今日の人94.阿部美樹雄さん [2013年06月18日(Tue)]
今日の人は、社会福祉法人みずき福祉会町田福祉園ゼネラル・マネージャーの阿部美樹雄さんです。
![]() 阿部さんはゼネラル・マネージャーなのでGMと呼ばれる福祉の世界でも異色な存在で、障がい者福祉の世界の先駆者でもあります。 そして目前に迫った知的・発達障がい者福祉サポーターズ・ドリームプラン・プレゼンテーション2013の実行委員長でもいらっしゃいます。 阿部さんが生まれたのは秋田市。ご両親とも先生をされていました。母方のお祖父さんは馬車好きで街なかに馬車を走らせていた位に羽振りがいい人でした。ですからお母さんはどこに行くのも馬車という、大変なお嬢様だったのです。 阿部さんにはお姉さんがいるのですが、お姉さんも優秀な方で、秋田大に進んで教員になられました。さぁ、そうなると阿部一族で唯一の男の子美樹雄少年に期待が寄せられます。しかし、本人はそれを非常にプレッシャーに感じていました。運動も苦手で身体も弱い。それがますます自信のなさに拍車をかけていました。ご両親とも先生なので、同級生が父母の教え子ということも少なくありませんでした。美樹雄少年は他愛のないことでも、自分がいじめられているように感じることが多く、ずっとつらい日々でした。夢がない、さりとて不良にもなれない、そんな青春時代を送っていたのです。 そんな心を救ってくれたのが釣りだったのかもしれません。海がすぐ近くだったので、ゴカイを掘ってそれを餌に釣りをするのが何より好きでした。海で釣りをしている時は、嫌なことも忘れることができたのです。 こうして内向的な少年は高校時代まで秋田で過ごし、高校卒業後は東京の大学へ進学しました。はやく親元から離れたかった。自分の中では上京するのは合法的な家出だったのです。 でも、親と離れても20歳前後はとても苦しかった。自分がこんな風に内向きになったのは育ちのせいだ、母のせいだ!全部自分以外のもののせいにして苦しんでいました。それはなかなか出口の見えない光のない世界のようにも感じました。 そんな阿部さんの転機になったのは、病院の精神科の病棟でアルバイトをしたことでした。当時は精神科と言えば、窓には鉄格子がつけられ、まるっきり隔離された別世界のようでした。看護婦も精神科で働くことを嫌がり、慢性的に人手不足でした。その病棟で泊まりのアルバイトを始めたのです。それまで内向的でいつも何かあると母や育ちのせいにしてきた自分だった。でも、この場所ではちがった。心が動くのです。この病棟の中にいる精神を患っている人々と接していると、何かしら言いようのない感動があるのです。 もがき苦しんでいた自分を救ってくれたのが、精神科の病棟でのアルバイトだった。そして、そこへ導いてくれたのは、実は阿部さんのお姉さんでした。お姉さんは21歳という若さで帰らぬ人になってしまいます。その時お姉さんが付き合っていた人が臨床心理士で、阿部さんにその精神科の病棟でのアルバイトを紹介してくれた人だったのですから、人生とはどこに転機が待っているかわからないものですね。 阿部さんは最初経済学科でした。その頃は銀行員や商社マンが花形の時代です。でも、そういう仕事にはちっとも心が動かなかった。阿部さんが心動かされたのは、そう、精神科の病棟に入らざるを得なかった人々なのですから。 こうして阿部さんは心理学科に入り直します。そして臨床心理学を学ぶのに没頭しました。それはあたかも癒しを求めるかのようでした。 特に強く影響を受けたのは来談者中心療法を創設したアメリカの臨床心理学者カール・ロジャーズでした。カウンセリングの研究手法として現在では当然の物となっている面接内容の記録・逐語化や、心理相談の対象者を患者(patient)ではなくクライエント(来談者:client)と称したのも彼が最初です。ロジャーズの考えはこうです。 「人間には有機体として自己実現する力が自然に備わっていて、有機体としての成長と可能性の実現を行うのは、人間そのものの性質であり、本能である。カウンセリングの使命は、この成長と可能性の実現を促す環境をつくることにある。 自分自身を受容したとき、人間には変化と成長が起こる。カウンセラーは、クライエントを無条件に受容し、尊重することによってクライエントが自分自身を受容し、尊重することを促すのである。」 まるでメンタリング・マネジメントのようなこの考え方。“セラピーは在り方なのだ”それが強く心に響き、ロジャーズは心理学を学ぶ阿部さんにとって人生の神様とも思える臨床心理学者なのでした。 こうして心理学科で学んだ阿部さんでしたが、当時心理系の就職先は限られたものでした。心理系の公務員になろうと思ったら1,2人の募集に何百人もの応募者が殺到する狭き門です。 福祉の世界にも心理職があることを知った阿部さんは千葉県の公的な施設の採用試験に合格します。でも、最初は福祉の現場をとても乱暴だと感じました。阿部さんがずっとアルバイトをしていた精神科の病院で勤めていた人たちはみんなソフトで人当たりのいい人たちだったので、その差に驚いたのです。 しかし、福祉の現場の人たちはみんな福祉に限りない情熱を燃やしていました。最初はわからなかったけれど、だんだんこの人たちがステキに思えてきました。1年たつと現場の彼らの言うことがわかってきました。3年もしたら自分自身が情熱を持った乱暴者になっていました。 現場に入って業界内でいいと思える人にたくさん出会う中で、理想の入所施設のイメージが明確になってきました。どうやったら作れるか、試行錯誤しますが、なかなかOKをもらえませんでした。福祉は法律よりも先に存在している。福祉が法律を追いかけているようではダメだ。それが阿部さんの思いです。ですから、常に法律の前を走ってきたのです。 こうした想いを積み重ねて作ったのが「八王子平和の家」でした。阿部さんがこだわったのは、今までのような施設ではなく、家の集合体を作りたい、ということでした。まず厚労省は通りました。でも、東京都はダメだというのです。フェンスを高くしろ等いろいろな注文を出してきました。それでも基本設計は変えませんでした。各ユニットに玄関があること、みんなで食事が出来る場があること、職員が食事を作ること、家であるユニットを出て、外に仕事に行く仕組み。いろいろな新しい試みを取り入れました。 倫理綱領も全国に先駆けて取り入れます。本人からも徹底的に聞き取りをしました。その頃は人権問題がようやく取り上げられ始めた頃でした。ですから、阿部さんは講師としてシンポジウムに呼ばれたりしました。 けれども、そのシンポジウムの場で無性に腹が立ちました。他のシンポジストたちは、今の福祉の現場がいかにダメかということばかりを話していました。その事に対して怒りがこみ上げてきたのです。ここに聞きに来ている人たちは、今の現状をなんとかしたいという思いでそのヒントを得るために来ているのだ、それなのにダメだダメだと連呼されて士気が上がるわけがないではないか。 阿部さんは現場の人でしたから、現場の重要性、そして現場に関わる職員の想いの大切さを十分わかっていました。だからこそ、現場の職員にも支持されていたのです。 こうした中で「知的障害者の人権と施設職員の在り方」という本を書き上げました。やがて人権の人と呼ばれるようになった阿部さん。かつての虚弱な少年の面影はもう全くありませんでした。ひたすら突っ走っていました。 少しでも現場を良くしようと事例集も出しましたが、それはやがて発禁処分にあいます。こんなにたくさん事例があるのに都は動かないのか、その声を恐れてのことだったのでしょうか。けれど、さまざまな困難に遭いながらも阿部さんはめげませんでした。自分の信じる道を行く、それが正しいと信じて疑わなかったから。 しかし、立ち直れないくらいショックなこともありました。それは離婚でした。阿部さんにはお子さんが3人いらっしゃるのですが、シングルファーザーになったのです。眠れぬ夜が続きました。自分は業界の成功者だ!そんな高慢な心もありました。毎晩のように深酒をし、別れた元妻への恨みで悶々とした日々を送っていたのです。 そうした中で出会ったのがNLP (Neuro Linguistic Programming神経言語プログラミング)であり、メンタリング・マネジメントであったのです。 この出会いが阿部さんを変えました。味方も多いけれど敵もたくさんいた阿部さんは敵という存在などいない人へと変わったのです。自分はゆるゆるフニャフニャでいいのだ。全て任せきる。ただし、GMゼネラル・マネージャーとして、クレーマーには真摯に対応する。どんなクレームが来ても呼吸を合わせてじっくり話を聞くことで、逆に信頼を強くしてもらえることが多くなりました。 自分の軸が出来たことで、自分自身が落ち着いていられるようになったのです。もちろん、揺らいでとらわれることもあるけれど、そういう時は意識して変えることができるようになりました。 こうして人をますます惹きつけるGMとなった阿部さんは、その活躍の幅をますます広げていかれました。昔だったら出入り禁止にされていたであろうお役所関係から声がかかることもうんと増えましたし、人事院でキャリア官僚を相手に講師もしています。大学でも教えていますし、全国からも引っ張りだこ。本の執筆もあり、お忙しくて自分の時間などないのではないかと思いきや、趣味の釣りに出かけることも忘れていません。なんと今年の目標は30s級のマグロを3本あげることだとおっしゃいますので、とっても本格的なのです。 どうして阿部さんがこんなに輝いていらっしゃるのかというと、自分自身を大切に生きようと決められたからです。もちろん、歳とともに体力は落ちてきたけれど、自分自身の人生がすごくクリアになってきて、すごくおもしろくなってきたのです。そしてまだまだ伸びしろがあると思ってワクワクしているのです。 そんな阿部さんは、今年念願だった障がい者福祉のドリームプラン・プレゼンテーションを開催されます。それが、6月22日に開催される知的・発達障がい者福祉サポーターズ・ドリームプラン・プレゼンテーションなのです。 プレゼンターの方は今、寝る間も惜しんでプレゼンを作っていらっしゃいますが、それを支えるスタッフの方々が本当に一生懸命動いてくれる、それが何より嬉しいと阿部さん。ネガティブなことを言う人は誰もおらず、みんなが誰かのために頑張っている姿、そんな相互支援がドリプラの過程で作られていく。ああ、自分のやりたかったことがここに凝縮されているな、と感じるのです。 人の可能性を感じて今、ワクワクがとまらないと阿部さん。 そんなサポーターズドリプラの詳細はこちらです。実行委員長阿部さんの熱い想いも綴られていますのでぜひご覧ください⇒http://www.machidafukushien.com/machida_fukushi/ 日本の福祉発祥の地、滝乃川学園で行われるサポドリ、障がい者福祉の未来がここにギュッと凝縮されています。 こうして怒涛の日々を歩いてこられた阿部さんですが、なにがここまで阿部さんを突き動かしてきたのかと思い質問してみました。 「それはね、自閉症の人、知的障がい、発達障がいの人が大好きだから」と阿部さん。彼らの一生懸命さ、生きづらさの中で必死に自分の在り方を探している姿、決して嘘をついたりできない彼らの心の純粋さを見ていると、平気で嘘をつけるいわゆる普通の人の方がよっぽど障がいがあるんじゃないのかと私も思います。 みんなうまくいくんだよ。みんなが“ふつうの人”と呼んでいる人たちの関係とも何もかわらない。でも、彼らはいつも「ありがとう」を言われることがすごく少ない環境にいるんだ。だから僕は自閉の人になんでも頼むんだ。そしてありったけの「ありがとう」を言う。それが彼らの心にはとっても新鮮に入っていく…。 どちらかが支援するだけの一方的な立場ではないのです。福祉の現場もまさに相互支援の現場なのです。阿部さんのお話にはそんな愛が溢れていました。 阿部さんの想いの詰まったブログはこちら⇒http://www.machidafukushien.com/column/ そんな阿部GMの福祉への熱き想いを乗せたサポドリです。そして阿部さんと同じように熱いハートで福祉への夢を語るプレゼンターとそれを支えるスタッフの人たち。サポドリは日本の福祉の世界で語りつがれるイベントになっていくことでしょう。そして、阿部さんの夢もこれからもずっと続いていくでしょう。 私もまだまだやれることがいっぱいあるな、立ち止まっていられないな、そんなことを感じさせてくれた素敵なインタビューになりました。 |