンド活動を休止しました。グループメンバーに子どもが生まれる等で練習の時間が合わなくなってきたのが主な原因でした。以後20年あまりは音楽は自分の趣味の範囲でやることになりました。

 さて、興隆さんが働いていた家電屋の同じビルには広告代理店も入っていました。最初何をする会社なのだろうと思っていましたが、その会社のデスクを見た時に原稿用紙が置いてありました。これは何を書くのかと聞いたところ、これは放送用紙でラジオのCMを考えているのだという返事でした。それを聞いた興隆さん、ワクワクしてそれから3日間寝られませんでした。これこそ自分の仕事だ、そう思ったのです。
 それからは時々その会社に遊びに行ってはCMの原稿を書いていました。なにしろそれまでもバンドのコンサートで台本を書いた経験もありましたし、結婚式の司会も30組くらいやっていてその台本も書いていたので、原稿を書くのはお手の物だったのです。その原稿を見た社長に「あんたうまいね」と言われた興隆さん。
 興隆さんは思い切って働かせてほしいといいます。しかし、さすがに電気屋と同じビルだったので、社長は「このビルを出て事務所を変わるから、その時に来られ」と言ってくれました。

 こうして広告代理店に入った興隆さんは半年間地元の放送局で研修を受け、その後31歳で富山県のローカル代理店でトップになりました。しかし、興隆さんが実績を挙げれば挙げるほど、足を引っ張る動きも出て来て、いちばん会社に貢献していた興隆さんに対して信じられない仕打ちもあったので、これ以上ここにいても何も生まれないと感じ、その会社を辞めました。

 しかし、広告の仕事は自分の天職だと感じていました。そして1977年10月に自分の会社を設立したのです。「広告は文化なり」それを掲げてのアドプロの設立でした。当時はまだ広告は脇の存在でしたが、興隆さんは美しいもの、ためになるものは決して邪魔者ではないとの考えで広告を打ち立て、それが反響を呼んでどんどん客が増えていきました。
そして興隆さんが手がけたのは広告ばかりではありません。イベントの仕掛け人でもありました。雪のフェスティバルと銘打ったイベントにさっぱり人が集まらなかったときに一番人が集まる食のイベントを提案し、かつ全国の有名店を集めようということでかの全国ラーメン祭りが始まったのです。このイベントはもちろん、他にもあれもこれも興隆さんが手がけたものだったのか!というものがたくさんあって、興隆さんの功績の大きさが半端ないことがわかります。そしてどんなイベントもそれが大事なのではなく、本当に大事なのはその後。そのイベントをどう地域に活かすか、自分の所にどうつなげていくか、イベントはそのためのデータを取ったり反応を見たりする実験場でもあるのだと。興隆さんが手がけたイベントの裏話もとても面白いのですが、これを書くだけで本が書けちゃうくらいなので、このお話はまたのお楽しみに。

しかし、長い年月決して順風満帆だったわけではありません。1億の負債を抱えたこともあります。しかし、なんとかしのぎ切り、社長を交代してアドプロと社員を守ったのです。長距離運転手にでもなろうかなと思ったくらい辛かったこともあるけれど、最初に放送用紙を見た時に受けた雷に打たれたような思いはどんなに苛酷な状況に置かれても変わらなかったのでした。そして73歳になった今も現役で新聞社にも出入りしている興隆さん。自分の取ってきた仕事は自分で最後までやるのがモットーです。

時代を少しさかのぼって、興隆さんが52歳の時のことです。知的障がい者の付き添いボランティアをしていた娘さんから、知的障がい者の人たちがバンドを組むから指導をしてほしいと哀願されます。頼まれた時は絶対無理だから断ろうと思いました。だいたい知的障がいの人たちと接したこともないのに無責任なことを引き受けるわけにはいかない。娘さんが断りにくいならお父さんから断るからと言ってみなさんに集まってもらいました。でもその時、興隆さんは知的障がいの子どもたちから直にお願いしますと頼まれたのです。頭を殴られたような気がしました。気が付いたら「やればいいんでしょ、やれば」と言っている自分がいました。
こうして知的障害者楽団「ラブバンド」の活動が始まりました。やるにあたって注意することを言ってください、と言うと「この子たちは10分はなんとか持つけど、10分以上は持たないんです」と言われました。事実、練習していてちょっと熱が入り、20分も続けてやると倒れだすようなことが起こってしまうのでした。ちょっと練習しては休み、ちょっと練習しては休み、しかも同じところを何回も何回も練習しなければなりません。でも興隆さんは根気強く彼らと向き合い、半年後には曲が1曲通して弾けるようになっていたのです。そして、重度心身障害者親子クリスマス会では2.5曲の演奏ができるようになっていました。その日、2.5曲を2回つまり5曲分を演奏した子どもたち。見に来ていた先生方がいちばん目を丸くされました。この子たちがここまでできるようになるなんて!そして、驚いたことに10分持たないと言われていた子どもたちが30〜40分もつようになっていたのです。

興隆さんは「夢はかならず叶う」「明るく元気に自立しようぜ!」というテーマを掲げました。それまでは知的障がいの子どもたちは何でも親がやってくれていました。けれど、親に頼らないで自分のことを自分でやらないと自立ではない、そう興隆さんは言います。
親はいつも「はやく」と急かしてしまうが、それではダメなのです。時間がかかっても待って本人にやらせて、できた!という自信をつけさせる。待つことがいかに大切か。待って一時辛抱すれば、その後はその方が親も絶対に楽になるのです。そして、興隆さんはご自身のバンドの経験からわかっていました。2〜3曲できるようになると、その後は出来るスピードが上がると。そうして、子どもたちと約束したのです。10曲弾けるようになったらコンサートをやろう、と。

コンサートは学芸会のようにはしたくなかった。どうせならかっこいい本格的なステージを用意したいと思ったのです。そしてそれは広告代理店をやっている興隆さんにはお手の物でした。みなただでやると言ってくれたのですが、いや、ちゃんとお金を払うからと言うと意気に感じてくれて、本当に本格的なステージが仕上がりました。さあ、そんなステージで演奏するのですから、子どもたちも親もみんな大感動です。そしてそのステージの後はみんな意識が変わりました。次の夢を持つ、そして夢を共有化するという意識に変わったのです。みんなで意見を出し合った時に、ディズニーランドで演奏したい!という意見が子どもから上がりました。そして、それが次のみんなの目標になったのです。そして練習ごとにその合言葉を言っていると不思議なもので引き寄せがあったのです。ある時、JCの講演会にディズニーランドの副社長が来られました。ラブバンドはその時のアトラクションで演奏をしました。そのあと、興隆さんは副社長にラブバンドでディズニーランドで演奏したいという夢を訴えたのです。副社長の言葉はこうでした「審査の部門につなぎます。」1か月後に「オーディションビデオを見て審査するので、送ってください。」との連絡が来ました。そしてビデオを送って2か月が過ぎました。結果は合格。なんとラブバンドはディズニーランドで演奏できることになったのです。

ディズニーランドで演奏することになった時に、興隆さんはこれは親離れ子離れのいい機会だと思いました。障害のある子はどうしても親が過保護に接しがちです。それでそれまでは何でも親にやってもらうのが当たり前という状態でした。それで興隆さんは自由行動の時は親から離れることに決めました。もちろん親は心配します。迷子になったらどうするんだ。でも、ディズニーランド内ほど安全な場所はないし、子どもたちにルールをきちんと言う機会でもありました。興隆さんは言いました。「もし迷子になったら掃除をしているキャストを探すんだよ。ディズニーランドはお掃除している人たちがたくさんいるからね。そうして泣かないで自分の名前をちゃんと言うんだよ。」もちろん単独行動ではなく、10人1グループにしてグループ毎に2〜3人のサポーターをつけました。
この自由行動によって子どもたちに大きな変化が生まれました。子どもたちは親から離れるという緊張感があったのでいつものように何でも親任せではなく、自分で必死に注意をしながら歩いたのです。そうして結局1人の迷子も出ませんでした。演奏はもちろんですが、この自由行動も大きな大きな自信になりました。翌日は原宿の竹下通りでも2時間の自由行動を過ごしました。前日のディズニーランドでの自由行動があったので、もう子どもたちは自信を持って自由行動に出かけました。そうしてお目当てのお土産を買いこんで満面の笑顔で帰ってきたのでした。
これを機にラブバンドには出演依頼が殺到し、最初6人だったメンバーは20名を越え、みんなの自信は当初から掲げていた自立へつながっていきました。そして次の目標は海外公演。結成10周年の年に韓国ソウルでの公演を実現させたのです。これらの功績で平成17年には北日本新聞文化功労章を受賞!なんとあの立川志の輔さんと同じ年の受賞でした。この受賞で親御さんたちは「いい子を持って幸せだね」と言われて涙ぐんでいました。それまで引け目を感じていた親御さんたちでしたが、どんどん出ていけばいいというのが興隆さんの考え方でした。だからあえてバンド名に知的障害者楽団と冠しました。これだけできるようになるんだ。堂々としていればいい。そして彼らは親御さんたちにとっても誇りになったのです。そうして15周年にはハワイで演奏し、20周年記念公演も先日目黒雅叙園にて行いました。
200か所での演奏を実現させてきた興隆さん。しかし、ずっと興隆さんにおんぶにだっこでは進歩がない。そう考えた興隆さんはつい先日指導者をバトンタッチしました。きっと新たな指導者の下でいろいろな試行錯誤が生まれるでしょう。でも、それでいいのです。その中からまた新しいラブバンドの形ができていくのですから。

 そんな興隆さんがこれから力を入れていきたいのはヨーコ&ハマーズの活動です。ハマーズは興隆さんのこと。ではヨーコは?実はヨーコさんは2011年に再婚した奥さまでいらっしゃいます。お二人の結婚秘話がこれまたとても素敵なのですが、それはお二人のコンサートでお話になることもありますので、みなさんそちらでぜひお聞きくださいね。
興隆さんは洋子さんの歌の素質を見抜き、彼女をステージに立てるまでに育てられました。そうして、今、夫婦ユニットとして、あちらこちらでステージに立っていらっしゃるのです。専ら興隆さんは電子サックスで洋子さんは歌。お二人のコンサートはいつも大人気で、台湾でのコンサートも企画されているほどです。
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息もぴったりのヨーコ&ハマーズ

 そして興隆さんはゴルフもシングルの腕前でいらっしゃいます。40代まではスキーをしていましたが、50代になった時、ちょうどラブバンドの指導者になった頃にゴルフも始めました。ゴルフクラブの設計家の先生に、アドレス、スタンス、グリップこの3つさえちゃんと守れば100を切ると言われ、事実3〜4年でコンスタントに100を切るようになったのです。今では教え子もいるほどの腕前です。

 73歳、人生まだまだこれからです。広告の仕事、そしてヨーコ&ハマーズを中心とした音楽活動、そしてゴルフ、何足も草鞋を履いても好きなことをやっていれば人間いきいきするものです。夢は思い続ければ必ず叶う、それをずっと体現し続けていきたい。興隆さんはどこまでも熱く、かつクールでカッコいいのでした。常に現場・現物・現実を見る虫の目、時代の流れを見極める魚の目、そして俯瞰して大局を把握する鳥の目、3つの目をしっかり持っていらっしゃる興隆さん。こんな素敵な高齢者が増えていけば、これからの富山の高齢社会はきっと明るいものになるにちがいありません。これからもますますキラキラワクワクでいらしてくださいね。