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今日の人140.岩崎弥一さん [2015年03月29日(Sun)]
 今日の人はアルカスコーポレーション(株)代表取締役社長、岩崎弥一さんです。
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 岩崎さんは1964年に福野町で生まれ、小学校1年生まで福野で育ちました。家の横には川が流れていて、その河原にはたくさんの木々があり、カブトムシやクワガタがたくさんいました。虫捕りに行った時に木の上に蛇がいたなんてこともある位、本当に自然豊かな中で育ちました。年上の友だちと一緒にサワガニ、フナ、ウグイなども捕りに行ったり、とにかく外で思い切り遊ぶ幼少期を過ごします。2つ下に妹が、6つ下に弟がいるのですが、長男の岩崎さんは祖父母に殊のほか大切にされて育ちました。
 大切にされていただけに、小2で東京に引っ越すことになった時、祖父母と別れるのがとても辛かったのを覚えています。

  引っ越したのは東京のど真ん中。マンションの6階だったのですが、そこからは武道館の光るタマネギ(屋根のてっぺんの部分)がとてもよく見えました。そうして九段小学校に通い始めます。なにしろ富山の田舎の小学生がいきなり東京のど真ん中の小学校に転校したのです。岩崎さんは東京の女の子たちがみんなキレイなのにまず驚きました。田舎ではまだほっぺたを真っ赤にしている子もいた時代です。でも東京の女の子はみんな身ぎれいにして、鼻をたれたりほっぺたを赤くしたりしている子なんて1人もいませんでした。そして岩崎さん自身、しばらくは口から出てくる富山弁が恥ずかしくて、みんなとあまり口がきけませんでした。しかし、3年で野球を始めた頃には、もうすっかり東京にも馴染み、たくさん友だちも出来ました。元々運動神経は抜群でしたから、野球でもドッジボールでも活躍し、なんと小6のバレンタインデーには36個のチョコをもらったそうです!今のように義理チョコなんてあまり言わない時代ですから、これは相当にすごい数ですね。

 岩崎さんは小3までは全く本を読まない子だったのですが、小3の時の担任の先生は学級文庫の本をクラスの子に順番に回して感想を書かせていたので、読まざるを得なくなりました。こうしてしぶしぶながらも読書ができるようになったことは本当によかったと思っています。本を読んで感動で泣いたのも初体験でした。忘れもしません。戸川幸夫さんの「牙王物語」でした。社会人になってからはむしろ読書家になった岩崎さん。ですから、この時、読書させてくださった先生にはとても感謝しています。

 そんな岩崎さんの小学校時代の夢は発明家になることでした。なにかクリエイティブなことがしたいと思っていました。クリエイティブなことがしたいとの思いは歳を重ねた今も変わっていません。

 九段中学校に進んだ岩崎さんでしたが、都会のど真ん中の学校はグラウンドが狭く、とても野球はできませんでした。当時「エースをねらえ」が流行っていたこともあり、岩崎さんもテニス部に入りましたが、なにしろ部員が多く、しかもうさぎ跳び等ばかりでちっともラケットを握れなかったこともあり、1年でやめて、悪友がいるバレーボール部に転部します。九段中学校のバレーボール部は当時実力があって、1つ上の先輩の代は都大会にまで進んだほどでした。岩崎さんたちも区大会は勝ち抜いたので、部活もそれなりにハードだったのです。でも岩崎さんは部活だけやっていたわけではありませんでした。中1の終わりにエレキギターを買って、夢中になり、中2でバンドも始めたのです。ちょっと突っ張ってるロックバンドでした。実は卒業した時、史上最悪の7人組だったと先生がおっしゃっていたそうです。しかし、謝恩会でLIVEすることが許され、岩崎さんたちは思い切り弾けたのでした。

 そんな風ではあったけれど、この国をよくしたいという思いは常に心の中にありました。お父さんには反発心があって、家の仕事(1919年創業の岩崎建設)を継ぐつもりなどないと思っていました。
 高校は第一志望だった都立には落ちてしまい、滑り止めだった男子校の本郷高校に通うことに。今は本郷高校というと超エリート校ですが、当時は頭はいいけど本命に滑って来た子が結構いました。ここでも岩崎さんはロックバンドを組んで活動していました。学園祭で演奏するなどしてとても楽しかった。岩崎さんはリーゼントヘアをしていましたが、先生はあまりとやかく言いませんでした。学力テストで一番を取っていたこともあり、先生は岩崎さんに甘かったようです。とにかくのびのびと過ごせた高校時代でした。
 修学旅行に韓国に行ったのもとても印象的でした。韓国の中央高校という高校と交流したのですが、むこうはみんな丸坊主でとにかく礼儀がキチッとしていました。しかし、本郷高校の生徒たちと交流したあとで長髪もOKになったそうですから、相当影響を与えてきたようです。

 そんな岩崎さんも高校3年になって受験勉強をしなくてはという気分になってきました。しかし、みんな受験であまりガツガツしておらず一浪して行ければいい、という雰囲気でした。岩崎さんは性根を入れたら現役でも入れると思ったのですが、ことごとく落ちて、ここでスイッチが入りました。大学に入るよりも難しいと言われている駿台予備校の試験に受かり、予備校生として1年過ごしました。この1年は人生で一番勉強した1年になりました。
 そして翌年、立教大学経済学部経済学科に入学したのです。大学生活の4年間は本当にいろいろ社会勉強ができたと思っています。アルバイトもいろいろやりました。ビジネスホテルのフロントやダイバーの命綱の上げ下げなんてのもやりました。

 実は岩崎さんは大学入学前におじいさんが亡くなっています。浪人する前にお見舞いに行った時におじいさんは言いました。
「この会社をやっていくのは君だ。」と。

 その時はなんでそんなことを言うのだろうと思っていました。お父さんとは馬が合わなかったから、自分で道を切り拓いていこうと思っていました。でも、甘い自分がいたから受験に失敗してしまったという思いがありました。

 社会人になる時にそんな甘いことでは許されない。そうしておじいさんが言った通り、家業を継ごうと腹を決めました。
 よし、そうするからには、まずこの世でいちばん厳しい職業に就こう。この時初めてお父さんに相談しました。するとお父さんは「証券会社がいいんじゃないか?」と言ってくれました。そこでいくつか証券会社のOB訪問をしたのですが、大和証券が一番よかった。しかも当時の土井定包社長は岩崎さんと同じ誕生日だったので、ここにしようと思ったのです。

 こうして大和証券に入社した岩崎さん。最初は研修続きで勉強の日々でした。本配属になる前の研修で証券会社の厳しさを実感します。本配属になってからは営業のノルマがひどく、本当に大変な毎日でした。しかし、発想を変えたやり方で岩崎さんにはどんどんお客さんがつき、トップクラスの成績に踊りでたのです。でも岩崎さんはおっしゃいます。商売のコツはとにかくたくさんの人にアタックしてたくさんの人に会うこと。たくさんの人に会えた人が勝ち、と。もし営業でスランプになったらとにかく電話や訪問を多くする、これに尽きると。そうしてこの時得た大きな教訓が「努力は報われる」ということでした。

 2年間証券会社で働いた岩崎さんでしたが、お父さんの「あまり長く証券会社にいるのはよくない」との声で退社することに。なんで、うまくいっているこの時に…と、反発心も生まれましたが、家業を継ぐと決めた以上、お父さんの言うことはやはり聞かなくてはと思ったのです。やめさせてほしいと言った後、しばらく会社に引き止められましたが、ちょうどバブルが崩壊し、岩崎さんは証券会社をやめたのです。

 その後は、やはりお父さんの意向で代議士の秘書としての修行が始まりました。最初の2年間はひらすら丁稚奉公的に働きました。運転手をして、カバン持ちをして、なんでも屋でした。なんでバリバリやっていた俺が…という理不尽は感じつつも、これも会社のためだと思ってやりぬきました。その後は深く政治と関わる仕事が出来て、とても楽しかった。ただ、とにかく忙しかったので、証券会社での忙しさを経験していなかったらとても無理だったと感じました。ああ、無駄になることなどないなとこの時、実感したのです。

 4年弱、代議士秘書として働いた頃、お父さんからそろそろ帰ってこい、と言われました。けれど、帰る前にアメリカへ行って来いと言われます。お父さんには海外経験をさせておきたいという思いがあってのことでしたが、岩崎さんにはまたオヤジが決めるのかという反発心もありました。けれど、結局は留学することに。そして結果的にこの時の体験は岩崎さんにとって、多くの国の友だちができたという点でも、アメリカの本質を知ることが出来た点でも、そして日本という国を外からの視点で見るという点でも、大きな財産になりました。そして現地でアメフトを見たり、ゴルフをしたり、多様な人々とつき合ったりして本当に充電の2年間になりました。

 こうして31歳で富山に戻った岩崎さんは岩崎建設(現アルカスコーポレーション)に入社、取締役財務部長として働き始めたのです。しかし、思ったより会社の財務がよくないことがわかり、お父さんとやり合いました。その頃、お父さんは番頭だった方をワンポイントで社長に就けていたのですが、上手く行かず会社は窮地に 追い込まれました。これではいけない。こうして岩崎さんは若くして社長に就任することを決意します。32歳の時でした。

 平成不況に入って行く時の社長のスタート。毎年のように売り上げが下がって、公共事業も少なくなっていきました。まるで下りのエスカレーターに乗っているような状況でした。止まったら最後、下まで落ちてしまいます。デフレが進み、資産価値が下っていました。資産売却して財務をよくしなれければならなかったし、自分たちでも商品を持たないといけないということで、ヒーローマンションのフランチャイズに入ったり、住宅リフォームの部門を持ったりしました。努力を積み重ね、賃貸マンションをやっていることがディベロッパーから評価されて、大阪で23棟のマンションを請け負いました。こうしてようやく経常利益が上がってきた時にリーマン・ショックが起きます。

 あっという間に賃貸マンションが動かなくなりました。このままではまた財務が悪化してしまう。そんな時に高齢者専用賃貸住宅に参入します。その後サービス付き高齢者向け住宅を土地活用のスキームを使って普及させていきました。もちろん大きな困難もいくつもありました。けれど、同じ所に止まっていたらあっという間に落ちていきます。リスクがあっても挑んでいく、それが岩崎さんです。

 今、岩崎さんは障害者グループホームを普及させていこうと考えています。まだまだ数が少ないこの施設。障害者と共生する社会を実現していくためにも普及させていきたい。社会に必要とされるものを近道しないで提供していくことこそが岩崎さんの目指す生き方です。それは子どもの頃に思った「クリエイティブな生き方がしたい」という思いそのもののように感じます。「近道することなく、諦めることなく実現に向けて努力したことが現在のお客様の支持に繋がっていると確信します。」と岩崎さん。
 岩崎さんはご自身でバンドをやっていた時から矢沢永吉さんの大ファンなのですが、永ちゃん語録「近道した時には、近道に潰される」常にこの言葉を忘れてはいけないと感じています。岩崎さんの生き方も永ちゃん同様、ロックなんですね。

 そんな岩崎さんが楽しいことはズバリお仕事。そして様々な活動を通して社会貢献に携わっていられること。そして何と言っても家族が幸せそうにしていること。2003年にシリア、レバノンで劇的に恋に落ちた恋女房の奥さまとは今もラブラブです。

 夢は会社をちょっとやそっとのことではびくともしない会社にすること。会社に関わるたくさんの方々にきっちり責任を果たしていく!社長としての強い想いです。

 企業の中でのドキドキ・ワクワク・イキイキを家庭や地域にも波及させていきたい。それは国にもいい影響を与える。
「この国をよくしていきたい」子どもの時からずっと抱いていた想いを企業人として着実に実践されている岩崎さん。

 いつかまたバンドを組んでLIVEもやろうと考えていらっしゃるそうです。その日を楽しみにしています。
今日の人139.車吉章さん [2015年03月09日(Mon)]
 今日の人は、フリーパーソナリティであり、イベントプロデュース会社「ま~る」代表の車吉章さんです。空気と時間に色付けする仕事がフリーパーソナリティの仕事だと車さん。ラジオのパーソナリティはじめ、番組のナレーター、各種イベントや結婚披露宴の司会や総合プロデュース、とにかくあちらこちらで引っ張りだこの方なのです。でも、車さんは忙しいという言葉は絶対に使いません。忙しいは心を亡くすと書きます。心を亡くすことはしない。時間は自分で作り出すもの、それが車さんのモットーです。
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時間を作り出していつも冬に南国へ♪


 車さんは1961年に高岡で生まれ育ちました。今の車さんからは想像もつきませんが、小さい頃はとにかく無口な子どもでした。あまりに無口なのでお母さんが心配したほどです。
それでも外で友だちと遊びまわるのは大好きでした。田んぼに自分たちで水路を作って泥水遊びをしたり、用水でフナをすくったり、晩ご飯の時間まで外で遊んでいるのが常でした。

 そんな吉章少年の小学生の時の夢は大会社の社長になることでした。なぜそんな夢を抱いたかというと、車さんのうちは商人一族で、ことにお父さんとおじさんはクルマ商事という会社の創業者として地元高岡ではちょっとした有名人だったからです。商売っておもしろいんだな、お父さんやおじさんのそばで肌でそれを感じた子ども時代でした。お父さんはどちらかと言えば陰の人、そしておじさんは陽の人でした。その陰陽のバランスがとてもよかったのでしょうね。車さんはこのおじさんの影響も多大に受けました。おじさんは田中角栄氏のようにせっかちで、そして豪快な方でした。入院していた時には見舞客のために病室に寿司を出前させるような人でした。おじさんが亡くなった時、新聞にも大きく記事が取り上げられました。その記事を車さんは今も大事に事務所に飾っています。
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 中学校に進んだ車さんは、それでもまだ無口なままでした。悪ガキからちょっかいを出されたりもしましたが、気にしませんでした。反抗期とは無縁で家族でよくボウリングに行っていたのを懐かしく思い出します。商売がしたいという気持ちに変わりはありませんでしたが、もうちょっと現実的になっていました。このままラクして暮らしていきたいなぁ、などと思ったりもしていました。

 無口な吉章少年が変わったのは、高校に入学してからです。高校は過去の自分を知らない人ばかりで、それが車さんの行動を知らず知らず変えていったのかもしれません。1年の途中ですでに「お前は口から生まれて来たんだろう」と言われるくらいにおしゃべりになっていたのです。車さんの通った高岡商業高等学校は車さんの実家からほど近く、自然にたまり場になりました。車さんのタンスの一段分は泊まっていく友達の服が入っていたくらいです。

 その頃、高岡には大型のショッピングセンター、ダイエーがオープンし、そこに入っていたハンバーガーショップで車さんはバイトを始めました。そこで改めて商売っておもしろいなと感じた車さん。私もよく覚えていますが、その当時のダイエーは本当に活気があって、高岡駅の地下街から車さんのバイトしてるダイエーのハンバーガーショップにつながっているのですが、そこを歩くのは本当に子ども心に楽しかったものです。
 車さんは大学生や他のバイト仲間とも遊びに行ったりして、なんとその時のバイト仲間とは今でも1シーズンに1回プチ同窓会を開くぐらいに仲良しなのでした。

 そのまま黙っていても親の作った会社に向かってレールは敷かれていたけれど、それがイヤで全くちがった方面に進もうと思った車さん。何がいいかなと考えた時に、自分はバスや電車など乗り物に乗っていろいろなところへ行くのが好きだし、家族も家族旅行を大事にしてくれる家だったから旅行も好きだ、そう思った時に、そうだツアーコンダクターになろう!そう思ったのです。

 こうして名古屋の専門学校に進学した車さん。でも、なかなかの問題児でした。入学して最初の授業で車さんのことを「Mr.car 変な名前だな」と言った先生がいて、車さんは以降その先生の授業をボイコットするようになったのです。その時間、喫茶店で時間をつぶしていると、ボイコットする人が1人、3人、10人、15人と増えていったのです。それで、誰だ最初にボイコットしたやつはという話になって、お前が出ないと他の学生も出ないと言われたのですが、夏休みが終わったらその授業の先生が変わっていたということがありました。車さんはとにかく人気者でした。1クラスには70人くらいいたのですが、休み時間になるとみんな車さんのところに集まってくるのです。今はすっかり大きくなったダフネコーヒーでもバイトしたり、クラスメイトが実家に雪下ろしをさせてくれと言ってやってきてくれたりホントに楽しい学生生活でした。
  
 地元の旅行会社に就職内定をもらっていたのですが、大手で富山に欠員が出たから受けてみろと言われます。そちらには行く気がなかったので、テストではわざと0点を取り、面接も適当に答えていたところ、学校で何を勉強して来たんだ?と聞かれ、友だちを作るためと答えた車さん。ところがなんと受かってしまいます。学校側としては大手の旅行会社に行ってもらいたい、でも車さんは転勤があるから行きたくない、そこで転勤しなくてもいい条件にしてもらって、そちらに就職することに決めたのです。

 こうして富山に帰ってきた車さんはツアーコンダクターとして、国内はもとより海外もあちこち行きました。東南アジアの国々が今ほど発展していなかった時代ですから、それはカルチャーショックが大きかった。と同時に日本がいかに幸せな国であるかを実感しました。国内どんなところに行っても蛇口をひねれば直接飲める水が出るなんてどれだけ幸せなことか。でも、そういう途上国の人のあたたかさにも触れることが出来た時代でした。

 ツアーコンダクターを8年続け、仕事はそれなりに楽しかったのですが、そろそろ別のことをやりたくなったのもあって、仕事を辞めることを決断。その後、車さんはいろいろなアルバイトをやりました。土方やストーブの掃除なんてのもやったし、サンプル作りもやりました。いろいろやった中で自分に合わないもの、合うものを探しました。そうして自分はやっぱり人間を扱う仕事が合っているなというのを実感したのでした。
 喫茶店で働いていた時、常連の女性客にフリーアナウンサーの方がいました。
「かっこいいなぁ。出来たらやりたいなぁ」と車さんが言った時、彼女はカウンター越しに車さんの顔をじっと見て、こう言いました。
「やりたければやれば」

このひと言が大きな転機になりました。
電話帳を引っ張りだした車さんは放送局に片っ端から電話しました。
「あの、アナウンサー募集していませんか?」
もちろんそれで応じてくれる放送局があるわけもなく、その後はイベント会社に電話をかけまくりました。
 ここでも断られ続けたのですが、あるイベント会社に電話した時のことです。
「お前本当にヤル気あるのか?」「1回来い!」と言われたのです。

 そうして訪ねた先が作芸人磨心(サウンドマシン)。そして代表の野尻博さんと出会ったのです。野尻さんは理論よりも実践の人。とにかく現場を見ろ、といろいろな場所に連れだされました。もちろん怒られたことも数知れずありますが、そうやっていろいろなことを身体に叩き込んでいってくれたのです。野尻さんは車さんにとって第2の父であり、そしてお仲人さんでもあるのでした。
 
 車さんが初めて司会の仕事をもらったのは、石金商店街で司会者のお姉さんを紹介する司会という役どころでした。時はバブルで、当時はイベントも多く、本当にたくさんの現場がありました。司会者を誰でもいいからつけてくれという依頼も結構あって、新人の車さんが引っ張り出される場面もとても多かったのです。もちろんいっぱい怒られ、このヤローと思ったことも一度や二度ではありませんが、そうやってとことん現場で鍛えられていったのでした。

 そんな車さんに転機が訪れたのはJAPAN EXPO富山の開催でした。そこには野尻さんが大道芸で入っていたので、車さんも一緒に入っていました。当初入っていた司会者がダメだというので降ろされ、その時に車さんに白羽の矢が立ったのです。EXPO富山の協会の司会者として抜擢された車さん。周りの皆さんに怒られながらも育ててもらい、厳しさの中の優しさを痛感しました。そして、この仕事の良さを心から感じたのもこの時でした。こうしてこの世界でやっていこうという車さんの覚悟は揺るぎないものになったのです。

 その後の車さんの活躍はめざましく、富山テレビでやっていたクイズ・フォーカスインのナレーションを8年つとめたり、ラジオのパーソナリティ、イベントや披露宴の司会に引っ張りだこになったのです。アナウンス学校で学んだ経験ゼロでここまで来られた方はちょっと他にいないんじゃないでしょうか。

 今まで人に育ててもらった気持ちが強いので、車さんは今「声塾」を主催して今度は人を育てていく方にも力を注いでいます。声塾は富山にいながら超一流の声優さんに少人数で指導を受けられる大変贅沢な塾です。興味の有る方は一度ホームページをご覧になってみてください。え?こんな声優さんから学べるの?っていうくらい誰でも知ってる声優さんばかりです。http://under-heart.sakura.ne.jp/ma-ru/voice.html
 
 今まで2000組以上の結婚披露宴の司会もやりましたが、車さんはいつもお二人に合う結婚披露宴を一緒に作っていくことを心がけています。例えば、和菓子屋さんの披露宴ではケーキ入刀ではなく、羊羹入刀にしたり、消防士さんの披露宴では、キャンドルサービスの時に火消しが火をつけちゃいかんだろうということで、「火をおさめます」という演出にしたり、周りがとてもあたたかい気持ちになれるのが車さんの司会と演出です。車さんは「自分のことばで相手の心が動く、こんなわくわくすることってないですよ」とおっしゃいます。まさしく空気と時間に色付けしていらっしゃるのだなぁとお話を伺いながらつくづく思いました。

そんな車さんが今まで司会した中で唯一泣いた結婚披露宴がありました。それは同性婚のカップルの結婚披露宴でした。衣装屋さんにこの2人をなんとかしてやりたいと持ちかけられ、最初は正直受けるか否か迷ったのですが、会って2人に話を聞く度に、それまでいかに波瀾万丈な人生だったかをひしひしと感じ、また同時に2人がいかに純粋に愛し合っているかを痛感して受けた司会でした。人前結婚式で行われた2人の式は本当に心を打つもので、車さんは感動して泣きました。男と女である前に人間なのだ、子孫繁栄の意味では子どもを作れるのがベストだろうけど、好きなもの同士で結婚するのがベターだとそれ以来車さんは思うようになったのです。

車さんは中西圭三さんのコンサートも手掛けていらっしゃいますし、ぜひ一度ホームページに遊びにいってみてくださいね。
ま~るhttp://under-heart.sakura.ne.jp/index.html

 こんな風にとっても精力的な車さんですが、実は北陸の曇天の冬の空はとっても苦手。なので、毎年冬になると南の島へ旅行に行って、思いっきり命の洗濯をしてきます。ですからお会いした時は2月にもかかわらず真っ黒。そうやって自分にご褒美をあげることでまた新たな仕事への活力になっていくのですからとっても素敵な年中行事ですね。

そして、つい先日はトワイライトエクスプレスの旅も楽しんできました。
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トワイライトエクスプレスに乗って札幌で会ってきたのは20年前に偶然写真を撮ってもらって以来親交のある方。こうやって、人の縁を大切にするからこそ、どんどんご縁が広がっていく車さん。トワイライトエクスプレスもまもなく幻の列車になってしまいます。夕方の北陸線をトワイライトエクスプレスが走っていく姿は鉄ちゃんならずとも心惹かれるものがありましたが、もうあの風情のある光景は見られなくなるのかと思うとなんだか寂しいものですね。

車さん、いずれは冬でも青空の見える所でのんびり過ごしたいと思っていますが、それはもうちょっと先になりそうです。なにしろ、今の岡にとってはなくてはならない方なのですもの。

そんな車さんが、今一番幸せを感じるのはご両親が元気でいてくれることです。車さんは夜は遅いことが多いのですが、どんなに夜遅くても翌日はご両親を含めた家族4人で朝食の食卓を囲んでいます。それが車家の団欒の時間。そしてそれが1日の活力にもなっています。とってもご両親思いの車さんですが、「プチ親不孝を続けることが親が元気でいる秘訣ですよ」とちょっぴりいたずらっ子の笑顔で言われました。

これからも車さんは空気と時間に多様な色をつけ、そうして人と人をつないでいろんな場所と場面をまぁるくしていってくださることでしょう。
最後に今いちばんホットな北陸新幹線のYouTube動画を貼り付けておきます。一番最初のナレーションが車さん、一番最後のキャッチコピー「早よ来られ、ゆっくりおられ」も車さんのご提案だそうです。
待ってたよ 北陸新幹線 富山県Ver.(ロングバージョン)
http://youtu.be/WES6I1aP5Ug

みなさん、富山で待っとるちゃ♪