今日の人135.舘良治さん [2014年12月31日(Wed)]
今日の人は「砺波で語ろうおしゃべり会」を主催、日本ピア・カウンセラー協会でも活躍されている舘良治さんです。舘さんはIT系の会社にお勤めで現在平日は単身赴任中。お仕事では消防・防災のシステム構築に携わり、週末だけ富山に帰ってさまざまな活動をされているとてもパワフルな方です。
舘さんは1963年、砺波で生まれ育ちました。小さい時は外遊びでSケンをしたりもしましたが、本を読むのも大好きな少年でした。佐藤さとるが大好きだったし、理科年表的なものを見るのも好きでした。その頃は科学者になって太陽エネルギーの研究をしたいと思っていました。 中学に入っても科学者になりたいという夢は変わりませんでしたが、部活は放送部に入ります。ちゃんと発声や発音練習をしているマジメな生徒でした。でも、あまりにマジメにその練習をしているのもおもしろくなかったので友達と軽音のグループを作ってそちらの練習に熱を入れたりもしました。軽音ではキーボードを担当して、文化祭の時に演奏。ディープ・パープルのスモーク・オン・ザ・ウォーターやハイウェイスターを演奏していました。 高校でも引き続き放送部に入り、この時はNHKのコンテストでアナウンス部門で朗読したりもしていました。番組を作るのも好きでした。昔から何か発信するのが好きだったのです。相変わらず軽音での演奏も続けていてやはり文化祭には演奏していました。 この頃は勉強も頑張っていました。子どもの時からの科学者になりたいという夢は変わっていなかったので、迷わず理系に進みました。高2の頃は、図書館デートをする彼女も出来ました。図書館で一緒に勉強し、時々チューリップ公園で散歩するような初々しい恋でした。 こうして舘さんは金沢大学の工学部に進みましたが、彼女は名古屋に行ってしまったので、甘酸っぱい恋は遠距離では長続きはしませんでした。 大学の時も放送部に入ろうかと思ったのですが、中学校の時から放送部にいる腐れ縁的な先輩がいて、放送部はやめて軽音楽部に入ったのでした。ここでもキーボードを担当し、大学在学中はポプコンに出場したこともありました。 バイトもいろいろやりました。プールの監視員のバイトをしたり、神社の駐車場の誘導係をしたりもしましたが、いちばんおもしろかったのはディスコのDJのアルバイトでした。これがとてもおもしろかったので、音楽系の道に進もうかとも考えました。けれど結局は工学部で勉強したことを活かして、堅実にコンピューター系の仕事を選んだのでした。 金沢で採用になった舘さんでしたが、実際の仕事は東京赴任で始まりました。世の中はちょうどバブルが始まる頃で、舘さんも夜な夜なバーへ通い、飲み仲間もたくさん出来ました。そんな仲間とライオネルリッチーやティナ・ターナーのコンサートに行ったのも良い思い出です。こうして東京での生活をエンジョイしていましたが、何年か経って金沢へ戻りました。それからは出張ベースで金沢と東京を行き来するようになりました。そしてその頃、奥様と出会われ結婚。子どもが出来た頃東京に出向になり、それから3年半は家族で東京暮らしでした。休みの日はひたすら郊外に出かけました。那須や伊豆に日帰りで行くこともよくありました。そうして思いました。ああ、僕はやはり自然の中にいるのが好きなんだな。 3年半経ってまた金沢に戻ってきた舘さんでしたが、しょっちゅう東京に行っているなら、なにもわざわざ金沢に住んでいることはないと思い、実家のある砺波に二世帯住宅を建てました。自然への憧れが強かった舘さんはその時に念願の薪ストーブのある家を建てたのでした。 しかし、ほどなくして、また東京への転勤になります。もう家を建ててしまっていたので、この時は単身赴任をしました。この時担当していたプロジェクトは本当にタフなもので、舘さんは朝8時半に作業を開始して真夜中の3時半まで作業を続けるような毎日でした。それでも問題は次々に起こり、次第にいつも自分が否定されているように感じるようになりました。そのうち満員電車で立って通勤するのがしんどくなり、行きも帰りもタクシーで通勤するようになりました。けれど、それさえしんどくなってきて、どうせ寝に帰るだけなんだったら、少しでも睡眠時間を増やしたい、そう思って会社に寝袋を持参して階段の踊り場で寝始めたのです。 そんな生活は、あまりにもストレスが溜まりすぎました。もう無理だと思った舘さんは一週間の休暇をもらって家族でハワイに。ハワイに行っている間は気分も晴れました。けれど、帰って来て仕事に戻るとやはりすぐに疲れてしまうのです。そんな状態で迎えたゴールデンウイーク。世間一般の人たちが休んでいるこの時、舘さんは忙しくてほとんど寝ずに仕事をこなしていました。寝不足で頭が回らない中、辛いな、死んだら楽になれるのかな、そんなことばかりが頭をよぎりました。多分この時に新興宗教に誘われたりしたら、そっちにいってしまったかもしれない、そう思えるほどギリギリな状態の中で仕事をしていました。 そうして、いちばん忙しい時期を乗り越えて少しホッとした時のことでした。 朝起きると倦怠感があり、風邪かなと思ってその日は会社を休みました。夕方になると倦怠感は消え、明日は普通に会社に行けるなと思うのですが、朝が来ると体が動かないのです。あれ?俺はどうなってるんだ?そう思いつつも体が動きません。それでもビールを飲んだりしていると気分がよくなり、明日こそ行けると思いますが朝が来るとまた行けない…そんなことを何日か繰り返し、このままじゃあダメだと遅刻しながらも出社しましたが、どうしても気分が悪くなってしまって早退。 なんだか逃げている感じがして自分が嫌になり、情けなかった。そのうち携帯電話の音にもビクッとなって電源を切るようになりました。誰とも会いたくないし話したくない。眠れなくて風邪薬を飲む…そんな毎日から抜け出したい一心で、舘さんは心療内科を受診したのでした。予想はしていましたが、うつでした。薬を処方してもらい、会社にも行くように頑張りました。でも気分がスッキリ晴れることはありませんでした。そのうち頭痛がするようになりました。そしてその頭痛が時々からいつもするようになっていったのです。 そんな時に友人からハワイに遊びに来ないかと誘われ、舘さんはまた家族を連れてハワイを訪れます。ハワイに来て2日目で頭痛が消えました。心が開放されていくのを感じました。でも、帰ってくるとやっぱりダメなのです。 しかし、ようやくつらかったプロジェクトが終わり、富山に戻ってきた舘さん。環境も変わったし家族と一緒に住むようになって、以前より落ち込むことは少なくはなりましたが、やはり春や秋になると気分が落ち込むことがありました。そんな時は開き直ってサボることにしました。でも、家族や近所の目があるので、車で出かけ、公園で過ごしたりしました。 そんな時に、親から山の下草刈りをしてくれと頼まれます。最初はしぶしぶやり始めました。でも、時間がたつと何もかも忘れて額に汗しながらひたすら作業に打ち込んでいる自分がいました。ふと気がつくと鳥の声がする。そうして自分の後ろに自分が作った道ができている。なんともいえない爽快感と達成感がありました。そうして「ありがとう」と感謝されることで、自分は役に立っているという自己肯定感が湧いてきました。本当は会社のプロジェクトの中でも舘さんは大いに人の役に立っていたのにもかかわらず、それを感じることができずに自己否定の気持ちばかりが芽生えていたのです。でも、自然の中で体を動かすようになってそんな気持ちがいつの間にか薄らいでいくのを感じました。 『ああ、自分は生きているんだな』それを感覚で感じることが出来たのです。 もちろん、それで一気に症状がよくなったわけではありません。でも、2年半ほどの時間をかけて、舘さんは少しずつうつから立ち直っていったのでした。 自然の中で過ごすことの大切さを身をもって感じた舘さんは、自然へのあこがれが高じてキャンピングカーを購入。キャンピングカーで出かけては大自然の中で過ごしています。特に中学生になった息子さんと出かけるのがとても楽しいのでした。 そうして、ピアカウンセラー養成講座にも4期生として参加し、今は日本ピアカウンセラー協会に所属しながら、心と向き合う活動をしています。そして冒頭にも書いたように、「砺波で語ろうおしゃべり会」を主催し、砺波のアプリコットというコミュニティスペースで月1回ペースで様々なスピーカーを招いて語り合い、みんなの居場所を作っているのでした。 そうやって仲間たちと対話している時間が今は何よりも楽しい時間だと舘さん。人の笑顔を見た時はとても幸せな気持ちになれます。 そんな舘さんの夢はイキイキとした地域を作ること。いずれは学童と高齢者が一緒になってワイワイ過ごせる居場所も作っていきたい、赤ちゃんからお年寄りまで笑顔で過ごせるそんな地域にしていきたい、そう語る舘さんもまた、とびっきりいい笑顔なのでした。 一度舘さんが主催されている「砺波で語ろうおしゃべり会」に皆さんもぜひ参加してみてください。きっと新しい仲間とそしてご自身の笑顔に出会えるはずです。 次回の「砺波で語ろうおしゃべり会」は2015年1月17日に開催されます。参加されたい方はこちらをクリック! |