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今日の人132.藤田越子さん [2014年10月25日(Sat)]
 今日の人は、民間企業でシステムエンジニアをしながら産業カウンセラーの資格も持ち、余暇には朝活やマラソンなど、いろいろな活動に参加している藤田越子さんです。
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とやまのてっぺんでダイバーシティを考える夏期大学でインタビューさせてもらいました♪

 越子さん、愛称えっちゃんはお姉さんとは8歳違い、お兄さんとは7歳違いで生まれた末っ子です。小さい頃はお絵かきが好きで、お気に入りの毛布がないと寝られない女の子でした。でも、リカちゃん人形などの人形にはちっとも興味がわきませんでした。お母さんの帰りはいつも19時半と遅かったので、小学校の頃はとても寂しく、ひたすらお母さんの帰りを待っていた記憶があります。

 群れをなすのは嫌いで、決して大きなグループには属しませんでした。関係べったりの小さなグループにもいなくて、いつも対等な関係を築ける中グループに入っていました。人前に出るのはとてもイヤで、生徒会などの活動もしませんでした。
 
 親が起業家でバリバリ仕事をしている姿を見て育ったので、自分もいつか起業家になりたいという気持ちが常に心のどこかにありました。その一方、親が自分の夢を追いかけるのに一生懸命であまりかまってもらえなかったので、寂しさも常に抱えていました。親にもっと「勉強しろ」と言って欲しかったとえっちゃん。ほとんどの子はそう言ってほしくないと思うのですが、えっちゃんはむしろ言ってほしかったのです。

 中学校の頃は常に自殺願望がありました。なんだか自分の存在が恥ずかしく、この世から消えてなくなりたいと思っていました。なんで私の心臓は動いているんだろう。星の向こうには何があるんだろう。いろいろなことを考えた思春期でした。
 有名人が自殺するニュースを見ると、どうして自殺するのか真相が知りたくてたまりませんでした。どうして、こんなに才能にあふれた人が、こんなにキレイな人が自ら命を絶つんだろう。どんな自殺のニュースを見ても納得できる自殺はありませんでした。センシティブなえっちゃんは、そうやって常に自分の心に問いかけながら青春時代を過ごしてきたのでした。

 高校に入ると、軟式野球部のマネージャーをやったりもしましたが、なんだって自分がヤル気が出ないと動かないタイプでした。常に不安を抱えているのは変わりなく、本当は面倒くさがりだから、マジョリティの方にいたいのに、なぜかマイノリティの方に行ってしまうのでした。かといって、誰かのいじめの対象になったりしたことはありません。今も不思議な魅力をはなっているえっちゃんですが、きっと幼い時からの思考癖がその雰囲気を創りだしているのかもしれません。

 情報処理に興味があったえっちゃんはコンピュータ専門学校に入ります。みんなができないプログラムを難なくこなせたえっちゃんは、コンピュータは私の下にある、と思いました。ですから、コンピュータがワンテンポ遅れるとイラッとするのです。

 19歳の時にひとつの転機がありました。いつも感情をストレートに表に出すわがままな同級生を見て、己と社会の関係というものを意識し始めたのです。えっちゃんは自分の0歳~19歳までをゼロ世代と呼んでいます。私はもう130人以上にインタビューしてきましたが、自分の人生をそうやって区切る人は初めてでした。

 そうして社会との関係を意識し始めた19歳から26歳までが第1世代。この頃は成長したい、成長したいと思っていました。システムエンジニアとして社会人デビューもしましたが、社会人1年目はすごくつらかった。上司がとことんコントローラーな人だったのです。

 26歳から32歳までは第2世代。自己啓発セミナーを初めて受けて落ち込みましたが、同時にもっとがんばろうと思えた時でもありました。この時に、えっちゃんはエニアグラムに出会います。エニアグラムは個人の特性を9つのタイプに分類。ちなみにここにも紹介があるので、興味がある方はやってみてください。
http://shining.main.jp/eniatest.html
えっちゃんは口癖が「虚しい」だったのですが、エニアグラムで出てきた口癖が「虚しい」だったからびっくり!なーんだ。私って誰からも理解されないって思ってたけど、そんなわけでもないのね。こんなふうにエニアグラムに出会ったことで、生きるのがとてもラクになりました。

そして33歳から36歳までは暗黒の第3世代。この時期のことは振り返りたくない部分でもあり、ここにも書きませんが、ただ、この時にお父さんがとても力になってくれたことで、えっちゃんはそれまでのお父さんへのわだかまりのようなものがなくなったのでした。仕事一筋の人だと思っていたけれど、ちゃんと娘のことも思ってくれているんだと実感したのです。そういう意味では、どんなにつらく苦しい時期の中にも、何かしらその人にとっての光明がある、そんなふうにも思えるのでした。

暗黒時代を脱した37歳からが第4世代。この頃から自己啓発セミナーに更に積極的に参加するようになりました。30代後半になっても何も学ばない人は変わらないどころかどんどん下がっていっているようにしか見えないと、えっちゃん。元々は出不精で家に篭って漫画と海外ドラマを見ているのが至福の時間なのですが、出不精のままだと、ずこんと落ち込んだ時にそれこそ抜けられなくなってしまう、そう思って積極的に外に出るようにしています。

 今は会社の仕事にやりがいを感じ、それを第一に頑張っていきたいと思っていますが、いずれは小さい頃から心の底にあった起業ということも考えています。産業カウンセラーの資格も取り、朝活等にも積極的に参加し、マラソンにも挑戦し、たくさんのつながりがますます広がり充実感が生まれてきたこの頃は第5世代に入ったのかな、とえっちゃんは思うのでした。

 今までいっぱい悩んできたけれど、いっぱい悩んだからこそ成長があるということもこの歳になると実感できます。そうして、人に影響を受けやすい自分はなるべくプラスのオーラをくれる人とたくさん接していこう、そう思っているえっちゃんなのでした。

 人はずっと自分探しをしながら生きていくのだと思いますが、その感受性が人より強いえっちゃんは、これからどんな自分を見つけていくのでしょう。また新たな世代に入ったらぜひお話の続きを聴かせてくださいね。

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ヨガも得意なえっちゃんです♪
今日の人131.辻幸一郎さん [2014年10月18日(Sat)]
 今日の人は、辻安全食品代表取締役 辻幸一郎さんです。
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辻安全食品は創業35年の食物アレルギー対応食品会社で、調味料、パン各種、お菓子、冷凍食品、レトルト食品、スキンケア商品等、幅広い商品アイテムを用意しています。大半の食品は、アレルギー特定原材料27品目除去となっており、多種類食物アレルギー患者にも対応が可能。ホテルや全国の病院や保育園にも納めていて、栄養士による食事無料相談や料理教室も実施中です。

辻さんは1968年、東京杉並区で生まれ育ちました。小さい時はザリガニを釣ったり、カブトムシを捕まえたり、コマ、メンコ、竹とんぼなどをして活発に遊ぶ少年でした。

 小さい頃からどちらかと言えばガキ大将タイプだった辻さんですが、小学校3年生の時に頭蓋骨骨折という大きな怪我をします。おばあちゃんの自転車の荷台に立ち乗りをしていた時に、後頭部から地面に落ちてしまい、頭蓋骨が割れてしまったのです。それで、しばらくはアイスホッケーの選手のようなヘルメットをかぶって通学していました。その時「ヘルメット小僧」とか「ヘルメットおじさん」と言われ周りの子にいじめられるようになりました。『好きでヘルメットをかぶっているわけじゃないのに、なんでこんなことを言われなくちゃいけないんだ!』辻さんの心の中に芽生えた怒りはだんだん大きくなっていきます。周囲の子による辻さんへのいじめは、先生が「そんなことでいじめちゃダメ!」と注意してくれるまで続きました。
 いじめられなくなって一件落着と思いきや、今度は今までさんざん自分をいじめてきた子たちをいじめ返すようになったのです。いじめ返しても誰も何も言わないので、辻さんのいじめはますますエスカレートしていき、やがて学校一のワルと呼ばれるようになっていきました。

 中学に入ると暴走族のグループに入り、集会にも出かけるようになります。敵対するグループと抗争したりしていたので、しょっちゅう警察にも捕まっていました。しかし、ある時、警察に辻さんと弟さん(弟さんもグループに入っていました)を引き取りに来たお母さんが自分の髪を掻き上げて、円形脱毛症になっているのを見せてくれました。『ああ、俺はおふくろにこんなに心配をかけているのか』深く反省した辻さんは、もう親に心配かけることはすまいと心に誓い、弟さんとも約束します。そうして、親から見えるところでは、悪いことはしなくなりました。

 一見不良でありながらも、辻さんは中学で応援団長を務めるなどし、リーダーシップを発揮していました。いろんな部活にも顔を出し、友だちもとても多かったのです。

 高校に入ってからも、歌舞伎町のディスコに出入りするなど、相変わらずの生活を送っていましたが、決して表立って警察のお世話になるようなことはしませんでした。そう、親に心配をかけまいと誓ったことは忠実に守っていたのでした。

 その頃は、どうしたら女の子にモテるかということを一番に考えていました。それで、女の子にモテるであろうことはなんでもやりました。サーフィンしかり、ディスコでの黒スーツしかり、でもいちばんのめり込んだのはスキーでした。ある先輩のスキーの滑りがあまりに素晴らしく、スキー場で女の子に取り囲まれる先輩を見て、これだ!と思ったのです。こうして高校の時からスキー場でアルバイトをして、SIAメダル検定でゴールドメダルを取得するほどのスキーの腕前になったのでした。

 家での空いた時間はもっぱら映画を見て過ごしました。寝る時間がもったいなくて、ほとんど寝ずに映画を見ていた辻さん。もっとも、授業中に起きていたことは一回もなかったのですが…。

 こうして、大学受験を迎えたわけですが、当然全く勉強していなかったわけですから、いくらなんでもそう世の中甘くはありません。受けた四年制大学は見事に全部落ちました。そして、最後に受けた短大に合格して、そこに入ります。
 その後、大学の編入試験に挑戦した辻さん。3年生に編入する編入試験は毎年受験者が殺到し、超難関です。辻さんの受けた関東学院大学の編入試験に課せられたのは英語と小論文。小論文で出されたテーマは「旅行」でした。ここで、辻さんのそれまでの豊富な人生経験が役に立ちます。「人間はいつもいる場所にいてはいけない」という書き出しから始めて、一気に書き上げた小論文。こうして数百倍という倍率を乗り越えて編入試験に見事合格したのです。やる時はやる、それが辻幸一郎という人なのでした。

もっとも大学に入ってしまうと、またスキーばかりして、留年の危機もあったのですが、ここでもとんでもない集中力を発揮してなんとかそれは乗り越えます。
就職活動も一風変わっていた辻さん。本来転職者が対象で新卒者は一人も来ない適職フェアに顔を出し、そこで志望していた医療機器商社の社長にすっかり気に入られてしまったのです。こうして、新卒者としてただ一人その会社に入社の決まった辻さん。たくさんの会社から人が集まる営業マン研修でいきなり一番になり、トロフィーをもらってきたことで、ますます社長に気に入られ、以降、新入社員ながら、会社でやりたい放題になり、本当に毎日楽しいサラリーマン時代でした。そんなにやりたい放題やって、先輩社員に何か言われなかったのかとお聞きしたところ、それは一切なかったそうです。そう、辻さんは新入社員にして、相手の心をガッツリつかむ、トップ営業マンの素質を持ちあわせていたのです。それは、中学生の時から、暴走族のグループをはじめ学校以外の世界で様々な経験をしてきたことがベースになっているのかもしれません。まさしく人間万事塞翁が馬。そういえば以前お話しを伺った方が「男の子は少しくらいヤンチャな方がたくましく育っていい。親が押さえつけて育ててはいけない。その代わり親はいつも家に菓子箱を常備していつでも先方様に謝りに行けるようにいておかないといけない。」とおっしゃっていたのを思い出しました。辻さんのご両親も、辻さんや弟さんが気付かないところで、たくさん頭を下げていらしたのかもしれませんね。

そんな風にとてもハッピーなサラリーマン時代を過ごしていた辻さんでしたが、お父さんからは「サラリーマンは3年はやれ。でも5年以上やるな」と言われていました。好き放題やってきた辻さんでしたが、そういう親の真摯な思いはちゃんと受け入れる青年でした。こうして、サラリーマンを潔く辞め、次は自分で商売をやるために専門学校に通いはじめます。その時は焼肉屋をやろうと考えていました。しかし、そんな時にお父さんが倒れます。倒れたはずみでメガネが割れて血だらけになった姿を見て、ああ、もう自分はチャラチャラしている場合じゃないと思ったのです。

お父さんは辻さんが10歳の時に体を壊し、玄米菜食にし、身土不二の食生活を心がけたことで、健康な体に戻りました。そんな自らの体験から食の大切さを実感し、その当時まだ全然対応食品がなかったアレルギーの子たちを助けたいと辻安全食品を立ちあげたのでした。
オヤジの会社に入ってオヤジを助けたい、お父さんが倒れた時、辻さんは心からそう感じたのです。

こうして辻安全食品に入社した辻さん。それからは生活がガラリと変わりました。それまではどちらかというと派手な生活でした。お金も稼いでいたし、ポルシェを乗り回して女の子とも遊んでいた辻さんでしたが、それまでつき合っていた女の子とは一切縁を切りました。お父さんを安心させるために、「この1年以内に結婚し、そして孫の顔も見せてあげたい」と思ったのです。そうして、それを実現させた辻さんなのでした。

そしてお父さんと一緒に働き、全く遊ばないよき旦那さん、よきパパになりました。他の女性にどう思われようと関係ないやと思っていると、どんどん体重が増えていきました。お腹が出るのは抱っこして歩くときに赤ん坊をそこに乗せるのにちょうどいいから、そんな風に言っていたくらいでした。

 お父さんと一緒に働いて10年。お父さんは69歳の時にポックリ亡くなりました。「人からの頼まれ事は全部やれ」そういつも言っていたお父さん。なんだか心にポッカリ穴が空いたように感じました。
 お父さんが亡くなって1年後、辻さんは友人から霊媒師の方を紹介されます。きっとあまり元気のない辻さんを見かねてのことだったのかもしれません。
お父さんの霊は辻さんにこうおっしゃったそうです。
  「お前、足るを知れよ。10年も同じ職場で働ける親子がどこにいるんだ。
俺は楽しかったよ。」
 本当にお父さんの霊がそう言ったのか、それはわかりません。けれど、そのひと言がポッカリと穴が空いていた辻さんの心を救った、それは事実です。

 お父さんはこうもおっしゃいました。
 「どんなにキレイな所の水でも、水は淀んだら腐る。だからいつも流れてる。」
 だから、辻さんは止まりません。誰かに休んだら?と言われても動き続けます。自分は止まったら腐ってしまうから。そして、決して頼まれ事は断りません。

 辻さんが10歳の時に、お父さんは辻安全食品を立ちあげた。そして、今、辻さんには3人の息子さんがいて、そんな時に自分にもやらなければならない使命ができた、そう感じています。
それは、「アレルギーで良かった」がコンセプトの辻安全食品の実践していることを一人でも多くの人に伝えること、そしてアレルギーや発達障がいで苦しんでいる子どもたちやそこの親に心から笑顔になってもらうこと。(辻さんが富山で講演された時の様子をHPにアップしましたので、そちらをご覧になっていただければ、「アレルギーで良かった」の意味がわかります。
http://diversity-toyama.org/?p=1332

ご自身もアレルゲンの卵を食べなくなったことで、辻さんは運動やダイエットを一切せずに20sも体重が落ち、今やウエスト69センチ。男性用の最もスリムなジーンズが履ける体型になったのです。健康診断でも健康そのもの。
ベストコンディションで今日も全国を飛び回っていらっしゃいます。

そして辻さんは、たくさんの子どもたちに笑顔になってもらうために、食物アレルギー児や自閉症児を対象にしたツアーの監修を行っています。アレルギーがあってそれを食べると死の危険さえあって、今まで外食なんて夢のまた夢だった子どもたちが、ビュッフェで好きなものを好きなだけ食べられるのです。そして、その子どもたちの笑顔を見ているお父さんお母さんも本当に幸せそう。
自閉症の子どもたちのツアーでは、今まで一度もカメラ目線の写真なんてなかった子が、満面の笑顔でカメラに向かって微笑んでいます。お母さんたちは口々に言います。
「奇跡が起きました!」
辻さんは、もっともっとこの笑顔を広げていきたいと思っています。それが、オヤジからこの会社を引き継いだ俺の使命だから。

また、日本航空と全日空の国際線には、辻安全食品プロデュースの安全な食物アレルギー対応機内食が出されています。このプロジェクトにより、それまで海外旅行を諦めざるを得なかった食物アレルギーの方が安心して楽しく世界中を旅することが可能になったのです。

辻さんがやっているのはそれだけではありません。フィリピンカリボ島では、2万本のマングローブの植樹を行い、インドネシアでは5haの広さにサゴ椰子の計画的な栽培に着手。サゴ椰子から作ったクッキーを味見させていただきましたが、小麦粉から作ったクッキーと何ら遜色なく、いえ、むしろ小麦粉のクッキーより美味しいくらいでした。
欲しい方はぜひこちらから⇒http://www.allergy-food.jp/products/list37.html
こうしてアレルギーに配慮した食品を作るためにサゴ椰子等を植えることで、地球温暖化の防止にも役立っているのです。

辻さんは今度はアフリカのブルキナファソに行ってきます。危険だから行かない、ではないのです。危険だから行く。辻さんは子どもの時、新造人間キャシャーンがお好きだったそうですが、そのキャシャーンの決め台詞「キャシャーンがやらねば誰がやる」の如く「俺がやらねば誰がやる」の想いで動いていらっしゃるのでしょう。

そして最近では、アメリカ大使館、アメリカ穀物協会からの依頼により、グルテンやカゼイン除去の商品も開発しています。自閉症や発達障がいの症状緩和にグルテンやカゼイン等の除去した食事が有効であると報告されているためです。今まで脳が原因とされてきた病気が、実は腸が原因かもしれないとすると、私達の前にはとても大きな明かりが灯っているように感じる母の一人なのでした。

台湾にも健康和食のレストランをオープン予定の辻さん。本当にいつ寝ていらっしゃるのかしらという位に多忙を極めていらっしゃいますが、そんな辻さんが今いちばんホッとできる時間は、次男と三男に挟まれるパパサンドイッチの時間。息子さん2人が辻さんを挟んで、ムギュ〜っと抱きついてくるのがたまらないとおっしゃいます。お忙しいからこそ、ご家族との時間がとても大切な至福のひと時です。

 辻さんは、以前対馬に行った時に神通力を持った方に言われた言葉をとても大切にしています。

・ご先祖様をキチンと供養すること
・親を大事にすること
・周りの人を大事にすること

それまではとても喧嘩っ早かった辻さん。昔の血が騒いで?電車に乗っていてもマナーが悪い人にはすぐに突っかかっていました。でも、その言葉を大切にするようになってからは、社員がどんなに失敗しようと笑って許せる仏の顔になったのです。そのことで、社員ものびのびと力を伸ばせる会社になりました。まさにコントローラーからメンターへ。とても素敵な会社なのがよく伝わってきます。

 きっと今頃、先代のお父様も天国から笑顔で辻さんを見守っていらっしゃることでしょう。
「おい、幸一郎。お前、よくやってるなぁ。」
そんなお父様の声が聴こえてきそうです。

これからもご自身の使命のために止まることなく動き続けていかれるであろう辻さん。今度お会いする時は、また素敵なお話がたくさん生まれていることでしょう。そのお話が聴ける日を楽しみにしています。

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とってもお茶目な面もお持ちの辻さんです♪