今日の人100.元島 生(もとしま しょう)さん [2013年11月25日(Mon)]
今日の人の任意団体ひとのま共同代表の元島 生(もとしま しょう)さんです。いつも元島くんと呼ばせてもらっているので、ここでも元島くんで書きます。
元島くんは熊本で生まれ育ちました。ご両親が県内を転々をされていたので、鍵っ子でした。学童にもしばらく通っていたのですが、すぐにやめて、家で一人で101回目のプロポーズやスクールウォーズを見ていました。小学校低学年でそういう番組を見ていたので、結構ませた子どもでした。 小3からは八代のじいちゃん、ばあちゃんの家でみんなで暮らすようになりました。クラスが1クラスしかないような小さな学校で、山や川で遊んでいました。自然が好きで山の中で1人でボーっとしている時間が好きでした。カップラーメンとお湯さえあれば1人で時間を過ごせるそんな少年でした。 宿題でノートを作ってこい、と言われた時は、チラシを切って針と糸でチクチク縫い合わせてノートを作っていきました。先生が意図したノートはそういうノートではなくて、ノートを書いてこいという意味だったのですが、一生懸命お手製のノートを作った元島くんはとってもショックを受けます。そうやって素直にノートを作った少年時代の元島くん、なんだかとっても健気で愛おしくなります。 田舎の小学校で素直に育った少年は八代市内の中では都会の規模の大きな中学校に進学します。元島くんはクラスの級長をやり、生徒会長もやり、常にトップクラスでした。 しかし、仲良くしている子がグレていて、その子たちに対する先生の押さえつけや体罰がひどく、そのことに対していらだちが募りました。 …いろんなものに殺されそうな子どもたち。でも、大人の暴力に逆らうほどの力がない。その不条理に堪えられなくなり、いつしか学校にいかなくなりました。不良仲間とたむろするようになり、金髪にして眉毛も剃りました。 しかし、両親は決して責めたり怒ったりすることはしませんでした。ただ、金髪にしたときだけはこうおっしゃいました。 「俺はお前の金髪をなんとも思わんけど、ばあちゃんはお前がヤクザになると思うから、お前には悪いが染めなおしてくれんか?」 元島くんはすぐに髪を黒くしました。大切なものは大切にしなくてはいけない、それを態度で示してくれた両親でした。 そんなご両親ですから、元島くんの家が不良の溜まり場になるのに、さほど時間はかかりませんでした。どんなに荒れている子が来ても、ご両親はニコニコして受けいれてくれました。ただ、一度家出した女の子が泊まった時だけは、お父さんは烈火のごとく怒りました。筋の通らないことは許さない、そんなお父さんでした。 それ以外は本当に豪快なお父さんでした。夜中に遊びに行くから金をくれとお母さんに言うと、お母さんはお父さんに言いなさいといいます。それでお父さんに言うと、いくら欲しいんだ、と聞きます。「2000円くらい」というと「男が夜中に2000円じゃいかんだろ」と言って5000円くれるようなそんなお父さんだったのです。 友達の家に泊まって家に帰らずにいると、お父さんから電話があって、ひと言、 「シンナー吸ってるか?」 「いいや」 「ならいい」と言って電話が切れます。 そうやってどこまでも息子のことを信じてくれている両親だったのです。 高校には入りましたが、最初のうちは行きませんでした。 元島くんの両親は揃って障がい者運動をしていました。高校に行かずにブラブラしている息子に「一回ボランティアに行け」と薦めます。 そうして行ったボランティアで、元島くんは打ちのめされました。 それは障がい者とスタッフが一緒に電車に乗って出かけるのを手伝うボランティアでした。1枚の切符を買うのに、障がい者の人もボランティアの人も必死でした。でも、その日丸一日自分は何もできなかった… みんなかっこいい。自分は何もできない。その日の反省会で初めて会った人たちの前で号泣しました。 自分は何をやってんだ。朝だるいから学校に行かない。向かい風だから行かない。自分が情けなくなりました。俺は障がいの人の側にいる仕事がしたい、その時そう書きました。 それからは学校に通うようになります。学校では眉が細いという理由でラグビー部に入れさせられました。荒れている生徒はラクビー部へという風潮の高校だったのです。 でも、そこから元島くんはラグビーにはまっていくようになります。もう1つはまっていたもの、それはギターでした。ラクビーで汗を流して、ギターでひたすら弦をつまびく。それが元島くんの高校時代でした。もちろん、恋もしたし失恋もしたけれど。 そうして、ラグビー部での活躍があって、推薦で入ったのが日本福祉大学です。そして大学の寮で同室になったのが、今も一緒にひとのまの共同代表をしている宮田隼さんだったのです。もっとも、最初に元島くんが寮に来た時、スキンヘッドで眉がなかったので、隼ちゃんは「終わった」と思ったそうです。それが毎晩語り明かし、飲み明かす、なくてはならない仲になるのですから、人の出会いとは不思議な必然なのですね。 寮生活は密着度がとても強く、最初はそれに抵抗がありましたが、徐々にその世界に慣れていきました。全裸で寮のみんなで海に行ったりひっちゃかめっちゃかでしたが、あったかかった。 ラグビー推薦で入ったのですから、最初は当然ラグビー部に入っていましたが、途中で辞めました。それは、同級生が飲酒事故を起こし、彼が退部させられたことに納得がいかなかったからです。One for all, All for oneって言ってるのに、都合が悪いと切り捨てるのか、そう思ったのです。そういう大人の都合のようなものが昔から大嫌いだった元島くんなのでした。 大学での勉強は好きでした。本当は経済学部だったのに、福祉の授業ばかりとって、経済の方の単位が足りなくなったことも。 ゼミの先生との出会いもとてもいい出会いになりました。その先生は「いつも考えろ」と自分の頭で考えることを大切にする先生でした。 ホームレスのことを卒論に書いていたのですが、途中で手につかなくなってしまいます。それで全然自分が納得しない形のまま卒論を出してしまったので、そのことが引っかかって、その先生に7年間連絡できずにいました。いつまでも何こだわってんだろうと7年ぶりに連絡すると、先生も大変喜んでくれて、今度ひとのまにも遊びに来てくれます。 大学で学んだこと、とりわけ寮で学んだことはすごく大きかった。元島くんはルールで縛ることに対して嫌悪感がありました。今やっているコミュニティハウスひとのまは、大学の寮の経験がとても大きく役立っています。ルールじゃなくて、信頼関係で成り立つ空間にしよう。もちろん、それはとても難しいことです。でも、実際にひとのまは基本的にそうやって成り立っているのでした。 大学の寮には中国の留学生もいました。考え方や習慣がちがうからと言って中国人を排除したりしないで、ちゃんと交流の機会を設けていました。まぁ、言ってみれば飲み会なんですが、そうやって裸のつき合いをすることで、世の人々のいう壁とかちがいなんて大したことはないと感じるのでした。そもそも、そうやって最初にラインを引くことがおかしいじゃないか。4年の時には「もとしまつり」と称して、誰が来てもいいし、いつ去ってもいい飲み会を開催していました。その時、その中国の留学生はもうすっかり「もとしまつり」の常連で元島くんはとても仲良しでした。多文化共生と声高にいわなくても、元島くんたちは自然に多文化共生をやっている、それって本当に素敵なことです。 実は、元島くんの奥さんは、大学の時の同級生です。いつもお互いを想い合っている本当に素敵なカップルなのですが、お二人のいろいろなエピソードはどうぞ直接元島くんからお聴きになってくださいね。 元島くんは就活はしたくないので、しませんでした。在学中から児童養護施設をまわったりしていたのですが、学童保育の指導員が不足しているからやってみないか、と声をかけられます。そうして学童保育の指導員をやっていく中で、問題のある子が本当に多いことがわかります。そして、問題行動を起こす子どもたちの問題の原因を探っていくと、ほとんど家庭にいきつくのでした。 元島くんはそんな家族と信頼関係を持つために月に2~3回一緒に飲んだりしていました。お父さんはトヨタの下請けの下請けで昼夜問わず働き、お母さんは看護婦で夜勤もあって忙しい、そんな時に問題行動を起こしたりします。子どもだけじゃなく、お父さん、お母さんも支えていかなきゃ、元島くんはそう強く思うのでした。 人と人の間の仕事って、思い通りにいかなくてストレスがたまることが多いけど、それにどう対応していくかを考えることが本当に面白いな、自分はそういう仕事が好きなんだ、そう感じました。 学童保育の仕事の2年目に結婚。しかし、同僚とうまくいかなくなって4年間で辞めることに。その頃も宮田隼さんとは夜な夜な飲んでいました。人と人の間をつなぐそんな居場所を作りたい、作ろう、飲みながらいつもそんな話をしていました。そうして隼ちゃんは、奥さんが富山の人であることから、一足先に富山の高岡へ行って、その準備を始めることになります。元島くんも後から行くと約束をして。 元島くんは長野のサムライ学園というひきこもりの寮と学園で1年間働いてみないかと声をかけられ、そこにいくことにします。でも、奥さんもいるからそこだけでは食べていけず、その学園の理事長がオーナーをやっているバーでバイトすることになりました。バーにはいろいろな人が来ました。社会の枠から外れてしまった人もたくさん来ました。元島くんはそういう人たちとの方が波長があった。その頃、社会的なものに合わせないと生きていけないというのをとても窮屈に感じていたからです。ビールをついだり、心にもないことを言っていると自分がどこにいるのかわからなくなる、でもそんな時に社会的にはレールから外れていると思われている人たちのナチュラルさに触れると、心が安らぐのでした。写真を撮ったり、ギターを弾いたりそういう自分らしく生きている人たち。元島くん自身もそのバーでLIVEをやったりしていました。 富山に行ったら畑をやろう、作るということをちゃんとやろう。そうしないと自分というものがわからなくなる。社会に合わせながらも自分自身を守れるものを持っていないと自分が保てなくなる、そう感じていました。世の中には偽物があまりにもたくさんある。本物に触っていないと、自分が納得する生き方をしていかないと、世界も自分もボロボロになっていく。元島くんはきっと多くの大人が気づきながらも気がつかないふりをして蓋をしている部分に目をつぶることはできないのでしょう。自分に正直にありたい。 こうして長野で1年過ごした元島くんは、隼ちゃんの後を追って奥さんと共に富山に来ました。氷見に家を借り、すぐに畑もはじめました。 そして2011年の7月にコミュニティハウスひとのまを高岡にオープンします。ひとのまがどんなところかはこちらのNPO通信の19回の連載を読んでいただければお分かりになると思います。⇒http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/toku/npo/CK2013052802000200.html(ちなみに19回の連載回数は過去最高、ダイバーシティとやまは12回でした。) 元島くんの中には葛藤があります。いろんなことはなかなかうまくいくわけではないけれど、できる範囲でちょっとずつやっていくしかない、そう思っています。例えば、ひきこもりの人を社会に返す、それがゴールではないのです。背景の背景を探ることで見えてくるものがある。社会に合わせることがゴールじゃない。生きていくためにはどうしたらいいか一緒に考える。考えてわからなくても考える。それが自分にできることだ、そう言う元島くんの目はどこまでも優しく相手を包み込んでくれるのでした。 全てのものがスーパーで手に入ると、自分の存在意義が見いだせない。一緒に悩みながら一緒にパンを作りながら、一緒に元気になっていく。ここでどういう生き方が生まれていくか、それがとても大事だと。 そうやって元島くんは好きなギターに手を伸ばします。ギターを弾くことで、彼自身も自分の中のバランスをとっているのです。 元島くんには他にもいろいろやりたいことがあります。 ギターはもちろんだけど、歌も歌いたい。写真も撮りたい。自然農もやりたい。東ティモールやキューバにも行ってみたい。 本を書きたいとも思っています。彼は繊細で人の心をとらえる文章を綴る人です。私は元島くんの書く文が大好きです。優しくて、どこか切なくて懐かしい。いつかそんな元島くんの書いた本を読むのを楽しみにしています。 今日もひとのまにはいろいろな人がやってきます。やんちゃな子ども、いろいろな事情を抱えた大人、近所のお年寄り、おしゃべりに来た通りすがりの人…。 そうして元島くんのギターの音と隼ちゃんのガハハ笑いが聴こえます。 あったかくて不思議な空間がそこには広がっています。 |