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今日の人133.松山千里さん [2014年11月26日(Wed)]
今日の人はカメラマンの卵としてご活躍中の松山千里さんです。
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千里さんは1984年 砺波の散居村の中で生まれ育ちました。
近所に同じ年代の子があまりいなかったので、絵を描いたり庭いじりという一人遊びが得意な女の子でした。おばあちゃんの針仕事を手伝うのも好きでした。一人っ子でとっても内弁慶な女の子。そんな千里さんの生活が変わったのは小学校の3年生の時でした。
お母さんが千里さんを連れて家を出たのです。両親が離婚について話し合う場面を見ていた千里さんは、お父さんの心もお母さんの心も敏感に感じ取り、小学校の低学年でありながら大人のことを引いて見るようになっていきました。親戚から「お母さんのことを説得して」とも言われ、一体大人の責任って何なのだろうと考えていました。

そうして転校先の高岡の小学校では不登校になってしまいます。家族のごたごたで、精神的にも不安定になっていました。そんな小3の3学期、お父さんが「うちに来るか?」と言ってきたので、土日だけ泊りに行くものだと思って付いて行くと、そのままお母さんの所にはずっと戻れなくなりました。大人って、親って、なんて勝手なんだ!自分では帰ることも決めることもできず、一人ふとんの中で泣き続ける日々でした。そうして心の内を何も言わない子になっていきました。
3年の終わりに元いた小学校に戻りましたが、友だちにはもちろん家庭事情は説明できませんでした。

その頃からおばあちゃんは病気がちになり、5年生くらいになると、家のことをするのは千里さんが中心になりました。朝4時に起きて自分のお弁当を作ることもありました。あの頃の千里さんにとっては家事は大変でした。でも大変だと思わないふりをしていました。多分そうしないと自分自身を保てなかったのでしょう。周りの人から、「しっかりしているね。堅い子だねぇ」と言われるのが辛かった。そう言われると、自分の家がよその家とは違うことを実感したからです。千里さんは、自分の生活が『普通なんだ、やって当たり前なんだ』と思い込みたかったのです。
そして、小学校の卒業式の日がおばあちゃんのお葬式でした。ですから、千里さんは小学校の卒業式には出ていません。

お父さんは話しかけても返事もろくにしない人でした。言っても仕方がない、そう思うようになりました。千里さんは顔では笑っていたけど、本当はとても辛かったのです。ご飯を作るのも、家事をするのも当たり前。千里さんはお父さんにほめられた記憶がありません。
『私、おらん方がよかった?私おらんだら離婚せんだ?』自分の存在意義がわからなかった。友だちと遊ぶのもつらかった。遊ぶ時間がないというよりは、他の家庭を見たくなかったのです。当たり前のように親になんでもしてもらって、何でも与えてもらえて、それなのに平気で親の文句を言ってる同世代の女の子たち。
人ってわずらわしい…そんな感覚さえ芽生えていました。

だから将来になんて何の期待もなかった。

中学の最初のうちは学級委員をやったりもしました。責任感が強く、最初はみんなに何でも言う方だったのですが、そのうちにそれも違うな、と思い始めて言わなくなりました。
家でもお父さん、そしておじいちゃんのイヤな部分しか見えなかった。本気で死のうと思ったことが何度もありました。頭痛や立ちくらみといった症状が頻繁にありましたが、その時はそれが精神的なことからきているとはちっとも思わなかったのです。
この頃「楽しい」という記憶が千里さんにはありません。夢とか希望という言葉が大っ嫌いでした。でも正義感は人一倍強かった。だから、世間一般の正しいことを信じて人の目も常に気にしていました。

高校は女子高校に入学します。
家のことはちゃんとやっていました。でも、高校を卒業したら絶対家を出たい、そう思っていました
そうして、高校卒業後は寮のある会社に就職しました。けれど、仕事をがんばりすぎ、人間関係の距離の取り方もうまくいかず、その会社は8ヶ月でやめてしまいました。あんなに家を出たくて出たのに、8ヶ月で実家に戻った千里さん。それでも父と顔を合わせなくてもいい時間になるように派遣の仕事で時間をコントロールしていました。どういうわけだか、いつも父親の顔色を伺うようになっていました。父が怖く、気配を感じるのもつらかったのです。じいちゃんはいつも文句を言ってくるけど、まだ文句を言ってくるだけよかった。何も反応がないお父さんに比べたらよほどましだったのです。

このままでは自分のしたいこともせずに終わってしまう、そして手に何か職をつけようと和裁学校に通い始めます。高校の時に浴衣を縫ったこともあり、着物も好きだったからです。呉服店でバイトをしながら和裁学校に通っていました。その頃から何かを紛らわせるように、夜中ずっと飲み歩くようになっていきました。お父さんからは「そういう店で働いているのか?」と言われ、ケンカになり言い合う日々。子どもの頃からずっと「安心感」を感じたことが無かった。歳を重ねるごとに不安が大きくなっていきました。
お酒、食べ物、男の人…依存症にならないけれどどれかに手を付け、なんとか自分を保っていました。

そんな時、おじいちゃんが認知症になります。迷子になり、夜になっても帰ってこない。夜中の3時に家に帰ってきた時は、もうなんとかしないといけないと思いましたが、お父さんに言ってもお父さんは動いてくれませんでした。千里さんは福祉の窓口で泣きながら訴え、なんとかおじいさんに介護の手が回るようにしてもらいました。しかし、千里さんはなかなか素直にじいちゃんの介護ができませんでした。
介護をしないといけない気持ちと、今迄言われ続けてきたじいちゃんへの恨み、それでも家族を大事にしたいと思う気持ちの葛藤がありました。思い悩んで包丁を握りしめたこともありました。みんな死ねばいいのに、なんで私がこんな目に遭うんだろう、自分も死にたい!離れて暮らす母に相談しようと思っても聞き入れてくれない。誰も聞いてくれない。誰にも言えない。言っちゃいけない。でも言いたい。

そんな生活が続いたある日、じいちゃんが脳梗塞で倒れ、入院します。千里さんは自分を責めました。私のせいだ…
じいちゃんのお見舞いに行っても「ごめんなさい」しか出てこなかった。自分を責め続けました。
半年後、東日本大震災が起きます。たくさんの人が亡くなっているのに、なんで自分みたいな人間が生きているんだろう。毎日辛い。でも仕事をしないといけない。そのうち、1桁の簡単な計算さえできなくなりました。そして簡単な文章が読めなくなりました。やがて会社にも行けなくなりました。

ここに至って初めて病院に行き、『うつ病』と言われました。どこかでやっぱりか、という思いもありましたが、そう思い込まないことによって保っていた何かが完全に崩れました。
数ヶ月間、ほとんど動けなくて寝たきりに近い状態になりました。なんとか短期のバイトでしのいではいたけれど、ベッドから降りるのさえ辛かった。毎日死ぬことを考えていたけど死ねませんでした。「誰にも頼れない」という思いだけは強くて、そんな中でも無理やり動いている感じでした。

そんな千里さんに転機が訪れたのは2011年の夏のことです。西田実さんが主宰している「心の広場とやま」に参加して、千里さんは初めて「あ、自分の気持ちって話してもいいんだ」と気づいたのです。ちゃんとしなきゃいけない、いい子でいなきゃいけない、人の迷惑になることをしちゃいけない、気にすることばっかりで「まぁ、いいよね」という基準が自分の中にはなかった。子どもの頃から助けてが言えなかった。ずっと独りだという感じがしていました。
でも、こころの広場に参加して、初めて安心感を感じたのです。自分の気持ちを無視していたけど、自分のことをちゃんと見ていいんだよ、そう背中を押された気がしました。
それから、心理学を学んだり、心に向きあう時間を多く取って行きました。
もちろん、すぐによくなるわけではありませんでしたが、1年後の夏、アルバイトを終えてすごく疲れて帰宅した時に、「ああ、私、生きてるんだなぁ」と初めて感じました。
それまで、そんな感覚はなかった。いつも、何かコーティングしたような感覚でした。
自分の手や足の指先の感覚を初めて実感しました。少し、おかしな表現ですが、「自分は地球の上に立っているんだ」という、そんな感覚。その時から、自分はやっと人間になったのだと思いました。それまでモノクロで見えていた景色が一気にカラーに変わった、そんな感じでした。

 そして、その感覚を味わったあと、じいちゃんのお見舞いに行った時のこと。千里さんは初めてじいちゃんに「ごめんね」だけじゃなく、「ありがとう」が言えたのです。今まで散々じいちゃんを恨んできたけれど、じいちゃんがいてくれたから自分はここにいる。心からありがとうと思えたのでした。
 それにじいちゃんは千里さんの気持ちの吐け口になってくれていました。じいちゃんと文句の言い合いをしていた当時はわからなかったけれど、そうやって言い合えるじいちゃんがいなかったら自分はもっと辛かっただろうと今は思えます。

 そうして、千里さんがありがとうを言ってから2週間後、じいちゃんは亡くなりました。もちろん悲しかったけれど、最後に感謝を伝えられたことは、千里さんにとって大きな大きなことでした。
 
 じいちゃんが亡くなってから、庭の花がいっぱい咲いているのを見つけました。じいちゃんは花を育てるのが好きだった。じゃあ、この庭の花をじいちゃんの形見として写真に撮っておこう。スマホで写真を撮り始めました。これが、千里さんと写真との出会いになったのです。

 じいちゃんの庭、この花が咲いているのは今しかない、そう思ってたくさんシャッターを切りました。そうこうするうちに、写真上手だね、といろいろな人に言ってもらえるようになりました。そこから千里さんは本格的に写真を始めていきます。ミラーレスのカメラを戴くなどの引き寄せもありました。
 心に蓋をしていた時は、じいちゃんの花を見てもキレイだって思ったことは全然なかった。けれど、今は純粋にキレイだって思える。そして、この一瞬は今しかない、この一瞬にはもう二度とは会えない。だから写真で残したいと思うようになったのです。

 今年の6月からはカメラマンのアシスタントとして結婚式の写真撮影のお手伝いもできるようになりました。今はまだ日々勉強です。でも、自分の撮りたい写真を撮っていきたいと今日も千里さんはファインダーをのぞきます。

 ちょっと前までは人間が大っ嫌いでした。人には表面的に接して、決して心は開いていなかった。今もまだ人が怖い時も正直あります。けれど、信じられる人にもたくさん出会えました。その人たちとの出会いによって自分は変わっていった。だから、自分の中身は昔と今では全然ちがう、そう思います。
 
昔は夢という言葉も大嫌いでしたが、今は夢があります。それは自分が自分として生きていく姿を見せていくことで、自分と同じように苦しんでいる人に、その人自身がその人自身として生きていくことの大切さを訴えていきたいということです。そして、本当に人に伝えられるように、今は自分磨きの真っ最中でもあります。

 写真も伝えるためのツールのひとつです。自分自身、うつになって、それまで自分の欲のために人を傷つけてきたことにも気付けた。気付くって怖いけど、自分に責任を取れることでもある。そういうことを写真と言葉で少しずつ紡いでいきたい。そう思っています。
西田さんのセミナーからたくさんの仲間との出会いが広がりました。
植彩セラピストうえるさんとの出会いや沢山の人との関わりが増えていきました。
その人たちからプラスの影響を受けています。それがとても嬉しくて温かいのです。

 じいちゃんが亡くなる前は建て前で生きてきた自分だけど、今は建て前が大嫌いです。なにより自分に嘘をつかないこと。その人がどれだけ自分の人生に納得して生きているか、が大事だと。
 そして、以前は気配を感じるのさえイヤだったお父さんですが、今では普通に話せるようになりました。自分の気持ちが変われば、あれだけ恨んでいた気持ちも薄らいでいきました。

 前はずっと何かに狙われている感覚がありました。人の笑顔が辛かった。笑顔は時に凶器になることもあるのです。でも、今は安心やリラックスの感覚がわかります。楽しいことも感じられます。そうして思います。男としてとか女としてのカテゴリーではなく、大きく見て一人の人間として生きていくことが大切だということ。以前は見てくれや肩書も気にしていました。でも、うつになって自分にはお金もキャリアも何もなくなった時に、本当に自分にとって何が必要か。大事そうなものはいっぱいあるけど、果たして本当に自分で決めているのか、それとも人にそう思われたくて決めているのか、そういうことを強く感じるようになりました。だから「普通みんなこうだよね」という言葉は大嫌いです。普通って何だろう?大事なのはその人らしくあること。それは「みんな」である必要はありません。それをまずは自分が魅せていきたい、そう思っています。

千里さんは舌触りのいい言葉と生ぬるい優しさが嫌いです。きれいな言葉は聞こえがいいけど、それって本心?心はこもっているの?大人の顔色を気にして来た癖で、相手の心の奥の物を感じてとってしまうところがあります。今まで、優しさと見せかけた「大人の都合」を感じてきたことで、本当の優しさとは何か、を考えることが多いそうです。体育祭や文化祭でイマイチ盛り上がれないタイプの千里さん。元々、自分自身がそうであったからこそ、表面上の優しさや上辺だけの友情が好きじゃない。だから何でもサクサク切り込みを入れてしまうことも多いけれど、本当に心がピュアなのです。

自分はあえて「わかりにくく生きたい」と千里さん。
「わかりやすい」ことに人はどうしても流れてしまうからだと言います。本当にそれが自分の望みかどうかよりも、人の多くは「わかりやすい安定」に流れてしまいがちだと感じているようです。本当は満足いかない状況でも。
自分の目で見て、感じて、確かめて納得することをもっともっと大事にして欲しい。それこそ、自分を信じる事だと千里さんは言います。だから「わかりにくく生きる」ことを選んで生きたいそうです。
ミステリアスで、でもとってもキュートなカメラマンとして活躍する日も、そう遠くはなさそうです。

 実はやりたいことでも千里さんと私、ぴたっとはまったことがありまして、それもぜひ楽しみにしていてください。コラボで活動する日も近いかもしれません。

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千里さんの撮った写真です♪