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今日の人92.張本哲也さん [2013年05月30日(Thu)]
 今日の人は、有限会社新栄商事部長、ドリプラ千葉初代実行委員長、ドリプラ2012世界大会では感動大賞を受賞したぬまっちこと沼田聡さんのパートナーだった張本哲也さんです。
写真 12-09-15 16 35 38.jpg

 張本さん、愛称てっちゃんは1972年に千葉の市川で生まれました。3人兄弟の長男でしたが、小さい時は恥ずかしがり屋で、幼稚園の運動会でかけっこがあると、ゴールではなくお父さんやお母さんがいる観客席に走っていくような子でした。
 
家では1人遊びをするのが好きでした。当時大好きだったミニカーを50~60台並べて、ちょっとずつ進ませるのです。並べる順番もちゃんと決まっていたそうですから、そうとうこだわりがあったのですね。

 お父さんはダンプの運転手をしていました。しかし、オイルショックで仕事がなくなり、お母さんは家計を助けるために食べ物屋さんを始めます。そのお店に行って1人で遊んだり、家で1人で遊ぶ…それが幼稚園時代のてっちゃんの毎日でした。

 小学校に入ると鬼ごっこや缶蹴りなどをして外遊びもするようになりましたが、ガンダムなどのプラモデルを作るのも好きでした。集中してコツコツやることが大好きだったのです。図書室で本を借りて読むのも大好き。どちらかと言えば内向的だったてっちゃん。理科や算数が好きで、絵を描くのも得意。この頃美術クラブで部長を務めてしました。

 中学に入ると卓球部に入ったてっちゃんはまたもや部長に任命されます。しかし、技術的にはてっちゃんより上手だった子がそれに反発して、ランニングをしている時に勝手にコースを変えたりしました。そっちに付いていく部員もいて、部が割れたようになるのが嫌でした。内向的だった少年が外に意識を向けるには、相当な勇気がいったはずです。しかし、てっちゃんを部長に任命した先生はてっちゃんの中にある粘り強さや人間的な優しさをきっと見抜いていたのでしょう。

 中3の時、お母さんが子宮頸がんで入院しました。病室に行く度に弱々しくなっていくお母さん。本当に心配でした。
でも手術は成功し、元気になったお母さんを見て、てっちゃんは思いました。
「医者って尊い仕事だな。自分も大人になったら医者になって元気になる人を増やしたい」
そして、その中でも獣医か歯科医になりたい、そう思うようになりました。

 努力家のてっちゃんはコツコツ勉強し、成績は常にトップクラスでした。高校での模擬試験も、獣医学部や歯学部の合格ラインにいました。
「自分はこのまま大学に進んで獣医か歯科医になろう!」そう思って頑張っていた時に、待ったがかかります。

 てっちゃんのお父さんは、てっちゃんが小学校1年の時に、パチンコ屋を開いていました。ダンプカーの運転手だった時に、ダンプカーやショベルカーを置いておくために買っておいた土地の前にちょうど駅が建てられ、こんな場所を駐車場にしておくのはもったいないと思ったからでした。
 しかし、パチンコ屋をやっていくというのは、本当に大変な苦労があり、それこそお父さんは血を吐くような思いでなんとか商売を続けてきたのです。
 
 家族会議が開かれ、てっちゃんはお父さんに言われました。
「歯医者や獣医になるのはやめて、自分の店を継いでほしい」と…。

 親にそう言われてノーと言えるてっちゃんではありませんでした。
てっちゃんは医者になる夢を封印し、文転して経済学部を目指しました。
 しかし、それまでずっと理系の勉強ばかりしてきたので、一浪して、経済学部経営学科に入学したのです。

 大学ではゴルフ部に入り、キャディのバイトもしました。このバイトは楽しかった。
でも、授業もまじめに出て、単位はひとつも落とさなかったあたりは、さすがにコツコツ努力家タイプのてっちゃんです。
ただ、パチンコ屋を継ぐと決めていたので、就職活動は一切しませんでした。

 大学卒業後は実家とはちがうパチンコ屋さんで2年半修行をしました。パチンコをしたこともなかったてっちゃんは、お客さんに何か聞かれてもわからないことが多く、バカにされてしまうことがよくありました。上司も厳しく、怒られてしまうこともしょっちゅう。

 休憩時間や就業後はビルの屋上で寝転んで空を見上げながら考えました。
「お父さんはどうしてこんな仕事を始めたんだろう。僕は医者を目指していて、受かりそうだったのに、どうしてここにいるんだろう…」

 精神的につらい日々でした。このまま蒸発してどこかに行ってしまいたい、そう思ったことも一度や二度ではありませんでした。事実、大卒で就職した人はてっちゃん以外みんな辞めていきました。それだけキツイ仕事だったのです。
 てっちゃんを辞めさせなかったもの、それは「親に迷惑をかけられない」その一心に他なりません。

 こうしてつらい修行の日々を乗り越え、てっちゃんはお父さんに言われました。
「戻って来い」

 戻るとすぐに部長としての日々が始まりました。
お父さんの会社はお父さんが一代で築いた会社です。それ故、我流が多くて、会社としての仕組みができていませんでした。てっちゃんは仕組みを作っていこう、会社を大きくしようと努力して、少しずつ状況を変えていきました。

 それでも、いろいろな問題が起きます。信頼していた人に裏切られたりして、悩みました。何であんなことをするんだろう。常に相手にベクトルを向けていました。
仕事がちっとも楽しくなかった。数字を伸ばすことしか考えていなかった。

 そんな時に、大嶋啓介さんの「会社を変える日本一の朝礼セミナー」に参加する機会がありました。居酒屋てっぺんの朝礼に参加してお店に入って感じました。スタッフがみんなイキイキと輝いているのです。はっとしました。
 自分は数字を伸ばすことばかり考えていた。でもそれじゃあ、ダメだ。スタッフが輝ける職場にしないとダメなんだ。

 こうしてスタッフと一緒に朝礼に参加したりして、お店のスタッフが輝くにはどうしたらいいのかを考えるようになりました。

 でも、一緒に出会った人たちは変わっていくのに、自分はちっとも変わっていかないと焦ります。自分にはリーダーシップがないんだ。子どもの頃から人を引っ張っていくのが苦手だった。こんな自分はどうやって変わればいいんだろう。

 そんな時に、大嶋啓介さんの師匠、福島正伸さんの講座に出たのです。
そこで、いろいろなタイプのリーダーに出会いました。その中には全然引っ張らないリーダーもいました。でも、その人はひたすら愛を注ぎ続けてスタッフを輝かせていました。
ああ、無理に引っ張らなくてもいいんだな。そう思った時、肩の力がふっと抜けたように感じました。

 パチンコ屋の仕事は、なかなか“ありがとう”を言ってもらえない仕事です。どうしたらスタッフがこの仕事に誇りを持って働けるようになるだろう。てっちゃんはいろいろ考えて、スタッフと街の掃除をしようと考え、それを実践するようになりました。
そして、会社の感動ムービーを作成しました。このムービーを作ったことによって、スタッフとの絆がぐっと縮まりました。

 しかし、それに反比例して、お父さんとは意見が合わなくなっていきました。お父さんには自分が会社を作ったという自負があります。チームワークよりもリーダーシップだ、というタイプのお父さんとてっちゃんには隔たりが出来てしまい、てっちゃんはお父さんとあまり話さなくなってしまいました。

 そんな時、お父さんが不慮の事故で突然亡くなってしまったのです。

 屋上に上って泣いて泣いて泣いて…いくら泣いても涙が止まりませんでした。
『なんでお父さん、なんで…』

 てっちゃんはお葬式の時に、改めてお父さんの偉大さを知りました。お父さんはてっちゃんの知らない所で、いろんな人のお世話をしていました。本当にたくさんの人がお葬式に来てくださって、てっちゃんに言うのです。「お父さんにとてもお世話になったから、何かあったら言ってね」
 そんなたくさんの声を聞いて、てっちゃんは決意しました。
「お父さんの作った会社で仲間を日本一幸せにしたい、いや、幸せにしよう!」
お通夜には地域の人もたくさん来てくれた。だから地域にも恩返しをしていきたい。

 こうしててっちゃんは、お父さんが亡くなった翌年に、千葉で初開催のドリプラの実行委員長になったのです。自分が生まれ育った千葉を、お父さんが愛した地元を元気にしたい、そう心から思ったのです。

 始めは仲間もほとんどいませんでした。
てっちゃんは、「夢」という検索ワードでひっかかった会社に片っ端からメールを送りました。そして会ってくれる人には一人一人会いに行きました。
 こうして、てっちゃんの姿勢に心を打たれた人がたくさん集まり、最終的にドリプラ千葉のスタッフは100人にも膨れ上がったのです。
 そして震災を挟んで2回、ドリプラ千葉で実行委員長をやり遂げたてっちゃんなのでした。

 今、てっちゃんが楽しいことは、会社で働いているスタッフが幸せになってくれることです。
 そして会社を日本一幸せな会社にすることがてっちゃんの夢です。
 ぱちんこ情熱リーグで優勝することも夢の1つです。

 そんなてっちゃんですから、仕事時間は半端なく帰宅時間はいつも朝の4時頃。平均睡眠時間は3時間という激務の毎日です。それでも、疲れたと感じることはあまりなく、充実した毎日を送っています。仕事に関しては常に本気。本気というのは命をかけることだと思っています。たとえ命が尽きても会社をよくしたい!てっちゃんはそんな熱い心の持ち主です。

 でも、てっちゃんは8歳と4歳のお嬢さんのお父さんでもあります。普段あまり遊んであげられないので、行事に関しては100%参加している優しいパパなのです。

 誰に対しても優しく、大きな愛で包み込んでくれるてっちゃん。そんなてっちゃんにはたくさんの仲間がいます。てっちゃんが無償の愛で接してくれるので、てっちゃんのためなら何でもしたい、という人がたくさんいるのでしょうね。
 
 パチンコの仕事に誇りを持って、命がけで仕事をしているてっちゃん。心はどこまでも優しく、行動はどこまでも熱い、本当にステキな人なのでした。

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ぬまっち沼田 聡さんと一緒に
今日の人91.浦山 守さん [2013年05月23日(Thu)]
 今日の人は、かつて大手広告出版社やコンサル会社、上場企業の管理職、一般社団法人RCF復興支援チームで仕事をこなし、今は富山大学医学部の現役医学生という浦山 守さんです。
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 浦山さんは仲間からマックと呼ばれていますので、ここでもマックさんでご紹介したいと思います。

 マックさんが生まれたのは富山市の岩瀬ですが、岩瀬にいたのは3歳までだったのでその頃の記憶はほとんどありません。ただ、お兄さんに連れられて雪遊びに出かけていたことだけ、うっすらと覚えています。
 
3歳からはずっと横浜に住んでいました。子どもの頃から正義感が強く、正しいと言われていることを正しくやりたいと考えていました。責任感が強く、自意識過剰な子どもだったとマックさん。でも、常に学級委員に選ばれていましたし、きっと本当に正義感が強く、クラスの先生からいつも頼りにされる存在だったのでしょう。その頃の憧れは修験者でした。俗世を捨てて己の理想に生きる、そんな生き方に子ども心に憧れていました。
ただ小学校6年生になると夢は国会議員へと変わります。現実的に世の中を変えていくにはやはり政治家になるのがいい、そう考えた正義感に燃える少年なのでした。

中学生になったマックさんはバレーボール部に所属。中1になると夢は哲学者になりました。本を読むのが大好きで思索に耽るのが大好きだった少年にとって哲学者はうってつけのように思えました。しかし、哲学者じゃ食っていけないぞとお兄さんに言われ、中2の時に、読んでみろと渡されたのがアインシュタインの相対性理論。それを読んで感動したマックさんは、物理学者になろうと思い始めます。

こうして桐蔭学園高校に進んだマックさんは、高校では文化祭の実行委員等で活躍し、現役で東京大学の理科二類に合格。ここでマックさんはお兄さんにまた相談します。勉強は自分の中でそれなりにやりきった感がある。なにか他に集中するものはないだろうか?と。お兄さんはそこで言います。「じゃあ、ボート部に入ったら?」

実はお兄さんは一橋大学出身でした。東京大学・一橋大学対校競漕大会は、東京大学では「東商戦」、一橋大学では「商東戦」と呼びならわしていて、今年で65回目の大会を数えたという伝統の競漕大会なのです。ちなみに「商」の文字は、一橋大学の前身である東京商科大学からとっています。

お兄さんの言葉通りにボート部に入部したマックさん。そして大学にはほとんど行かずにボート部の活動に打ち込むようになりました。東大ボート部は戸田オリンピックボートコースに合宿所を持っていて、1年のうち350日はそこで合宿生活でした。365日のうち350日なんて、ほとんど毎日と言っても過言ではないですよね。
当初、理学部物理学科を考えていたマックさんはそこへは進まずに教養学部へ。

当時はボート部の部員の間では大学に行ったら負け、自分で考えろ、考えてボートで実践しろ、というような風潮があり、大学に行くのは履修届を出す時とレポートを提出する時位だったのです。マックさんも忠実に?それを実践。2年生までは選手としても活動していたのですが、3年生以降は主に部の運営の方を担うようになりました。日々の合宿所の管理、3000人入学してくる新入学生からボート部に入る20人をいかにして見出すか、海外遠征に行く際のコーチとの交渉、課題が目の前にたくさんあり、それをクリアしていくことが勉強より楽しくなります。そちらに熱が入りすぎてしまって1年留年してしまったということはありましたが、それらの課題に向かって行く中で確実にマネジメント力をつけていったマックさんなのでした。

そんな中で、自分は対人関係の仕事が向いているようだ、と思うようになります。こうして就職活動はコンサルの仕事が出来るところを考えました。老舗外資系コンサルティング会社に内定しましたが、ボート部の親友に、某広告出版社はおもしろいから受けたら?と言われます。

その広告出版社の面接は常にwhyを尋ねられました。通り一遍の面接ではなく、深いところまでとことん聞かれるのです。マックさんは最終面接までいきましたが、最終面接の時、マックさんの一番触れられたくない部分、小さい頃から正義感を持って行動してきた部分について掘り下げられました。それは偽善者的な行動じゃないの?単に自分をよく見せたいだけじゃないの?そこでカッとなってしまって面接の担当者とケンカになってしまったマックさん。しかし、後になって、なんであんなに怒ったんだろう、彼の言ったことは図星ではないか、そのことを謝りたいと思って連絡を取って会った所、第一声が「ここに来るんだろ?」でした。入社するつもりはなかったのに、思わず「はい」と言ってしまったマックさん。かくしてその広告出版社へ入社することが決まったのでした。

最初の仕事は住宅関係の広告を取る仕事でした。しかし、全く興味がもてなかった。
自分の中には仕事に対する思い込みがありました。何かのために使命をもって働くのが仕事だとそう思っていました。しかし、ある先輩に言われます。「なに甘いこと言ってんだ。自分が飯を食うために働くんだろ」
そうすると『この人は理想のないダメな人だ』と心のなかで軽視する自分がいました。

そんな思いで仕事をしているので、仕事は失敗続きでした。ひとつひとつに代償があるくらい大きな失敗をして学んできました。
フロアに2時間正座させられて怒られたこともありました。「やめちまえ、お前なんかどこに行っても使い物にならん」そう怒鳴られたこともありました。

でも、そんな中、マックさんの直属の上司だけは決してあきらめずにいてくれました。時には今では信じがたいような厳しい指導もありましたが、何があっても自分を信頼してくれました。
振り返れば、自分は子どもの頃から勉強という軸で生きてきた。東大は知的におもしろいし、部活は僕らだけが楽しめる面白さに満ちていた。しかし、社会人になって初めていろんな人に出会った。自分の知らなかった世界をたくさん知った。その多様な価値観の中で、ようやく仕事の面白さを感じられるようになっていきました。

そんなある時、クライアント企業の方が仕事の出来栄えを大変喜んでくれて、マックさんを会社の忘年会に呼んでくれました。いちばん喜んでくれたのはずっと信頼してくれていた先輩上司でした。「お前、良かったなぁ」と言って、先輩に抱きつかれたのを今でも鮮明に覚えています。“信じたものをずっと信じる”貫き通す姿勢を先輩が見せてくれました。

その後、マックさんは研修のパッケージを売る分野に移りましたが、その仕事をやっていく間にパッケージでは対応できないラインにぶつかるようになりました。そして、どんなに対応を変えても結局社長が変わらないと何も変わらないとの思いに到達します。

経営者を変えないとダメだ!そう思ったマックさんは、コンサル会社に転職します。
コンサルとファンド、多角的な視点で次々に業績も上げていったマックさん。
企業への長期支援、経営人材派遣、イシューの特定、マネージメントシステムの構築。
仕事はどれもとてもおもしろいものでした。マックさんは問題があると嬉しくなるタイプです。難しい課題があると、なんとかそれをクリアしようと、とてもハッピーになるんだとか。

 しかし、どんなに綿密に組み立てて仕事をしても、結局は経営者の思いつきや欲で全てが判断されることも多々あるのです。決して理知的には判断していない場面に多く遭遇して、これを変えるには自分が経営者になるしかないのでは…と感じるようになってきました。でも、小さい時からマックさんの行動基準は正義感でした。
 
自分には経営者としての欲がない、人から求められたことは完璧に近くやるけれど、僕が心からこんな経営をしたいと考えたことがない。
 …自分は社長になるというのはちがうな。
 
 今の仕事が楽しくないわけじゃない。やりがいももちろんある。でも、このままいくと幸せかもしれないけれど、それは心からの幸せなんだろうか?
僕が本当にやりたいことはなんだろう?

小さい頃からの正義感は借り物であったとしても、でも自分の中では本物なのだ。
善行をしたい、人の役に立ちたい、このずっと抱いてきた想いを満たす仕事はなんだろう。

マックさんは再びお兄さんに相談します。マックさんは人生の節目の時はいつもお兄さんに相談しているのです。

マックさんのお兄さんはお医者様になっておられました。そうして、人と接するのが好き、子どもが好きな自分は小児科の医師になろうと決意します。決意した所で30歳を超えていてまた勉強をやり直すというのは並大抵のことではありませんが、そこは東大に現役合格したマックさんのことですから、仕事をしながらきっちり受験勉強をし、見事富山大学医学部に合格したのでした。しかもマックさんがすごいのは、その受験勉強と一緒にしていた仕事というのがそれまでしていたコンサルの仕事だけではなかったということです。受験勉強をしながら上場企業で管理職もしましたし、RCF復興支援チームで復興支援事業を通してNPOや一般社団法人という団体と初めて接しました。でも、そういう経験ができたことにとても感謝しています。なぜなら、そういう人々と接したことで地域社会がそのまま元気に「ある」ということはどういうことなのか、という問題を始めて考えるきっかけを貰ったからです。

かくして医学生になったマックさん。
これからは医療の経営の質も当然問われる時代。そこで自分のコンサルの能力も役に立つにちがいない。

自身の生き方のスタンスは医者でいい。でも、治った後にどうかかわっていくか、そのスタンスは問題解決屋であり、コンサルタントでありたい。その結果、僕はどうなっていくのか?何者かになるのか?何者にもならないのか?
金持ちとか有名人とかではないけれど、何者かになりたい、今はそう思っています。
人にまじわる仕事がしたい。問題解決できる仕事がしたい。それが出来る医者になりたいという正義感あふれるステキな方なのです。

今、マックさんは大学の山岳部で山登りをすることもとても楽しい時間です。東大時代に夢中になったボートが今は山になりましたが、ワクワク感は変わらずに持っています。
そして、医学部の勉強も今はとても楽しい。専門性のある勉強は、確かに大変だけどやりがいは深い。

こんな風にたくさんのワクワクを持ちながら、富山での生活を送っているマックさん、
その明晰な頭脳と熱いハートで、きっとステキなお医者様が誕生することは間違いなさそうです。コンサルの目を持ち、まちづくりのことまで相談できるステキなお医者様に会えるのもそう遠くはないことでしょう。その日を楽しみにしています。

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RCF復興支援チームで活躍していた時のマックさん
今日の人90.猪瀬祥希さん パート.2 [2013年05月14日(Tue)]
パート.1から続きます。

 ゲーム開発部門から外され、1人で新規事業を立ち上げる1人部門になったいのっちさん。でも、いのっちさんは新たな仕組みを作り出していくのが本当に得意でした。そして5年後には年間10億円近い売り上げを出すようになっていたのです。
 
 やがて、いのっちさんの上に外部から来た役員がつきました。2人の間は、売り上げが上がるにつれて溝が深くなっていきました。この役員との対立が元で、いのっちさんはパニック障害を発症します。
朝、電車に乗る時に手に汗をかく。会社についてエレベーターに乗ろうとするけれど、エレベーターのボタンが押せない…。

 いのっちさんは社長に言います。
「会社に行けなくなりました」
 いのっちさんは部長職から外されました。そして2週間会社を休みました。
 
いろいろなことを考えました。父の暴力、それによるトラウマ…。社長との出会い、ゲーム開発。仕事をしながらの高校、大学生活。次々に生まれたヒット商品。部下を追い込んだ自分。上司との対立、パニック障害になった自分…。自分はどう生きていくべきなのか…。

 その後は子会社に行って、またチーム1人でした。そこでも、新規事業の立ちあげはやはりうまくいって、また成功を収めます。
 いのっちさんはここで確信します。ああ、自分はやはり新しいものを作っていく過程が好きなのだ。

 実はパニック障がいを起こす前から、いのっちさんはお父さんに対してのトラウマを消したいと思い、カウンセリングに通ったり、自ら産業カウンセラーやコーチングのコーチの資格をとったりしていました。チームビルディングやファシリテータ−の勉強もやりました。なにしろ、凝りはじめたらとことんやらなければ気が済まない性格です。そうして、たくさん学びましたが、自分の夢は何かと問われると、ずっと答えられずにいました。

 いのっちさんが子会社に行って3年経った時、いのっちさんを取り立ててくれた創業者である社長が亡くなりました。
次の社長は、彼が高校生の時にいのっちさんがパソコンを教えてあげていた、創業者の息子でした。

 いのっちさんは本社に呼び戻されます。
 しかし、その頃社内ではいろいろな問題が起こっていました。詳しい経緯はここでは省きますが、いろいろあって、会社は合併します。

 いのっちさんは新会社で執行役員でしたが、合併に伴い降格しました。
 このままずっとこの状態なのか…そう思った時に、起業という言葉が浮かびました。でも、社内で新規事業を立ち上げるのは慣れていたけど、起業ってどうやってやるんだ?

 こうしていのっちさんは福島正伸さんの起業家スクールに通うことにしたのでした。実は福島さんに出会うことになったきっかけは、ひすいこたろうさんでした。ひすいさんの名言セラピーのイベントなどを企画していく中で、福島正伸さんの存在を知ったいのっちさんは福島さんのスーパーアントレプレナー養成講座を受講します。

「起業家は、どうしても実現したい自分の夢を持っているものです。あなたの夢は何ですか?」
でも、自分を掘り下げれば掘り下げるほど、自分が何をしたいんだろう、それがわからなくなりました。
『こんな苦しい状況におかれても今の会社をよくしたいと思っている自分がいる。いや、でもここにいても…。いったい自分は何がしたいのだ。自分の夢はなんなのだ…』

 そんないのっちさんに福島さんから、人の夢を応援することを提案されます。

 はっとしました。自分は人が何かしたいということを手伝うのはすごく楽しい。
誰かを応援して、その人が幸せになってくれるのはとってもワクワクするのです。
そういえば、昔からサプライズの仕込みをするのは楽しくて大好きでした。

 ゲームを開発している時も、1人で残って徹夜して作って「え?もうできてる!」と驚かれる瞬間は超ワクワクしました。 サプライズを仕掛けて、びっくりした後の笑顔を見るのがたまらなく好きだといういのっちさん。
 コーチングのセッションの後に、「あ!」と何か気づいた顔をしてくれるのを見るのも同じように大好きです。
誰かの夢を応援するのが今の自分の夢なのだ…そう思ったいのっちさんは決意しました。
起業しよう!そしてみんなの夢を応援しよう!

 こうしていのっちさんは2013年5月、新会社を設立しました。
会社名は「パーソナルハピネス株式会社」なんだか社名を見るだけで、幸せが溢れてくる感じです。

 30年勤めた会社を辞める時は不安だらけでしたが、今は自分のやりたいことを思い切りやるぞ!というワクワク感でいっぱいです。

 新会社においてまずやろうと思っていることは、ゲーム会社専門のコンサルタントです。やはり30年間お世話になったゲーム業界に恩返ししたい、その思いが強いのです。そして、経営コンサルというよりは、自分のリソースを使って開発チームをよくしていきたいと考えています。いのっちさんは、コーチング、カウンセリング、プロジェクトマネージメントという3つを組み合わせて、超ワクワクチームを作ろう!そう思っているのです。

 もちろん、今はチーム一人です。でも、いつも一人から素晴らしいものを作り出して来られたいのっちさんだもの。きっと一人、また一人と仲間が増えて、すばらしいチームが構築されていくことは疑いの余地がないでしょう。

 もちろん、写真の腕を生かすことも忘れてはいません。プレゼンをワンストップで作ることも手がけていこうと思っています。
 コーチングやカウンセリングによってストーリーを描き、それに合った写真を撮り、動画を編集する。そういう一連の作業がやれるのもいのっちさんの強みです。その強みを生かしたプレゼン作りを手がけていきたい、そう思っています。
 
 今はこれから始まる新生活に向けてワクワクが止まらないいのっちさんなのでした。

 凝り性のいのっちさんは釣りや自転車の趣味も半端ではありません。自転車は部品から組み立てるほどです。釣りのために一級船舶の資格も取りましたし、テニス、ゴルフ、スキーの腕も半端無いのです。ドラムを叩いたり、サンバチームに所属して浅草サンバフェスティバルに出たり、とにかく興味の幅は広く、しかもやり始めると趣味という領域で終わらないのがいのっちさんのすごい所。

 でも、やっぱりいちばんワクワクするのは、誰かの笑顔を見たり、誰かが夢を実現に近づけるお手伝いをすること。
 ゲームをずっと作ってきた技術者としては物事を楽しくしたいという思いはもちろんあるけれど、今は、物事よりも世の中を楽しくしたいという想いの方が強い。だからモノではなく、人に焦点を当てた会社を立ちあげられたのですね。

 これからもとびきりのサプライズでみんなをあっと驚かせるであろういのっちさん、どうぞそのステキな笑顔でたくさんの夢を応援してあげてくださいね。
そしていのっちさんの新たな船出を、たくさんの仲間がこれからもずっと応援し続けることでしょう。私もその末席に加えていただければ幸いです。

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いつも笑顔のいのっちさん

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サプライズ好きのいのっちさんが送ってくださった写真集
今日の人90.猪瀬祥希さん パート.1 [2013年05月13日(Mon)]
 今日の人は、30年勤務されたゲーム会社を退職されて「パーソナルハピネス株式会社」という会社を立ち上げられたばかりの猪瀬祥希さんです。猪瀬さんはドリプラ2012世界大会ではカメラマンとしても大活躍!サプライズ好きな猪瀬さんは、私たちプレゼンターのために写真集を作って、2012年のクリスマスに届けてくださいました。そういう心憎い演出が得意なとっても素適な方なのです。
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 猪瀬さん、通称いのっちさんは昭和41年に東京墨田区で生まれました。小さい頃は病弱ですぐに熱を出していました。幼稚園の時は男の子と遊ぶより、女の子と遊ぶことの方が多かったそうです。
 
 お父さんは7人兄弟の長男で、祖父母と父の兄弟も一緒に狭い平屋で10人で暮らしていました。そのお父さんはすぐに手が出る人で、幼い頃いのっちさんは事あるごとに殴られていました。周りに大人がいっぱいいるのに、みんなお父さんが怖くて誰も助けてくれない。お母さんは家事全般を任されて10人家族のまかない状態でかまってくれない。その日いかに殴られないようにするか、そのことばかりを考えていました。

「ぼくはなんで生まれてきたんだろう」
まだ少年のいのっちさんがそう思わずにはいられないほど、暴力は身も心も蝕んだのです。

 いのっちさんは小学校5年生までプールに入れないくらい病弱だったのですが、野球好きだったお父さんに半ば強制的に野球をやらされていました。
 
 いのっちさんが心ときめいたのは、そんな野球ではなく、ものを作ることでした。小さい時からプラモデル作りが大好きで、小4でハンダゴテに出会ってからは、家中の家電製品を分解し始めました。これはどういう構造になっているんだろう。そうやってモノの構造を調べることが面白くて仕方ありませんでした。テレビって何で映るの?テレビを分解して感電したこともあります。
 
 こうして部品を組み合わせれば何か作れることを体得していった少年は自転車で30分かけて、秋葉原に電気部品を買いに通うようになりました。
 ある日、そのお店に「マイコン」なるものが置いてありました。

「これは何?」と問う小学校5年生のいのっちさん。
「ゲームが作れるんだよ」とお店の人に言われた時、ドキドキしました。ゲームが作れる?
まだまだマイコンを触れる人などいない時代です。お店の人はいのっちさんに展示品を触らせてくれました。こうして、お店に通って日曜毎にゲームソフト作りをするようになります。
 
 いのっちさんは小6の時には、お店で大人相手にプログラム講座を開くまでになっていました。わからないことは徹底的に調べて自分で答えを見つける。そうやって仕組みを知るのがたまらなく好きでした。

 中学生になると体もずいぶん強くなってきました。
 中1の時は、卓球部に入り、中2では美術部、3年はサッカー部と学年ごとに部活が変わりましたが、なんでものめり込む性格のいのっちさんは、始めたことは、とことんやってしまうのでサッカー部では部長として活躍するまでになりました。その頃ちょうど流行っていたのが3年B組金八先生。いのっちさんもその時代の影響を受け、ちょっぴりヤンキーっぽかったようです。
 
 実は中学校に入ってから、コンピューターのプログラミングには興味をなくしていたのですが、中3の時、大松くんという普段は全くしゃべらない人が声をかけてきました。
大松くんは「パソコン」と一言だけ発しました。そうして、大松くんの家に行ってみたところ、なんと大松くんの家には当時大変珍しかったパソコンがありました。
 学校では話さないけれど、自分の家ではよく話す大松くん。
 いのっちさんはこうして大松くんの家でパソコンに触れる中で、ゲーム作りを思い出しました。

 高校はサッカーの推薦で進学しました。(1年しかサッカーをやっていないのに、そのサッカー推薦で高校に行っちゃうなんて、すご過ぎます!)
 しかし、当時の体育系の高校は、体罰が当たり前の時代でした。いのっちさんにとって、体罰は父親を連想させるものでした。学校でも体罰、家でも体罰。もう、限界はとっくに超えていました。家にも学校にも居場所がありませんでした。
 
 そうして、高校を半年で中退し、家も飛び出してひとり暮らしを始めました。もちろん親の援助を受けているはずもなく、なんとかして働かないと食べていけません。
 ゲームが好きだったので、「ゲームセンターの店員になろう!」…そう考えて、ゲーセンのバイトの面接に行きました。それでも、高校中退のいのっちさんを雇ってくれるところはなかなかなく、4件目くらいにようやく採用してくれるところが見つかったのです。
 そしてここで採用になったことが、いのっちさんの人生を大きく変えることになったのです。

 採用になった後、いのっちさんがゲームを作れることを知った店長が、一度社長に会ってくれと言います。その頃はまだまだゲーム開発者が珍しかった時代です。社長に会ったいのっちさんは、その才能を高く見込まれて開発部に抜擢されました。そして次々に新しゲームを開発して会社の売上をどんどん伸ばしていったのです。

 やがて現場のトップになったいのっちさん。ある日社長に言われます。「今からうちの会社は一部上場する。一部上場企業になれば、大卒の新卒を採用するようになる。今からでも遅くない。大学へ行け。」
 こうして、仕事をしながら通信制の高校で学び、大学にも進学したのでした。

 いのっちさんはその後もどんどん新しいゲームを開発して、大きな結果を出し続けました。「会社の中で自分よりできる人間はいない!」そう思っていました。完璧に指示命令型の人間だった、といのっちさん。誰もいのっちさんに文句は言えませんでした。
「なんで出来ないんだ!」そうやって部下を追い込み、会社を去ってしまう部下は、一人や二人ではありませんでした。

 ある日、社長から呼ばれます。
「猪瀬とは仕事をしたくないとみんな言ってるぞ」
 こうして、ゲーム開発部門から外されてしまったのです。
でも、ゲーム開発部門から外されるというのは、いのっちさんにとっては自分を否定されたと同じ事でした。

『こんなに会社に尽くしてきたのになぜ…』
やりきれない思いでした。でも、自分が悪いとは思わなかった、いえ思いたくなかったのです。


パート.2に続きます。