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今日の人147.荒木真理子さん [2015年07月12日(Sun)]
 今日の人は小松菜農園葉っぴ~Farmのカフェ葉っぴ~カフェtuttiのオーナー、荒木真理子さんです。
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 真理子さんは昭和32年に富山市で生まれました。8歳上のお兄さん、5歳上のお姉さんがいる末っ子でした。当時家の近くには富山医科薬科大学の薬学部があって、下宿屋さんをしていました。しかし、薬学部のキャンパスが移転し、下宿屋さんをやめたので、お母さんも外へ勤めに出るようになり、小1の時から鍵っ子になりました。本当はとっても寂しがり屋だったのですが、寂しいという気持ちを素直に言えず、よく机の下に隠れて泣いていました。さびしい気持ちも言えませんでしたが、あやまることもできない子でした。とにかく自分の気持ちは外に出すことができなかったのです。お兄さんは8歳も上だったし、お姉さんも5歳上だったので、なかなか一緒に遊ぶということにはならず、いつも近所の子どもたちと缶けりをしたり、ごっご遊びをしたりしていました。

 お兄さんは富山中部高校から東大に進んだ秀才だったので、大変頭がよく、勉強を教えてもらってもお兄さんには真理子さんがなぜわからないかがわからないといった感じだったので、真理子さんはますます劣等感を抱いてしまうのでした。優秀な兄と比べられているのではないかという思いになり、近所のおばさんたちの目が気になって仕方がありませんでした。そうして自分の気持ちを押し殺したまま勝手にいじめられている気分になって落ち込んでしまう毎日を送っていました。6年生の時には座ったまま貧血になってしまい、点滴に通います。そういう状態ですから、当然激しい運動はできません。中学校に入ってバレー部に入りましたが、ランニング中に貧血を起こしてしまったこともあり、やめることになりました。その後貧血症状が落ち着いたところで水泳部に入りました。けれど、相変わらず何にもときめくこともなく、私なんか死んじゃいたいと思いながら日々を送っていました。

 それは高校に入っても変わらず、悶々としながら毎日をおくります。この頃、胃潰瘍も患いました。何も面白いことのない青春時代でした。
それでも、なんとなく保母さんになりたいという思いを持って、ピアノも習いに行ったりしていましたが、お母さんが慢性肝炎で入院してしまったこともあり、勉強もできない自分が進学したいなどとても言えないと思い、就職する道を選びました。

 病気のお母さんに代わって高校時代からずっと家事をしていた真理子さんに、普段から寡黙でほとんど何も言わないお父さんがお正月に猫の絵が描いてある時計をくれたことがありました。その時も何も言わずにくれたのですが、家事をしている真理子さんをねぎらうつもりでくれたのかな、と今はそう思っています。寡黙なお父さんから娘へのせいいっぱいの愛情表現だったにちがいありません。

 真理子さんが就職したのは写真の現像所でした。1枚1枚ネガを見て色の調節をする仕事です。当時はまだカメラはフィルムの時代でした。
 そんな仕事を続けていた時に友達の紹介で出会ったのが荒木龍憲さん。真理子さん、20歳のことでした。友達とWデートしたのが7月、それから何回かデートしましたが、やっぱり農家の人だし、町生まれの自分には合わないかも…と思って、秋に別れてしまいました。

 そんな矢先、龍憲さんがコンバインで指を切ったと友達から連絡が入ります。急いで駆け付けた真理子さん。一緒に救急車に乗って病院まで付き添うことになりました。その時に、この人は私がいないとダメなのかなぁ、と思ったのです。友達からも荒木さんほど真理子さんのことを好きな人はいないよ、と言われます。その頃、真理子さんはお茶を習っていたのですが、お茶の先生からうちの息子に会ってくれないかとお見合い話を出されたことで、なお二人の気持ちは盛り上がりました。真理子さんのお母さんも龍憲さんのことを気に入り、彼は毎日真理子さんの家でご飯を食べていくくらいでした。
 
 出会って4か後の11月に結納を入れた二人。しかし、結納を入れてからも、やっぱり私には農業は無理かも…と思って悩んだ真理子さん。心配したお母さんが、農家をしていたお父さんの実家に行って尋ねてくると「今は機械化も進んだし、昔と比べたらそんなに大変じゃない」と言われました。それを聞いて、ちょっと安心します。でも、結婚式の日に「イヤになったら帰ってくるちゃ」と言ったところ、お母さんに「一回結婚したらそんなに簡単にできるものじゃない」と諌められての晴れの日の門出だったのです。

 こうして、3月に舅、姑、小姑のそろった家に嫁ぎました。でも、新婚旅行から帰っても玄関に誰も出てこない。真理子さんの体の中に冷たい風がすうっと流れました。そしてやはり自分の考え方は甘かったと痛感する毎日がやってきました。旧来の農家の考えで、嫁は働き手としか思ってもらえず、しかもお義父さんは酒を飲んだら暴れて罵詈雑言を浴びせる人でした。真理子さんはいつでも帰れるように荷物を風呂敷にまとめて、夜な夜な泣いていました。けれど、すぐに妊娠が発覚。大きなお腹でカブを洗っていたら、ぎっくり腰になってしまい、それからは常に腰痛に悩まされるようになったのです。けれど、お義母さんは腰の痛みを知らない人でした。ですから、休んでいるとサボっているように見られ大変つらい思いをしました。

 実家で出産して、嫁ぎ先の家に戻ってくる時は、そこが見えただけで胃がチクチクし始めて、晴れの着物を着たまま もどしてしまうくらいでした。このまま実家にいたかった。けれど、もちろんそうできるはずもなく、子どもをおんぶして農作業をする日々。実家のお母さんから「大丈夫なの?」と聞かれましたが、お母さんは肝臓がんを患っていたので、心配させるのがイヤで「大丈夫」と答えていました。後にお母さんがつけていた家計簿の端に「真理子は何も言わないのが心配」と書かれてあったのを見つけて、親に心配させまいと思って何も言わずにいたけれど、お母さんは私のことが心配でならなかったのだと涙が出ました。

 苦しくても誰にも言えない、どこでも泣けない。そんな時に立正佼成会にご縁がありました。そこで初めておいおい泣くことができ、親孝行の大切さを聞かせてもらったことで、嫁ぎ先での辛い日々にも耐えることができるようになったのです。

 しかし、大変なことは立て続けに起こりました。実家のお父さんが微熱が続いたあと肺がんで亡くなり、娘さんが6歳の時にはご主人が甲状腺がんで入院。同じ年にお母さんも入院。病院に通い詰めの日々でした。さりとて農家なので農作業を休むわけにもいかず野菜の袋詰めをしながら子育てする日々。ただただ必死の毎日が過ぎていきました。
そんな中、今度は義母がなくなり、真理子さん自身も椎間板ヘルニアの痛みでとうとう足が前に出なくなりヘルニアの手術。

 けれど義母が亡くなったことで、義父の口撃は真理子さんに集中するようになり、何度「出ていけ!」と怒鳴られたかわかりません。いつも文句ばかり言っている義父に「じいちゃん、好きなことしられ」と言っても「そんな金どこにあるか!」とまた罵倒される始末。

 家を出ていきたいと思ったことは一度や二度ではありませんでしたが、そのたびに気持ちを奮い立たせてきた真理子さん。そんな時、義父が事故で怪我をして、それがもとで認知症になってしまいます。けれど、認知症になったことで、義父はどんどん角が取れて、穏やかな笑顔をする素敵なおじいちゃんになっていきました。「好きなことをしられ」と言った時に「どこにそんな金がある」と怒鳴っていた義父が、家を新築したいと言ったときに、お金をポンと出してくれたのです。グループホームで「私誰け?」と聞いたときに「さあ、あんた誰け?」とニコニコしながら言っていた義父は、最後はとびきりいい笑顔で旅立っていきました。

 そうして平成11年に家が建ったのですが、その年、真理子さんの腰はまた悪化してしまい、12月20日に沢庵100本を漬けた後、あまりの痛さに入院。そうして2か月の入院生活を余儀なくされたのです。顔も洗えず何も出来ない毎日、筋肉が衰えこのまま寝たきりになってしまうのかと思ったくらいでしたが、友人に薦められて名古屋の気功に藁にも縋る思いで通ううち、なんと走れるし、山にも登れるくらいに回復したのです。まさに奇跡的な回復でした。

 そして、真理子さんはご主人と一緒に小松菜農家として販路をどんどん広げていきました。小松菜の可能性を探るべく、スキルアップ講座にも通いました。小松菜のハウスも増えて毎年研修生を雇うほどになりました。一方、親子の気持ちのすれ違いに悩み、子どものことをもっと理解したくて、個性学も学び始めました。真理子さんが勉強し始めたのは子どもが20歳を過ぎてからだったので、もっと子どもが小さい頃から知っておけば、もっと楽に子育てできたにちがいないと思いました。そうした思いが高じて、個性学の自宅教室を開くに至ったのです。義父がいる間はお客さんを寄せ付けない感じの家でしたが、真理子さんもご主人も人を招くのが好きでしたし、これからはどんどん人が集まる家にしていきたい、そんな思いで自宅教室から、今度はカフェのオープンへとどんどん夢は膨らんでいきました。

 そしてバタバタだった納屋を誰でも入って来られるようなスペースへと改装。ついに一昨年12月に『葉っぴ~カフェtutti』をオープンしたのです。そうして人とのつながりはさらなるつながりを呼び、真理子さんの周りにはご縁の輪がどんどん広がっています。海外派遣のメンバーの一員にも選ばれ、その時一緒にアメリカに行った仲間のつながりで、ネパールの仏画師ダルマさんとも仲良くなりました。ダルマさんは農業とネパール料理とギャラリーを一緒にやれたらという思いを持っており、真理子さんたちとすっかり意気投合。この7月からは農園の研修生として働いています。そして、龍憲さんと真理子さんは同じくこの7月にカフェの2階を、ギャラリーやLiveに使えるオープンスしてオープンさせました。ギャラリーにはさっそくダルマさんの曼荼羅絵が飾られています。そうしてこけら落としにLiveを開催して、ネパールの復興支援も呼びかけるなどなんとも行動的。まさに思ったことを形に変えていく真理子マジック。いったいこれから、どんな夢を実現されていくのか、ますますワクワクが広がります。

 真理子さんは以前お母さんに言われたことがあります。「ちゃんと育てられんでごめんね」と。きっとお母さんは東大を出た優秀なお兄さんと比べてそう言われたのでしょうが、真理子さんはその時お母さんにこう言いました。「大丈夫、ちゃんと育ったから。」
真理子さんは思うのです。生んでくれて育ててくれてありがとう。命をつないでくれたから今の私がある。それがどんなに尊いことかと。だから、今、自分の誕生日はお母さんへの感謝の日に他ならないのです。

 そんな真理子さん、今は本当に毎日が楽しくて仕方がありません。自分で作ったものを採って、自分のお店に出せる。それをお客さんが喜んで食べてくれる。今まで出会うことのなかった人たちとも出会える。富がえりのレシピの人たちと関われたり、おもしろいことをしている人たちとたくさん関われるのが本当に楽しい。

 そして、この秋にはダルマさんたちと一緒にネパールにも行ってこようと思っています。したいことをせずに生きて、死ぬときに後悔するような人生は送りたくない。したいことをやっていつも笑顔でいたい。うまく出来ないことがあっても、何もせずにこれは出来ないそれは出来ないと不平不満をいつも口にしているよりずっといいと思うから。

 以前はとっても暗かったというのが信じられないくらいに生き生きしていらっしゃる真理子さん。いくつになっても夢を持って歩いていくことの大切さを教えてもらう時間になりました。これから、真理子さんの周りでどんなワクワクが待っているのか、とっても楽しみです。