今日の人105.土屋佳瑞さん [2013年08月27日(Tue)]
今日の人は、働く女性専門コーチ&モノとココロのスッキリスト、土屋佳瑞さんです。
いつも凛とした美しさのステキな女性で、身も心も環境もいつもキレイにしていらっしゃるんだろうなぁというのが一目瞭然。いつもバタバタの私には憧れです。 佳瑞さんは富山市の生まれ。いたち川沿いの桜がキレイに見えるお家でしたので、ひょっとしたら“桜”という名前になっていたかもしれないそうです。 それが佳瑞というお名前になったのは、社会科教師だったお父さんが気に入ってつけたのだとか。確かにいかにも賢そうで神聖な感じのする名前です。 幼稚園の頃は、本を読むのが大好きでおしゃまな幼稚園児でした。体は小さいけれど口は達者な子でした。お母さんは県職員で忙しく、佳瑞さんは同居だった祖父母に育てられた感じでした。特におばあちゃんは大好きでなんでもおばあちゃんに話していたものでした。 幼稚園の年長の発表会の時に、みんなで花咲かじいさんをやりました。佳瑞さんはセリフのない桜の花の精の役。主役を演じている子を見て、「私の方がうまいのに!」と思うととても悔しかった。その頃から演じるということに興味を持っていたのかもしれません。後に佳瑞さんは演劇にはまっていくことになるのですが、その話はあとのお楽しみにとっておきましょう。 小学校に入った佳瑞さんは相変わらず読書が大好きでした。特に好きだったのは大草原の小さな家や赤毛のアンシリーズ。小学校の1,2年の時に担当だった先生が「先生あのねノート」を子どもたちに書かせていて、佳瑞さんもそれを書くのが大好きでした。 「先生、あのね、今日ね…」で始まるそのノート、それを書くと、先生からもお返事がもらえるので、それがたまらなく楽しかった佳瑞さんでした。 小学校低学年の時は外で遊ぶのも好きでした。川でタニシをとったり、シロツメクサでネックレスを作ったり。でも、みんなで落ち葉を燃やしているときに、小さな男の子が瓶をそこに入れてしまい、熱をもった瓶が破裂して、佳瑞さんは砕け散った瓶の破片を全身に浴びてしまいます。 幸い、今はその跡はほとんど残っていませんが、女の子がそんな怪我をしてしまったのでご家族はさぞかしご心配されたことでしょう。 佳瑞さんの名前をつけてくれたお父さんは家でNHK以外の番組を見せてくれない人でした。チャンネル権は当然お父さんが持っています。小学校3,4年の頃、その当時流行っていた“紅い糸シリーズ”が見られず、グループで仲間はずれにされてしまった佳瑞さん。女の世界の陰険な部分を垣間見た思いがしました。 佳瑞さんはずっと習字とピアノを習っていて、児童館の合唱団にも通っていました。そんな中、佳瑞さんはお芝居の世界に惹かれていきます。劇場中継がある時は、テレビに釘付けになっていました。確かに時々劇場中継なるものをNHKでやっていましたが、小学校の女の子がそこに釘付けになるのは、珍しいことだったかもしれません。 しかし、学年が上がるに連れて親が厳しくなってきました。お母さんは、何か注意する時には「勉強しなさい」が口癖の人。出来る所をホメるのではなく、できないところを伸ばそうとするタイプでした。そんな訳で佳瑞さんはお母さんから褒められたという記憶はあまりありません。国語が得意だった佳瑞さんは、ちらしの裏を使って、家族新聞なるものを発行していたのですがその時も怒られました。「こんなものを作っている暇があるなら勉強しなさい」家族が喜んでくれるかな、と思って一生懸命その新聞を作っていた少女の心がどれだけ傷ついただろうかと思うと、こちらも胸がチクチクしてきます。 中学生になった佳瑞さんはテニス部に入りました。本当は演劇部に入りたかったのですが、中学校に演劇部はなく、クラブ活動だけは3年間通して演劇クラブに入っていました。 中学校になると部活が忙しく、ピアノにもあまり通えなくなりました。でも、本を読むのはずっと好きでした。特にアンネの日記は繰り返し読むほど好きでした。彼女を倣って、手紙形式の日記も書き始めました。それは大人になるまで続きました。思春期のお母さんとの間の確執が、アンネと自分を近づけていたのかしら、今はそんな風に感じるのです。 意外と落ち着きのない子で怠けものだったことを心配してか、お母さんは学年が上がるに連れてさらに厳しくなっていきました。男の子から電話がかかってこようものならやはりここでも「ちゃんと勉強しなさい!」 ただでさえ反抗期の中学生がその言葉で勉強するはずはなく、むしろ反発して勉強しなくなっていったのでした。 佳瑞さんは思います。お母さんは仕事が忙しく、夜12時くらいに帰ってくることもある位でした。あの時代の仕事と家庭の両立は、相当に大変だっただろうと。初めての子育てできっといろんなことが必死だったんだろうなと。 でもあの頃、もっとお母さんの仕事の話をして欲しかった。将来、この子が成長して仕事や結婚後の家庭で苦労をしたりしないようにと心配して、とにかく今は勉強しなさいというよりは、親がいきいき仕事している姿を見せて欲しかった。誰かに会ってもお母さんは、自分のことを自慢してくれたという記憶はない。確かに自慢できるようなことなんてそうないのだけれど、子供は単純に、ほめられないから自分は大したことがない人間だと思ってしまう。人前でしゃべることは得意だったけど、それをほめられたことがないので、その他の苦手な、できないことばかり頭に浮かぶようになっていってしまいました。 それでも、ずっと好きだったのは演劇でした。テレビで舞台中継をやっているとかじりついて見ていました。お芝居を見ている時は嫌なことは全て忘れられる気がしました。 ある時、演劇クラブの先輩が高校の演劇部のチケットをもってきてくれました。その舞台を見てすごい!と思った佳瑞さん。その高校でさえすごいんだから全国大会に行く高校はもっと凄いだろうと思って、演劇で全国大会に行く高校に行きたいと思うようになりました。 こうしてその当時 富山で一番実績のある富山女子高校に進学します。進学したのは普通科でしたが、自分としては普通科1年ではなく、まるで演劇科1年といった気分でした。 演劇部は楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。創作劇では一人一本以上脚本を提出しなくてはなりませんでしたし、大会の度にオーディションもありました。 レベルが高く部員の層も厚かったので、自分に回ってくる役は主人公の母の役や掃除婦の役といった脇役が多かったのですが、それでもすごく楽しく充実していました。夏は合宿をし、遅くまで稽古、自宅でも勉強よりも役作り。 1年、2年ともに、地区大会、県大会を勝ち抜いて、富山県代表で中部日本大会へ進出、クリスマスは部員全員で遠征先の宿舎でケーキを食べたのが懐かしい想い出です。 高3の時、お父さんが大病をします。もともと、私立の四大はダメと言われていたのですが東京の短大に行こうと思っていました。ところが、県外には出ない方がいいとお父さんの主治医に言われてしまった佳瑞さん。結局、急遽最終募集で当時魚津にあった洗足学園魚津短期大学の国文科に進学しました。全く行くつもりのなかった地元の短大への進学。でも、ここでの授業は予想外にとてもおもしろかったのです。先生方も個性的な方が多く、近松門左衛門の演習だったり、言語学の講義だったり、心から勉強することがおもしろいと感じたのはこれが初めてだったかもしれません。民俗学の授業も大好きでした。卒論ではハレとケについて書いたくらいです。 もちろん、演劇も続けていました。富山のアマチュア劇団に所属し、練習で帰宅が午前様になることもありました。厳しい家でしたから、「何しとるが!」と当然厳しく怒られました。でも、演劇を辞めることだけは出来なかった佳瑞さん。 短大時代は他にも古代文化研究会、富山大学の映画研究会という二つのサークルにも入り、それなりに忙しく過ごしていましたが、世の中はバブル真っ盛り。東京の短大に進んだ友だちの華やかな生活ぶりを見聞きするにつけ、何か複雑な想いになることももちろんありました。その後お父さんは順調に回復し、今も元気でいらっしゃるので、本当によかったのですが。 やがて高校を卒業した佳瑞さんは学校推薦で富山の有名企業に就職。男女雇用機会均等法が施行された年でした。 会社は社内にコンピューターを入れて新しいシステムを活用し始めたばかりでした。佳瑞さんはその新システムの導入のもと、入社早々残業も休日出勤も当たり前の生活になりました。以来25年間、佳瑞さんは会社でずっと社内でのシステムの運用と仕事の仕組み作りに携わっていくことになります。 当時のその会社では女子社員は結婚退職が当たり前の時代でした。佳瑞さんは同期入社のご主人と24歳の時に結婚。その後は嘱託で働き続けました。「なぜ女性は結婚して正社員を辞めなければならないの?」そういう疑問がフツフツと湧き上がりました。 しかし、その1.5年後、正社員に戻されます。当時としては異例とも言える措置が取られたのでした。 やがて佳瑞さんは妊娠出産。そして、会社にとっての育休第一号となります。育休といっても取ったのは半年だけです。佳瑞さんは4月に会社に戻るつもりで、保育園に申し込みも済ませていました。ところが、2月に金沢転勤の辞令が出ます。まさに青天の霹靂。それでも佳瑞さんは、金沢転勤の道を選び、ご主人とともに金沢支社へと転勤しました。朝早くから夜7時くらいまで子どもを保育園に預けるのですが、本当に忙しく毎日矢のように過ぎていきました。 5年経って富山に戻ってからは更に忙しくなりました。配属された部署は10年前の古いシステムをまだ使っていて、しかもわからないことがあるとそこにいる生き字引のような女子社員に聞くしかないのでした。そんなわけで、そこに新たなシステムを構築することになったのです。残業で夜中1時になってしまうこともありました。多くは夜7時か8時まででしたが、それでも小さい子を抱える佳瑞さんには大変な毎日だったことでしょう。近所のラーメン屋でおでんとラーメンを子供と二人で分けて夕食にするということもよくありました。それでもその部署はみんなが仲良く楽しい部署だったので、なんとか乗り切ることが出来たのです。 やがて、また新たな部署へと異動になります。そこは忙しさのあまり問題が続発していいました。これまでの職場では聞いた事のない「うざい」や「死ね」という言葉を特に悪気なく普通に使う世代もいました。仕事は山積み、連携はうまくいかない。これまでの経験で培ってきた仕事の段取りや、チーム作りは、何をやっても裏目にでました。なんとかチームをまとめたいと必死になればなるほど空回りして人間関係はどんどん悪くなっていきます。 そうして一部の人からの猛烈なバッシングが始まります。話しかけてもまるっきり無視される。ひどい言葉を言われる。そんな状況に佳瑞さんは一回だけ耐えられずに会社で隠れて泣いてしまったことがあります。自分はなんでこんなにひどいことを言われなくてはならないのか。入社以来、これまでにも何度も車や自宅で泣いたことはあったけど、会社で耐えられなかったのはそのときだけでした。 そんな時に ふと これはきっと、自分が変わらなければ何も変らないのでは と思いました。そして以前から気になっていた「コーチング」を学び始めました。 コーチングの中でいちばんハッとしたことは「認める」ということでした。 「認める」は、評価することではなく、ただ、ありのまま、そのままを認めること。 まずは ただ自分の辛かった思いをそのまま認めることができたとき、自分が「先輩としてこうあるべき」と自分自身をしばっていたことも認めることができました。 そして気付きました。 こちらが認めない限り相手が認めるわけがない。 相手も、きっと認めてほしいという思いがあったはず。 そう確信しました。そしてコーチとはどんな人だろう。自分のことも相手のことも認めるにはどうしらいいんだろう。自分は人としてどうありたいんだろう。常にそう考えるようになりました。 そんな時、佳瑞さんの部署に新しい人が入ってきました。 「これ、わかりにくいですよね」 その人が言った時、今までだったら、「これはこうすればいいよ」と簡単に教えていたことでしょう。でも、その時佳瑞さんは「そうだね、わかりにくいんだね」「○○さんはどうなってたら解りやすいと思う?」と質問したのです。その問いによって、「こうしたらいいと思います」と言う返事が返ってきました。それは、それまでとは全く違う仕事のやり方でした。コーチングが初めて実践で生きた!そう思いました。 こうしてコーチングを仕事でも生かしていった佳瑞さんでしたが、ご主人が取締役になることが決まりました。 ここまで仕事をしてきたというプロ意識は当然ありました。でも、ご主人が絡んでくる以上、ここが引き時だと判断して佳瑞さんは長年働いた職場を去りました。 2011年の4月に退職、それまでずっと仕事をしていたのに、家にいる…。それが苦痛でした。カーテンを閉めてうちにいない振りをしました。自分の居場所がない。家のことも出来ない。仕事をしていた時より時間があるのに全く片付かない家にいて、気持ちはふさぎ込むばかりでした。 そんな時に、整理収納アドバイザーという資格があることを知り、今の現状をなんとかしようと、その資格を取ることにしたのです。2級、1級と順調に資格を取り、その後はライフオーガナイズ2級、1級も取得しました。 今、佳瑞さんは富山でコーチングと片付けの分野でさまざまに活躍されています。コーチングの手法を取り入れた片付け講座はわかりやすいと大人気!きっとこれから、佳瑞さんの講座はますます人気が出てきてなかなか予約が取れなくなると思うので、ぜひ今のうちに受講されることをお薦めします。 さて、佳瑞さんと切っても切れない演劇の話をずっと出していなかったのですが、実は佳瑞さんは社会人になってから、高校の演劇部のメンバーと共に「ハートクラブ」というアマチュア劇団を立ちあげ 以降年に2回ずつの公演を5年間行なっていたのです。その後メンバーの結婚や出産で活動は休止状態だったのですが、昨年実に19年ぶりに公演を再開!見事に舞台に返り咲いた佳瑞さんなのでした。 そんな佳瑞さんがワクワクすることはやはり芝居をすること。演じることは無条件に楽しい!とおっしゃる佳瑞さん。去年の公演を観た若い女性から、「大人の女性ってステキだと思った」と言われた時は何より嬉しく思いました。 そして夢は、働く人が笑顔でいられるようにしたい!ということ。みんなが自分の力を出し惜しみせずに発揮できるようにしたい。それは、ダイバーシティとやまの目指すところと同じなのでとっても嬉しいです! もちろん、一人息子さんを全力でサポートすることも忘れません。今は息子さんが受験生なので、優先順位の一番はやはり息子さんです。 そして今はいい関係のお母さんとも、ずっとお互いに気持ちをまっすぐ伝えあえるようになりたい、そう思っています。母と娘ってずうっと母と娘ですものね。母親っていつまで経っても怖い存在なのかもしれません。でも、厳しいことを言ってくれる存在って年を取れば取るほど少なくなってくるから、ありがたい存在なのですよね。(自戒を込めて) これからもコーチングをベースに、モノとココロのスッキリストという新しいジャンルでもどんどん活躍を広げていく佳瑞さん。 これから目が離せない富山のステキな女性なのです。 佳瑞さんは毎日ブログを更新していらっしゃるので、ぜひこちらもチェックしてみてくださいね。 佳瑞さんのブログ⇒「女神になろう!~働く女性専門コーチ&モノとココロのスッキリスト~」 これからも社会の先端を走るステキな女性として、そして優しいお母さんとして、富山でダイバーシティを推進する時の中心的な方でいてください。そしていつかまたピンクレディメドレーをご一緒出来る日を楽しみにしています(^^) |