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今日の人127.千本松賢一さん [2014年08月23日(Sat)]
 今日の人はサラリーマンをしながらフリーフォトジャーナリストとしてもご活躍の千本松賢一さんです。
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 千本松さんは1964年東京オリンピックの年に東京の品川で生まれました。2歳からは小矢部で育ったので記憶のほとんどは富山時代のものですが、時々東京にも行っていました。富山では田んぼで野球をしたり、駆けまわったり、その当時の子どもたちがほとんどそうだったように、外遊びが大好きでした。

 小学生の頃は松本零士の作品が好きで、漫画家になりたいと思っていました。特に好きだったのは「大草原の小さな四畳半」キャプテンハーロックでもおなじみのトチローが主人公の漫画で、何よりも男の誇りを大事にする話です。そういう男の生き様が好きな賢一少年でした。
 お父さんがカメラ好きで家には常にカメラが置いてありました。それで、カメラにごく自然に触れる機会があり、カメラ好きな少年になっていったのです。

 中学校ではテニス部で活躍しつつも写真部にも入っていました。英語と国語の先生が好きで、自然とその教科が得意にもなりました。

 高校は高岡南高校へ。ここでもテニス部&写真部に入って活躍していた千本松さん。図書室でいろいろな本を読むのも好きで、その中には写真の本も何冊もありました。自分で撮った写真をほめられる機会も多く、いつしか写真の世界に行きたいという気持ちが強くなっていきました。それで、大学受験は日大芸術学部写真学科一本に絞ります。当時、日大芸術学部写真学科の倍率は40倍。しかし、不思議と落ちる気はせず、見事合格。

 1年生の時から憧れの三木淳先生の講義も聴講し、写真漬けの毎日を送ります。当初サークルにも入ろうかと思ったのですが、女と車の話ばかり出るのにうんざりして入部申請したその日に辞めました。ですから、大学時代はひたすら写真と、あとはアルバイトでした。大学3年の時からは軽井沢の喫茶店でバイトしていました。作家の先生がやっている喫茶店でしたので、お客さんにも有名人がいっぱいでした。ここで人脈も大きく広がりました。大学時代の一番大きな思い出もこの場所で生まれました。実は一度、美智子妃殿下がこの喫茶店にいらしたことがありました。千本松さんは夢中でシャッターを切っていましたが、なんと、そのカメラにはフィルムが入っていなかったのです。当時はまだデジカメなんてない時代です。あの時のショックは今でも忘れられません。

 大学時代に自分の撮った写真が雑誌に掲載されたこともいい思い出です。バイクで九州へツーリングに出かけたりもしていましたし、とても充実した大学生活を送りました。

 そして卒業制作では飛騨の職人や古川の和蝋燭を被写体に選びました。いろいろ撮影していく中で、自分はやはり人を撮るのがいちばん好きなのだと気付きます。モノよりヒト。これは今も変わらないスタンスです。

 卒業後は小学館でカメラマンとして働きました。最初は女性セブンのカメラマン、その後は写真週刊誌のタッチのカメラマンとなりましたが、タッチは早々に廃刊になってしまいます。
 その頃、お父さんが展開されていたファッション業界の事業が好調で、そろそろこっちを手伝ってくれという話が出ていました。ちょうどいい区切りだったので、そちらの仕事をすることに心を切り替えたのです。

 まずは福島で2年間、その後は山梨で5年、富山に何年かいた後にまた福島で5年、その間、ボランティア活動にも関わったりしながら忙しく働く日々を過ごしました。その間に結婚し一男一女にも恵まれました。

 そんな千本松さんが本格的に富山に戻ってきたのは6年前のことです。仕事をやりながらも、いろいろな活動に参加して少しずつ人脈が広げていきました。

 3年前からは金沢で朝活に参加。金大近くのコンビニのカフェスペースで英会話サークルを作って評判になったり、FB交流会を開催したり、写真好きの人たちと一緒にアルパカメラという写真サークルを作り、そこの副部長になって写真に関わったりしています。そうやってまた写真に関わりだしたことで、新たな夢もできました。それは、好きな写真のみで生活していくという夢です。今すぐには難しくてもきっとそれは実現する、そしてそのための準備をこれからやっていこうと思っています。

 千本松さんがいちばんワクワクするのは、やはり写真を撮っている時間。それは、自分が何のしがらみのない素の自分に戻れる時間でもあります。好きなことなら時間を忘れてずっとできる子どもの頃と同じように、写真を撮っている時は時間を忘れている自分がそこにはいます。

 そして、人々の内面からの輝きを引き出せる写真家でありたい、そう思っています。
 一緒に輝ける人々と一緒に夢を追いかけていきたい、それができたらどんなに素敵だろう、と。きっと千本松さんならそれができるはず。
 
 千本松さんはその人らしさを表現した素敵なプロフィール写真を撮るのもお得意なので、私も一度ぜひ撮っていただきたいと思っています。どんな写真になるか今からとっても楽しみです。

 みなさんも千本松さんの写真を通して、彼がファインダー越しに見ている世界を体感してみませんか?
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写真は千本松さんの撮られた写真。モデルはピアニストの中沖いくこさんです♪
今日の人126.Dadò 美鈴さん [2014年08月14日(Thu)]
 今日の人は小矢部生まれ小矢部育ちスイス在住のDadò 美鈴さんです。なぜDadòかというと、旦那さまがスイス人でいらっしゃるからです。美鈴さんは夏の間だけお子さんと一緒に小矢部で過ごされるので、その機会にインタビューさせていただきました。
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 美鈴さんは小さい時はとても恥ずかしがり屋でした。それが小学校1年の時に授業参観の学級会で司会者に選ばれて「あ、やってみるとおもしろいんだ」と思ったのがきっかけで少しずつ変わっていきました。といっても、やはりまだまだシャイで授業中に言いたいことがあっても言えず、授業後に言いに行くような子でした。
 その頃はまだ近所に子どもたちがとても多く、男の子と広場で野球をしたり、女の子とりかちゃん人形で遊んだりしていたものです。伝記を読むのも好きで、キュリー夫人やエジソン、ナイチンゲール等ワクワクしながら読んだものでした。夏休みの自由研究にナイチンゲールの紙芝居を作ったくらいです。宇宙の秘密や恐竜の秘密といった秘密シリーズも好きでした。あのシリーズ、端っこに書いてあるミニ知識がまたいいんですよね。

 そして、小学生の時から英語に興味がありました。中学に入る前に英語の参考書を書い、それを読んでいると興奮してお腹がぐるぐる回るのです。音声表も大好きで音声表の通りに発音するのが楽しくてたまらなかった。こうして、いつの間にか英語の発音記号を独学で覚えてしまったのでした。

 集会をオーガナイズするのが好きで、集会委員としても活躍していました。模造紙にいろいろ書いてみんなの前で発表するのが楽しかった。
 
 小矢部といえば全国的にもホッケーが強いことで有名なのですが、美鈴さんも5年生の時にホッケーを始めました。先生が厳しい方で毎日毎日きつい練習がありました。その後のつらいことはホッケーに比べればなんてことないという位きつい練習に堪えたことは大きな財産になりました。最初は補欠で始まりましたが、負けず嫌いの美鈴さんはいつしか全ポジションをこなせるオールマイティーなプレーヤーになっていました。

 しかし、小学校時代でホッケーは燃え尽きました。友だちが中学でもホッケー部を選ぶ中、美鈴さんが中学で選んだのはバレーボール部でした。
 なにしろやり始めると一直線なのが美鈴さん。バレーにも一生懸命に打ち込みます。しかしバレー部は上下関係が厳しく、それは苦手でした。生徒会役員も務めていたのですが、生徒会には上下関係がなく、そちらの方が居心地がよかったのです。

 中2の春休みにはアメリカのカリフォルニアでの短期留学プログラムに参加。実は行ってすぐにホームシックにかかってしまい、この時に家族の大切さに気付いて、反抗期が消えてしまった美鈴さん。しかし、ホームシックにかかっていたのは2日間だけ。プログラム自体はとても楽しく、ホームスティ先のホストファミリーと英語でコミュニケーションが取れるのがとても楽しかった。たった1つの英単語でもちゃんと話ができるんだ!完璧に話さなくても通じるんだ!英語へのハードルが下がり、ますます英語が好きになった美鈴さんなのでした。
 最後の夜は浴衣を来て、習字を書いてあげたり、おわらを踊ってあげたりしたのもいい思い出です。

 日本に帰国してすぐに美鈴さんはこのプログラムを主催していらした神父さんに手紙を書きました。こんな楽しい経験をさせてもらえるなんてなんて素敵な仕事なんでしょう。私もこの仕事がやりたい!と。神父さんからはこんな返事が来ました。いろんな世界を見て、それでもまだやりたかったら来なさい。
 
 こうしてどんどん英語の世界に入り込んでいった美鈴さんは福岡高校の英語科へ進みます。常に英語しか頭にない高校生活。高1の夏休みにはカナダにホームスティして、今でもそのファミリーとはクリスマスカードを交換しています。
英語科の友だちと一緒に金沢の英会話スクールにも通っていました。大学生や社会人がいる中で、文法中心ではなく、使えるフレーズがどんどん増えていくやり方がとてもよかった。

 美鈴さんのアメリカ病はどんどんひどくなる一方で、高3の6月からは単位交換ができる高校に1年間留学しました。しかし、この1年間の留学生活は、今までの短期のプログラムとはちがってアメリカの現実も見ることになりました。白人でお金がある人が優遇される、そんな場面に出会うことも何度もあって、あれ?ここが自分が思っていた天国でいいのかな?そんな疑問をいだくようになりました。できると思っていた英語もまだまだダメで、助けてくれたのが数学、生物、美術といった科目でした。日本ではスクールカウンセラーというと心理面のサポートをするというイメージが一般的ですが、アメリカでは授業の組み立てのサポートをしてくれるスクールカウンセラーもいます。それで、滞り無く単位も取れて、1年後の6月に帰国し、高校の校長室でただ一人の卒業式を迎えたのでした。

 アメリカの大学で学ぼうと思い、翌月には東京のトフルゼミナールに入って、TOEFLの受験に備えました。本当はアメリカのアート系の大学に行きたかったのですが、アート系でその後食べていけるのか不安になり、またその時教えてくれていた先生がアメリカに行くことを薦めなかったこともあって、アメリカの大学に進むことはやめた美鈴さん。代わりに候補になったのが、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの大学でした。ちょうどその頃、「天国にいちばん近い島」という映画が流行っていたこともあって、どうせならそっちがいいなと思い選んだのはニュージーランド。大学は2月スタートなのですが、9月から2月までは予定がなかったので、先に行って準備しようと思い、現地で英語学校に通い始めました。そこで出会ったのが、スイス人の旦那さま!彼とは一ヶ月だけ一緒に勉強しましたが、その後もずっと電話や手紙でやりとりを続けたのです。

 英語学校に通ううち、美鈴さんは思うようになりました。私は英語圏の大学に行ければいい、科目は後で決めればいい、そう思って安易にニュージーランドの大学に行こうと思っていた。それでいいんだろうか。それに、スイスにいる彼に近い所にいたい!という思いもありました。それで、イギリスで勉強して、ケンブリッジ英検の一番難しいレベルに合格することを目標にしたのです。こうしてイギリスで1年、スイスで1年過ごし、その後イギリスの大学で3年間経済学を専攻して勉強を続けました。この3年間は本当に楽しかった。既に英語は思い通りに使えるようになっていたし、住んでいたスチューデントハウスにはいろんな国の人がいて夜はしょっちゅうパーティがあってたくさん友だちができました。いろんなちがいのある人がいるのが楽しくて仕方がありませんでした。ゲイの子もいっぱいいたけど、それもあたりまえのこととして捉えていました。◯◯人だからとかゲイだからとかレズビアンだからとか、そういうことで人を判断するのはバカらしいと心から思った。みんな地球人、そう考えることができたらきっと仲良くなれる。経済学の勉強よりも、こんな多様な人たちと知り合うために私はここに来たんだな、そう思いました。ですから大学を離れるときはとても寂しかったのです。

 その間、スイスの1年を除いてずっと遠距離恋愛だった美鈴さん。大学を出た後はスイスに行って彼と結婚しました。あれだけ英語を勉強してきたけれど、スイスの公用語はドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語。美鈴さんの住んでいる地域はイタリア語を使う地域でしたので、イタリア語の勉強もはじめました。イタリア語を勉強したことで、言葉の幅が大きく広がりました。ヨーロッパの人は、5ヶ国語話せるという人が普通にいますが、その意味がなんとなくわかるようになった美鈴さんです。

 さて、美鈴さんには子どもができる前に、しておきたい3つのことがありました。
まず、イタリア語で一人で何でもできるようになること。ちゃんとどこでも行けるように運転を上手になること。そして仕事の基礎を作ること。

 美鈴さんは銀行で2か月研修をしたのですが、どうも違う。やはり、英語が好き。じゃ、好きな英語を教えようと思い、ケンブリッジ大学英語検定機構の出している英語教授法認定資格CELTAとCELTYLを取得。自分は銀行で勤めるより、英語を教えている方がやりがいがあると思ったのです。そして日本語も教え始めました。
 
 こうして、語学学校で英語のクラスを担当しはじめた美鈴さん。同時に、日本語のイブニングコースの10月~5月のクラスも担当しました。それには訳がありました。スイスの産休は3ヶ月。6月に出産すれば10月からのクラスをまた担当できます。そして希望通り6月に長女を出産。3ヶ月後からは働き始めました。子育てしながら徹夜で授業の準備をしていたこともあります。仕事している間はお姑さんと旦那さんが交代でお子さんを預かってくれました。

 上の子と下の子は年が近い方がいいと思っていたら、またすぐに妊娠してとても嬉しかったのですが、その子は8週間で流産してしまいます。その後は、なかなか妊娠できず、また周囲の言葉で傷つく日々でもありました。きっとなぐさめるつもりで言ってくれているのでしょうが、「流産はよくあることよ」とか「1人いるからいいじゃない」とか言われるとグサグサ刺さりました。流産した後に落ち込んだままの人の気持ちが痛いほどわかりました。

 その後、美鈴さんは2人の女の子のお母さんになりました。常に寝不足で、産後鬱のような状態になってしまい、精神的に爆発してしまったこともあります。そんな時に頼りになるのは産婦人科でした。スイスの産婦人科は個人院で1人の先生が最初から最後までサポートしてくれることが多いのです。先生の奥様もたまたま日本人で、日本人の人はストレスがあっても内に秘めておく傾向があるから、何か変だなと思ったら、すぐに相談してね。と言われていたので、恥ずかしかったけど、先生に電話し、相談に乗ってもらっているうちに、爆発した気持ちを穏やかな気持ちに切り替えることができました。心が沈んでいる時こそストレッチでもいいから体を動かすことが心のバランスを取り戻すのには大切なんだと知りました。

 美鈴さんはお母さんにはちゃんと自分の気持ちを話せる環境があることがとても大事だと考えています。一人で抱え込むのが一番まずい。友だちでもいいし、カウンセラーでもいいし、近くにお姑さんがいるなら、彼女に話すことも大事だと思っています。美鈴さんもお子さんがおしゃぶりを3つも一度にくわえていることをお姑さんに言うと、「あら、お父さん(美鈴さんの旦那様)と一緒ね」と言ってもらったことで一緒に笑えました。そんな風に一緒に笑い合えることでどんなにか心が楽になることでしょう。

 こうして美鈴さんはスイスで子育てをしてきました。今、2人の娘さんは小学校5年生と3年生。毎年夏になったら日本に来ることを楽しみにしています。スイスも大好きだけど、日本も大好きな子どもたち。スイスにはないソフトクリームを食べるのもとっても楽しみにしているのだとか。

 最近、子育ても一段落して自分の時間が持てるようになった美鈴さん。今、楽しいことは自分探しの時間です。世界には様々な宗教があるし、宗教での悲しい争いもたくさんあるけれど、そもそも私たち地球人にとっての根源的な神のような存在って何だろう。きっと目に見えない、でも確かにある、そんな力ってあるはずだ。美鈴さんによると、そこにつながるのがハワイ語。今、ハワイ語、そしてハワイの思想を学ぶことが楽しくてたまらないのです。と同時にフラも学んでいます。ケアリイ・レイシェル、フラの世界では知らない人がいない彼のワークショップを受けに東京に飛んだことも2回あります。

 そして、美鈴さんは大好きな英語をもっともっと日本人が話せるようになるように自分ができることを模索しています。世界に出るための壁をゆるやかにしてくれるもののひとつが英語、その英語によって人と人をつなぐ役割を自分は担いたい。文法から入る英語ではなく、聞き取りとフレーズ練習で身についた英語で話せる楽しさを体験してもらいたい。そうしたら英語アレルギーになんてきっとならない。今まで美鈴さんが学んで来たものをアウトプットしていきたい、そう思っています。

 今はスイスに戻った美鈴さん。きっと来年の夏、また素敵なお話を携えて富山に里帰りされることでしょう。その日を楽しみにしています。
今日の人125.長岡由洋さん [2014年08月10日(Sun)]
今日の人は、多機能型事業所 花椿かがやきの支援職員、長岡由洋さんです。
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花椿かがやきにて。長岡さんが持っていらっしゃるのはダイバーシティサポーター証♪

 私が長岡さんにお会いしたのは富山地域福祉ネットワークの懇親会の時でした。とにかく元気で明るい、それが第一印象。それからは、ダイバーシティとやまの主催する世界自閉症啓発デーのライトイットアップブルー@五箇山菅沼でのイベントをいつも応援してくださり、本当に助けられています。

 そんな長岡さんが生まれたのは1973年。生まれた時に雨が降って、それ以来雨男だという長岡さん。生まれも育ちも高岡市です。実は私とは小学校が同じ(といってもギリギリ1年かぶっているかどうかというところです)
 近所同士がとても仲が良く、長岡さんが泣いていたら、勝手に近所の人が家に入ってきてあやしてくれました。それはお母さんの性格によるところも大きいと思われます。お母さんはとても気さくな人で、誰とでもすぐに仲良しになる人でした。一方お父さんはとても厳しく、長岡さんはこのお父さんがとても怖かった。一度おばあちゃんのうちに遊びに行っていた時に、お父さんが迎えに来て、まだ帰りたくないと泣いたとき、「泣くな!」と一喝されました。それ以来、お父さんの前では一度も泣いたことのない長岡さんです。

 保育園では人見知りで全く自分の意見が言えず、イヤも言えない子でした。友だちにおもちゃを交換してくれと言われ、自分の持っている大きなおもちゃととっても小さいおもちゃを交換させられても何も言えないような子だったのです。
 しかし家に帰ってくると、近所の友だちには言いたいことが言えました。三輪車に乗ってどこまででも行って迷子になってしまったこともあります。

 小学校に入ってもやっぱり人見知りでしたが、学校に行くこと自体をイヤだと思ったことは一度もありません。でも、学校でうんちができず、長休みにうんちをしに家まで帰ったこともあります。
 小学校4年で少年野球チームに入り、それ以後はホントに厳しい練習がずっと続いていくのでした。練習が終わった後にグラウンドを50周することもありました。監督もコーチもスパルタ式でとても怖かった。特訓の成果もあって、長岡さんたちのチームは北陸大会に歩を進めます。
 でも長岡さんがレギュラーになることはありませんでした。その頃、夢を書くときはピロ野球選手と書いていましたが、本当になりたかったのはプロ野球選手よりも自分たちの野球チームのレギュラーだったのです。

 4年生までは教室で意見が全く言えなかった長岡さんでしたが、5年生になって突然積極的になり、先生にも何でも言えるようになります。でも、調子に乗り過ぎてビンタされることも。
 6年の時には犬に噛まれて1週間入院していたこともあります。その時、野球チームのみんながユニホーム姿でお見舞いに来てくれたことを今でもとても鮮明に覚えている長岡さん。よほど嬉しかったのでしょうね。

 中学に入るとまた何も言えなくなってしまいます。中学に入ってすぐに部活の希望届を出すのですが、第1希望野球部としか書かず、第2、第3希望を書かなかったところ、いきなり先生に張り倒されたのです。昔の先生は体罰が当たり前という感じはありましたが、いくらなんでもそれはひどい話です。結局野球部には入れず、足が速かったので陸上部を薦められましたが、陸上には入らず卓球部を選んだのでした。中学時代はなんだかいつも中途半端でモヤモヤしていたことも多くあったのでした。親ともほとんど話しませんでした。でも、お母さんは長岡さんのことをちっとも否定はしませんでした。
 中3の修学旅行の時、同じ班の友だちがおみやげ屋で木刀を買って、それを背中にさしたまま集合写真に写るという事件が起こります。当然、木刀をお土産になど買ってはいけません。こうして富山に戻った後、その班の5人の男子はみんな5厘刈りにされてしまいました。昔は、校則を破った生徒は学校で先生にバリカンで刈られたものです。

 高校は福岡高校へ。ここでようやくまた野球部に入ります。でも、1年生の時は友だちができませんでした。しかし、そこである先生と運命の出会いがありました。その先生は人のいい所を見つけてほめてくださる方でした。3ベースコーチだった長岡さんに、お前は声の大きさが光っているとすごく誉めてくれるのです。今でも、長岡さんの声の大きさはピカ一です。そして最後の練習試合の時に、先生は長岡さんを3番に抜擢してくれたのです。でも、送りバント失敗、スクイズも失敗、結局何も決めることはできませんでしたが、こうして出番を与えてくれたことで大きな勇気をもらいました。何より自分を認めてもらえた、それが本当に大きな自信になりました。
 
 大学は北海道に。アメフトの強い札幌学院大学に入り、長岡さんもアメフト部に入りました。しかし五月病になったり血便が出たりしたことが重なり、夏休み前にはアメフト部を辞めました。その後は野球同好会に入り、いきなりレギュラーに。遊びのサークルも自ら作り、コンパ、パーティ、コンサートのチケットを男子学生に売りまくっていました。3年生になるとパワーリフティングにもハマりだし細マッチョな身体になりました。

 アルバイトもいろいろやりました。犬の散歩から不倫調査まで、ちょっとあまり大学生が体験しないようなバイトもやっていました。スポーツ用品店でバイトしていた時は、売上が全北海道で11位になったこともあります。とにかくしゃべりがうまかった。そしてお客さんの心理もうまくつかんでいたのでした。

 就活は警察を中心にやりました。警視庁を受けた時は新宿警察に泊まらせてもらいました。夜には新宿2丁目に行ってカオスの世界を体験したりもしました。大阪府警を受けた時は西成地区にも行ってきました。当時から長岡さんは社会の穴に落ちそうな人々のいる世界に興味のあったのでしょう。
 しかし、結局色盲があることがわかり、警察関係は二次試験で落ちてしまったのでした。

 そうして金沢の金物会社に就職した長岡さん。最初は言葉遣いひとつとっても叱られていました。しかし、売上を上げるために坊主頭にし、お客さんの所では必ずダッシュ、題して佐川作戦を実行します。そして飲み会と納期をひたすら大切に仕事をしていった所、売上がぐんぐん伸びていったのです。こうして物を売るポイントや仕組みを抑えることの大切さを体得していった長岡さん。2年目に会社で横に座ったのが何を隠そう奥さんになった人でした。
しかし、仕事のミスを全部長岡さんに押し付けられる事件が起こったこと等があり、この会社を去ることにしたのです。

 次に就職したのは老人ホームでした。ここでは社会福祉主事として働きました。しかし、そこは理事長のワンマンぶりがあまりにひどかったのです。それでも、さびしいお年寄りと話す大切さはしみじみと感じましたし、素晴らしい人にも会えました。ここで、また一人忘れられない人との出会いがありました。裏の道を歩いていて伝説をたくさん持っているHさん。彼はいつでも誰に対しても全く態度が変わることがありません。誰に対しても接し方が一緒で、誰に対しても普通に話す、そんなHさんを長岡さんは尊敬しました。立場が上だからへつらう、下のやつにはエラそうにする、そんな人とはちがってなんて清々しいんだろう。

 しかし、職場でどうしても認めがたいことがあって、長岡さんはこの老人ホームを去ることになりました。その後、しばらく沖縄に一人旅に出かけました。安宿での出逢いも楽しく、一人でも寂しいことは全然ありませんでした。石垣島に渡った時は沖縄の本当の凄さを感じたように思いました。子どもからお年寄りまでみな踊り明かす、そんな人々との触れ合いで、ささくれだっていた長岡さんの心は徐々に癒やされていったのです。

 こうしていろいろなことが吹っ切れて、富山に戻ってから就職したのが、知的障害者更生施設 花椿でした。その後、障害者自立支援法に基づく多機能型事業所花椿かがやきになるわけですが、建てる時に地元住民と意見の食い違いがありました。長岡さんは思いました。彼らのことを地元住民は誤解している。障がいがあっても、彼らは決して地元住民に迷惑をかけるようなそんなことはしない。それをわかってもらうには、まず彼らと触れ合ってもらうことが大切だ。よし、かがやきは町を歩こう!長岡さんは決意します。もちろん、何かあったらどうするんだ。誰かに迷惑をかけたらどうするんだ。いろんな声が出ました。でも、一歩踏み出さないと何も変わらない。そうして、どんどん町に繰り出したことで、今では地元の住民の人たちとの交流も生まれ、とてもいい関係を築けています。

 長岡さんのモットーは楽しんで仕事をすること。スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドでイベントをしたり、先の先生がその時監督をされていた高校の野球部のみんなと野球をしたりもしました。この時、先生は利用者のみなさんを障がい者としてではなく、一人の大人として接してくださった。この時の想いはその後活動していく時の大きな宝物になっています。

 そして花椿に入って2年目に結婚。
次の年には長男も生まれ、おむつを取り替えたり夜泣きするのをあやしたり、ホントに未知との遭遇といった感じでした。しかし、第二子の長女は切迫早産で予定より3ヶ月も早い超未熟児で生まれます。この時ご夫婦ともに不安が頂点に募り、お互いにぶつかって離婚の危機かと思われる事態にまでなりました。結局それは回避できたのですが、ご自身がうつ病になったり、お母さんの死があったりとまさに激動の日々。第3子に元気な男の子が生まれたのもつかの間、今度は奥さんが病に伏せました。実はこの時がいちばんこたえました。娘がNICUにいるときは、喧嘩をしながらも、つらさを妻と2人で分かち合えた。けれど、奥さんが入院していると、そのつらさを分かち合えない上に家事も育児も一手に担わなければならない。この時ほど奥さんの存在の大切さを思った時はありませんでした。
 
 そんな長岡さんが救われたのは職場の大きな理解があったからです。そして心の葛藤を誰かにちゃんと話すことの大切さを痛感しました。今も職場の方には家庭のことを率直に話して、いろいろフォローしてもらっています。

 これらの経験を通して、長岡さんはかがやきの利用者のみなさんの凄さに気付きます。彼らは人によって態度を変えることがない。私たちは多かれ少なかれ、肩書や国やいろんなちがいで相手を判断しそうになりますが、彼らにはそれが一切ない。そんな彼らの生き様を支えることが自分の仕事であり、それは自分にとってかけがいのないことだとわかったのです。

 こうして今までお世話する相手だった人が、一緒に何かをする相手に変わったことで、たくさんの変化が生まれました。作業所が変わった。やることが変わった。利用者さんは誕生日には好きな職員と好きなことをしてもいい、それが誕生日プレゼント。どこも行かないことも選択。全て自分で決めることでみんなホントにいきいきします。そして、これはお年寄りにとっても言えるのですが、外に出る一歩で、どれだけ身体が活性化されることか。QOL(Quality Of Life)にとって移動するという行為は本当に大切だと実感している長岡さんなのでした。

 そして、実はしがらみや差別は大切だと長岡さんは考えています。それらがあるから、ひとりひとり能力を発揮できる場所にいけるのだ、と。

 そんな長岡さんのモットーは今を一生懸命に生きること。もちろん失敗もするし、後悔もするけれど、今を楽しく生きていきたい。その言葉通り、所属している野球チームで首位打者をつとめたり、保護者会会長でがんばったり、全てに全力で取り組んでいます。子どもたちもすくすくと育ち、長男は空手で全国大会にも出場するほどに。超未熟児だった長女も元気に育っています。次男は放っておいても元気に育つ3人目の特徴そのままに成長してくれています。きっと、なんにでも一生懸命なお父さんの後ろ姿を見ているのでしょうね。

そして、いつか五月晴れの日に縁側に座って、眠るようにして逝くのが、長岡さんの理想です。

今、長岡さんが自分の気持ちをそのまま表しているとおもっている歌がLet it goです。

降り始めた雪は 足跡消して
真っ白な世界に一人の私
風が心にささやくの
このままじゃだめなんだと

戸惑い傷つき
誰にも打ち明けずに
悩んでたそれももう
やめよう

ありのままの 姿見せるのよ
ありのままの 自分になるの
何も恐くない
風よ吹け
少しも寒くないわ

悩んでたことが嘘みたいね
だってもう自由よ
何でも出来る

どこまでやれるか
自分を試したいの
そうよ変わるのよ 私

ありのままで 空へ風に乗って
ありのままで 飛び出してみるよ
二度と涙は 流さないわ

冷たく大地を包み込み
高く舞い上がる思い出描いて
花咲く氷の結晶のように
輝いていたい
もう決めたの

これでいいの
自分を好きになって
これでいいの
自分を信じて

光浴びながら
歩き出そう
少しも寒くないわ


ありのままに生きるのは勇気のいる生き方だけど、これからもそんな長岡さんを応援しています。