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今日の人141.松本澄さん [2015年04月06日(Mon)]
 今日の人は、自宅を開放してフリースペースHOPEを開いていろんな人に居場所を提供している松本澄さん、通称マツキヨさんです。
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 マツキヨさんは1985年に東京小平市で生まれました。3歳までそこで過ごし、3歳から狭山茶で有名な埼玉県狭山市に移りました。

 子どもの頃は、静かにしなくてはいけない場面で静かにできないいわゆるKYな子でした。授業中に勝手に歩き回ることもしょっちゅう。本人はいたってマイペースで、友だちとはサッカーをしたりバスケをしたり、一緒にファミコンをしたりして過ごしていました。漫画は読みましたが、本は好きではありませんでした。でも、計算は得意だったこともあって、小学生の頃の夢はそろばんの先生になることでした。

 中学校に入ってからもKYな所やゲームをして遊んでいるところは変わりませんでしたが、バスケ部に入り厳しい練習をしていたのが小学校時代と変わったことといえば変わったことでした。この頃は電車の運転士か、はたまた公認会計士になりたいと思っていました。電車の運転士になりたかったのはずっと電車が好きだったからで、公認会計士になりたかったのはカッコよくってお金持ちに見えたからでした。
 そんなマツキヨさんが反抗期を迎えたのはちょっと遅目の中3の頃でした。受験の時に県立一本に絞りたかったのに、無理やり私立も受けさせられて、なんだかそこから親に反発するようになりました。

 結局第一志望の県立の商業高校に受かったのですが、その後も親にはずっと反抗していました。親はmust系の人だったので、「~しなさい」と言われると、「うっせー、知った事か!」と反発していたのです。

 高校の時はソフトテニス部に入って、友だちとご飯したりゲーセンに行ったり、そんな風だったのですが、中学生までと大きく変わった所がありました。それは、高校の時から周りの目を気にするようになり、KYではなくなったのです。でも、KYでなくなったのと同時に今度は人見知りになりました。常に人の目を意識するようになってしまいました。

 就活ではなりたいと思っていた電車の運転士になるべく鉄道会社を受けたのですが、あえなく失敗。失意のままもう就活は4年後でいいやと思い、推薦で大東文化大学の経営学部に行くことにしました。大学に行くなら、今度こそ公認会計士の勉強をしようと考えましたが、勉強する習慣をつけられずに挫折。結局友だちとバカばっかりやって4年間を過ごしました。自宅通学だったので、大学生になってもまだ反抗期が続いていて、親は「うぜぇ」と思っていました。今度は就活も面倒くさいと思い、ただSEという響きがいいというだけでSE(システムエンジニア)を目指し、3つ目に受けた会社で内定。

 しかし、就職してから途中でSEからコールセンターに回され、上司にも客にも怒られる日々が続きました。そのうち金曜日に仕事が終わって月曜に会社に行くのがイヤでたまらなくなって、就職して5ヶ月で仕事を辞めてしまいました。
 基本的に何でも事後報告のマツキヨさんはこの時も仕事を辞めてから親に報告したのでした。相当ご両親には心配をかけたようですね。

 3ヶ月後にホンダの下請けの下請けで、事務職で働き始めましたが、1年半後リーマン・ショックで会社がつぶれてしまいます。そこの社長が紹介してくれた部品組み立ての会社で働き始めましたが、そこはいわゆるブラック企業でサービス残業ばかりさせられ、これは心身がもたないと思って半年で辞めたのでした。

 この頃からマツキヨさんは人生について初めて真剣に考え始めました。自分の人生をどんな風に生きていくのか、フリーターをしながらさんざん考えました。一回きりの人生、生きたいように生きよう、そう思いました。そんな中で出会ったのが奥さんです。付き合い始めた次の日に家を出て、同棲を始めました。富山のじいちゃんのうちが空き家になっていたのを思い出したマツキヨさんは、そうだ、富山に行こうと思い立ちます。ご両親も言いだしたら聞かないマツキヨさんの性格をよくご存知でしたので、行きたかったら行けばいいと言ってくれたのです。ずっと反抗期でその後心配かけて、彼女と同棲し始めて、富山に行くと急に言っても賛成してくれる、とってもいいご両親ですね。

 こうして彼女と一緒に富山に引っ越して来たマツキヨさん。市役所で住民票を移す手続きをする時に、一緒に婚姻届も出したのでした。
 しかし、富山に来た翌日に夫婦に悲劇が襲います。妊娠7ヶ月だった奥さんが倒れ、救急車で運ばれ、今すぐに子どもを出さないと母子共に危ないと言われ緊急手術をしました。そうして、マツキヨさんのお子さんは生後わずか2時間でこの世を去ったのです。富山に来て、知り合いが誰もいない中で出したお葬式。しばらくは何も考えられませんでした。

 人生生きたいように生きようと思って富山に来たけれど、わが子は生まれてたった2時間でこの世から消えた。じゃあ、自分はどんな生き方をしていけばいいのだろう。苦しかった…。
 けれど、いつまでもうつむいているわけにはいきませんでした。現実問題として働かなければ食べていくお金もありません。とりあえず仕事をしなければ…。マツキヨさんは派遣で働き始めました。そんな時に起きた大津いじめ自殺事件。ショックでした。イジメで自殺した子ども、生きたくても生きられなかったわが子…いろいろな想いが頭の中でグルグル回りました。

 そうして思ったのです。そうだ、居場所がない子どもたちが集えるフリースクールをやろう。マツキヨさんは矢も楯もたまらず、とりあえず自宅でフリースクールを立ち上げました。そこで富山でずっと以前からフリースクールを開いていらっしゃるY’s さくらカフェの加藤愛理子さんとつながりが生まれ、加藤さんがまたいろいろな人とつないでくれました。しかし、フリースクールを自宅で立ち上げたものの2ヶ月誰も来ませんでした。焦る気持もありましたが、いきなりスクールは背伸びし過ぎだったことに気付きます。自分は自分らしくやればいいんだな、そう思ったマツキヨさんはフリースクールではなく、フリースペースにしてどんな人でも集える場所にしようと思ったのです。実際その時は貯金も残金2万円しかありませんでした。マツキヨさんはパートに出ながら、自分の空いている日曜、火曜、そして土曜の夜をフリースペースHOPEとして自宅を開放したのです。

 そうして2013年の3月、1人目の人が来てくれて、その後はポツポツといろいろな人が来てくれるようになりました。年代も20代から60代と幅広く来てくれます。ホープがきっかけで知らない人同士がつながった時がとっても嬉しいとマツキヨさん。ここを始めてからは滅多なことでは凹まなくなったそうです。

 そんなマツキヨさんが今楽しいのはバスケをしている時。大学卒業後またバスケを始め、今それがとっても楽しいのです。そしてホープに来てくれたみんなとおしゃべりしている時ももちろん楽しい時間ですし、人と会ってる時間が大好きです。人見知りなのですが、人が好き、それがマツキヨさんです。

 1年に2回、5月末と10月末の金曜から月曜までは実家に帰ることにしています。今はご両親ともうまくやっています。帰る時は必ずこの日。これは曲げられません。こういうこだわりはとても強いのですが、こだわっていないことには超適当です。富山に来てからは特に何でも許せるようになってきました。大学時代はとにかくいつもイライラしていましたが、今は全くと言っていいほど怒らなくなりました。いつも笑顔でいられることが本当に嬉しいのです。

 そんなマツキヨさんのこれからの夢はHOPEを日時限定ではなく、いつも開放できるようにしたいということです。HOPEに来てくれる人がHOPEをきっかけに少しずつ笑う事が増えていった、そんな人をどんどん増やしていきたい。

 そう話すマツキヨさんは本当に満面の笑顔なのでした。そんなマツキヨさんの笑顔に会いたい方は、誰もが気楽に集える居場所フリースペースHOPEにぜひ行ってみてください。