今日の人はドリプラ富山2013プレゼンター、コーチングのコーチとして活躍中の下伏大輔さんです。
下伏さんは3人兄弟の長男として、横浜で生まれました。小さい頃、とても人懐っこい大輔くんは団地内にあった工場に遊びに行って、いつもそこでお菓子をもらっていました。「大輔くんは才能があるから、劇団ひまわりに行ったらいいね」そんな風に言われていた幼少期でした。
富山に引っ越してきたのは幼稚園の時。外で遊んだり、家で弟たちと一緒に戦隊ものの人形で遊んだりしていました。
小学校に入ると、勉強がおもしろくなくて、宿題を忘れて先生に怒られる日々。遅刻もしょっちゅうしていました。
下伏さんの家は当時二世帯住宅でした。おじいちゃんは孫が騒いでいるのが気に入らず、その文句をお母さんに言っていました。そういうことが積み重なってか、お母さんとおじいさんは折り合いが悪くなり、とうとう二世帯住宅を出て、別に住むことになりました。
引越しと同時に下伏さんは転校します。その時、これまでの自分のイメージを変えたくて、わざと優等生っぽくふるまいました。しかし、それは全く素の自分ではありません。それでも、これをやめたら、またみんなにバカにされる、そう思うと演じるのをやめられませんでした。次第にクラスメートと話すのが億劫になっていきました。
転校してから、少年野球もやっていました。野球をやっている時だけは楽しかった。でも、4年生の1月に体調が悪くて休んだのをきっかけに学校に行ったり行かなかったりして、2月からはとうとう全く行けなくなってしまいました。
お母さんは息子が学校に行けなくなったことで、ものすごく悩みます。一体どうしたらこの子は学校へ行ってくれるのか…。不登校に関するいろいろな本を読み、時には頼れる親戚に電話して泣いていました。
それを聞いていた下伏さんはお母さんを悲しませていることが苦しくてたまりませんでした。でも、学校にはどうしても行けなかった。
「自分なんかいない方がよかったんじゃないか…。お母さんをこんなに苦しませて…。
でも、どうしても行けない。行けない…」
そんな状態ですから、常に不安はありました。自分は将来ホームレスをするしか道がないんじゃないか。そんな考えが頭をよぎり、弟に八つ当たりをして、すごいケンカをしたりもしました。
5,6年生の時は完全に不登校でした。でも野球だけは続けていました。
お母さんはこの頃、学校だけが全てじゃない、という境地に至ります。そして、言いました。
「不登校でもいいから、あなたらしく生きなさい。学校に行かなくても、できることをやりなさい。」
ありがたかった。救われた気がしました。
中学校は付近の小学校3校から生徒たちが集まってくる学校でした。
環境が変われば学校に行けるかもしれない。そう思って1ヶ月ほどは通いました。
部活は野球部に。
でも、やっぱり行けなくなってしまいます。
野球部の顧問の先生は野球をしたいなら部活だけでも来い、と言ってくれる先生でした。
それで部活の時間だけ行っていたのです。小学校からの野球仲間たちは、下伏さんが不登校だからという理由で特別視したりせず、普通につきあってくれました。それが何より嬉しかった。
2年生の冬、仲良しの友だちが言いました。
「部室行くのも、教室行くのも変わらないだろ?」
このまま卒業しても、高校を出なきゃ社会に出られない。とりあえず高校に行かなきゃ。そういう思いがありました。
その後も学校にはあまり行きませんでしたが、野球の推薦で私立高校に合格しました。
お母さんは誰よりも喜んでくれました。
こうして入った高校でしたが、授業は苦痛で仕方がありませんでした。
教室に入って、このわけのわからない時間を一日最低5時間×3年間繰り返すなんて、絶対に無理だ!そう思いました。
野球は楽しかったけれど、中学校とちがって、学校に行っていないのに続けるわけにもいきませんでした。
こうして、1週間で高校に行かなくなった下伏さん。最初は休学届を出していましたが、これは意味がない、と思って退学します。
野球をやめてしまったので、することがありませんでした。TVゲームもしましたが、時間は一日90分と決められていました。そういうことはちゃんと守る下伏さんだったのでした。
それで、空いた時間に本も読むようになりました。ある時、人付き合いが苦手な人の心理学という本に出会います。自分と同じような人がいるんだ!もしかしたら自分も変われる可能性があるのかもしれない。ちょっとずつそういう本を読み始めるようになりました。
それでも自分にはコミュニケーション能力がない、ヤバイなヤバイなという思いは常にありました。
行かなくなって1年たった頃、同級生にばったり出会いました。彼は、定時制に通っているんだ、と言いました。定時制だと制服もない。いろんな人が元々いるから窮屈じゃない。そう聞かされました。
その頃、美容師の資格を取ろうという気持ちが芽生えていた下伏さんは、定時制に通って高校卒業資格を得よう。そして美容専門学校に行こう、そう考えたのです。
かくして定時制高校に入学。友だちが言ったように、そこにはいろんな人がいました。いろんな人がいるから、自分も浮かない。気分がすごく楽でした。
昼間は飲食店で働きながら学校に通っていました。定時制は不思議なところです。先生と生徒に上下関係のようなものはない感覚でした。みんなちゃんと働きながら学校に通っているわけですから。
この学校で下伏さんは思いました。社会の底辺に落ちたとしても、みんなちゃんと楽しそうにやっている。そしてそこから這い上がって成功している人だっているじゃないか。
定時制ほどおもしろい高校はない、今でもそう思っていると下伏さん。もし、今から高校に入れと言われてももう一度定時制を選びたい、そう思っています。
さて、4年生になった時、真剣に将来について考え始めました。最初は生きていくために美容師になろうと思った。でも、生きていくのは別に美容師じゃなくても出来るということがわかった。おしゃれでモテそうだから美容師を選ぶのか、いや、それはちがうよな。
あれ?別に美容師じゃなくてもいいんじゃないか?
次に思ったのはスポーツトレーナーでした。自分は野球が好きだし、運動なら得意だし、いいんじゃないかな。
でも、ある人に聞かれます。「スポーツトレーナーになって何をしたいの?」
何をしたいって聞かれても、なって終わり、くらいにしか思っていなかった。なって何をしたいかなんて、出てこない…。
ああ、美容師もスポーツトレーナーもなんとなくかっこいいから憧れてみただけで、別に自分が心からしたいことじゃないんだ。その時、そう思えたのでした。
今、自分がアルバイトしている飲食店。バイトをしながら目の前でお客さんが喜んでくれるのがとっても嬉しい。そして、お店もとても気合いが入っている店でかっこいいと思っていました。それなら、いっそここで働けばいいんじゃないか…こうして高校卒業後、下伏さんはバイトしていた飲食店でそのまま働き始めたのでした。
働くうちに飲食店での仕事がどんどんおもしろくなってきました。こうして全然種類のちがう3店舗で働き始めるようになりました。オープン直後のお店、2,3年たったお店、5年目のお店、それぞれにいろんな課題もあるし、オーナーの考え方でガラッとお店の雰囲気が変わってしまう。
もっとサービスを極めてみたい!サービスで下伏さんの頭に思い浮かんだのは、そうリッツ・カールトンでした。思い切ってリッツ・カールトンの採用試験を受けます。
リッツ・カールトンは学歴で採用を決めたりしないことを知っていたので、自信を持って採用試験に臨みました。そして見事合格。
こうしてリッツ・カールトンで働き始めた下伏さん。
日本一のサービスとはこういうことを言うのか。やはりすごいな、と思いました。と同時に自分の今までの方向性は間違っていなかったことも感じました。
1年でリッツ・カールトンをやめた下伏さんは、20歳の時にアメリカを旅します。
そこで出会った人に「日本のいいところを教えてくれ」と言われ、あれ、わからんな、と思いました。自分は日本のことを何も知らないじゃないか。
こうして、日本に戻ってからバイクで日本一周の旅に出ます。
といっても1ヶ月半で半周したところで、バイクが故障したのでその先を断念。
それでも、いかに自分が知らない世界がたくさんあるか、ということがわかった旅になりました。
富山に戻ってからはレストランの調理とブライダルのイベントの仕事を掛け持ちして働くようになりました。料理を作るのも面白かったし、ブライダルの仕事も楽しかった。
それまではいつかは自分の店を持って最高のサービスを提供しようと考えていましたが、その頃からお店を出したいという思いがなくなっていきました。
何人ものオーナーの生活を見てきたことで、もし自分もオーナーになったら、結婚しても自分の子どもの顔もまともに見られないくらい忙しくなると思ったからです。仕事としては好きだけど、生き方としては難しい…そう思いました。
この頃、ブライダルのチームリーダーを任されるようになっていましたが、思いがうまく伝わらず、チームワークは最悪でした。なんでうまくいかないんだろう。うまくいくためにはどうしたらいいんだろう。元々自分はコミュニケーションが苦手なんだ…
いろいろな本を読みあさりました。そんな時にコーチングの本に出会います。これってすごくないか?
そう思ってチームのメンバーにコーチングのやり方で接したところ、劇的にうまくいくようになりました。コーチングってすげえ。コーチングはどんな人でもキラキラ輝かせることができる魔法を持ってる、そう思いました。でも、決して魔法なんかじゃなくて、もともと人は誰でも輝くところを持っている。それが出せなくて苦しんでいるのだ。じゃあ、それを出す手助けができるものがあれば、こんなにすばらしいことはないんじゃないか。
こうしてコーチングの魅力にはまりはじめた頃に、
てんつくマンの映画に出会って心打たれます。そしててんつくマンを富山に呼ぶイベントを向早苗さんと一緒に開催しました。
そんな時にたまたま、1年に2~3ヶ月海外を放浪しているという人に出会います。その人の生き方がめちゃめちゃおもしろいと思った下伏さん。
途上国のスラムに学校を建てるなどの活動をしているてんつくマンと、その海外放浪女性に触発され、仕事をやめて東南アジアに渡ります。
タイのバンコクに渡り、その後はカンボジア、ベトナム、ラオスに。てんつくマンの作ったスラムの学校や孤児院で日本語を教えるボランティアをしました。
カンボジアに渡った時は、初めてご先祖様に感謝の思いが湧きました。全く政治が機能していない国。政治家は自分の利益のことしか考えておらず、いつまでたっても国が発展して行かない。ボランティアの手がずっと必要な国。そう思うと、戦争で焼け野原になりながら、日本を見事に再建してきたおじいちゃんやおばあちゃんたちはなんてすごいんだろう。外に出て初めて日本という国のありがたさを痛感しました。
でも、そんな全然発展していない国でしたが、子どもたちの目はものすごく輝いていました。生きる力が満ち溢れているのです。
これはどうしたことだろう。あれだけ恵まれている日本の子どもは、あんな目をしていない。日本はどうして生きづらいんだろう…そういうことを思うようになりました。
そう思いつつも日本に戻った後は元の職場の結婚式場から声がかかって、またそこで働き始めるように。そうして2年近く忙しく働いていたものの、だんだん何のために働いているかわからなくなってきました。
そんな時、ある人から「1年後の今日死ぬとしたら、あなたは何をしますか」と質問されます。自分は残された時間で何がしたいだろう。「世界をまわりたい」と答えていました。「今やらないで、いつやるの」
そうか、今やるしかないか…
こうして、下伏さんはヨーロッパへ旅に出ます。
2ヶ月で14カ国を周りました。言葉で苦労して、電車のチケットを買えないこともしばしばありましたが、ヨーロッパは街並み、文化が素晴らしく、素敵だなぁと感じることが多々ありました。
特に印象的だったのはデンマークのコペンハーゲンです。デンマークは幸福度がとても高い国です。人々は本当に楽しそう。運河沿いではピクニックシートを広げた人々が楽しそうに食べたり飲んだりしながら歓談しています。今日は何か特別な日?と聞くと、毎日だよ!との返事。
デンマークは福祉がしっかりしているので、みんな将来への不安がなく、日々の生活がとても充実しているのです。それでいて、脳天気というわけではなく、人生を考える習慣が子どもの時からあり、何かあれば家族会議で自分の意見をしっかり延べます。子どもでも自分の考え、意見をしっかり持っているのです。
でもイタリアではみんなとってもいいかげん。サッカーの試合のある日は無断欠勤する人が続出!
しかし、そういういろいろな生き方を見たことで下伏さんは思いました。
世界には本当に多様な生き方がある。いろんな生き方をしたっていいんだ。◯◯らしくということに縛られなくてもいいんだ。
帰国後、東京であったコーチングスクールの説明会をいくつか聞いてから富山に帰ろうと思っていた下伏さん。けれど、その中のひとつ、
チームフローの話を聞いたときに衝撃が走りました。
そこでコーチングを受けた時に、「自分がどうしていいかわからないコーチに誰が話を聞きたい?」と言われたのです。
ちゃんと本格的にコーチングを学ぼう。
そう思って、富山に帰らず東京にとどまりました。そして平日はアルバイト、週末はコーチングスクールで勉強という日々を1年半続けました。
そんな時、スポーツを通して子どもを育てるという会社を見つけました。その会社の理念に共感し、採用試験を受けましたが、面接で落ちてしまいます。ショックでした。
いろいろな経験を積んできた。コーチングもしっかり勉強した。この経験が子どもたちには絶対役立つって思ってる。でも、不採用…
その後も仕事は見つからず、富山に戻ることに。…なんだか負け犬みたいでいやでした。
そんな時、またしても結婚式場から働かないかとのお誘いが。こうして同じ結婚式場に3回目の就職をします。
半年の間は仕事に終われ、コーチングもできない毎日でした。
しかしある日、チームフローの富山出身東京在住のコーチに富山でもやりたいから手伝ってほしいと持ちかけられました。こうして月1回くらいでワークショップを開催し始めました。
昨年の11月には自分の不登校の経験を生かして子育て中のお母さん向けにワークショップを開催しました。これはとても好評でした。
実は、このワークショップを作るに当たって、下伏さんは自分のお母さんにいろいろ話を聞きました。話をしながら二人で泣きました。思えば小4で不登校になった時からお母さんにはどれだけたくさんの心配をかけただろう。どれだけ陰で泣かせたことだろう。
僕は自分のことにせいいっぱいでお母さんにすまないと思っていても、それを伝えることができなかった…。
胸がいっぱいになりました。そして30歳で初めてお母さんに言えました。
「お母さん、産んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう」
お母さんは涙で光る目で笑いながら言いました。
「あんたは一生子どもだから、私の子育ても一生終わらないけどね」
コーチングで独り立ちしよう。本気でコーチにチャレンジしよう!
こう決心した下伏さんは、結婚式場をやめ、今は昼間はレストランで働きながら、コーチ力を磨く毎日です。
下伏さんの夢はコーチング・コミュニケーション!
自分はまともに生きられないと思っていた。でも、誰にでも必ず輝く部分はあるんだよ。その輝く部分を見つけるお手伝いをコーチングでやりたい。一人でも輝く人が増えて、その人がまた周囲の人を輝かせていけば、きっと日本は元気になる。
そう信じています。
そして、特に元気にしたいのはコミュニケーションの最小単位である親子。
外でどんなに心が折れても、家がホッと出来る場所であれば子どもは絶対大丈夫。
お母さんを輝かせたい。そうすれば親子で輝くことができる。
そう考えるとワクワクしてくる下伏さんなのでした。
個性を受け入れ、ちがうものを排除しない。とってもダイバーシティな考えの持ち主である下伏さん、7月28日のドリプラでは、どんな夢をプレゼンしてくれるでしょうか。
今、悩んでいるたくさんのお母さん、子どもたち、そんな人たちの悩みは切実です。
彼らの悩みは生半可な覚悟では聴けない。たくさん悩んでたくさんの経験をしてきた下伏さんだからこそ、引き出せる力があると思います。
富山の親子がみーんな輝いている。そんな素敵な未来を私たちも一緒に創っていけたら幸せです。