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今日の人136.横江貴雄さん [2015年01月13日(Tue)]
 今日の人は株式会社OSCAR J.J(旧オスカーホーム)の人事部マネージャーであり、産業カウンセラーやセミナー講師としても活躍されている横江貴雄さんです。横江さんは月に200kmペースで走ってるランナーでもいらっしゃいます。
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 横江さんは小学校3年生までは泣き虫な少年でした。友だちとゲームをしていても、負けたら泣いて途中でやめてしまうような悔しがり屋さんでした。でもそれがイヤで小学校4年生からは泣かなくなりました。でも、泣かなくなった代わりに喜怒哀楽の感情を表に出さずに自分の中に押し込めるようになった気がしています。

 そして何をやっても長続きしませんでした。小学校入学と同時に習い始めた水泳は水が怖くてプールの角で泣いていて、3ヶ月後にはやめました。2年の時は学研の学習塾に行き始めましたが、それも半年でやめ、3年で習い始めたそろばんも8級を取ってすぐやめました。泣き虫から卒業した4年生で始めたのはスポーツ少年団の野球。お父さんが野球好きで野球を薦められてやったのですが、買ってもらったスパイクがサッカースパイクだったので、まわりから「それサッカースパイクじゃない?」と言われるのがブルーでした。また素振りの時に「1,2」と声を出しながらやるのですが、その時の貴雄少年は「に」の発音がうまくできなかったので「いち、ぎ」と発音しているように聞こえて、「おい、『ぎ』って言うな!」と言われていたりしたのもあって、『ああ、ここは俺の居る場所じゃないなぁ』と感じたのです。そうして野球も1年でやめました。やめる時の言い訳は「勉強をがんばるから」でした。

 でも、実際に横江さんは5年生からすうっと成績が伸びました。それまでは通知表は3が多かったのですが、5年生になって5が一気に増えました。そして、6年の時には母に薦められた学習塾に通い始めました。そこは小学生は横江さんしかいなかったので、夕方の時間、先生と1対1で授業を受けることが出来ました。その先生は勉強というより当時ハシリだったパソコンのゲームをさせてくれたり、30cmものさしを使った野球ゲームをやったり、そういう時間がとても楽しかったです。親に本屋に連れて行ってもらった時は自ら参考書を求めた横江さん。勉強もできるし、100m走を走ればダントツ1位。けれど、自分の感情はどこかに押し込めている、そんな子ども時代を横江さんは過ごしたのでした。

 その頃の横江さんの夢は弁護士になることでした。当時流行っていた火曜サスペンス劇場で弁護士が大活躍していたこと、そして小さい時から弁が立つ子だったので、じいちゃんから「貴雄はしゃべる仕事につくといいなぁ」と言われていたのが心に残っていたからでした。富山市のお祭り、山王さんに行った帰りに「ひらがな小六法」を買ってもらって小学生の時から六法を読んでいたくらいです。そうして弁護士になるなら東大か京大の法学部に行かなくちゃ、それなら富山高校に行こう、そう漠然と考えていたのでした。6年の時は集会委員会の委員長として全校集会の場などで話す機会が多かったので、やはり自分は人前で話すのが好きだ、そう思いました。

 中学では陸上部に入りました。走るのが速かったからという単純な理由でしたが、横江さんは部活より生徒会活動に熱心に取り組みました。2年の後期は生徒会長に立候補したけれど負けてしまいます。でも、2年の時は生徒会の議長、そして3年の前期は生徒会長として活躍したのです。横江さんが通っていた速星中学校は昔から『信じあう心』をスローガンにしていて、無人販売や無監督テストを行っている学校ですが、そんな校風のもと、文化祭の準備などで横江さんは積極的に生徒会活動を進めていたのです。

 勉強もそこそこ頑張りました。何がなんでもという感じではないのですが、元来負けず嫌いなので、少しでも上に行きたい、そう思っていたのです。けれど、何かに全力で取り組んだそんな感じはあまりしませんでした。

 それでも、希望通りに富山高校に進学した横江さん。部活はバスケ部に入りました。しかし、練習がとてもキツく、且つ高校に入って一気に勉強が難しくなったこともあって、夏休みに入る前に部活をやめました。けれど、部活をやめて過ごした高1の夏休みは最悪に自堕落な生活をしてしまいました。夜な夜なジグソーパズルのピースを埋めて勉強もろくにせず、「自分は東大か京大に行きたいと思っていたけれど、ああいう大学にいくのは非凡で特別な人だ」と勝手に枠を作ってしまっていたのです。
 このままじゃあダメだ、そう思った横江さんは2学期にはバスケ部に復帰。そんな時、担任の先生から「生徒会をやらないか?」と声をかけられ、1年生の後期には生徒会の副会長になりました。こちらは得意分野なので、結果執行部を優先した日々にはなりましたが、部活もなんとか続けてはいました。

 2年の前期には生徒会長に。やはりリーダーとなってみんなを動かしていくのが性に合っていました。バスケ部の夏の合宿の時は大きな捻挫をしてしまい、部活を1~2ヶ月休むことになってしまいました。こうして3年のインターハイ予選は補欠の補欠で部活は引退。部活では全く燃えることが出来なかった横江さんでしたが、この高校3年の夏に人生のピークとも言える出来事がありました。それは高校生活最後の運動会。横江さんは応援団長となり、応援合戦に向けての練習では7分間の脚本を書き、プロデューサーになってみんなを動かし、結果応援合戦でも優勝、競技でも総合優勝を勝ち取ったのです。それまで何でも不完全燃焼だった横江さんが初めて完全燃焼したと思えるそんな体験でした。

 しかし、その後の受験勉強にはさほど力が入りませんでした。弁護士になりたいという気持ちは薄れてしまっていました。そうは言っても名門の金沢大学の経済学部に現役で合格。
横江さんが大学に入った年はちょうど金沢大学が城内キャンパスから角間キャンパスに移転する年でした。横江さんは2年の前期まで城内キャンパスに通います。1年の夏休みには当時開催されていたJAPAN EXPOとやまでアルバイトしていました。その年の12月からはキャンパス近くのオートバックスでアルバイト。実はこのバイト先で奥様と知り合ったのです。

 大学2年の年は横江さんにとって忘れられない年になりました。春先にお母さんがヘルペスになり、それを気遣ってお母さんのためにケーキを買いに行った横江さん。その時、車が後ろから追突してきて横江さんの車は廃車に。幸い横江さん自身は軽いけがですみました。しかし、その頃昇進うつにかかり家族の誰にも心の内を明かせずにいたお父さんは、お母さんの病気と息子の事故でますます心に蓋をしてしまったかのようになってしまったのです。(横江さんはそう感じました)そして、6月に農薬を飲んで自殺未遂をはかったのでした。幸いその時は救急車で運ばれて一命をとりとめます。しかし、安心したのも束の間、11月には首吊りをしてお父さんは帰らぬ人となってしまいました。
横江さんは悔やみました。ずっと寡黙なお父さんだった。そしていつも自分のことを見守ってくれているそんなお父さんだった。それなのに、自分は帰省している時に自分を心配してくれるお父さんに向かって「お父さん、もうそろそろ子離れした方がいいんじゃない?」と言ってしまった。なんでそんなことを言ってしまったんだろう。お父さんはキャッチボールをしたり一緒にスキーに行ってくれたりする本当に子煩悩な人だったのに。あれしろこれしろとは決して言わない人だったのに…。

 このことがあって、横江さんは富山で就職するしかないと思うようになりました。自分がやりたいこととかそういうことよりも、まずお母さんのそばにいなくてはいけない、その思いを優先したのです。ですから、真剣に就職活動をしたわけではありませんでした。思えば大学受験もそうだったし、就職活動もそうだった。本気で取り組んでいない自分がいつもいました。今、横江さんは会社の人事で就職担当だけれども、今の学生たちの方がよほど真剣に就活に取り組んでいる、そう思うのです。

 こうしてオスカーホーム(現OSCAR J.J)に入社した横江さん、結婚もし、子どもも生まれ、仕事もまぁそこそここなすそんな毎日を送っていました。ところが、入社5年目にやることなすこと全て否定する上司が来ました。なんでも否定されるので、そのうち自分のやっていることが全て間違っていると思うようになり、全てにおいて自信がなくなりました。そうして心療内科に行くと「うつ」と診断されました。心療内科の先生には体を動かした方がいいと言われ、体育館に行って体を動かすようになりました。体を動かしていると実際調子がよくなって、下のお子さんが生まれた2002年頃は症状が安定していました。仕事も安定してきて、このまま上向きになっていくと思われた時、人事部へ異動となったのです。

 2005年からの6年間は仕事上でいつも悶々としていました。自分はこのままで終わっていくのだろうか…。子どもたちの幼稚園のPTA会長などもやり、その部分しか知らない人たちはまさかその間、横江さんがうつで苦しんでいるなどとは思いもよらなかったことでしょう。でも表面で笑顔でいる裏で実は苦悩していたそんな6年間でした。

 そんなストレスが腰にもたまったのか、横江さんはビーチボールで腰を痛めてしまい、動けないほどの激痛に襲われたのです。救急車で運ばれ即入院。ひどい椎間板ヘルニアでした。ブロック注射を打つとなんとか歩行器で歩けるようになり、その後退院して痛い時は座薬を入れながら仕事をしましたが、それも無理になり手術に踏み切りました。6月に手術をして3週間の入院生活を送ったのです。この2009年は一番どん底だったと感じています。

 2010年になってこれじゃあいけない!と思った横江さんは4月に東京でコミュニケーションセミナーを受講しました。それまで全く面識のなかった18名の前で先生の個別セッションを受けたのですが、その時感情があふれて号泣したのです。この時、味わったことのない解放感を感じ、今までの呪縛から解き放たれたように思いました。
 けれど、その感覚が日を追うごとに元に戻っていくのです。そうして4ヶ月経った頃にはすっかり元に戻ってしまったと思いました。
 もう一度あの感動を味わいたい!そう思って9月にそのセッションを再受講しましたが、4月の時のような感動は得られませんでした。なぜだ!しかし同時にその疑問が横江さんを脳科学や心理学への興味へとかきたてたのです。

 横江さんがコミュニケーションセミナーの講師に尋ねたことがありました。
「先生にとって幸せって何ですか?」
講師の先生からは意外な言葉がかえってきました。
「脳内ホルモンです。」
はっとしました。そうか、人が幸せを感じるのは脳内ホルモンが出ている時。じゃあ、それを出すためにはどうしたらいいんだろう?

 いい感覚があるのに、何かがつかめそうなのにつかめないそんな感覚。あの時のあの感動の感覚を得るには自分の脳内ホルモンを出すにはどうしたら?そんな悶々とした日々が続きました。悶々としながらもいろいろ学びました。その中でいろいろな出会いもありました。飯野道子さんNLPセミナーを受けた時に、福島正伸さんが講演会をするという話も聞きました。そうして2011年の5月に高岡で開かれた福島正伸さんの講演会に参加したのです。実は私もその講演会に参加していました。その時は横江さんに会うことはありませんでしたが、その年の8月に開催される第1回ドリプラとやまへ向けて動き出した時に、横江さんもスタッフとして関わられたのです。そうして私も横江さんと出会えたのでした。

 でも、ドリプラの支援会等に参加しながら、どこか自分はちがうんだという思いがありました。そしてその時は休みになるとドリプラのことで出かけていましたから、奥さんや子どもたちに悪いと思う気持ちも常にありました。

 実はその年の5月に横江さんにとって忘れられない出会いがありました。マンテンホテル富山で開催されていた朝活で大谷伊治郎さんに出会います。その頃、ダイエット目的に走り始めていたのですが、大谷さんに一緒にあいの風リレーマラソンに出ましょうと誘われ、本格的に走ることに取り組み始めたのです。

 福島正伸さんのお話で自分の夢はなにか?自分は何がしたいのかを問われた時に、まだはっきりとは答えられなかったけれど、でも出てきたのは自分は人前で話すことが好きで、自分の経験を話したいということでした。今までずっと勉強してきたコミュニケーション術について自分が講師となって話す場がほしいと思った横江さんはインターネット市民塾でコミュニケーション術を開講し、講師になったのです。9月~11月までの講座でした。そして講座が始まる前の8月には朝活でも講師として話してきました。

 そうして横江さんはあいの風リレーマラソンに大谷さんのチームの一員として出場。けれど、当初は3周走ろうと思っていたのに2周しか走れませんでした。大会後、大谷さんの家での打ち上げで横江さんは大谷さんのランニングメニューを見せてもらって愕然としました。雨の日も雪の日も休むことなく走っている。そして福知山マラソンでサブ3(サブ3とは3時間以内でマラソンを走ること)を目標にしていると聞きました。大谷さんに大会に出ることを薦められた横江さん。「神通川マラソンで一緒にハーフを走ってみませんか?」と言われ、そこに出ようと決意します。
 そして12月から毎日走り始めました。しかし、走り始めたものの北陸の冬は曇天で雨ばかり。ちょっと滅入りそうになって大谷さんに電話しました。どんな時でも走ると言っていた大谷さん。どんな格好で走るんですか?それを質問しました。まさかそれが大谷さんとの最後の会話になるとはその時は露ほども思わなかった…。

 年が明けた2012年1月10日、いつものように朝走っていた大谷さんは車にはねられ、皆の願いもむなしく帰らぬ人となってしまいました。たくさんの人が悲しみに包まれたのを私も今もはっきりと覚えています。

 その年の神通川マラソンのハーフコース、大谷さんと約束したそのコースを横江さんは走りました。2時間を切る目標でやってきた。そうして1時間52分で走ることが出来たのです。こんなやり切った感は、あの高校の応援合戦以来でした。

 そして横江さんはそれからもずっと走り続けています。もちろん仕事の上で悶々としたり、怪我で3~4日走れない時もありました。それでも、走るのをやめることはありませんでした。

 そうして昨年2014年のあいの風リレーマラソンに3年ぶりに走った時のこと。3年前はグダグダだったコースを4周走ることが出来た。しかも4周フラットなタイムで走ることが出来た。この時確信しました。3年間走り続けてきたことが本当の意味で自分の自信になっているんだ、と。

 そして横江さんはあの福知山マラソンでフルマラソンにも挑戦しました。4時間2分。惜しくもサブ4にはなれなかったけれど、次はきっとサブ4だ!そう思っています。

 実は昨年の夏くらいまでは走っていても、「何で俺は走っているんだ?」と思うことがまだありました。けれど、今は2日走らなかったら気持ち悪いと思うようになりました。楽しんで走ることができている。3年半続いているというのは今までの人生で一番継続できていることです。それがとても自信につながっています。

 今まで自分のピークは高校3年の時だと思っていた。けれど、今は、それを超えてもっとよりよい人生を歩んでいけるという感覚が持てます。そう話す横江さんの目はとってもキラキラしています。

 仕事も人事部でマネージャーという立場になり、上司にも恵まれ、とてもスムーズに仕事ができる環境になったと思っています。人事担当者として、会社の経営者が望むことを先取りしてやっていくことを心がけてもいます。会社の経営戦略のパートナーであり、マネジメントのエキスパートであり、社員ひとりひとりの能力を引き出せる、それが人事担当者だと横江さんは思っています。今は自分自身が充実感、達成感を味わえて、それが会社の業績にもつながっていく、そんな形ができつつあるなと思うのでした。

 そしていずれは社の内外を問わず、セミナー講師として独立して生計を立てられるくらいになりたいと思っています。人事にしてもセミナー講師にしても、人の成長にかかわれる仕事です。今、会社ではベトナムからの実習生も受け入れていますが、そうやって海外と関わる仕事もとても素敵だと思っています。将来的には1年の半分は海外で仕事をしてみたいなぁとも思います。そんな横江さんは2人のお子さんにも、あまり日本にとらわれないほうがいいよ、と話しています。子どもたちにはいろんな可能性を広げてもらいたい。そんなこどもたちの人生も応援しつつ、自分と家族の未来をとても楽しみにしているのでした。

 ランナー的には、サブ4を目指して今年も走っていきます。そうして世界中のいろいろなマラソン大会に挑戦できるようになりたい!そう考えています。

 今までの人生はどちらかというと自分のことを中心に考えてきたので、これからは誰かのために何かをなしていく、そんな自分にもなりたいと思っています。そしてそんな自分を支援してくれるそんな仲間も作っていきたい、そう思う横江さんなのでした。

 そんな横江さんのこれからの活動に目が離せません。人事部こそダイバーシティな考え方が必要不可欠だと思っていますので、企業に横江さんのような人事部の担当者がどんどん増えていけば最高です。そしてきっと今年はサブ4達成ですね!