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今日の人77.綿貫里美さん [2012年11月30日(Fri)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターであり、オーストラリア、パロネラパークの現地ガイドとして活躍中の綿貫里美さんです。
satomi watanuki.jpg

 里美さんは群馬生まれの群馬育ち。小さい時はとっても泣き虫で、なかなかお母さんから離れられない子でした。小学校時代はピアノやソロバンを習っていたので、その先生になるのが夢でした。でも、その頃とっても好きだったのは遺跡の本を読むことでした。エジプトのピラミッドの本をワクワクしながら読みました。いったいどうやって人がこんな遺跡を作ったんだろう?考えれば考えるほどワクワクしました。
 
 小学校4年生まではとても活発だった里美さん。でも、5年生になって男の子を意識するようになると、とたんに静かになりました。まだまだあどけない周りの女の子から見ると、随分大人びた印象でした。
 いつも学級代表に選ばれて目立ってしまうのもとても嫌でした。運動神経が抜群で長距離走でもぶっちぎりで一位だったのですが、そのことで陰口を叩かれるのが嫌で、5,6年生の時は、故意にペースを落として、わざと負けていたのです。

 中学校でも陸上部に入り、市ではいつも入賞していました。その為県合宿にも参加する位の実力!目立つのは嫌いでしたが、その一方とにかく負けず嫌いだったので、記録のために食事制限までするくらいでした。競技中、興味本位で写真を撮りに来る人もいて、写真を撮られたりするのがすごく嫌でした。その事で先輩から目をつけられるのも嫌でした。とにかく先輩から目をつけられないように、目立たないよう目立たないよう振る舞っていました。ですから、学校はつまんないなーと感じる中学生時代だったのです。

 高校時代も特に夢もなく、とても地味に過ごしました。このままいくと人生つまんないな、と感じていました。
 でも、世界史だけはすごく好きでした。資料集や図鑑を見ているとワクワクして時間がすぐに過ぎました。「やっぱり私は遺跡の勉強がしたい、それが一番心が踊ることだもの。」
ピラミッドの研究者、吉村作治さんに師事したい!そう思って吉村さんの大学(W大)を受けますが、ダメでした。とても浪人まではさせてもらえそうになかったので、興味のない短大に入りました。そうしてヤル気がないまま学生時代を過ごします。彼氏と遊ぶか、友だちと遊ぶか、そうやって遊んでばかりで、就職活動さえろくにしませんでした。
 
 でも担当教官から、一社だけ就職試験を受けてくれと言われ応募だけはしておきました。面接試験の通知が届いていたのですが、ちょうどクリスマスで浮かれていて封さえ開けませんでした。年が明けて、単位がギリギリでなんとか卒業できることになった頃、先の会社から6次募集をしているから受けませんか、という案内が届きます。そこは地元の大きな電気系の会社。卒業後のことは何も決まっていなかったので、とりあえず受けておこうかと思って受けたところ、10人の中の2人に残ってなんと合格。
 
 最初配属された部署では作業服を着なければならず、それがとても嫌でした。次に配属された部署では作業服を着る必要はありませんでしたが、他の女子社員150人と同じ仕事はしたくなかった里美さんは図面を描く勉強を始めます。そこで負けず嫌いの性格に火がつき、真剣にCADの勉強を始めました。そしてCADの技術を身につけた里美さん、図面を描く仕事をはまってやっていました。

 しかし、入社から7年以上の時が過ぎ、おもしろいけど何か満たされない、そう感じていました。里美さんが心から満たされるのは、タイ、ベトナムといったアシアのいろいろな遺跡を訪ね歩いている時だけでした。カンボジアのアンコールワットでは1日中ここで遺跡を見ていたい、心からそう思いました。そこで韓国の男の子に声をかけられた時に、「あさって」という英単語が出てこず、自分の英語力のなさが悔しくて、帰国してから英語の語学サークルに通い始めます。その時に初めて「ワーキングホリデー」という制度があることを知りました。ずっと座り仕事で腰痛がひどくなっていたこともあって、仕事を辞めてワーホリに行く事を決意します。

 群馬は海がないので、行くんだったら海のあるところ、と考えオーストラリアを選びました。でも最初は楽しいことよりつらいことばかりでした。英語を話す機会が思っていたより少なかったし、仮に話したとしてもあまり通じなくてコミュニケーションできないことが情けなかった。「私、会社を辞めてきたのに、何をやってるんだろう…」

 そんな時に遊びに出かけたパロネラパーク、里美さんにとっては運命の出会いでした。
パロネラパークはホゼ・パロネラという人がスペインからの移民でオーストラリアに26歳のときに渡り、自分が稼いだお金を元に42歳から作り始めて、幾度の困難を乗り越えて完成させたお城です。まさに夢で作られたお城、里美さんはそう感じました。
 ホゼは何年も何十年もあきらめなかった。私はたかだか1年もたたずに何でこんなに落ち込んでいるんだろう。人間ってこんなに可能性があるんだ!私も自分を信じてオーストラリアでやってみよう!
 世界各地には様々な遺跡があるけれど、どんな人がどんな思いで作ったかに一番焦点を当てているのはこのお城だけです。里美さんは必死にオーナー夫妻に頼みました。私をここで働かせてほしい!と…。
 
 オーナー夫妻は里美さんの熱意にほだされました。そして初めての日本人スタッフとして里美さんを受け入れました。オーナー夫妻も、ホゼの想いに賛同してくれる人を探していたのです。そしてまさしくその想いに共感した里美さんを雇ったのでした。
 こうしてパロネラパークは里美さんの尽力もあって、ケアンズで3番目に有名な場所になりました。今では日本人スタッフも4人に増えています。里美さんはどうやってホゼが夢を叶えていったかをガイドしながら、いつも鳥肌が立つといいます。そして最後に必ず聞きます。「あなたの夢は何ですか?」

 そして震災後に始めたのがドリームレタープロジェクトでした。詳しくはホームページhttp://www.paronellapark.com.au/japan/kids-activity-letter.htmlを見ていただきたいのですが、これは、里美さんが日本の小学校を回って、パロネラパークの夢のストーリーを語り、子どもたちが自分の夢の手紙を書いてそれをパロネラパークに送り、そこに夢の刻印を押されて日本に戻ってくるというものです。「夢をあきらめなければ、お城だって作ることができるんだよ、だからみんなの夢だって絶対叶うんだよ」それを日本の子どもたちに伝えたい。そして、それが里美さん自身のドリームプランです。

 自分を殺して感動をすることをあまりせずに過ごした小学校高学年から大学までの時間、心からワクワクできなかった。でも、今はちがいます。夢に向かって、いつも感動しながら毎日をせいいっぱい生きている。そのことがたまらなくワクワクなのです。

 オーストラリアのパロネラパーク、夏は満天の星と1000匹以上のホタルが迎えてくれる地上の楽園、どこからでも滝から流れ落ちる水の音が聴こえ、熱帯の蝶が飛び交うそんな夢の場所を、そしてホゼの夢の道程を、一人でも多くの人に知ってもらいたい、そしてあなた自身が夢を追いかけてほしい!里美さん、ドリプラの舞台で自らの夢を最高の笑顔でプレゼンしてくれるにちがいありません。
 パロネラパーク、またひとつ、行きたい場所が増えました。
今日の人76.山口敦子さん [2012年11月29日(Thu)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターでフィットネスインストラクターの山口敦子さんです。
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ダンス、ヨガ、ピラティス、なんでもやるのですが、絶対外せないのはスイミングのコーチ。新しいコーチが入ると必ず山口コーチのレッスンを通過しなければならないという名物コーチになっていますが、子どもたちへのレッスンはとにかく大好きで、どれだけ数を重ねても飽きるということはありません!
 
 敦子さんは京都生まれ。とても明るい性格の女の子でした。主教科は苦手でしたが、副教科は大の得意。絵を描くのも大好きでしたし、運動も大得意!特に水泳はスイミングスクールの選手コースでいつも活躍していました。
 
 外では本当に明るく、活発な敦子さんでしたが、実は壮絶な想いを抱きながら過ごした少女時代でもありました。ご両親は敦子さんが小1の時に離婚。それと同時に6歳年上の兄は、中学に入ると家に引きこもるようになりました。そして、やり場のない怒りを全て敦子さんにぶつけるようになったのです。敦子さんは言舌に尽くしがたい壮絶なDVをまだ少女の心と身体に受けました。毎日生きるか死ぬかの紙一重の所にいる感覚。家に帰るのが怖くて苦痛で嫌でいやでたまりませんでした。耐えられずそれをお母さんに言ってお母さんがお兄さんに注意すると、お母さんがいない時にDVが2倍にも3倍にもなるので、とても言えませんでした。お母さんは大好きだけど、甘えられない!出口の見えない地獄にいる感じでした。

 そんな敦子さんの楽しみは頭の中であたたかい家庭を妄想することでした。あんな家ならよかったなぁ…とアットホームな家族を思い描くのです。そうやって妄想しないと現実のあまりの過酷さに心がもちませんでした。ですから、学校で「夢」を書け、と言われても出て来ませんでした。今を生きるのにせいいっぱいの小学生に将来を思い描くことなど不可能だった…ただただ、今をなんとか生きていくこと、それだけしかなかった。
 
 こうして暗黒の闇の中をはいずるような時間を延々と過ごし高校2年になった敦子さんは家を出ることを決意します。ばれたらどうなるかわからない。このまま我慢して生きていくという選択肢もあったけれど、もう限界はとっくに超えていました。家を出て万が一何かがあった時に私のこの体験を誰も知らないのは口惜しい、そう思って家を出ようと思っていること、そしてその理由を全て友達や先生に打ち明けました。そこに到って、初めて事実を知った先生に助言してもらい児童相談所に連絡を取り、児童相談所は、離婚したお父さんに連絡。そしてなんとか無事にお父さんと暮らし始めることになったのです。

 父との暮らしはまさに地獄から天国にいったようなものでした。あの恐怖はもうない、それがどんなに嬉しかったか。
 電車通学になった敦子さんは電車の中で疲れた大人ばかりいることに愕然とします。この人たちはどうしてこんな悲しい目をしているの?私よりしんどい思いをしているの?こんな大人になりたくない!そう思いました。そして、私の命はもらった命、何があっても一生懸命生き抜いてきたんだから、私は楽しく元気に生きていこう!そして人を元気を伝えられる人間になろう!そう決意しました。

 小さい時から体育や美術が大好きだった敦子さんは美術大学に入ります。そして水泳もずっと続けていました。お父さんの家の近くのフィットネスクラブのプールで泳いでいたのですが、陸の運動にもチャレンジしてみようかな、とふと思ってエアロビクスのクラスを受講します。そしてものすごく感動しました。
 インストラクターとお客さんのエネルギーのぶつかり合いがそこにはありました。「人に元気を伝えるって、これやー!」美術は間接的に人を元気にできる。でも、エアロビクスはダイレクトに元気を伝えそれをお互いに共有できる。そして、レッスンもひとつの作品。そう思うと、いてもたってもいられませんでした。
 
 こうして敦子さんは大学在学中からエアロビクスのインストラクターとしても活躍していくことになります。会社で会社員をやるという道は一切選択肢にありませんでしたから、就職活動とは無縁でした。フリーランスのインストラクターをすれば、隙間時間に好きな制作活動もできる。そう思ってもいましたが、実際は仕事がとても忙しく、ひたすらがむしゃらに仕事をしました。そして年間1500本ものレッスンもこなしました。そうした中でも、ダンス、ヨガ、ピラティスと次々に資格も取っていきました。自分の人生、好きなことをして生き尽くそう!そう思ったからです。
 大会にも出るようになり、度々入賞すると雑誌にも取り上げられ、イベントにもよく呼んでもらえるようになりました。そして、インストラクターの養成を任せられるまでになったのです。

 こうして忙しい毎日を過ごしていた時に、母が精神を患って入院していると聞かされます。幻覚があり、ものも食べられない状態でミイラのように痩せこけていると聞き、一層会うのがつらいと思いました。高校2年で家を飛び出して以来会っていない母。「裏切り者」と言われたらどうしよう。お兄ちゃんに会ってしまったらどうしよう。行った時にお母さんとわからなかったらどうしよう…。
 
 いろんな不安が胸をよぎりました。でも、意を決して会いに行きました。15年ぶりに会う母。この15年の間、私は本当にいろいろな経験をしてきた。でもお母さんにとっての15年はどんな時間だったのか。病棟に入って、看護婦さんが「娘さんですよ」と言ったその瞬間、お母さんの焦点がバシッと合いました。そしてひと言。

「きれいになったね」

 その言葉を聞いたとたん、敦子さんの目から涙が溢れてとまらなくなりました。5時間ずっと涙が止まらなかった…。敦子さんの前でのお母さんは精神を病んだ人ではありませんでした。
「今、どこに住んでんの?」「仕事がんばらなあかんで」
15年の時を隔てて親子の絆を感じました。ああ、私は愛されていたんだな、脳はそれを覚えていて、涙が止まらないんだな。私はいったい何をしていたんだろう。
 そうして、お母さんの意識があるうちに、自分の姿をお母さんの目に写しておきたいと感じ、病院に通うようになりました。看護師さんとのやり取りの中で言われました。「お母さんと性格とても似てらっしゃるんですね。それに、他の人とは話さないけど、娘さんとはお話されますね。」
 
 …一人でつらい思いをしてきた、そう思ってた。でも、生まれてきた、それだけで愛じゃないのか。私の中の半分はお母さんじゃないのか。
…こうして4ヶ月の間に、15年分の時間を取り戻した敦子さん。お母さんがなくなったときに、お兄さんにも会いました。憎くてたまらなかった兄。でも会うと憎しみ以上にせつなさを感じました。そして思いました。「お兄ちゃんを変えたい!」と。お母さんが病気になったのは私とお兄ちゃんとの絆を取り戻したかったからじゃないのかな…と。

 敦子さんにとって親子の絆がテーマになった出来事でした。そして、得意なダンスを生かしながら、親子の対話を通して子どもを元気にしたい!そう思うようになりました。何か心に問題を抱えている子どもたちを元気にしたい!
 企画書を提出したりしましたが、実現しません。どうしたら、この想いが届くんだろう、そう思っていた時に出会ったのがドリプラでした。これだ!と思いました。こうして、ウーマンドリプラに出場し、更に一歩進んで、その熱い想いを今回世界大会でぶつけます。

 敦子さんのプレゼンタイトルは「親子で創るレインボーダンス ~こども達のココロをクリエイトする共育プログラム~」
レインボーダンスで繋がりが弱くなった親子の心に虹の架け橋をかける日もすぐそこまで来ています。親と子が一緒に何かできるって本当に素適なこと。それを伝えていくあっちゃんを心から応援しています!

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親子の笑顔のために、あっちゃんは今日も全力です!
今日の人75.相田恵子さん [2012年11月23日(Fri)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンター、そして北里大学病院の現役ナース、相田恵子さんです。
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向かって右が恵子さん
 
 恵子さんが生まれたのは栃木県佐野市。外で遊ぶのが大好きな子ども時代でした。当時流行っていたローラースケートで滑ったり、秘密基地づくりをしたり、友だちとテントを張って天体観測をしたりして遊ぶのが好きでした。天の川がすごくキレイだったのを覚えています。
 恵子さんの小学校は全校児童が106人の小さな学校で、クラス替えもなく、3,5,6年生の時は同じ担任の先生が担任でした。すごくいい先生で、自宅に子ども達を呼んでみんなで飛行機作りをしたり、学校外に遠足にいったりしていました。どちらかと言えば消極的だった恵子さんでしたが、何かに真剣に取り組む姿勢をご存知で「自由研究をやってみたら?」と薦めてくれたのもその先生でした。その子に合った舞台を用意してくれる、とても素適な先生!もちろん卒業式は号泣です。恵子さんは、こんな先生になりたい!というあこがれを持っていたので、小学校時代の夢は小学校の先生でした。

 中学校ではボールを使わずにできるスポーツを、と思って剣道部を選びました。でも相変わらず消極的で前に進もうという気持ちが弱かったので、いつもボロ負けだったと恵子さん。でも、部活の仲間はとてもいい仲間で、今も栃木に帰ると会っています。そして、そんな中学時代の夢もやっぱり先生でした。
 
 高校は家からすごく遠かったので、とても部活はムリだと思って諦めました。でも、女子校でクラス全員でレクリエーションの時のダンスを考えたりして、とても楽しかった。
 進路について考え始めた高2の春。「私は学校の先生になりたいって言ってたけど、私は40人の生徒の前で毎日ちゃんとできるのか?だいたいこの消極的な性格ではとても教育実習ができそうにない…」そう感じて教職は断念します。でも、やはり人と接する仕事がいい、そう思っていた頃、祖父が入退院を繰り返します。そこで1対1で人に接する看護師さんを見て、これだ、と思いました。恵子さんは早く自立して家から出たい、という思いもとても強くありました。早く周りから認められる仕事がしたい、そう思っていました。
 それには訳がありました。親に障がいがあって、人からバカにされていたので、周囲からバカにされたくない、という思いが人一倍強くあったのです。恵子さんのお母さんは知的障がいでした。そして、お父さんは話すのがとても苦手な人でした。そして二人はいつも夫婦ゲンカをしていました。家族でご飯を食べにいったり旅行に行ったりすることもなく、幸せそうな家庭にコンプレックスを抱いていた子ども時代でした。「早くこんな家を出て自立するんだ!」
 
 こうして群馬大学医学部看護学科に合格した恵子さんは待望の一人暮らしをすることになります。大学生活はとても充実していました。合気道部に入ったのですが、先輩たちが本当にステキで、いつも後輩たちを喜ばせるにはどうしたらいいかを考えているような人たちでした。そして恵子さんたちも自分が先輩になった時に、同じように後輩に接しました。こうして素適な仲間たちのおかげで、恵子さんの消極的な性格はだんだん積極的な性格へと変わっていったのです。自分の意志もちゃんと伝えられるようになりました。
 
 でも、両親への思いはなかなか変えられなかった恵子さん。就職先を決める時にも実家に帰るという選択肢はありませんでした。そして、大学のある群馬よりももっと情報があるところがいい、そう思っていろいろ調べ、いちばんいいと思った北里大学病院に就職したのです。
 
がむしゃらに、でも楽しく働き、気がつくともう12年目になっていたという恵子さん。看護師をしていてよかったことは数え切れないくらいありますが、恵子さんのことを全面的に信じて、いつも名前を呼んでくれたり、退院の時に手紙を書いてくれたりすると、本当に嬉しいのです。「病気になってよかったことは相田さんに会えたことです。不安な時にそばにいてくれてありがとう」という手紙をもらった時は本当に嬉しかった。その子は退院した今もいろいろ相談してくれてずっとつながりがあります。
 
 充実した看護師生活ではありました。でも、3年前にドリプラを初めて見に行ってすごく感動します。そして今年6月に歴代のプレゼンターによるドリプラカンファレンスを見て、さらに衝撃を受けます。もともと行く予定はなかったのですが、たまたま予定が空いて、突然見に行ったドリプラカンファレンスでした。偶然が私をここに呼んでくれた。いや、これは偶然ではなかったのかもしれない…。
 そしてその時「夢はなんですか?」と聞かれ、「ナースドリプラをすることです!」と語っていた恵子さん。みんなが「いいね!」と言ってくれたことで、そこからその夢について真剣に考えるようになっていきました。
 
 看護師は日々の激務に追われ余裕を失っていることが多い。それは常々感じていることでした。恵子さんは、お料理好きが高じて月に一回自宅でお料理教室を開催しています。職場ではちっともいい笑顔を見せないナースの子がお料理教室では生き生きした笑顔でいるのを見て、この笑顔が職場で活かせないか…。
 
 笑顔の大切さは、自分が患者の家族として他病院の看護師と接したことでより強くなりました。ずっと疎遠にしていた家族でしたが、母が病気になったことで、母に付き添って病院に行く機会も増えました。そこで看護師の笑顔がどれだけ患者を安心させてくれるか、それが患者の立場としてよくわかりました。いえ、今までだってわかっていたつもりでした。でも、ようやくそのことを実感できたのです。
 患者さんに接する医療関係者、特に看護師は笑顔でいることが本当に大切、それが患者さんそして病院で働く全ての人を元気にするんだ!
 だから恵子さんの夢は看護師さんを笑顔にすること。そのための場作りをすること。
それを実現させるためにドリプラに挑戦しました。

そして、今、家族の在り方も再構築中です。ずっとこの家族がコンプレックスだった。できれば親を隠していたかった。でも、この家族があったから、笑顔を大切にしたいと思える私がいる…。
 今は休みの日にはできるだけ実家に帰って、ご両親のお世話をしている恵子さん。そして、ドリプラ世界大会の日は、両親を東京ドームシティホールに連れて来て親孝行したいと思っています。「うちの親は身体が強くないので、前日に連れてくるつもりです。」とさらりといえるのですから、ご両親への気配りが自然にあふれている恵子さんなのです。恵子さんの価値観をわかってくれない妹さんにもドリプラのチケットを送ろうと思っています。大丈夫。恵子さんの願い、いつかきっと妹さんにも届きます!だって、お姉ちゃんがいつも生き生きした笑顔でいたら、妹さんに影響を与えないわけはないもの。

 笑顔があふれるあったかい病院、病院内にはオープンキッチンのスペースもあって、患者さんもお料理ができてそれをお医者様や看護師さんと一緒に食べてすっごく笑顔になってる。もちろん、恵子さんのお料理教室もそこで開催!笑顔が笑顔を生んであったかいオーラにあふれている…そんな絵が、恵子さんの話を聴いていて、私の頭の中に浮かんできました。
 みんなの笑顔のために、恵子さんはこれからもずっと夢に向って歩き続けるでしょう。
 大丈夫だよ。だーこちゃんの笑顔はみんなを元気にしてくれるから。



 
 
 
今日の人74.佐藤陽子さん パート.2 [2012年11月21日(Wed)]
パート.1から続きます。

 経営者になるためにはどうしたらいいんだろう。
 さっぱりわからなかったので、まずはIT企業に就職しましたが、肌に合わずその後証券会社に総合職として入りました。収益に対してガツガツ向かっていく人たちを見て、ビジネスの世界とはこういうものなのか、と感じました。
 
 そして社会人になってみて初めて、周りに女性が少ないことに気づきました。特に総合職になると、未婚の20代か、独身の40代かという感じで30代がすっぽり抜け落ちているのです。これはどういうことなんだろうと思いました。
 
 総合職の女性もいたものの、仕事一筋の人、結婚しても全く子どもを産む気配がない人、結婚して子どももいるけれど、責任のある仕事はしていない人、そして積極的に人生の選択をしてこなかった人(酔うと人生を嘆いてみたり。。)、と、大変失礼ではあるけれど、どなたも「積極的になりたいとは思えない」か「とてもなれないよ。。」というタイプの女性でした。 
 
 もっと自分の価値観に近い働く女性の幸せ像ってないのかなぁ、そう思っていた時でした。E-womenささきかをりさん主催の国際女性ビジネス会議に出席した陽子さんはとても素敵な女性と出会います。4人も子どもがいながら商社に勤め、仕事が本当に楽しいの!と言っている女性です。この女性に出会ったことで、陽子さんは女性が一生働くファーストステップは、その人自身の意識改革だな、と思うようになりました。
 
 今まで何かに熱中して生きてきた私だったけど、社会人になってから、心から熱中することがありませんでした。そのことで自分らしく生きていない、なぜだか悲しい、何をやってもむなしいと思い、2~3年前からは家に帰ってはと泣くという日が続きました。
 
 バレエに熱中していた自分、国際協力に熱中していた自分。
 じゃあ、今の自分は何にはまれるのだろう…

 そんな時、総務省への出向を命じられた陽子さん。自分は、経営者になりたくて金融業界に入ったのに、なんで総務省に。。この経験が経営者になった時にどう生きるんだろうか?と最初は不満に思っていた陽子さんでしたが、時間的に余裕ができたことで新しいことにチャレンジをするゆとりが生まれました。

 そして鶴岡秀子さんの「人生をシフトさせる8日間」というセミナーに出たことでドリプラに出会い、ドリプラ2011世界大会の予選を見て、何かにチャレンジしていく決意をしました。
 中学校から大学までずっと女子校の環境で来た、そしてアジアやアフリカでの女性も見てきた。就職してからは、社会で活躍しているのは圧倒的に男性だという現実を今まさに見ている。総務省に出向して、国会中継のメモ取りをする機会も増えたけど、女性議員は圧倒的に少ない。果たしてこの国に女性の首相が誕生する日は来るのだろうか?そういう現状を見て、陽子さんは思ったのです。
 
 「私は日本の女性が輝ける社会を作りたい!」
 こうして、「人生をシフトさせる8日間」の最終プレゼンで「育児や介護をしながら働く女性を応援したい」というプレゼンをします。そして、男性にそんな女性を応援してほしい、という内容を盛り込みました。
 すると、プレゼンを見た人から「感動した!」「妻の夢を応援しようと思った!」等、たくさんの応援をもらったのです。
 その応援を得て、ドリプラ世界大会へとエントリーした陽子さん。
 今、生まれたばかりの自分の夢と真剣に対峙しています。
 普通の女性がライフイベントを迎えたとしても働け続けることが出来る世の中にしていくにはどうしたらいいか、自分らしく社会とかかわっていくにはどうしたらいいか、女性が自己実現していくにはどうしたらいいか、

 これらは本当にこれからの社会にとって必要不可欠な課題です。「これからずっと女性を応援していくんだ!」その気持ちは絶対にあきらめたくない、と力強くいってくれた陽子さん。
 大丈夫、ズボッとハマった時にものすごい力を発揮するのが陽子さんです。きっと今回もズボッとはまって、日本の女性を「ワーキングミューズ」の夢でキラキラ輝かせていくにちがいありません。
 つい先日もIMFが緊急レポート「Can Women Save Japan?」で日本を救えるのが女性だと強く訴えていました。陽子ちゃん、出番ですよ!

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今日の人74.佐藤陽子さん パート.1 [2012年11月20日(Tue)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターの佐藤陽子さんです。佐藤さんは証券会社から総務省に出向中、海外経験も豊富なバリバリのキャリアウーマンです。
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 陽子さんはお父さんの仕事の関係で3歳半までギリシャで、その後2年間はロンドンで暮らしました。そのため、帰ってきて日本の小学校に入った時、最初はとても自己主張が強かったのです。海外では「I can do it.」が当たり前。そんな中で育ってきていきなり「おとなしくしろ」と言われてもそれは無理というもの。教室で遊んでいた時、先生に「そんなに遊びたいなら外に出なさい」と言われたのを真に受けて、本当に校庭に出ちゃったら、なんとそこには2歳年上のお兄さんもいた!ということもありました。
 
 しかし、帰国子女にありがちなイジメを受けるということはなかった陽子さん。
ロンドンで始めたクラッシックバレエを日本に帰ってからもずっと続けていました。やがてバレエにハマり込んでいきました。中学生の時はそれまで週に2回だったレッスンを4回に増やしました。2回は地元のバレエ教室に通い、あとの2回はプロのバレエ団の下にあるバレエ学校に通うという本格的なものでした。しかも、中学生ながら自分でバレエ学校を調べてアポを取り、そしてバレエ学校に入ったというのですから、子どもの頃からかなりの行動派!
 
 中学、高校と女子校で過ごし、バレエも98%は女子の世界でしたから、周りは女の子というのが当たり前の感覚でした。共学に憧れる…というのは全然なかったそうです。
 
 陽子さんが大学の進路を選ぶ時に大きなきっかけとなった出来事がありました。
 あれはお父さんがタイに単身赴任をしていて家族でタイに遊びに行った時。リゾート地パタヤに向かう途中に渋滞でひっかかった時のことです。ちょうど自分と同じ年頃の女の子が、花を売りにきました。ガラス1枚隔てて、車の中に何不自由なく座ってリゾート地に行こうとしている自分と、今日のパンにも困って花を売っている少女。なぜこんなにもちがう人生なのか?あまりにショックでその日は寝られませんでした。
 
 高校生になってもバレエは続けていましたが、自分はバレエの道で食べていくことはないな、と思い始めました。そんな時、お母さんが世の中にはこんな風に人の役に立つ仕事があるのよ、と国連職員の仕事を紹介してくれました。タイのあの子のことが不意に頭をよぎりました。思い立ったら行動せずにはいられないのが佐藤陽子!偶然新聞で見つけた国境なき医師団の事務局に電話して「私は高校生ですが、何かボランティアできることはありませんか?」と尋ねます。そして高校の時から国境なき医師団でボランティアを始めた陽子さん。大学生になったら私は途上国に行くんだ!そう心に決めていました。そして大学では国際関係学科へと進み、「国境なき医師団」の下部組織である「国境なき学生」に入り浸っていました。そうしてアジアのストリート・チルドレンを救いたいとカンボジア・ベトナム・フィリピンで1ヶ月ずつボランティアをしました。
 
 陽子さんは、アジアでボランティアはどういうものかがわかったから、今度は他のところへも行きたい、そして成果を上げたい、と大学を1年休学して、13ヶ月のプログラムに参加します。それはノルウェーで研修を受けたあとにアフリカに行ってインターンをするというプログラムでした。
 アフリカを選んだのは、AIDSや難民問題で成果を上げたいと思ったからです。まずノルウェーで4ヶ月研修。その後ジンバブエに行く予定がビザがなかなか降りず、南アフリカで2ヶ月足止めされます。南アフリカはレイプ率が高く、いつも緊張の中で過ごしました。家の前で人が撃たれたこともあります。2ヶ月後にようやくビザが降りてジンバブエへ。
 
 ジンバブエでの陽子ちゃんのミッションはAIDS問題で成果を上げること。50人の現地の人を雇って、その人がそれぞれ2000人ずつの人にAIDSの知識を伝える、つまり10万人にAIDSの知識を普及するのですが、陽子ちゃんはその50人のリーダーをまとめるのが仕事でした。
 ジンバブエは南アフリカとちがってピリピリとした緊張感はありませんでしたが、概念のちがいにびっくりすることも度々でした。普通は牛9頭で結婚できるけど、陽子だったら牛12頭をやる、と言われてびっくり。日本は結婚するのに牛はいらないのよ、というと、じゃあただで結婚できるのか?と。お互いの合意でするのよ、と言うと不思議な顔をされました。
 ジンバブエはスーパーインフレがちょうど始まったころでした。買い物に行くのに、リュックに紙幣をいっぱい詰めていく日々。しかし、ジンバブエ人がカード決済している姿もよく見かけたそうです。日本での報道と現地の実情はずいぶんちがっているのだなぁとこういう話を聞くと改めて感じます。
 
 実はその頃の陽子さんは、女性を雇うことに積極的ではありませんでした。パフォーマンスが低い女性たちの穴を埋めなれければならず、採用担当の時はなるべく女性を雇いたくないと思っていました。でも、ある特定の女性グループはものすごいパフォーマンスを見せていました。そのグループはシングルマザーのグループでした。
 
 でも、パフォーマンスの低い人にしても50人の雇用した人たちは、プロジェクトの期間でずいぶん変わっていきました。この50人は最貧層の人たちでした。その人たちにセルフリライアンスのチャンスを与えたことが、このプロジェクトで一番意義があったことだと感じました。しかし、そうはいっても援助の手がある限り、なかなか現地の人の意識は変わっていかない。そういうことを感じて、なにかちがう、キャリアとして国際協力の世界は関わり方を考えなきゃいけないなと思うようになりました。
 
 じゃあ、自分は何をすればいいんだろう、援助ではなく、対等のビジネスパートナーとして活動したい、そう思ったとき、社会起業家になろうと思いました。人を雇用して人にチャンスを与えられる経営者になりたい。じゃあ、経営者になるためにはどうしたらいいんだろう…


パート.2に続きます。
今日の人73.中澤清一さん パート.2 [2012年11月14日(Wed)]
パート.1から続きます。

 こうして、思いついたことはどんどん会社で実践していった中澤さん。
四国管財には売り上げのノルマはありません。
 そして事実前提ではなく、価値前提の会社です。
いったいどんな価値を前提にしているのかを示すためにも、中澤さんは明確な経営理念を作りました。それがこれです。

 私たちは、自分たちの夢の実現の手段として、四国管財においてお客様に「笑顔と挨拶と報連相と環境を意識した丁寧な仕事の実践」により、自分を含め全ての人々に感動を提供致します。

 そして15項目のベーシックも作りました。
1.夢を具体的に持つ
自分が明確な夢を持ち、かつ諦める事無く、具体的に目標を決めることで夢は必ず実現するものです。
2.常に笑顔
一番簡単なようで一番難しいこと。笑顔の実践。笑顔は自分を含め周りの方々を幸せにしてくれます。
3.挨拶の実践
勇気を出して、自分から自発的に挨拶を行い継続する事でコミュニケーションの第一歩となり、必ず周りが変わります。
4.報告・連絡・相談
実践する事により、情報(楽しい事や悲しい事)に共感する事が出来、価値観の共有化の手段となり、社内が一つになれ組織的な解決を図れます。
5.環境を整備
当社はISO14001を取得し、環境に貢献する仕事に携わっております。職場や家庭において、身の回りの環境を意識し、地球のために考え行動しましょう。
6.丁寧な仕事
ラッキーコールを様々な形で減らしてきましたが、落下破損事故が後を絶ちません。過去の例を分析すると片手の作業に問題がある事が分かりました。「いくら慣れていても必ず両手を添えて」丁寧な作業を行いましょう。
7.整理整頓
物の整理整頓だけでなく、考え方も整理整頓をすることにより、安全かつ事故のない働きやすい職場環境を築きましょう。
8.自己責任
物事を自分の事として受け止め、「やってくれない」をどうすればやってもらえるか、解決できるかの観点で考え行動しましょう。
9.前向きな取り組み
新たな一歩、更なる一歩を踏み出すのはしんどい事であり、出来ないと諦めがちですが、やろうと思えば手段は100万通りあります。やらない理由を考えるのではなく前向きに考え取り組みましょう。
10.気遣い
その発言や行動が周りの人にどの様に影響するかを考えましょう。自分がしてもらって嬉しい事をしてあげられるようになると、自然と気遣いの出来る人となります。すると何だか楽しくなります。
11.接する人に均等に
年齢・性別・肩書きによって言葉遣いや態度を変える事無く、当初の謙虚な気持ちや対応を忘れず均等に接していきましょう。
12.一流の自分
お客様に最高のサービスを提供する為には、自分自身が最高のサービスはどういうものか体得しなければ分からない。一流とは高級品という意味ではなく、どんな状況も決めた事を守れる人が一流です。今日から皆さんも一流を目指しませんか。
13.自分のために仕事する
同時多発テロで旅客機に搭乗され、犠牲になられた方は自分の命があとわずかなことを確信した時、愛する人に最後のメッセージを残しました。自分にとって一番大切な人(事)を再認識し、そのために仕事に取り組みましょう。
14.約束は守る
約束を守ることは信頼の証です。約束の時間、約束の期日と些細な約束も守り信頼を失わないようにしましょう。当社はお客様より高い信頼を頂いているのは、お客様の様々な情報を見たり聞いたり出来る立場にありながら、在職中・退職後も守秘義務の約束が守られているからです。
15.感謝の気持ち
周りに人が居る事や物がある事が当たり前の生活と思って過ごしていますが自分の接する人(物)へ「ありがとう」の感謝の気持ちを忘れないようにしましょう。

こうした理念やベーシックを作ったことで、その考えに賛同してくれる人が採用試験に応募してくれるようになりました。そして、四国管財の仕事を誇りを持ってやる社員がどんどん増えていきました。
26年前、出社したくて来ている社員が全然いなかった会社から、大きく大きく成長したのです。「社員が夢を持てる会社にしたい!」という中澤さんの夢がこうして現実になったのです。

「変わらないと嘆くのではなく、自分で変えていくことが大事。制度がなかったら作ればいいだけのこと」そう言い切る中澤さん。
その言葉通りに、2002年には高知青年会議所の理事長になって障がい者就労のルールを変え、積極的に障がい者雇用を進めていきました。いろいろなやっかみや横槍も入りましたが、中澤さんは屈しませんでした。働く仲間に障がい者の家族がいればうちの会社で働いてもらいたい、そんな社員さんが笑顔になれる会社にしたい、中澤さんは次々に想いを現実へと押し上げていきました。
ものすごいことをしていらっしゃるのに、それを全くさらっと自然体でおっしゃる中澤さん。その強さと優しさに包まれると、「ああ、こんな社長さんの下で働ける社員さんは、本当に幸せだなぁ」とつくづく思うのです。

 中澤さんは教育問題にもとても真剣に取り組んでいます。社員さんの子どもたちが不登校で悩んでいたら、一緒に学校に行って先生と話します、社員さんの相談に乗り、子どもたちの相談に乗り、そして先生の相談にも乗ります。先生も悩んでいます。教育委員会の目があって自由にできない部分が多い。中澤さんは学校や先生を否定するのではなく、先生が伸び伸びと好きな教育をできるようにバックUPしてあげればいいのだ、と思っています。先生が悪いわけではない。学校が悪いわけではない。では、教育委員会が悪いのか?それもNoだと中澤さんは言います。教育委員会も政治家の目が怖いのだ。では政治家を選んでいるのは誰だ?我々有権者であり、特に影響力が大きい経営者だ。すなわち、自分たち企業の社長が教育環境をよくしていかなければならないし、そういう責任があるんです!そうきっぱり言い切る中澤さん。そんな中澤さんはお忙しいお仕事の傍ら、いろいろな人の相談に乗る「教育問題についてのドリームサポーター」もやっています。どこまで他喜力に溢れた方なんだろうと思います。

 中澤さんの名刺の裏には、四国管財経営理念とともに中澤さんの夢が書いてあります。
〈中澤清一の夢〉
お客様に信頼され社員さんや協力会社のご家族が胸を張って自慢できる会社経営と、残りの人生において色々な方の夢の実現のお手伝いをして、人生の最後を迎えた時に一名でも多い方に惜しまれて旅立ち、子供に「お父さんて凄かったんだ」と言われること

 最後に、中澤さんはとびっきりの笑顔で言われました。
―社員さんの子どもが「お父さん、お母さんの会社に入りたい!」と言って就職してくれる、そんな会社にしていきたいんですよ。―
 
 こんな夢の溢れる会社が日本中にできたら、きっと子どもたちは早くお父さんやお母さんみたいに働きたい!って、うずうずするようになりますね。
 
 高知をダイバーシティの溢れた県にしている中澤さん、これからも高知県に、いえ日本全国に、たくさんの笑顔と夢を生み出していってくださるでしょう。

「変わらないと嘆くのではなく、自分で変えていくことが大事。」中澤さんにいただいたこの言葉を大事にして、私もがんばっていこう!そう決意を新たに出来た今回のインタビューでした。

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今日の人73.中澤清一さん パート.1 [2012年11月13日(Tue)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターで、四国管財株式会社お客様係&代表取締役社長の中澤清一さんです。
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 四国管財株式会社は「21世紀をつくる人を幸せにする会社」(法政大学大学院坂本光司教授著 ディスカバー出版)にも紹介されていますし、2012年10月15日号の日経ビジネスの「奇跡を起こす凄い組織100」に選出されるなど、高知で奇跡を次々に起こしている素晴らしい会社です。

 中澤さんは昭和37年に高知県高知市で生まれました。小さい時からマイペースで、好きな遊びは飛行機会社ごっこやタクシー会社ごっこ。飛行機のおもちゃやミニカーを動かして遊ぶ遊びではありません。例えばタクシー会社ごっこだったら、この車は何時からここ、この車はここ、というように配車を考えて車を動かすというごっこ遊び。どうやら小さい時から経営者の素質充分だったようです。
 
 小学校2年生までは総理大臣が夢でしたが、3年生からは一貫して社長になるのが夢でした。それはずっと父の背中を見て、その姿に憧れていたからです。
 中澤さんのお父さまは最初バキュームカーの会社を経営されていたのですが、バキュームの仕事では子どもたちがいじめられるかもしれない、とお掃除会社を作られた方です。  
 いつもお客さんにペコペコ頭を下げている父。でも、中澤さんはそんな姿をとてもカッコイイと感じました。家ではとても怖い父でしたが、とても尊敬していました。そして、俺もいつか親父のような社長になるんだ、そう心に決めていました。

 小学校の時は、とにかく野球漬けの毎日。6年生の時にはマルチプレーヤーかつ3年生チームの監督もやっていました。ノックは自由自在に打てるすごい腕。そんな中澤さんが好きだったのは長嶋選手。どんな時もプレーに一生懸命な姿、それが大好きでした。

 中学2年の時に、尊敬していた父が亡くなります。その年から、今まで送られてきていたお中元やお歳暮がピタっと来なくなったのを見て、世の中とはこういうものなのか、と実感します。父の会社は、母が名前だけの社長になって、他の方が経営をしてくれていました。

 中澤さんは、小学校の時からニュース番組を見るのが好きでした。政治経済の勉強も好きで、その知識量は先生も及ばないほどでしたが、興味のない科目はからきし勉強しませんでした。そして、国立中学から当時はあまり進学しない高知中央高等学校に進学します。(高知中央高等学校は、現在は非常に特色のある私立高校として広く人気を集めています)
 
 高校時代は1年の時はバレー部、2年はバトミントン部、3年はソフトボール部に所属。他他にもまんが研究会を立上げたり、スクールウォーズの影響でラクビー同好会を創ったりとなんとも活動の幅が広い中澤さん。それにも飽きたらず学校外で少林寺拳法までやっていたくらいです。中澤さんはマジメな子から不良まで幅広く付き合っていました。ケンカには負けたことがありません。だって一度もケンカをしたことがないのですから。

 大阪の大学へ進み、寮で一生の親友となる友にも出会いました。でも、高校生活と逆で、サークル活動は一切しませんでした。休みという休みは全て高知に帰って、母が名前だけの社長になっている会社でアルバイトをしていました。とにかく一刻も早くこの会社でちゃんと働きたい!そう思っていたからです。

 そして卒業後は高知に戻り、そのお掃除会社に就職。やりたくてやりたくて仕方のなかった仕事でしたから、どんなに汚い所の掃除も苦になりませんでした。
 けれど、周りはちがっていました。この会社に来たくて来ている人は一人もいない。みんな仕方なく来ていて、できれば別の会社に変わりたいと思っている。そして、会社の名前を出すのは恥ずかしいとさえ思っている。
 …この現状を変えたい!この会社をみんなが夢を語れる会社にしよう!
 26年前、中澤さんはそう心の中で決めたのです。

 最初は“干されて”いた中澤さん。上司からは徹底的にやりにくい所の掃除をやらされます。12月は休みが一日もなく、除夜の鐘が鳴ってもまだ仕事をしていましたが、残業代は全くつかず、手取りは11万円。それでも、「この仕事が好きだったから」ととびっきりの笑顔で話してくださいました。
 ちょうどその頃、結婚もしましたが、休みが全く取れない状況だったので、新婚旅行も行かずじまいでした。しかし、新婚旅行先に考えていたのは、なんと青森の恐山。中澤さんはイタコを通してお父様と奥様を会わせたいと思ったそうなのですが、新婚旅行に恐山とはそれこそ恐れ入ります。
「でも、大学を出てすぐってずいぶん早い結婚だったんですね。」と聞くと、「胃袋を落とされたんですよ」とニコッ。奥様、かなりお料理上手な方のようです。

 さて、中澤さんはこんな風に誰もやりたがらない仕事、やりにくい所や汚い所のお掃除をやっていく中で、たくさんの課題を見つけていくことが出来ました。そして、夜は一番遅くまで残り、朝は一番早く来て、しかもイキイキと仕事をしているその姿勢に、次第に会社の難しい仕事を任されるようになっていきます。
 掃除の技術を極めたい、と日本中の同業者にも会いに行きました。

 こうして次々に実績を上げていった中澤さん。小学校の頃からの夢だった社長に就任したのは1997年のことでした。
 そして、社長に就任後はヤル気満々で社内に成果主義を取り入れます。人事評価制度も取り入れましたが、レベルが低い人事評価制度は点取りゲームになってしまい、世渡りばかりがうまい人が100点を取ったりして、社内に不協和音がただよいました。

 そんな時に出会ったのが福島正伸さんでした。14年前のことです。「夢しか実現しない」その言葉に強く突き動かされた中澤さん。人生が変わったと思えるような衝撃を受けました。 それまでは「プライベートは楽しいけれど、仕事は苦しくても仕方がないんだ。歯を食いしばってやるしかないんだ」という先入観がありました。でも、福島先生から「仕事上においても夢を全面的に出していいんだ、仕事は苦しいものじゃなくて楽しいものなんだ!」というとても大きな気づきをもらったのです。
今日の人72.明木一悦(めいきかずよし)さん パート.2 [2012年11月12日(Mon)]
パート.1から続きます。

アメリカで7年を過ごしたKazさんは奥さんと共に、日本に戻って来ました。そして、やはり広島が大好きじゃからと、広島に戻ったのです。
フォードにヘッドハンティングされたKazさんはフォードで車の開発をしつつ、お父さんの生まれ故郷甲田町(現在は合併して安芸高田市)に移り住み、「夢心塾」を結成しての町おこしに力を入れ始めました。どんど焼き(左義長)の世界一を目指そうと1200本の竹を組んだり、手作り三輪車6時間耐久レースを企画したり、とにかく、「わしらが変えちゃる。変えんといけん!」との熱い想いでした。
 
こうして会社員をしながら、市議会議員にもなったKazさん。マニフェスト大賞でノミネートも受けました。市議会で、何か提案を言えば「思いつきでものを言うな」と言われました。経験と知識がないと思いつきも言えないだろ?Kazさんは議論して相手を徹底的に追い詰めるタイプでした。すると、逃げ場を作ってやれ、と言われます。
 議員提案をすると、そんなものは書けないでしょ?と言われ、予算修正案を書いても議会で却下されてしまう、議員が予算を書くと、職員の能力がないように思われるから困ると言われる等など、むなしくなる出来事が続き、Kazさんはこれではいかん、他の方法で市を変えなければ将来があぶないと議員を辞めました。
 
 議員をやめてからKazさんは大学院で公共経営を勉強します。やがて会社の経営方針に魅力を感じなくなり、会社も辞しました。
 
会社を辞めてしばらく時遊人らしく遊ぼうかと思っていた時に起きたのが、あの東日本大震災でした。時遊人は、Kazさんの肩書。
「動かなければ!」
九州の友だちがローソクや乾電池を送るために集めているのを知り、九州に送るより、自分で直接持って行こうと思いました。福山の市議から学用品が欲しいという要望を受けたこともあり、市長に市役所のトラックを貸してくれと掛け合いました。市長はすぐにOKを出してくれ、Kazさんは4月19日に陸前高田へ行き、学用品を渡してきたのです。
 こうしてボランティア活動に入り込んでいったKazさん。そんな時に安芸高田市の職員で多文化共生担当の原田さんから、市で多文化共生に取り組んでくれないか、と持ちかけられます。こうして、多文化共生の世界に入ったKazさん。そのおかげで、私も多文化共生マネージャー研修でお会いすることもできたのです。

 とにかく、人間力に溢れるKazさんは、全国に友だちがいて、友だちのネットワークは本当に強くて、みんな利害関係なしに動いてくれるのです。まさに「Kaz人間力」とでも呼ぶべき引き寄せ力でいろんな人を引き寄せているKazさん。
 生傷も耐えないけれど、それが自分の人生を作ってくれている。そして、楽しく夢を追って生きることが大事、と時遊人Kazさん。
 趣味も車、ヨット、ゴルフ、野球、作詞、企画と幅広く、今はスノボのジャンプにも挑戦中。料理もお得意で、そば打ちもするし、おせち料理だって作っちゃいます。
 
そんなKazさんが嬉しかったのは3人の息子さんたちが「言いたくないけれど、おやじのようになりたい」と言ってくれたこと。Kazさんは、反省と失敗が人間を育てると考え、何でも経験させることを大事にしてきました。
 
そして、今でもやっぱり船で暮らすのが夢。最期は船の上で静かに迎えたい。その前にお世話になった人みんなを呼んで、大パーティをして、みんな本当にありがとう!と言って楽しくお別れできたらいいなぁと思っています。
 子どものような夢を大人になっても持ち続けてほしい。そしてみんなとつながって広がっていって欲しい。自分の今の役割はたくさんの人と人とをつなぐことだとも思っています。
 
そして、日々の小さなワクワクは今もたくさんあります。
・孫に会えるとき(なんてダンディなおじいちゃま!)
・友だちに会えるとき(Kaz友ネットワークはすごい!)
・夢を語るとき(夢はあきらめなければきっと叶う!)
・何かに挑戦するとき(今も新しいことにどんどんチャレンジ)
・言葉が降りて来るとき(詩を書くのも趣味です)
・そして恋をするとき(いくつになってもドキドキは大切♪)

歳を重ねてなお、輝きを増すKazさん。
これからますますステキな男性になっていかれることでしょう。
そして、たくさんの人と人とをつないで、安芸高田市を多文化共生の先進地にしていってくださいね。
 私も富山から、Kaz友の一人としてずっと応援しています。

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多文化共生マネージャーの仲間との一枚 kazさんは向かって右端




今日の人72.明木一悦(めいきかずよし)さん パート.1 [2012年11月11日(Sun)]
 今日の人は、広島県安芸高田市国際交流協会事務局長の明木一悦さんです。
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 明木一悦さんことKazさんは友だちから21の顔を持つ男、と呼ばれています。ある時は役者、ある時は詩人、そしてエンジニア、海人、政治家、そして、良き夫、良きおやじ…
 いろんな顔を持つ、とっても素敵な歳の重ね方をしていらっしゃるKazさん、私は多文化共生マネージャー研修でご一緒させていただいたのですが、その時から、女性陣にだけでなく男性陣にも、もてもてでいらっしゃいました。

 Kazさんは、1958年広島生まれの広島育ち。とにかくやんちゃでチビっ子だったので、クラスで並ぶ時は常に一番前でした。
 小学生の頃は、夏休みになると、3時半に起きてカブトムシを捕りに山を一周してラジオ体操に行ったり、橋の下をつたって橋ゲタまで行って釣りをしたり、ダンボールをソリ代わりにして崖を滑り降りたり、とにかく外遊びが大好きなワンパク坊主でした。
近所中の屋根の上を走り回っていたこともあります。けれどそんな小学校の時の夢は新聞記者でした。

 川や海が好きで、自作の舟を作っては浮かべてみるのですが、いつも失敗して水面に放り出されていました。それでも船乗りになりたくて、商船高等専門学校に入りたかったのですが、親に反対されて断念しました。中学時代は国語や社会の時間にこっそり授業を抜けだして、屋上で空を眺めているロマンチストな一面も。

 海への想い断ちがたく、ヨット部のある高校を選びます。今のKazさんのイメージとは全然ちがうのですが、その頃はまだ背が低く、分厚いメガネをかけていて、同級生にいじめられていました。教室の後ろで4~5人に殴る蹴るといういじめが続きましたが、それでもKazさんは学校を休むことはありませんでしたし、卑屈になることもありませんでした。むしろその経験があったから、人に優しくできる自分になれたと優しい笑顔でおっしゃるKazさん。今は、そのいじめていた連中とも友だちとして付き合いがあるそうです。
 そしてその頃の夢は、やっぱり海、でした。ヨットで世界一周したい。とにかく、海に出ていたら幸せだと思っていました。

 大学は工学部に。ヨット部がなかったので作ろうとしましたが、許可が降りませんでした。友だち3人で一軒家を借りているところに居候し、みんなで麻雀したりドライブに行ったり、常に女の子も集まってきて、毎日青春を謳歌していました。ただ、お金はなかったので、具なしの味噌汁で猫マンマにしてみたり、塩だけがおかずのごはんを食べたり、誰かのバイト代が入った時は、みんなで吉野家へ繰り出して食べる牛丼がごちそうでした。そんな生活がたまらなく楽しかった大学時代。19の時に浜田省吾にはまり、それ以来ずっと浜省ファンです。なんと「悲しみは雪のように」のカラオケで100点を出したこともあるのだとか!
 英語の単位が足りずに留年してしまったKazさん。けれど、「American Graffiti」「BIG WAVE」などの洋画や片岡義男に影響を受けたこともあり、アメリカに行きたいと思っていました。

 そして、海外赴任のある会社に就職したKazさん。サウジアラビアに送る機械の担当になりました。サウジアラビアに送る機械の担当ということはつまり、機械が送られる時に、一緒にサウジアラビアに赴任になることを意味します。いや、ちがう、俺はサウジアラビアに行きたくてこの会社に入ったんじゃないんだ。アメリカに行きたいからこの会社に入ったんだ。Kazさんはずっと先輩や上司に訴え続けました。
 ある時、ボストン行きの機械が入って来ました。サウジアラビア行きの機械が一ヶ月後に出ると決まっていた時でした。ビザも取らなければ…
 いよいよ覚悟を決めなければいけないその時に、言われたのです。
「明木、ボストンに行け」
 こうして、念願だったアメリカに渡ることになったKazさん。
「夢は強く願い行動すれば叶う」を実感しました。

 英和辞典と和英辞典だけを抱えて渡米し、ボストンに降り立ったときには、思わずガッツポーズ!「よしっ、ここから俺のアメリカン・ドリームが始まる!」
…しかし、もちろん、現実はそんなに甘くはありませんでした。何しろ、英語の単位を落として留年しているのです。つまり、英語は苦手だったのですから。
最初は何もわかりませんでした。こいつは全然話せないから駄目だ、とクレームがついたこともあります。しかし、技術的なことを教えてあげると代わりに英語を教えてくれるようになったり、テレビで言っていた言葉を実際に使ってみたり、まさにSurvival Englishとして英語を習得していったのです。
 2年目、3年目になると、いろいろなところを回りました。カリフォルニア、デンバー、シカゴ、フロリダ…30州くらいは回ったでしょうか。
 当時20代前半の若さで、日本電気の社長をはじめとする重役たち、アメリカンドリームをかなえた起業家たち、アメリカの大手会社の取締役たち、毎日を一生懸命にそして楽しく暮らす労働者たちなど幅広いたくさんの人たちとの付き合いが、Kazさんの人間力を高めていきました。

 アメリカの勤務先であるNEC America本社に勤務していたアメリカ人女性エンジニアと恋に落ちます。彼女ができると英語が伸びなくなったんだよなぁ、とKazさん。逆だと思っていたけれど、そうではないみたい。釣った魚にエサはやらないタイプ?いえいえ、そんなことはありません。Kazさんは今でも大変な愛妻家。奥さんのために晩御飯を用意して待っていたりもされるとってもステキな旦那様なのですから。

 話を戻して、7年間のアメリカ生活時代には、いろんなエピソードには事欠きません。
ニューヨークはマンハッタンのアイスクリーム屋さんでバニラのアイスを注文したのですが、店のおばあさんに発音がちがう、と何度もvəníləの発音をやり直しさせられます。最後にようやくOKをもらったとき、後ろに並んでいた大勢のお客さんから拍手喝采。アメリカのあたたかさを感じた瞬間でした。かと思えば、警官に車を止められ、拳銃を突きつけられたこともあります。日本から来たばかりの社員が後部座席で不用意にポケットに手を入れてしまったため、警官に銃を取り出すと勘違いされたのです。Kazさんは「お前は絶対に俺の言うとおりにしろ、不用意に動くな」と、指示し、本当に緊迫の時間が流れました。こういうエピソードを紹介していると、それだけで1万字を超えそうなので、それは今度じっくりKazさんに聴いていただくとしましょう。

パート.2に続きます。
今日の人71.河村槙子さん [2012年11月09日(Fri)]
 今日の人は多文化共生リソースセンター東海事務局長の河村槙子さんです。
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 多文化共生リソースセンター東海は多文化共生社会づくりに役立つリソースの収集・整理・発信を通じて、東海地域の社会発展に貢献することを目的に2008年に設立されました。多文化共生理解促進事業をはじめ、外国人住民の社会参画促進事業、多文化共生関連の研修企画・運営及び講師派遣事業など、多文化共生社会に向けた活動に幅広く取り組んでいらっしゃいます。

 河村さんは愛知県一宮市生まれ。4人姉妹の次女でした。ちょうど2歳ずつちがう姉妹はとっても仲良しで、昔も今もケンカをしたことはほとんどないそうです。そして実家は日蓮宗のお寺でもありました。
 
 小学校の時は、ミニバスケットボール、女子サッカー、マラソンとスポーツに明け暮れた日々でした。そして、中学校から大学まではずっとソフトテニス部に所属して汗を流していました。大学の時もサークルではなく、体育会のテニス部でしたから、相当ハードな練習だったはずです。
 
 高校生の時、始めは大学で栄養学を専攻しようかと考え、理系にいた河村さん。でも3年生の時に、途上国の映像をみて、何かはわからないけれど、自分も途上国に関われることをやりたいと南山大学総合政策学部総合政策学科に入ります。そこでNPONGOゼミを専攻し、紛争地域が専門の先生の元で学びました。他にもアジア系の歴史はしっかり勉強しましたし、元国連職員の先生もいらして、とても学びの多い大学生活だったと思っています。
 
 河村さんは4年生の秋から1年間休学して、アメリカへと渡ります。最初はニューヨーク州の大学の語学コースに入り、4ヶ月勉強。空いている時にボランティアをしたかったのですが、あまり治安がよくなく、東海岸から西海岸へと移動。オレゴンのポートランドで語学学校に通いながら、週末はフードバンクや教会で食事を配布するボランティアをやりました。コミュニケーションがなかなかうまく取れないことがはがゆかったですが、でもとても楽しい時間でした。
2ヶ月たって、今度はサンフランシスコで日本人のやっているNPOにインターンとして入ることになりました。ここでは日本向けの広報が自分に与えられた主な仕事でした。ここで広報を学んだことは、その後とても役に立ったと感じています。そのNPOは、日本とアメリカをつなぐのが目的のNPOでしたから、日本からの視察団がたびたび視察ツアーで訪れました。その視察ツアーで訪れる先は、例えば地域のお父さんが街に木を植えるNPOだったり、企業から協賛金をもらって移民向けの多言語教育を行うNPOの保育園だったりしました。この視察ツアーは、今の活動にとても深く影響を与えました。   

 そして、外に出たことで河村さんには変化が生まれました。自分は途上国のことをやりたいと思っていたけれど、実は日本国内でやれることがまだまだあるのではないか?視点が外から内へと移ったのでした。そう思うと、早く帰って取り組み始めたい!といてもたってもいられない気持ちになりました。

 帰国直前のある日、買い物帰りの道中でホームレスに話しかけられた河村さん。
「なんでそんなに暗い顔をして歩いているの?前を向いて明るくしてなきゃ!」
はっとしました。ホームレスだからどうだとか、ちょっとでもそういう風に思っていた自分はいなかったか?人に貴賎はないのだ。そう気づかせてくれたホームレスのおじさんに感謝でした。

 こうして帰国した河村さんは活発に活動を行い、新聞にコラムも連載していた多文化共生サークルsmileの代表希代翔さんに「何かしたい」と連絡を取ります。実は希代さんとはアメリカに渡る前に同じ授業をとっていた縁で友人になっていたのでした。
 
 河村さんはsmileのイベントの主軸になっていきます。在日のアフリカの人と動物園に行ったり、ビルマ難民の人と水かけ祭りでダンスをしたり、いろいろな企画を立てました。他にもブラジル人学校と日本の学校の子どもたちが三角ベースボールで交流する、というイベントを企画したりして、日本の中にある異文化に触れる機会が数多くあって、とても楽しかった。

 そうした中で市役所とJICA中部でもインターンをしていました。そして大学を卒業したら、当然の流れとしてNPONGOで働きたいと思っていました。民間企業は考えにくかったのです。

 でも、その考えを伝えるといろいろな人から言われます。「一回は民間企業で働いておいた方がいいよ。」あまりにたくさんの人からそう言われるので、それもそうかなと思い、ベンチャーの派遣会社に就職し、新規開拓の営業担当になりました。本社でみっちりビジネスマナーを仕込んでもらいましたし、営業、事務、事業計画の立て方、いろいろ経験させてもらって、確かに一度民間企業で働いたのは、とてもいい経験になりました。しかし、やはり私がやりたいのはこういう仕事ではない、とその会社を1年半で退社します。
 
 その頃、ちょうど多文化共生リソースセンター東海が立ち上がろうとしていましたが、やることを決めてもみんな仕事を持ちながらなので、なかなか動けない状態でした。そこで河村さんは自分が日中動けるようになりたいと、リソースセンターの専属になったのでした。
 しかし、最初は無給からのスタート。愛知県からの委託事業を請け負うようになり、ようやくお給料も出るようになりました。多文化共生マネージャーの研修も受け、たくさんのタブマネともつながりができました。(河村さんはタブマネ10期。私は14期なので、タブマネでは河村さんが先輩です☆)

 今、ワクワクすることは、外国人コミュニティの人といろいろなことを一緒にやることです。例えば、あるブラジルの団体は常に赤字の状態でしたが、河村さんたちがかかわって研修会を開催したり、助成金の申請の方法を伝えることで、赤字が補われるようになりました。それで、失ってくれたヤル気を取り戻してくれたのが本当に嬉しいといいます。
 またアフリカの一人代表の団体は、なかなか事業が進みませんでしたが、いろいろなことを一緒にしていく中で、彼女自身が変化して、心の中で思っていたことをやれるようになりました。
多文化共生リソースセンター東海は中間支援組織なので、実感を得る場というのは少ない。だから、そういう生の声は本当に嬉しいし、ありがたいのだと、とてもやさしい笑顔で話してくれました。

 そんな優しい笑顔の河村さん、実はsmileで一緒に活動していた方がご主人です。ですから、旦那様も河村さんの活動のことをよく理解して応援してくれています。
結婚して、今住んでいる地域もとても外国人の多い地域です。そんな人達と、多文化共生という言葉を使わずにプライベートでも接していけるようになりたい、それが河村さんの夢です。

「多文化共生リソースセンター東海は、こんなにしっかりしていて可愛い事務局長がいるから安泰ですね!」とリソースセンター代表の土井佳彦さんに言いたくなるような、とてもステキな河村槙子さんなのでした。
今日の人70.岡村英明さん パート.2 [2012年11月06日(Tue)]
パート.1から続きます。

 こうしてDr.まで進んで、ソニーの研究所に入ったひでさん。まず、ソフトウェア開発に取り組みました。ベルギーに研究チームができていて、ベルギーと日本を行ったり来たりもしました。チームは多国籍チームだったので、とてもおもしろかったし、研究はとても楽しかったのですが、夜中の2時3時までやって、また7時に起きてという繰り返しで、かなり疲れはたまりました。でも、休みの時には、ドイツやオランダ、フランスを旅行して、土曜に日帰りでパリに行く、なんてこともやっていました。
 
 ベルギーでの研究の成果は製品にも搭載されましたが、その製品はなかなか発売されませんでした。「できたー」と喜ぶだけでは満足できない自分がいました。
日本に帰って研究所から本社へ移ったものの、今の状況に満足できない自分がいたことと、上司から勧められたこともあって、アメリカに1年留学もしました。大学はシカゴから3時間のイリノイ州にありました。もちろん研究にも没頭しましたが、一面に広がるトウモロコシ畑をぼーっと眺めている時間も大好きでした。自分のこれまでの人生、これからの人生について考えを巡らせる時間にもなりました。ただそこに身を置くだけで自分に寄り添ってくれる自然の力の大きさを感じた貴重な時間でした。
 カワウソに会うために、ブラジル、スコットランドの島、ボルネオ島など訪れたこともあります。大自然を前にして、自分は地球の一員なんだなあとしみじみ思えました。

 こうして1年経って本社に戻ったひでさんは、プロジェクト・マネージャーとして、研究開発だけにとどまらずマネージメントもする立場に立ったのでした。いい仕事を持ってきたら、部下も含めて幸せになるはずだ!自分がみんなを引っ張って幸せにしてやる!!ひでさんはそう意気込んでいました。
 でも、なんでみんなできないの?なんでそんなやり方でやるの?と部下に対する不満が募り、また実際それを口にも出していました。プレイステーション3を作る部署になると、更にその姿勢が加速し、ストレスもマックスになっていきました。ストレスを食べることで紛らわせる日々。気がつくと体重が15sも増えていました。このまま年老いていくのか、と思うと不意に涙が頬をつたいました。
 自分の時間も全くとれず、部下は会社に来れなくなってしまうなど、悪循環が続きました。それでも、やりがいのある仕事をしているんだという自負でなんとか頑張っていたひでさん。

 しかしある時、これでいいのか?という疑問がむくむくと湧き上がってきました。考えてみたら最近、好きな旅行にも全く行っていないし、本さえ読んでいない。部下もついてきてくれない。

 ひでさんは自分の言い方が悪いから部下に思いが伝わらないんだと思い、影響力を強く出来ますという謳い文句に惹かれてNLPを学び始めました。その学びの中で、衝撃を受けます。今まで自分は言い方が悪くて部下に思いが伝わらないんだと思ってきた。でも、そうではなかった。自分自身が悪かったのだ。みんな自分と同じだと思っていたけど、ちがう。それぞれのよさがあるのに、どうしてそれを見ようとしなかったんだろう。そうだ、自分は異文化のなかでそれぞれのちがいというものを体験してきたではないか。
…衝撃と共に猛烈な反省がひでさんを襲いました。そして、それに気づいたときから、マネージメントや仕事のやり方をガラリと変えたのです。

 まず、自分のやり方を押し付けるのではなく、部下にやり方を尋ねるようになりました。部下を応援するスタンスでのびのびやらせると、結果としてチームの成績が上がり、自分も部下に仕事を任せられるのでとてもラクになりました。こうしてNLPで実践していく中で、より自分にしっくりと来るコーチングにも出会うことになりました。

 ひでさんは前述のように子どもの頃は極端な人見知りでした。ですから、1対1でじっくり話ができるコーチングがとても性に合っていました。そして、人見知りだったからこそ、いいコーチでいられると思ったのです。人見知りの自分は子どもの頃から人の動きを予測できたし、人の話を聴くのも全然苦ではありませんでした。それはコーチングのコーチとしてとても大切なことです。
 コーチは自分にとって天職だと思いました。そして、会社でもコーチングのスキルを使って、部下たちにコーチングをしていきました。

 そしてひでさんは今年の夏で会社をやめ、コーチとして独立しました。確かにプレステの開発はやりがいのある仕事だったかもしれません。けれど、会社がイケイケドンドンの古い体質のまま、一人一人の個性を見て見ぬふりをしてやっていることに限界を感じていました。会社の体質は成長期のままで止まっている。もはや同じものをたくさん作っても通用しない時代に入っているのに、昔のままの仕組みで会社は回っている。このままここにいて、自分が得られるものは何か?そう考えたときに、コーチとして独立して、たくさんの人を元気にしていくことの方が自分の仕事ではないかと思うようになったのです。

 こうしてコーチングとコーチとして、またNLPトレーナーとして、はたまたアクティブ・ブレイン・セミナー認定講師として、総合旅行業務取扱管理者として、森林セラピストとして、そして日本一鍋プロジェクト鍋奉行として歩き出したひでさん。
ところで、日本一鍋プロジェクトってなんなのでしょうか?
それをひと言ではとても言い表せないのでこちらのページをどうぞ!
http://hidebeaver.web.fc2.com/no1nabe/for-121117.html

 みなさんは、今誰と鍋を囲みたいですか?想像してみてください。あなたの大好きな人が目の前で鍋をつついて幸せな顔をしているところを。湯気の向こうに大好きな人の笑顔がある。それだけで、あったかい気持ちになれるから、鍋って本当に不思議。

ひでさんの日本一鍋プロジェクトのプレゼンは、来月ドリプラ世界大会で見ることができます。
みなさん、一緒に鍋を囲みたい大好きな人と見に来てくださいね!

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ひでさんのアクティブ・ブレインセミナーはこちら
http://humanjourney.info/
今日の人70.岡村英明さん パート.1 [2012年11月05日(Mon)]
今日の人は、ドリプラ世界大会2012プレゼンター、日本一鍋プロジェクト鍋奉行の岡村英明さんです。
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 実はひでさんは、コーチであり、NLPトレーナーであり、森林セラピストであり、他にもたくさんの資格をお持ちなのですが、慶応義塾大学理工学研究科を出られた博士でもいらっしゃるのです。そして、前職は、誰もが知っているあのプレステ3の開発担当というすごい頭脳の持ち主。
 博士でプレステの開発担当者で鍋奉行??
 
 そんなひでさんが生まれたのは昭和41年の東京新宿区。小さい時はものすごい人見知りで、小学校1年生までは家の外ではほとんど言葉を発することがありませんでした。ただその分、内弁慶でした。
 2年生からようやく外でも言葉を発するようにはなりましたが、とても積極的とは言えませんでした。小さくて運動が苦手だったこともあり、クラスで目立つタイプでは全くなかったのです。そんなおとなしい少年でしたから、授業中に「トイレに行きたい」とどうしても言えず、我慢しきれずにウンチを漏らしてしまったことがあります。あとで仲が良かったはずの友達に「うんこたれ」といじめられて、みじめで、孤独で、誰とも会いたくなくなった思い出は、今思い出しても胸がチクっとします。
 
 ひでさんは電車が好きで、プラレールで遊んだり、紙に線路を引いて、電車も紙で作ったりして遊んでいました。鉄道模型を持っている友だちがうらやましかったけれど、とてもそんなものは買ってもらえなかったので、自分で創作していました。でも、それが、のちにものを開発するようになる能力の芽になったのかもしれませんね。
 そんなひでさんでしたから、子どもの頃の夢は電車の運転士でした。

 子どもの頃、夏になると家族で旅行に行っていたこともいい思い出です。お父さんは普段は忙しい人でしたが、夏休みになると、まとめて遊んでくれました。那須高原に行ったり、群馬の田舎に行ったりして、東京では出来ない虫捕りや魚釣りができるのがとても楽しかった。ひでさんは田舎へのあこがれというものをその頃に持ち、今も自然の中で過ごす時間が大好きです。
 
 中学校に入っても、相変わらず鉄道が好きでした。友だちと二人で電車に乗ってその時開催されていた神戸のポートピアに1週間くらい行ってきたり、いろいろな駅で降りてみたり。一応卓球部に入ってはいましたが、卓球部というよりは鉄道部のようだったひでさんです。勉強はまじめにやる方でした。特に得意だったのは数学と理科で、逆にわからなかったのは国語でした。う~ん、私とまるっきり反対です。

 もちろん高校では理系でした。軟式テニス部に入ったところ、そこの友だちが結構やんちゃで、一緒に原宿に行って遊んでいたりしました。当時の原宿といえば、そう、タケノコ族の全盛期でした。もっともひでさんがタケノコ族になっていたわけではありませんが。(想像できない!)
 
 ひでさんの母校都立戸山高校は高3の文化祭で映画を撮る伝統がありました。ここで、受験に専念するグループと、映画を撮るグループとにわかれるのですが、ひでさんは映画の方を選びました。
 そして、台本を書いたり絵コンテを書いたり、ロケをやるから◯◯集めなきゃ!と人を招集したり、演出したり、プロデューサーとしても大活躍。そうして苦労して作り上げた映画でしたから、文化祭の打ち上げの時は感激だったなぁ、とひでさん。この映画作りを通して、一人ではできないけどみんなに助けてもらうとできることがあると初めて気付いたのです。何かを仲間と一緒に作り込んでいくことのおもしろさを、ここで味わったことが、今、ドリプラのプレゼン作りに大いにつながっているのかもしれませんね。
 
 しかし、映画に打ち込んだグループはほとんどが現役をあきらめ、浪人していました。ひでさんもご多分に漏れず。
 予備校生の間は、大学に入ったらやろう、と思っていたことがたくさんありました。「このままじゃつまらん人生だよなぁ。大学に入ったら世の中を知らねば。そのためにバイトしよう。彼女も作ろう。旅行もいっぱい行こう…」

 こうして一浪後に慶応義塾大学の理工学部に入ったひでさん。でも、なぜ理工学部へ?
それはお父さんの影響も大きかったのかもしれません。
ひでさんのお父さんは電気メーカーの営業職でしたが、手先の器用な人で、電気製品が壊れたら、自分で直していました。家にはハンダゴテもありましたし、ひでさんが小さい時は、よく修理に付き合わされていたそうです。
そんなお父さんと学校帰りの電車で一緒になったことがあります。お父さんがポツリと言いました。
  「これからはコンピューターの時代だからな。」
息子にその道へ進め、と言ったわけではないのかもしれませんが、ひでさんはそれで漠然とコンピューターの道に進もうと思ってしまったのですから、やはり親の影響は計り知れないものがあるのでしょう。

 大学生活は予備校時代に思い描いていた通りのことをいろいろやりました。まず、バイトは深夜の長崎ちゃんぽんのお店でやり、鍋フリ係をしていました。朝5時までのバイトだったので、とても眠かったのですが、大学に行くだけは行きました。どんなに眠くても同じテニスサークルの女の子と渋谷で待ち合わせて一緒に電車に乗るのが楽しみだったからです。やがてその子は、ひでさんの彼女になり、今は奥さんになったのでした!

 そして、今につながる鍋をやり始めたのも、大学1年の頃でした。テニスサークルの同期の仲間がひでさんの実家に集まって鍋を囲みながら、じっくり語るあの感覚。将来の話も鍋があれば自然と出来る!ひでさんは、そんな風に鍋を囲む時間がたまらなく好きでした。

 もちろん旅にも行きました。友だちと一緒に一ヶ月位北海道を車で回ったりもしました。行き先を決めない行き当たりばったりの旅、ただし、その土地ならではの美味しいものを食べる、これだけは決めていました。九州に行ったり、冬はスキー場に行ったりと、とにかく楽しかった。私はひでさんと同年代なので分かるのですが、私たちが大学生の頃は、スキーの全盛期、そして、カラオケ・ボックスなるものが出始めた時期でした。
 ひでさん、実はカラオケはかなりの腕前なんだとか。今度ぜひお声をお聴かせ願いたいものです(^^♪

 そうして、楽しく大学生活は過ぎていきましたが、4年になって研究室を決める時に、ひでさんが入りたかった研究室は人気が高くて落とされてしまいます。でもひでさんは、どうしてもここに入りたい、ここじゃないと嫌なんです。と一歩も引かず、なんと、その願いは受け入れられました。そして、その研究室に入ったことで、同期の熱い人たちにも刺激を受け、そのまま大学院へと駒を進めます。
 コンピューターの研究は花形の時代、頑張ってやると、海外で発表できる機会も度々ありました。そうして、アメリカやヨーロッパへ行くことで、カルチャーショックをたくさん受けます。この世界には、知らない場所があって、知らない人がいて、知らない文化の中で生きている。そんな実は当たり前のことを意識して過ごせるようになりました。


パート.2に続きます。
今日の人69.伊藤あづささん パート.2 [2012年11月02日(Fri)]
 パート.1から続きます。

 あづささんは「みやぎ発達障害サポートネット」という任意団体を立ちあげました。
 すると今まで一人で悩みを抱えていたお母さんたちがたくさん集まって来ました。こんなにもニーズがある。そしてこんなにもみんな悩んでいる。あづささんは安定した収入のあった大学教員の職を捨てました。そして任意団体を設立してから2年後、NPO法人になり、日本財団からCanpanブログ大賞で福祉大賞も受け、さまざまに応援をもらうようになっていきました。その間、大きな大きな出会いもありました。今は亡き加藤哲夫さん。市民活動家として大きな働きをされてこられた加藤さんの言葉は伊藤さんにたくさんの勇気をくれました。少しでも市民活動に携わったことのある人なら、加藤哲夫さんがいかに大きなスケールの人でいかにハートウォーミングな人かをご存知でしょう。そんな加藤さんにかわいがってもらったあづささんはどんなにか大きな宝物をもらったことでしょう。
 そうしてあづささんは発達障害の子どもやその家族のためにずっと走り続けてきました。

 去年、震災の10日前に、あづささんは就労移行支援事業所「schale」を立ちあげました。
 今、福祉作業所で働いている人たちがもらえる賃金は、月に
15,000円程度、それに6,7万円の年金を足したとしても、いったい何ができるのか?
 お母さんたちは最初希望を持っています。うちの子どもがちゃんと働けるようになって欲しい。でもそれを諦めていく姿を嫌というほど見てきました。作業所で働ければいい、年金をもらえればいい…。でも、あづささんは諦めたくなかった…絶対に!

 今、幸太朗くんは封切りのたびに新しい映画を見て、年に何回かディズニーランドに行く。障害があっても、そんな生活が自分の力で出来るような社会にしたい!
 そう思って始めた就労移行支援事業所です。けれど、震災が起き、みやぎ発達障害サポートネットの理事長も亡くなり、療育の柱がいなくなったことで、職員たちの疲れた気持ちがどっとあづささんに降り掛かってきました。そうして経営が危なくなった「schale」は辞めようとみんなに言われます。やめないと本体をゆるがしかねない!
 
 しかし、市民が市民のために始めたことを、お金がないからという理由でやめていいのか?加藤哲夫さんの声が聞こえてくるような気がしました。どんなに利用者が少なくたって、利用者が要る限り、やめるわけにはいかない!そうして、思います。ここまで「みやぎ発達障害サポートネット」を中心になって引っ張ってきた、補助金だって私が頑張って獲得してきた、大学教員をやめてまでがんばってきた道のりを思うと、これを手放すのは本当につらい。ずっと悶々としました。眠れない夜が続き、体重も落ちました。

 けれど、加藤さんの声が聴こえたのです。
 「立ち戻るのはミッションだよ」
 ああ、そうだ。私はあったらいいなを叶えたいのだ!
自閉症、発達障害の未来を作りたいのだ!

 そうして、仲違いではなく、専門性を分化するという形で、みやぎ発達障害サポートネットから離れたのでした。
  
 サポートネットからついてきてくれたスタッフ4人とともに
re-bornの思いで歩き始めたのが「ぶれいん・ゆに~くす」なのです。

 今、あづささんたちは就労移行支援事業「schaleおおまち」、放課後等デイサービス発達支援トレーニングジム「しゃ~れ」、居宅介護事業「りぼん」を中心に事業を展開。他にもソーシャルビジネス的なカフェもやっています。親を育て、仲間を育て、社会を変えていきたい!心からそう思っています。

 よく「伊藤さんだから、幸太朗くんを授かったんだよ。神様が授けてくれたんだよ」という人がいます。でも、「神様はそこまで不遜じゃない。私はダメな人間だったから、幸太朗によって変えてもらったの」とあづさsmileで答えてくれるのです。「もし、幸太朗を授かっていなかったら、正義は正義と正論を振り回したまま人生を過ごしていたにちがいない。」比較する人生を送っていたにちがいないのです。
 
 香りもそうなのですが、ひとつひとつがちがうので、ひとつひとつを比べる必要がない。比べる必要がないんだ、と思った時、あづささんはホメるのがめちゃめちゃうまくなりました。学生のこともたくさん褒めましたし、今も「こうちゃんすごいよね」とすぐに褒め言葉が口から出てきます。そういう自分になれたことが、あづささんには感謝なのです。

 やろうと思ったことはとことんやる、絶対にあきらめない伊藤あづささん。
その強い強い想いが、きっと日本の発達障害の未来を明るいものに変えてくれるでしょう。

 でも、もしかしたら、私たちを突き動かしているいちばん強い想いはこれなのかもしれません。

 「だってね、私はお母さんなんだもの。」
 
 そうですね、あづささん。私たちはお母さんなんだもの。絶対にやるしかないのです。

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 加藤哲夫さんを偲んで
今日の人69.伊藤あづささん パート.1 [2012年11月01日(Thu)]
今日の人はドリームプラン・プレゼンテーション2012世界大会プレゼンター、一般社団法人ぶれいん・ゆに~くす代表理事の伊藤あづささんです。
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(向かって右があづささん。お隣は「日本でいちばん大切にしたい会社」でもおなじみの全社員の70%以上が知的障がい者の日本理化学工業株式会社の大山会長)

 ぶれいん・ゆに~くすは、自閉症のある人たちが生きやすい社会は、すべての人が生きやすい社会の実現に繋がることを信念に「TEACCHアプローチの理念のもと自閉症スペクトラムのご本人とご家族の未来を創ること」をミッションとしていらっしゃいます。

 あづささんが生まれたのは長野でしたが、練馬、山形(神町)、盛岡、八戸と引越しを繰り返し、9歳の時からはずっと仙台にいらっしゃいます。
 心臓が弱く、6歳の時には心臓の手術を受けます。外で遊ぶなんてもっての外だったので、家の中で本を読んだり、リリアンを編んだりして静かに過ごす少女でした。小学校も1年遅れで入学しましたし、徒競走は6年になって初めて出場。プールはついぞ入ったことがありませんでした。
 
ご両親はあづささんが手術を受けた時に、「この子は結婚してお子さんを持つのは無理でしょう」と言われたので、なんとか一人ででも生きていける子にしなければと思い、ずっとあづささんに「先生になりなさい」と言ってきました。あづささんもそれについて全く逆らうことなく、私は先生になるんだと思っていました。
 実際、小学生の時には「二十四の瞳」を読んで大石先生に憧れ、中学生の時には「橋のない川」を読んで部落の子どもに平等に接する江川先生のようになりたいと思い、自分が教師になることに何の疑いも持ちませんでした。
 
体力的に運動は無理でしたが、頭はよく、もめごとも起こさず、全く親の思ったとおりに成長した娘でした。
 小学生の時は放送委員会、中学高校では放送部に所属し、高校ではNHK仙台放送局でアルバイトをしたりもしました。
 
そうして大学も教育大学に進みます。
 大学4年の時はNHK邦楽技能者育成会にも通いました。実はあづささんは小学校1年の時からずっとお箏も続けていたのです。NHKの邦楽技能者育成会というのは、芸大を出たようなトップクラスの人たちが通うところです。私も大学の時に三味線をかじったことがあるので分かるのですが、ちょっとやそっとで入れないところです。育成会に行けるというのは、あづささんのお箏の腕は、それだけでも立派な職業に出来るくらいに素晴らしいということを意味しています。毎週上京して、欠席なしで育成会に通ったあづささん。卒業演奏会の感動は今も胸に残っています。みなさん、邦楽というと、お箏だけとか、お箏と尺八とかのイメージがあるかもしれませんが、NHKの邦楽技能者育成会の合奏曲の迫力は、オーケストラにも劣りません。私も何回か見ましたが、本当に鳥肌が立ちます。音がピタっと合った時の感動ときたら!あづささんのお話を聴いて久しぶりに邦楽の合奏曲を弾きたくなったなぁ。

 あづささんが大学4年生の時から、教員採用試験で水泳が必修になりました。当然の如く、あづささんは泳げません。他の科目がどんなによくても、それができないというのは、真面目な性格のあづささんには認められませんでした。それに実際に、子どもたちに何かあったときに飛び込めないのでは学校の先生は無理だと思ったのです。
 
こうして大学卒業後は、公文の先生とお箏の先生をすることになりました。いち早く公文の教室にパソコンを取り入れたことで、情報処理の腕も磨いていったあづささん。5年間、公文の先生をしている間に、障害を持っている人も生活を楽しもうと黒柳徹子さんや永六輔さんを中心に始まった「われら人間コンサート」の仙台での2回目の開催時に誘われて行ったことでそういう活動にも携わるようになりました。
そして障害者職業訓練校で2年間、パソコンの指導をやり、その後コンピューター専門学校で専任になって情報処理を教え始めます。国家試験の合格者をたくさん出す先生でした。

 専門学校で若い女の子がとんでもない香りの香水をプンプンさせてすれ違うのに違和感を感じ、そういう子たちに自分に似合う香りのことを教えてあげたいと、香りの勉強も始めたあづささん。元来何かを始めるととことんやらないと済まない性格でしたから、東京へ通って、香りのコーディネーターやデザイナーの資格も取りました。フレグランス・オブザイヤーのフレンドリー大賞を取ったくらいです。
 しかし、その頃、仲間と呼べる人はとても少なかったとあづささん。正義を正義としてふりかざし、正論を決して曲げることはしなかった。常に自分が正しいというスタンスでいたので、周囲から煙たがられていたのです。

 一方であづささんは運命的にご主人になる方とその頃に出会います。あづささんはずっと音楽をやっていて、その音楽仲間である榊原光裕さん(なんと榊原さんは今回のドリプラのあづささんの音楽担当もしていらっしゃいます)がご主人の仲間でもありました。また、あづささんと同じ専門学校に日本語学科が出来た時に、日本語教育能力検定試験にパスしていたご主人(もともとは国語教員)が日本語教員として入って来られたのです。
同じ職場に夫婦でいることが許されず、あづささんが職場を去ることにしました。ちょうどその時、大学から新しい学科を作るから教員をやらないかと声がかかっていたので、あづささんは大学で働くことにしたのです。最初は講師でしたが、正規の教員になり、コンピューターの授業や香りの研究を受け持ちました。また香りのデザイナーを育てる、ということも始めました。大学で感性福祉研究所が新しく作られたこともあって、あづささんは引っ張りだこで、周囲から「あなたに風が吹いているね」と言われました。
 
 大学で正式な教員になった時に、赤ちゃんを授かりました。心臓病で子どもを望むなど無理だと思っていた自分に子どもができた。40歳の高齢出産でしたが、本当に嬉しかった。でも、高齢出産なので、やはり心配もあり、羊水検査もやりました。異常なし。ほっと胸をなでおろしました。

 そうして生まれたのは男の子でした。幸せだった。幸太朗と名を付けました。
初めはこの子がどこかちがいを持って生まれた子だとは思いませんでした。
しばらくして、幸太朗くんは高機能自閉症アスペルガー症候群では、と言われました。知的な遅れのある自閉症と解ったのがその後しばらくしてからのことでした。
 大学の研究室にいて、状況が好転するのを待っていても何も変わらないのはわかっていました。この子のために私ができることはなんだろう…


パート.2に続きます。