今日の人は、
虹色ダイバーシティ代表理事の村木真紀さんです。
「虹色ダイバーシティ」は、性的マイノリティ(性のあり方が「自分の性別が戸籍上の性別と同じ、男/女のどちらかで、特に違和感がなく」かつ「異性のみが好き」ではない人たちや、性別を越境していきる人たちのことです。同性愛者(レズビアン、ゲイ)、両性愛者(バイセクシュアル)、性別越境者(トランスジェンダー、性同一性障害者)など、多様なあり方があります。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字をとってLGBTと呼んでいます)がいきいきと働ける職場づくりをめざして、調査・講演活動、コンサルティング事業等を行っているNPO法人です。なぜ虹色かというと、虹色は、性的マイノリティのシンボルだからです。虹の色のような性の多様性を祝福する意味があると言われています。
村木さんは茨城県のトマト農家で3人姉妹の長女として生まれました。子どもの頃は農家のお手伝いをするのも当たり前。太陽の味のするトマトがおやつ代わりでした。その合間に牛や豚を見に行くのが好きでした。
幼稚園の頃から手先が器用で、やたらと難しい折り紙に俄然やる気が出る子どもでした。小学生の時はサッカーやバスケをするのが大好きなボーイッシュな子。世界ふしぎ発見のレポーターになりたい、それがその頃の村木さんの夢でした。そしてその頃、千夜一夜物語やギリシャ神話が大好きでした。今思えば、その中にはセクシャルマイノリティが出てくる話がたくさんありました。自分でも無意識のうちにそういうことが気になっていたのかもしれません。
中学生の時は能の世界にはまります。また剣道や空手もやっていました。道着がかっこよく思えたのです。生徒会の役員選挙ではトップ当選を果たしたけれど、慣例で生徒会長は男子に。素直に副会長をやっていたものの、そうやって慣例に縛られることに居心地の悪さを感じていました。勉強もスポーツもできるし、生徒会の副会長もやっているし、きっと周囲からは羨ましがられる存在だったであろう村木さんでしたが、本人はずっと居心地が悪く、高校は奨学金を出してもらいながら家から2時間かけて通う私学に行きました。今までの環境からどこか離れたい気持ちがあった。
ある時、高校の担任の先生が「家裁の人」を薦めてくれて、それを読んだことから、判事になりたいと思うようになりました。
京都大学総合人間学部に進んだ村木さん。住まいは女子寮に入ります。2人部屋で、同室は高知の人でした。彼女と一緒に飲みにいった帰り、泣きながら震えながら、自分がレズビアンであることをカミングアウトしました。彼女も一緒に泣いてくれました。こうして大学に行ってから、自分が解放された感覚を味わいました。
そうして、LGBTの人に会う機会も増えました。美術部やHIVのボランティア団体の中でLGBTを含む多様な人たちに会う中で、いろんな人がいる方がクリエイティブでおもしろい、ということを肌で感じることができました。
総合人間学部は学際的な学問ができるところだったので、村木さんも法律から生物学まで幅広く学びます。そして、生物学の講義の中で生物多様性の概念を知りました。ちゃんと観察すると、同性同士で子育てをしたり、性転換をする生物もいるのに、それを生物学は例外として重視していないことに気づきます。いろんな種がいることで恒常性が保たれる、それを生物学は教えてくれたのでした。
HIVのボランティアで出会った人に10歳年上のレズビアンの人がいて、彼女は有名企業の広報担当としてバリバリ働いていました。その働き方がとてもかっこよく見えた村木さん。
無理してスカートをはいて就活をし、ビール会社の経理部に就職が決まります。担当は支社の経理だったのですが、夜逃げした酒屋さんの債権整理などもしていました。震災の後で、つぶれるお店がとても多かった時代、なかなか希望が持てない状況でした。けれど、経理部同士は仲がよく、よく一緒に飲みに行ったりもしました。仲がいい分、プライベートのことも聞かれるので、だんだん辻褄を合わせるのがつらくなり、ごはんや飲み会に行くのがつらくなっていきました。そして徐々に居づらくなって、仕事を辞めることにします。
その後しばらくいた会社で、コンサルタントの人の働きを見て興味を持ち、自分もコンサルタントの仕事をやりたいと思って、外資系のコンサル会社に転職。数ヶ月のプロジェクトで50社、100社の決算をいかにはやくまとめるかという連結決算のコンサルを担当しました。これは実におもしろかった。決算のポイントはすなわち商売のポイントでもあります。この仕事で、この会社のポイントはどこなのかを考えるクセがつきました。
このころ、両親にもようやくカミングアウトしたのですが、両親の反応は予想外に暖かく、この家族の理解は村木さんの心理面にはとても大きくプラスに働きました。
新たに働き始めた会社は経理ソフトウェアの会社でした。ここは中途で入ってきた人が多く、お互いプライバシーについて尋ねることもなかったので、居心地のいい働きやすい会社でした。ここの職場では特にカミングアウトもせず、ひたすらまじめに仕事をしていました。
そんな村木さんに衝撃の出来事が襲います。ゲイの友だちの自死。彼は鬱で生活保護を受け、何度か就職にトライしていたけれど難しかった。そしてとうとう自死を選んだのです。身寄りはお姉さんだけだったのですが、ゲイであることを言っていませんでした。お姉さんが来るまで、ゲイだった証拠を友だちみんなで必死に片付けました。
次の日、無理して会社に行きましたが、怒りで震えがとまりませんでした。なぜ死んだあとまでゲイであることを隠さなくてはいけなかったのか。LGBTのことをちゃんと認めてくれる働ける場があればこんなことにはならなかったのではないか…。
村木さんは彼の部屋に入った時の匂いが忘れられません。私だって、いつそうなってもおかしくないのだ…。どうしてLGBTというだけでこんなにも哀しい想いをしなくてはいけないのだろう…
友だちの友だちも自死。立て続けに3人を自死で亡くして、大きな大きなショックを抱えたけれど、それを会社に言えない自分。
2日間、ヘッドフォンをかけて大音量で音楽を聴きながら仕事をしたけれど、会社で気持ちが保てない自分がいまいた。やがて体調を崩してしまい、夜眠れず、会社でミーティング中にうとうとするような日が続き、休職。
やはりLGBTで鬱で仕事を休んでいる友だちと話していると、仕事に対しても会社に対しても報われないと嘆いていました。その子の会社は人を大事にするというポリシーの会社。そういう会社においてさえ、そうなのだ。LGBTであることの大変さをいつもいつも突きつけられる現実。どうしてこんな世の中なのだろう。環境を恨んではいけないことはわかっていても、あまりにもつらい現実がありました。
でも、少しずつ世の中の流れが変わります。オバマ大統領がLGBTに積極的であることで、日本もほんとに一歩ずつではあるけれど変わってきました。LGBTのために立ち上がるのは今じゃないのか。嘆くばかりでなくLGBTのために力を尽くしたい、独立したい、その気持ちが膨らんで、ついに村木さんは虹色ダイバーシティを立ちあげたのです。
村木さんと同じように、時代の風を感じた当事者たちによる活動もどんどん一般の人にも見えるようになってきました。先日は関西でLGBTの成人式も開催されました。200人くらい集まってくれて、元気な顔を見せてくれました。みんないろいろ悩んでいる。でも、こんなに仲間がいる。それは孤独の中で悩んでいたLGBTの若者にとってどんなに希望の光になったことでしょう。彼らのためにも働きやすい職場を作ろう、村木さんはそう思っています。
そのためにも企業向けのコンサルタントはどんどん進めています。ポイントを外さずに動けば、企業もLGBTのことをわかってくれます。そして、今はLGBTに取り組まないのはリスクであり損なんだと企業に言っています。
活動拠点の大阪では企業にもだいぶん浸透してきましたが、これを地方にも広げていきたい。住んでいる所にLGBTがいるという安心感。これは思春期に悩む子にとってどれだけ救いになることか。各市町村のレベルでセーフプレイスを作りたい。私はこのままでいいんだ、という安心出来る場所。安全にお互いがつながれる場所。そして、その中で承認の経験を積むことの大切さ、それを伝えたい。
LGBTは実は人口の5%だと言われています。つまり、どこにでもいるのです。それなのに、いないと思ってしまうのは、みんなそうじゃないふりをしているからなのです。まずそれを知ることが大切。全ての人が100%自分の力を発揮できる環境にしたい。自分の中の今までの常識という枠でとらえていると、発想の芽をつぶすことになります。常識とされているものを疑うことで、いろんなものが見えてきます。自然界でも、オスとメスだけではない、いろんないきもの、生き方が見えてくるようになるのです。
これからは5%の当事者ではなく、当事者の周りの95%の人への働きかけをもっともっとしていきたいと村木さん。大阪の淀川区では村木さんたちの活動もあり、
LGBT支援宣言が出されました。全国の自治体が淀川区につづいてほしい。LGBTの友だちが普通にいる、それがあたりまえの日本になる日もそんなに遠くない、私はそう信じています。
いろんな人がいる方が楽しいにきまっているのです。それをたくさんの人が実感してほしい。もちろん、私たちも一緒に歩いていきます。ちがいに気づき、ちがいを活かし、ちがいが創る、しなやかな地域社会に向けて…