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今日の人68.佐藤恵美さん パート.2 [2012年10月31日(Wed)]
  パート.1から続きます。

 彼が大学を卒業するのを待って恵美さんは20歳で結婚。
恵美さんはバイトもガンガンやって一人で生活していたのに、一人で電車に乗れないという面を持った人でした。
だから、恵美さんに向かって「あなたは何でもできる人だよね」という人と
「あなたは何もできない人よね~」という人がいるのだそうです。
一人で上京できるようになったのも、本当にここ数年のことで、旦那様から「よくここまで育ったね~」と感心されるとか。
小学校の時の通知表にも「依頼心が強い」と書いてあったわ、と恵美さん。
 しかし、旦那さんのお仕事は朝7時にでかけて、終電で帰る毎日。晩御飯を一緒に食べられない、というのは恵美さんにとっても旦那さんにとってもつらいことでした。旦那さんは実家のある秋田に職を探し、秋田に移ることを決意します。恵美さんにとって秋田は初めての土地。文化もちがう、言葉もちがう、知り合いもいない、でも、家族で一緒にご飯が食べられるならと一家で秋田に引越しました。
 ところがです。せっかく家族で暮らせると思っていたのに、旦那さんは長期出張扱いで、2ヶ月も3ヶ月も東京に出張という暮らしになってしまいました。秋田に月に2,3日は帰ってくるものの、それ以外はずっと東京なのです。
 
 秋田に来て3年ほど経ち、恵美さんは2番目に授かった子を流産してしまいました。
その焦燥感から、家に閉じこもっていたら病気になると思い、外で働き始めることにしました。高校生の頃、飲食関係でバイトしていたこともあり、飲食のお店で働いたりしましたが、どうもしっくりきませんでした。自分らしい仕事ってなんだろう、そんな風に思っていた時に出会ったのが、ポーラの営業の仕事でした。天職だと思いました。
 
 楽しく話して、みんなに喜んでもらって、そして「佐藤さんでよかった」と言ってもらえる。お客さんのために頑張ろう、心からそう思えました。そして、自分のお店を持ったのです。仕事を始めて、わずか1年半で所長と呼ばれるようになっていました。社会経験もあまりないし、経理も人材育成も全然わからず3年は手探りでしたが、仕事は楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。
 長女は朝、お店に行った日に生まれて、一ヶ月検診のあとはずっとお店に連れていっていました。次女の時もそんな感じです。休もうと思っていても、スタッフから「所長の顔が見たい」とメールが入っていたら、行かないわけにいかないでしょう?と恵美さん。
自分は必要とされている、家でも職場でも自分がいなくてはならない、自分の代わりはいない、そして自分にはれっきとした居場所がある、それが恵美さんにとってはなによりも嬉しいのでした。
 それでも子育てしながらのお店は10年くらいは失敗続きだったといいます。でも、子どもたちが成長すると、自分も成長できる、それをつくづくと感じました。そして、この4~5年は本当によくなってきたと感じています。15年やってきた中で、のれん分けした子もいるし、結婚した子に赤ちゃんが生まれると本当に我がこととして嬉しい。スタッフはみんな家族だと思っている恵美さん、今はたくさんの家族に囲まれて本当に幸せだと思えるのです。

 こんな風に今は幸せがいっぱいの恵美さんがドリプラに出ようと思ったわけは何だったのでしょう。それは4年ほど前の大嶋啓介さんとの出会いにさかのぼります。
 初めて大嶋啓介さんのセミナーに参加した恵美さんはあまりに感動しすぎて吐いてしまいます。それで、大嶋さんとも仲良くなった恵美さんは、いろんな人にたくさん会った方がいいよ、とアドバイスされて、いろんなセミナーに出るようになっていきました。福島正伸さんに初めて会ったのもてっぺんの合宿の時です。それで、ドリプラというものを初めて知ったのでした。
 
 ある時の大嶋さんのセミナーで「親に感謝したか?」という問いかけがされました。
恵美さんは親に感謝するなんて全く思っていませんでした。むしろいなくてホッとしていました。でも、今私がやりたいことをなんでもやれる積極的な自分になっているのは、親のおかげなんじゃないか。高校の時に一人で生きられるような力をつけてくれた親のおかげ、そう思うと感謝の気持ちが湧いてきて、涙がとめどなく流れました。それを知り合ったばかりの水野元気さんに泣きながら話したのでした。
 
 それから3年後の去年のドリプラ世界大会で恵美さんは初めてドリームプラン・プレゼンテーションを見ました。そして、あの時の水野元気さんがプレゼンターとして舞台に立っているのを見て思ったのです。ああ、3年前からつながっていたんだ。私が今日ここにいるのは絶対意味があることなんだ。よし、私もここに立とう!

 じゃあ、私がプレゼンしたいことは何?
 仕事を通してたくさんの女性と関わってきた恵美さんは女性たちの心の叫びをたくさん聞いてきました。うつ状態になっている女性も本当にたくさんいます。家庭環境がおかしくなっている。お母さんは家の太陽。旦那さんや子どもたちの一番の居場所を作れるのは女性なのだ。私は居心地のいい家庭、居心地のいい職場をつくっていきたい。
 いろいろ足りないことはあるかもしれない。でも、足りないところを見ていたらきりがない。いつも不平不満ばかり言っていたら、自分が持っている大切な幸せに気が付かなくなってしまう。そして、他の人のいい所ばかり見えてしまう。そうじゃないよ。幸せはあなたの足元にあるよ。それに気づいたら、あなたの毎日はどんなに幸せであなたが笑顔になればあなたの家族もうんと笑顔になるんだよ。恵美さんは幸せに気づく力のある人を育てていきたい、そう思っているのです。
 
 そして、ドリプラを通して、秋田の人に元気になってもらいたい!
実は、今回ドリプラのパンフレットのデータ提出にあたって、昔の写真が必要でした。
でも、恵美さんは、前述のようにアルバムがありません。困っていた所、友だちが写メで15歳の恵美さんの写真を送ってくれました。その写真を見て、過去のいろいろな出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、ブワッと涙が溢れました。
その写真に向かって言いました。
「恵美、よくがんばってきたね」

 今まで起きてきたことは、全部私にとって必要だったんだ。
確かに父に不満を抱いたこともあった。
でも、最後にお父さんと電話で雑談した時にお父さんが言われたそうです。
「お前が幸せでよかった」
…それが最後の会話になりました。

 恵美さんは思います。お父さんは最高のプレゼントを残していってくれた。
自分も子どもたちに残していきたい。いっぱいの笑顔と愛を。
そして、自殺率日本一の秋田を変えたい!

 小柄な身体に大きなパワーと大きな愛で、たくさんの人を笑顔にしてくれる恵美さん。
秋田発!素敵な女性たちが日本中を幸せにしていくでしょう。もちろん、私も富山発!でがんばります。

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今日の人68.佐藤恵美さん パート.1 [2012年10月30日(Tue)]
今日の人はドリプラ世界大会2012プレゼンタ−、そしてポーラザビューティー広小路店マネージャー、秋田市のポーラの2店舗の総責任者としてもご活躍の佐藤恵美さんです。
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 恵美さんは埼玉の出身。小さい頃は今はオタクの聖地として有名だという鷲宮神社でいつも遊んでいました。絵と歌が大好きで、いつも歌を口ずさんでいたので、お父さんからはいつも「ピー子」と呼ばれていました。暇さえあれば絵を書き、歌を歌い、そして外では駆けまわって川に落ちたりするとても活発な子ども時代でした。
 
でも、お父さんはとにかくもてた人でした。両親は恵美さんが4歳の時に離婚。恵美さんはお父さんに引き取られましたが、実質恵美さんを育ててくれたのは祖父母でした。小さい頃の恵美さんは祖父母を本当の両親、そしてお父さんをお兄さんと思って暮らしていたそうです。お父さんはほとんど家に帰ってきませんでした。もう少し大きくなった時に、保険証に「長男の長女」と書いてあるのを自分は何者?と感じたという恵美さん。
 
幼稚園の頃、テレビで見た舞妓さんの姿に憧れて、おばあちゃんから「恵美ちゃんの夢は何?」と聞かれた時に、「芸者!」と言っておばあちゃんをひっくり返らせたことがあるそうです。
小学校に上がってからもとにかく活発でした。児童会の副会長として活躍したり、演劇部で自分で脚本を書いてお芝居をしたり、大活躍でみんなの注目の的だった恵美さん。その頃の夢は小学校の先生になることでした。

中学校に入ってからは部活一色になりました。バスケ部に入ってひたすら走り回る日々。
やはり快活な女の子でしたが、その頃祖父が亡くなったことで、経済的にもどんどん苦しくなっていき、祖母はうつ状態になっていきました。その頃はまだ、祖母の苦しさがよく理解できませんでした。徐々に祖母は自殺未遂を繰り返すようになります。家に帰ると祖母が血だらけになっていたことも一度や二度ではありませんでした。そんな祖母をなじってしまったこともあります。
 そして中2のある日、祖母が農薬を飲んで自殺をはかりました。幸い死にはいたりませんでしたが、入院することになり、10年ぶりに恵美さんはお父さんと暮らすことになりました。

 お父さんは再婚した新しい奥さんを連れてきていました。でも、その2番目の奥さんはすぐに出ていきました。恵美さんに「新しいお母さんがすぐ来るから」と言い残して。
 恵美さんはお父さんと生活時間帯が合わないこともあり、毎日置き手紙でやりとりしていました。ある日のこと、お父さんからのメモにこう書いてありました。
「昨夜遅くお父さん、友だちを連れてきたから」
てっきり男の人だと思い込んだ恵美さんは、
「目玉焼きを作っておいたから食べてね」
と置き手紙と目玉焼きを残して学校に出かけました。

しかし、帰ってくると、それは男の人ではなく、女の人だったのです。しかもずいぶんキレイな女の人でした。後から聞いたところによると赤坂のクラブでずっとNo.1だった人なんだとか。
 こうしてお父さんと3番目の奥さんとの生活も始まりました。でも、恵美さんはこの彼女とはそんなに不仲ではありませんでした。むしろ歳が近いせいか仲良しだったくらいです。
 
しかし、お父さんと奥さんは恵美さんを残して何ヶ月も家を空けてしまうのです。
その頃から、家に何本もの電話がかかるようになってきました。恵美さんが聞いても明らかに怪しい感じがしました。それは金融関係からの借金の取り立てだったのです。
 恵美さんはその頃、高校生になっていましたが、家の電気も止められてしまい、親のことは当てにはできない、と痛切に感じました。
 そして、自分の生活は自分でなんとかしようアルバイトをはじめます。日曜日は12時間労働をし、土曜日は午後から働き、(昔は土曜日は午前中だけ授業があったので)平日もアルバイトに精を出して、なんとか生活していました。
 
高校の先生との面談があった時、将来何をしたいんだ?と聞かれて恵美さんは答えました。
「結婚したいです」
すると先生は言います。
「じゃあ、結婚って何や?」
恵美さん「好きな人とずっといっしょにいることだと思います」
先生は静かに言いました。「結婚が本気なら、一生愛せる男を探せ。一生愛される女になれ」
実は恵美さんにはその時付き合っている人がいました。そして、その彼こそ、今の旦那様なのです。

 しかし、もちろん高校生の恵美さんがすぐに結婚というわけにもいきません。ましてや彼もまだ大学生でした。
 恵美さんはひたすらアルバイトをする日々を送り、それでも金融関係の人が家までやってきて、学校に行けない日もあり、精神的にかなり追い詰められていました。結婚したかったのは、そんな生活から逃げ出したかったせいもあるのかもしれません。
 わずか3週間で体重が一気に10kgも落ち、バイト先の人からはバイトがなくてもご飯だけ食べにおいでと言ってもらったり、お弁当を作ってもらったりもしました。
 
 あまりに過酷な状況で友だちの家に身を寄せていた恵美さん。そんな恵美さんのもとに友だちから連絡が入ります。「恵美の家が大変なことになっているよ」
戻ってみると、実家は担保物件になっていました。強制執行の通知も父のもとには届いていたはずでしたが、恵美さんが行った時には、もう何一つ手をつけてはいけない状況になっていました。アルバムさえも…
 だから恵美さんには小さい頃の写真がありません。

パート.2に続きます。
今日の人67.柴 佳安さん [2012年10月28日(Sun)]
 今日の人は、yslab(ワイズラボ)経営、フォトグラファーの柴 佳安さんです。
写真 12-08-02 14 46 11.jpg
女性をキレイに撮ることで定評のある柴さん。12月に高岡の住宅展示場のお家を借りきって行う「カナダ住宅変身撮影会」のカメラマンも担当していらっしゃいます。実は私のfacebookのプロフ写真は、去年の撮影会で撮っていただいたもの。その時の写りがいいせいか、実際にお会いした時に、「写真と雰囲気ちがいますね」と言われることもあるくらい素敵に撮ってくださいます。

 柴さんは東京オリンピックの年に大沢野町で生まれました。集団生活が苦手で、病弱でもあったため、保育園は半分は休んでいました。
 病院に出たり入ったりの生活の時に、親戚のおばさんが、1人でいるのは寂しいだろうとカメラをプレゼントしてくれました。もちろん、おもちゃに毛が生えた程度のものだったのでしょうが、ちゃんと写りました。その時からカメラ、写真が好きになっていったのです。家には、おじいさんの時代の古いカメラも残っていたし、お父さんのカメラもありました。お父さんがカメラ好きだったことも幸いしたようです。

 特に写真にエネルギーを感じるようになったのは高校生の時に、アラーキーこと荒木経惟さんの写真を見てからです。女性のヌードが有名ということもあって、最初はエロいのかと思ってドキドキしながら写真を見ましたが、思っていたのとは全然ちがいました。感じる部分がちがうのです。荒木さんの写真は、被写体の内在するものを引き出して描写しているのが特徴です。撮っている、のではなくて、写しているのです。
 そうして、とにかくたくさんの写真を見ました。見ることで、どんどん自分の中に吸収できるものがあった。
 
 高2の時に、総曲輪通りのカメラ屋のショーウインドウに飾ってあったオリンパスのカメラがどうしても欲しくて、3000円×60回払いで勝手に契約してきましたが、当然の如く親の許可がいるので、結局そのカメラを手にすることはできませんでした。それで、その時 家にあったお父さんのコニカのカメラでたくさんスナップ写真を撮っていました。人物だったり雑踏だったり、とにかくたくさん撮りました。
 
 大学に入った柴さんはオートバイにもはまります。鈴鹿サーキットにでかけるのが月齢行事になる位、バイクの世界にものめり込んでいきました。そうして、ピットの風景だったり、レースクイーンを写す機会も多くなりました。
 
 そんな柴さんでしたが、大学を卒業する時に、バイクで大事故を起こしてしまいます。半年入院することになった事故でした。特に最初の2ヶ月半は寝たきりで、この間に人生についていろいろなことを考えました。そして、献身的な仕事をしている医療スタッフを見て、医療関係の会社に入ろうと決意します。直接には関われなくてもケガや病気で苦しんでいる人を側面から助けてあげられるんじゃないか、そう思ったからです。そして、実は看護師をしていた奥さんと運命的に出会ったのもその病院だったのでした。

こうして、退院後は営業職につきましたが、好きなカメラはずっと続けていました。やがて、カメラの世界もデジタル一眼レフが進化してきました。そこで、柴さんは決意します。これからは好きな写真一本でやっていこう!…5年前のことでした。

そして立ち上げたのがyslab(ワイズラボ)です。
http://www.yslab.info/

 柴さんが得意なのは人物。特に女性を写すのがお得意です。
女性は男性よりも変化する。娘、嫁、姑、姥…そういう女性の人生をカメラに納めていきたいと思っています。そして、いずれ、そんな写真集を出すのが柴さんの一つ目の夢です。

 そして、もう一つ夢があります。それは、事故以来封印しているバイクに乗り、バイクの撮影をしたい!ということです。以前、鈴鹿8時間耐久ロードレースの取材撮影をしたことがありますが、ファインダー越しにピットワークを撮っていると、ぞくぞくしました。 
ピットは勝ったり負けたりした時にドラスチックにエネルギーが集まる場所です。そういう人間模様を写せる時間は、何にも代えがたいものです。

 これからもたくさんのシーンを写していくであろう柴さんのカメラ。みなさんも一度、体験してみませんか?きっと、今まで知らなかった自分の表情に出会えることでしょう。

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柴さん、いろんな表情を撮ってくださいます(^^)


今日の人66.上林達矢さん パート.2 [2012年10月24日(Wed)]
パート.1から続きます。

 大阪を僕らの力で元気にしようと、2008年にはNPO法人大阪維新会(大阪維新の会とは別物です。誤解なきよう)の中心メンバーとなります。その中で、福島正伸さんを呼んで塾をやろうやという話になり、第一回夢を叶える福島塾を立ちあげました。それが2008年10月から2009年3月まで続きました。その卒業プレゼンの場として開催したのが第一回ドリプラ大阪だったのです。
 
 その期間に、かんちゅわんの会社にとっては、とても大きい出来事がありました。セミナー等、外ではいろいろやっていても社内は停滞していました。このままではいけない、ちっとも前に進まない、そう思ったかんちゅわんは決心して、2008年12月に会社をたたみました。そして、新たな思いで株式会社わくわくアップを立ち上げたのが2009年1月のことでした。父とデザイナー3人で会社をスタート。周りから見ると、「社名変えたん?」と写っていましたが、そうではなかったのです。

 2011年から、大学生のインターンを入れるようになって、会社は転機を迎えました。それまでは、新しいことをすればするほど従業員から抵抗にあってきました。自分が言えば言うほど、みんなのテンションが下がる。これじゃあ、新しく会社を立ち上げた意味がないではないか…。

 そんな中で入ってきたインターン。かんちゅわんはインターンの学生に、「何をやったらいいか聞かんといて。手法は100万通り!自分で方法まで考えてやって。」と言いました。最初はそれに面食らっていた学生でしたが、会社の様子を観察して、かんちゅわんがいつも電話でお客さんに謝っていることに気が付きます。仕事の流れがちゃんと見えていないからだと考えた学生は、手書きで仕事の流れを書き、それをクリアファイルに入れて、仕事の見える化をしてくれました。これが大当たりで、お客さんに謝る回数はグッと減ったのです。

 また、それまで朝礼終礼を行っていませんでしたが、(実は以前にもかんちゅわんが提案したのですが、その時は社員にうまく浸透せずになくなっていった感じでした)学生が朝礼終礼をやり始めてくれたことで、それが会社に定着してきました。そうなると、会社全体にまとまりが生まれ始めたのです。

 こうして会社はうまく動き始め、セミナー事業部、フロンティア事業部、ブランディング事業部という3つの事業部も立ち上げることになりました。そして、みんなこんな風に考えてくれていたんだ、とスタッフに感謝できるようになると、みんなが変わってきてくれました。人を変えようとしても変わらないけど、自分が変われば人が変わる!それを実感したのです。

 そして会社をひとつにしたい!との思いで自らが何かにチャレンジする姿をみせようと、大阪ドリプラに出場を決めます。大阪ドリプラの先には世界ドリプラも視野に入れていました。昨年、世界ドリプラの時、地方ドリプラの主催者30数名が舞台に上がりました。大阪ドリプラの主催者だったかんちゅわんはその舞台の上で思ったのです。来年はプレゼンターとしてこの舞台に立つ!と。

 そしてかんちゅわんには、お父さんに認めてほしいという思いもありました。小さい時からお父さんは口数も少なく、なかなかかんちゅわんのことを認めてはくれませんでした。一緒に会社をやっていても、それを感じていたかんちゅわん。だから、ドリプラに出ることで、自分のことを認めてほしい、そう切に願ったのです。

 残念ながら大阪ドリプラでは、その願いは叶いませんでした。舞台に立つかんちゅわんを両親は見に来てくれましたが、お父さんは褒めてはくれませんでした。認めてほしいという気持ちばかりが伝わってしまったようで失敗、とかんちゅわん。でも、何も言わなくてもお父さんはもう認めてくれているんじゃないかしら。その証拠に大阪ドリプラに出たことで、会社は確かにひとつになりました。スタッフはみんなかんちゅわんを盛り上げるために、何も言わないのに、プレゼンや展示ブース全てに関わってくれました。会社がひとつになる、それこそが、お父さんも望まれていたことだと思うのです。

 かんちゅわんがドリプラ大阪でプレゼンしたのは「OSAKA JACK」です。音楽フェスやスポーツ、お笑い、1日だけ大阪をジャックして大阪全域でイベントをやる。大企業とか中小企業とかいろんな枠組みを取っ払って、みんなでイベントしようぜ。そして、大企業だけじゃなくて、どんな所もスポンサーになれて、商品開発もできる。大阪府民がみんなで挑戦できる一日。いろんな枠組みを取っ払って、みんなが繋がって何かをやり遂げる、その考え方はダイバーシティそのものです。その大阪モデルを絶対に成功させて欲しい。そうすれば大阪ジャックは、京都ジャック、富山ジャック、いろんな所に広がる。そしてその夢はみんなをワクワクにしてくれますよね。

 かんちゅわんは考えます。夢の先にある俺の使命はなんだろう?それはやっぱりワクワクする人を増やしていきたいということ。名刺作りやいろいろなイベントを通して、人の価値に気づく手伝いをしてきた。人はみんな価値があって、ワクワクできるんだ。でも、それに気づいていない人もたくさんいる。自分は大阪ジャックでみんなに自分の素晴らしさに気づいてもらいたい。

 そして、スタッフがもっともっと幸せになるようにしていくような会社にしていきたい、それもかんちゅわんの夢です。「今、会社のみんなといる時間がいちばん楽しい。スタッフの幸せを考えているときがめっちゃ幸せだ」とかんちゅわん。いずれはわくわくアップで働きたいという人をみんな採用できるようになりたい、と考えています。スキルがなくてもいい。それは作り出せるから。

 3ヶ月前に入社した子がキラキラした目で言ってくれました。「私には夢がなかった。でも、この会社に入ってから毎日みんなが夢の話をしているのを聞いて、私も夢についていっぱい考えるようになりました。そして、私も夢が見つかったんです。私は、自由に絵を描いたり写真を撮ったりできる美術館を作りたい!それが私の夢です!」

 めっちゃ嬉しかった!とかんちゅわん。
 既に、ワクワクな人をたくさん生み出していて、本当にステキです。

 これからも、そのわくわくパワーで大阪を、そして日本を変えていってね!もちろん、私もずーっと応援しています。そしていつか富山ジャックをやるどー(^^)


次項有お知らせ

なんとかんちゅわんは11月15日に
ワンマンショーを行うそうです!!

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名づけて「上林達矢〜wakuwakuができるまで〜」

笑あり、学びありのとても濃い2時間を
過ごせること間違いなしです(^O^)/

内容としては

●楽しく、明るいチーム作り
●社内の雰囲気作り
●主体性のある人材作り

などが主な内容となる予定です!
いつもの講演会やセミナーとは一味違います!!

◆日時
 11月15日(木)19:20〜21:20

◆会場
大阪市立青少年センター(KOKOプラザ!)
講義室406
http://www.kokoplaza.net/access.html

◆参加費  無料


興味をもたれた方、こちらをどうぞ~
fbページはこちら→http://www.facebook.com/profile.php?id=100002873790954#!/events/106754312817726/?notif_t=plan_edited

今日の人66.上林達矢さん パート.1 [2012年10月23日(Tue)]
今日の人は、ドリプラ世界大会2012プレゼンター、株式会社わくわくアップ代表取締役
上林達矢さんです。
写真 12-10-14 10 55 24.jpg

上林さん、通称かんちゅわんは大阪生まれの兵庫育ち。小学生の頃から、お調子者でクラスのムードメーカーでした。キャプテン翼に憧れ、4年生の時からサッカーを始めます。でも、レギュラーはもらえず、ずっと12番。それでキャプテン翼でも同じ背番号の選手に共感を覚えていた少年時代でした。

かんちゅわんが今までの人生の中で一番楽しかったのが小学校2年の時です。幼稚園の時の仲良し3人グループが同じ教室になったこと、そして、産休要員で来ていた嶋先生という20代の若い男の先生が本当に伸び伸びさせてくれたのがめっちゃ楽しかったのです。
だから、いつの時代に戻りたいかと聞かれると、迷わず小2だと答えるとかんちゅわん。

 母方が音楽一家だったこともあり、小学校1年から6年まではバイオリンも習っていました。いや、正確には習わされていた、と言った方がいいでしょう。とにかく練習が嫌でよく泣きながらレッスンしていたのを覚えています。しかし、この6年間の練習は決して無駄にはなりませんでした。なぜなら中学2年の時から始めたバンド活動で、バイオリンの経験が役に立ったにちがいないからです。バンドではハードロックをやり、学園祭で歌ったりしていました。最初はサッカーもやっていたのですが、だんだん視力が悪くなり、メガネをかけないとボールが見えづらくなってきたので、中2でやめてしまったのでした。
 
 しかし、高校に入ると再びサッカーをはじめ、かつバンドに打ち込んでいました。友だちとライブハウスでライブをやるなどして、バンドで食べていきたいなぁという夢をいだきました。
 しかし、それをお母さんに言ったところ、「アホなこと言いなさんな」で一蹴されました。
その言葉でかんちゅわんは、現実的じゃないんだなぁと、あっさり夢をあきらめてしまったのでした。
 
 お母さんの口癖は他にも「思いつきでものを言いなさんな」「しようもないことしなさんな」「夢みたいなこと言いなさんな」がありました。なんだか夢を見てはいけないんだ、というのがインプットされていったかんちゅわん。
 
やがて大学に入り、いろいろなバイトを始めます。小さい頃はよくお父さんにスキーに連れていってもらっていたのもあって、冬はスキー場でのアルバイトをしていました。そんなこともあって、スキーのインストラクターをやろうかと思っていた所、お母さんとゼミの先生から、「もっと現実的なことをやりなさい」とまたしても言われてしまいます。
「なんか働きたくねーな。」…そう思ってしまいました。バイトには精を出していましたが、就職活動はろくにせず、申し訳程度で受けた企業は面接で不採用。

 そんな時、ずっとバイトをしていたサカイ引越センターが大卒採用2年目で求人を出しているのを知り、応募したところ採用されます。
かんちゅわんの担当は営業、サカイ引越センターが進出したばかりの東京調布支店に配属になりました。最初の頃は、バリバリの大阪弁で営業するのが東京の人には珍しかったようで、営業成績はとてもよかったのですが、半年くらいたつと、ぱったり営業が取れなくなってしまいます。営業成績が下がると、現場にやられるのですが、営業の人間は現場でいじめられやすく、かんちゅわんも最初のうちはいちばんしんどい所をやらされていました。しかし、明るく素直な性格だからでしょう。徐々に現場の人から可愛がられるようになります。ただ、現場の仕事は想像以上にきつく、身体がガタガタになってきて、1年で辞めることになりました。引越しの時は思いがけず、現場のみんなが手伝いに来てくれて、嬉しかったなぁとかんちゅわん。

 ただ、仕事を辞めたことは親には知らせず、学生の頃バイトしていたスキー場で再びバイトしていました。けれど、なぜかそこにお母さんからの手紙が来ます。いくら文句を言っても母親が息子を心配しないわけはない(私も2人の息子の母なのでよくわかります)きっとお母さんはかんちゅわんのことが心配で仕方がなかったのでしょう。手紙はバイトしてるならこっちに帰ってきて家の仕事を手伝ったらどうか、という内容でした。

かんちゅわんの家はおじいさんの代から続く印刷会社でした。中でも製版を請け負っていましたが、印刷業界はデジタル化が進んで淘汰の時代に入っていました。かんちゅわんのお父さんとおじさんは投資の少ないデザインの仕事にシフトしてデザイン業を主にやっていました。かんちゅわんはそんな時に会社に入ったのでした。

 かんちゅわんのお父さんは何も言わない人でした。かんちゅわんは自分で仕事を探すしかありません。なんでもやるなんでも屋をしていました。しかし、5年目くらいでおじさんが独立して出ていくと、営業を担当せざるを得なくなりました。それにしたって、なんの引き継ぎもなく、誰も教えてくれません。困ったかんちゅわんは、名刺を作って、飛び込み営業に駆け回りました。大きいビルに飛び込んで一番上の階から順番に回るのです。一日に50~60件回って、夕方会社に帰って電話やFAXが来るのを待つ日々でした。しかしちっとも仕事には結びつきませんでした。

 飛び込み営業に回っても社長さんにまではなかなか辿りつけないと思ったかんちゅわんは異業種交流会に積極的に顔を出すようになりました。そこではダイレクトに社長に会えます。いろいろな業種の社長さんにかわいがってもらいましたが、その頃のかんちゅわんには、社長さんがお金にしか見えていませんでした。

そんな時、これいいですよ、と本を貸してくれる人がいました。彼は「こんな勉強会ありますよ」とか「こんな相談会ありますよ」と、役に立つ情報を惜しみなく提供してくれるのです。なんでこんなに人のために尽くせるんや、すごいなぁと感じました。
そして、彼に勧められた勉強会で「聞く」ことを大切にするインタビュー・トレーニングを受け、勉強しながら異業種交流会でもらった数々の名刺のアイディアを取り入れた斬新な名刺を作ってそれを配っていると、「上林さんと同じ名刺を作って欲しい」という依頼が増えていきました。「そうか、名刺は商売になるんや!」そう確信したかんちゅわんは、名刺を作ってほしいという人に90分インタビューして、それを名刺に落としこむというやり方を確立しました。そうして名刺を作っていくうちに、それを体系化してセミナーをしたら?と言われます。もともと目立つのが好きで人前に立つのが好きだったかんちゅわん。

  セミナー講師になる勉強、パーソナル・ブランディングの勉強も始めました。そんな時に車の中で聞いたのが中村文昭さんの講演のCDでした。それを聞いたかんちゅわんは感動で車から降りられなくなりました。ちょうどその頃、業績不振が続き、自分を信じてやっていこうと思いつつもとてもしんどいと思っていたのです。そんな時にガツンとパンチを入れられた感じでした。文昭さんの言っていること、例えば「返事は0.2秒」「なんでもやってみる。やってないこと、わからないこと、やらずにいれば今までと一緒。首を縦に振ることで運が変わる!」等など、自分にとって必要なことばかりでした。これはみんなにも聞かせたい、そう思ってたくさんコピーしてみんなに「めちゃめちゃいいから」と言って配りました。

 そんな時、そのCDを聞いたほめ達さんこと西村貴好さんが文昭さんを呼んで講演会を開こうと提案してきたのです。こうして、中村文昭さんの講演会をほめ達さんと一緒に開催したのが2007年のことでした。その後は、前向きな中小企業の社長や飲食店の経営者と大阪でいちばん熱い忘年会を開催してめちゃくちゃ盛り上がるなど、イベントも数多く主催するようになっていきました。

パート.2に続きます。
今日の人65.ナカノ・マクレーンさん [2012年10月22日(Mon)]
 今日の人は、ドリプラ世界大会2012プレゼンターで、プロマジシャンでもあるナカノ・マクレーンさんです。マクレーンさんは、マジックだけでなく、講演活動も積極的に行っていて、全国を飛び回っています。
ナカノ・マクレーンofficial website⇒http://www.nakanomaclaine.com/
マクレーン宣材.jpg

 マクレーンさんが生まれたのは石川県は金沢。小さい時はとにかく人見知りで、運動も苦手だったので、家の中でTVゲームをしたり、本を読んだりして過ごすのが好きな子どもでした。そんな少年が、マジックに興味を持ちだしたのは10歳の時。お父さんがおもちゃのマジック道具を見せてくれたのが楽しくて、自分もやりたい!と思って練習し始めたのがきっかけだったのです。
 でも、夢はなく、ただなんとなく公務員になろうかなと思っていました。安定している仕事がいいんじゃないかと、ずっとそんなふうに考えていました。石川高専に入り、建築を勉強したこともあって、ますますその考えは現実味を帯びてきました。
 
 19歳になった時、マクレーンさんは考えました。今まで安定を求めて公務員になろうと思っていたけど、本当にそれでいいのか?自分はどうやって生きていこうかと、初めて本気で悩みました。そうして思ったのです。自分は誰かを喜ばせたい。そのために自分ができることは何?そうだ、マジックだ。
 それまでも趣味でマジックを続けていたマクレーンさんは、そこで本気でマジックをやり始めました。すぐにプロマジシャンを名乗り、活動を開始。1年間は学生をやりながらの活動でした。 そして卒業後、金沢で1年間活動。
 
 マクレーンさんは人脈を築くのがとても上手です。臥龍先生こと角田識之さんや、ワタミグループの渡邉美樹さん、普通はなかなか繋がることのできない方と10代の頃から交流を持っています。渡邉美樹さんがカンボジアに行くと知れば「一緒に行きます!」とついていって、カンボジアの子どもたちにマジックを披露したり、とにかく行動第一の人なのでした。

 人脈のプロフェッショナル内田雅章さんの講演の際にはいちばん前に座って、真剣に講演を聞き、さらに真っ先に本を書い、真っ先にサインをもらい、その足でハガキを書いて内田さんに出しました。その行動が内田さんの目に止まったのか、「ビックになりたかったら東京に出てこい」と言われます。
 金沢でゴーゴーカレーで創業した宮森宏和さんからも「いつ東京に出てくるん?石川でやり残したことあるん?」と聞かれたマクレーンさんは「やり残したことはない」と上京を決意します。
 
 こうして10万円だけ持って夜行バスに飛び乗りました。それからたった10日でアパホテル&リゾートと契約を結び、その後も次々と仕事を受け、東京に出て2年たった今、提携・取引起業は1000社を超えました。介護施設や病院等にも年間100ヶ所慰問に訪れています。苦しんでいる人を喜ばせたい、と考えているからです。

 いろいろ大変なこともあるでしょう?という質問に即座に帰ってきた答えはノー。
自分には仕事と遊びの区別がない。全てが楽しくて仕方がない。嫌なこと、腹が立つことはない!と言い切ったマクレーン。
 若干23歳で得度をしたお坊さんのようなその答え。
 実はその奥にもっと秘められた思いがあるやにも思えましたが、残念ながら今回はそこまでお聞きすることはできませんでした。

 自分はいつも4人の偉大な先輩から見られている、と思っている。だから、絶対に彼らに対して恥ずかしい行いはすまいと誓っています。
 
 今、日本はいろんな面において危機的な状況だけど、そんな時代だからこそ、明治維新の志士のような存在は必要不可欠だと思っています。自分は志を同じくする人たちと一緒に平成の志士の一人として、これからもせいいっぱい動いていきたい、胸に大きな情熱と夢を抱いて、ドリプラ世界大会の舞台に立ちます。

 きっと逆境に立っても、その溢れる若さと自信で、逆境とすら感じないのがマクレーンなのかもしれません。しなやかなフットワークで、これからどんなマジックの境地を見せてくれるのか、とても楽しみにしています。
今日の人64.二宮尚徳さん パート.2 [2012年10月17日(Wed)]
パート.1から続きます。

 しかし、どん底の中で思ったのです。自分という人間はまだ何もなしてはいない。どうせなら何かひとつでもやり遂げよう。もともと公務員試験の勉強をしていたこともあり、にのさんは、最難関と言われる国家公務員一種試験にチャレンジします。官僚になる人たちは、民間企業に行けば、どれだけでも稼げるようなすごい能力を持った人たちだ。でも、公僕になって、ものすごい力を発揮している。自分も官僚になろう。そう思って、今までにないくらいにがむしゃらに勉強したのです。

 こうして見事国家公務員一種試験に合格したにのさんは農水省に入省。優秀な上司、そして優しい上司に囲まれ、全然知らなかった仕組みがわかっていくのが楽しくて仕方ありませんでした。そして国を実質動かしている各省庁のすごい人たちと知り合えることは本当にワクワクしました。霞が関から帰るのは、毎晩12時を回っていましたが、それすら楽しいと感じていました。

 2年目、鹿児島に農村派遣研修に出かけ、3週間ファームステイをしました。農作業で身体を動かす時間はとても充実したものでした。3週間たって、東京に帰る時に、なぜかじんましんが出ました。にのさんの中でふとした疑問が生まれ始めていました。『俺達は政治家が言っているから仕事をするのか?…』
 そんな時に、本格的に鹿児島に出向になります。今までの忙しさと一転して、穏やかな時間の流れの中でホッと一息つけました。そんな時に思いました。自分はどうしてこんなに一貫性のない生き方をしているのかな…自分の生き方に意義を見出すとしたら、自分の中にはどんな一貫性があるんだろう?出てきたのはやはり自分は動物が好きなのだ、ということでした。中学高校の時に、楽しいことに専念しようとしたのも悲しいことを忘れるための裏返しではなかったか?金沢大学に入りながらも、獣医になるために日本大学に入り直したのもキーワードは動物。そして、殺処分の現場に行きながら、それも見てみないふりをしてきた。問題意識を持っていながら、何もしない自分がはがゆかった。
 
 官僚はロジカルに考えることは得意だけれど、意思決定は政治家がする。だとすれば、自分でビジネスをやって意思決定権を持てば、動物を助けることだってできるのではないか。漠然とそんなことを考えたにのさんは、「おもしろいほど会計のわかる本」を書いた天野敦之さんの講演を鹿児島で聞き、鹿児島にいる間に公認会計士の資格をとろうと勉強を始めました。その矢先に、隣の宮崎県で口蹄疫が出て、穏やかな時間の流れは一転し、目の回るような忙しさになりました。そうして2年の任期が終わり、本省に戻る直前に、あの東日本大震災が起こりました。
 
 それからのにのさんは原発事故対応で1年間で2000時間も残業するほどの激務の日々を送ることになります。外国が水産物の輸出を止めてしまったのを、政府が安全性を担保する証明書を発行することで、輸出を再開することができるようにしました。にのさんはその証明書の発行に当たったのです。ある時、シンガポールの日本料理屋の女将さんから電話がかかってきました。日本からの輸出が止まるとお店がつぶれてしまう、と涙声で話す女将さんに「大丈夫ですよ。今、わたしたちが証明書を発行しますから。」と話すと、心から喜んでくれました。『ああ、公務員をやっていてよかったなぁ』と感じた時でした。
 しかし、毎日朝4時近くまで残業し、2時間後には出勤するという日々はさすがに体力を奪いました。ふと気を失った時に、三途の川を見たにのさん。震災の影響も収まってきて、「公務員として、もう自分を許せるくらいの仕事はしたなぁ」と感じました。

 そうして、公認会計士になるよりも、いきなりビジネスをやってしまおうと思ったにのさんは、誰か起業について教えてくれる人はいないかと探した時に、鹿児島で講演を聞いた天野さんが起業支援をやっていることを知り、そのセミナーの中で初めて福島正伸さんの名前を聞いたのでした。そして、ドリプラの存在を知り、初めて見たのがドリプラ世界大会2011の本選でした。「なんだ、これは!」と感動したにのさん。その後、ドリプラに出場したい人のための説明会に出ている時の決意表明の時間。特に決意表明をしようと思っていなかったにのさんでしたが、ちょうどその時に友人からメールが入ります。

「実は癌になってしまったんだ」
…それを読んだにのさんはとっさに決意表明に立ったのです。
「僕は官僚を辞めてビジネスをやります。そのためにドリプラにも出ます!」と。

 そしてドリプラ世界大会2012にエントリー。そうして書類審査に通り、新たな挑戦を切ったにのさん。上司にも「この仕事を今年度いっぱいで辞めます」と伝えました。
 
 背水の陣を敷いて今まで自分が直視したくなかった所をやろうとしている。今まで感情は表に出したくないと斜に構えていたけれど、みんなに自分の想いを話すと、共感していくれる人がたくさんいることに気づきました。そうして今、本気でやりたいことに取り組めることにワクワクしています。
 にのさんが本気でやりたいことは、そう、殺処分される動物をなくすこと。小さい頃からずっと抱いていた動物への想い。その想いをドリプラで語ろうとしているにのさん。
その強い想いが、どんなプレゼンになるのか、とても楽しみにしています。きっとシロとクロも、にのさんのことを見守ってくれています。にのさんの新しい価値観がこの世界に広がって、成犬になったシロとクロがにのさんと一緒に稲を刈り取ったばかりの田んぼで稲あとを踏みながら力強く駆け回っている姿が鮮明に頭に浮かびます。
 その道は平坦ではないだろうけど、だからこそ、そんな日のために、たくさんの仲間と一緒に、がんばれ、にのさん!
 もちろん、私も、ず~っと応援し続けます。

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夢ビールを持ったわが家のネコ「にのさん頑張れ~」
今日の人64.二宮尚徳さん パート.1 [2012年10月15日(Mon)]
今日の人は、ドリプラ世界大会2012プレゼンターの二宮尚徳さんです。
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今のお仕事は農林水産省の官僚。二宮さんは滋賀県木之本町の出身。今は合併されて長浜市になりましたが、木之本町といえば、あの賤ヶ岳の戦いで有名です。
 
そんな二宮さん、呼びやすいのでにのさんと呼びますが、小さい時から動物が大好きでした。うさぎやハムスターなどの小動物は常に家にいたし、釣ってきた魚を水槽に入れたりもしていました。滋賀は琵琶湖があるので、釣りをする場所には事欠きません。こうして、釣りをしたり、虫採りをしたり、外で駆け回っていた少年時代でした。家族も両親に兄弟3人、そして祖父母の7人家族で賑やかに育ちます。
 
にのさんには忘れられない出来事があります。とにかく動物が大好きだったにのさんは、よく子犬や子猫を拾ってきては、お母さんから「飼えないからダメ」と言われていました。しかし学年が上がって知恵がついてきた少年は家で飼えないなら内緒で飼えばいい!と思いつき、拾ってきた子犬2匹を自分の秘密基地で飼っていました。白と黒のその小さな2匹は本当にかわいく、稲を刈りたての秋の匂いがする田んぼで思いっきり走り回って、疲れてにのさんのひざの上で本当に幸せそうな顔をして寝息を立て始めるのでした。その2匹の顔を見ているとにのさんもとても幸せで温かな気持ちになれました。夕方になると後ろ髪を引かれながらも家に帰り、次の日学校が終わると急いで子犬たちの元へ行く、という毎日がずっと続く、そう思っていました。
 
ある日、いつものように秘密基地へ行くと、シロとクロがいません。必死で探し回りました。どこか遠くに行ってしまったのか、いやそんなはずはない。誰か拾って行ったの?会いたいよ。僕のシロとクロ…
 
少し時間が経ってわかりました。野良犬が飼われているという情報が保健所に入って2匹は保健所に連れていかれたのだと…
 ショックがあまりにも大きすぎました。少年の心には耐え切れないくらいに…
それでにのさんは自分の心にふたをしました。それに気づかないふりをして、何も考えずに楽しいことをして過ごすようにしました。
 
 スポーツ少年でもあったにのさんは、小学校の時は野球、中学に入ってからはバスケに打ち込みます。スラムダンクが人気だったということもあり、部活に燃えた中学時代でした。中学1年の時には、お父さんが心筋梗塞で突然この世を去りました。おじいさんが亡くなって、数ヶ月後のことでした。しかし、お母さんが必死で働き、生活はあまり変わりませんでした。とにかく悲しいことは考えたくない。勉強と部活をやっていれば、中学生の本文は全うしているんでしょ。そう思うようにしていました。

 やがて、高校に進学したにのさんは、共に友だちとコントをして文化祭で発表するなどの活動もするようになりました。幼稚園の時にエレクトーンをやっていたこともあって、音楽にも興味があり、ギターを弾いて歌ったりもしていました。特に夢もなかったけれど、なんとなく生きてても楽しいじゃん、そう思っていました。
 それでも3年生になって、みんな受験勉強に真剣に取り組むようになると、にのさんもみんなと一緒に図書館に行って勉強するようになりました。

 こうして金沢大学の工学部機能機械工学科に合格したにのさんでしたが、半年経って、俺は本当にエンジニアになるのか?と自問自答したとき、いや、そうじゃないんじゃないか、という思いがぬぐいきれないくらい大きくなりました。「俺は獣医になろう!」そう思い立って、大学1年の夏からは、京都の河合塾の寮に入って受験勉強を開始。しかし、受験勉強もそこそこにミニ四駆で遊びまくっていた日々でした。
 それでも、にのさんは日本大学の獣医学科に合格!私立だから学費も高いのですが、お母さんは「どうしても行きたいんなら」と言って進学を許してくれました。

 日本大学の獣医学科は湘南にも近く、しょっちゅう海へ行ったり、バイクでツーリングしたり、ギターを弾いたりと本当に楽しい日々でした。
 大学1年の時は動物病院と学習塾でバイトをしながらひたすら遊びました。2年の後半頃になるとちょっとずつ忙しくなり、進路のことに関してもすこしずつ考え始めるようになりました。獣医といっても動物病院の獣医もいれば、家畜の獣医だっている。公務員や、食品衛生の基礎研究をする道もある。大学のカリキュラムではそういうことを一通り学べるようになっていました。
 
にのさんが3年生の時のことでした。動物を殺処分する場所を見学に行く時間がありました。動物が殺処分される風景は見ずに済みましたが、コンクリートと鉄の無機質な空間を見ればそれで充分ショックでした。心に固く封印していた部分がズキズキ痛みました。
白、黒、お前たちは、こんな場所で殺されていったのか…

 こうして無言で家に帰ったにのさん。大人になるというのはこういう現実を受け止めなければならないということなのか?動物が好きだから、単純に獣医になろうと思った。けれど、それで本当にいいのか?自分は何になりたいんだろう。4年生で研究室を選ぶ時に、にのさんはずっと考えていました。そして、とりあえずいろんな可能性を残しておこうと公務員試験の勉強もすることにしました。

研究室はバイオサイエンスの基礎研究を選び、免疫について研究を重ねました。でも、5年生の頃は、研究室の雰囲気がすごく悪かった。それは、にのさんがよく担当教官の発言に反発していた原因もありました。

…そんな頃、とても仲のよかった友だちが研究室に来なくなりました。どうしたんだろうと、後輩と一緒に部屋を見に行くと、なんと彼女は部屋で亡くなっていたのです。死因はわかりませんでした。でも、ショックでした。そこに失恋も重なり、にのさんは人生に失望します。死んでもいいや、とさえ思いました。抜け殻状態でした。


パート.2に続きます。


 
今日の人63.金生展子さん [2012年10月12日(Fri)]
 今日の人は、ドリームプラン・プレゼンテーション2012世界大会プレゼンターの金生展子さんです。金生さんはまつげエクステ・アイブロウ専門サロンPrimaveraの代表として、日々女性を美しくしていらっしゃいます。
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 金生さんが生まれ育ったのは九州は博多。小さい時から動物と触れ合うのが大好きでした。いえ、動物だけではなく、虫も好きで、よくカナヘビなども捕まえていたそうです。虫と聞くと、きゃ~っとなる女の子も多いのですが、てんこちゃん(金生さんはみんなからそう呼ばれてます)は可愛い顔とは裏腹に相当おてんばだったようで、秘密基地を作ってターザンごっこをするも大好きな女の子でした。そして博多っ子らしく、お祭り好きでホークスファンでもありました。
 中学校ではバレーボール部に入り、恋話で盛り上がるごく普通の中学生でした。高校はカトリック系の寮のある高校に。同室の先輩と仲良くなり、段ボールでこたつを手作りしたのが楽しかったなぁとてんこちゃん。

 一見何の悩みもないように見えましたが、実は家族のことで悩んでいました。お父さんが浮気性でてんこちゃんが幼稚園の頃から、ほとんど家に帰ってこず、お母さんは女手ひとつで3人の子どもを育てているような状況だったのです。それでもなぜかお父さんを恨む気持ちにはなれなかったてんこちゃん。それはきっとお母さんはどんなに苦労したとしても、お父さんのことで愚痴を言わなかったからなんだろうな、と今は感じています。

 それまでとても元気だったてんこちゃんを病魔が襲ったのは高校生の時でした。高校2年になったばかりの4月、急性リンパ性白血病で入院。福岡で3ヶ月治療を受けるものの、再発。お母さんはこのままではわが子の命は危ないと察知し、最先端の医療が受けられる神奈川の病院への転院を決意します。このお母さんの勇気ある決断がなかったら、今頃てんこちゃんの笑顔が見られなかったのかもしれないと思うとき、母の愛のすごさを感じるのです。

 神奈川の病院は、日本全国から難病の子ばかりが集まってくる病院でした。福岡にいるときは、「私は1人なんだ」と思ったりもしましたが、ここでは全くちがっていました。みんなが苦しんでいる。北から南まで、実にさまざまな病気を抱えた子どもたちが集まっている。こうして闘病仲間とのつながりが生まれ、孤独感から解放されました。
しかし、難病の子どもを持つ家庭の抱える問題は深刻でした。全国に20万人いる難病の子どもたちの家庭では、なんと4割の両親が離婚に到ります。母親が病院で子どもにつきっきりになるため、今まで家のことをあまりしなかった父親に 家事労働や家に残っている兄弟の育児が重くのしかかり、やがて家族間に亀裂が生じてしまうことがとても多いのです。協力的な父親は、ちゃんと家事育児ができるように残業のない職場に転職する人も多く、そうなった場合、家計が苦しくなることも本当に多い。そして、家に残された兄弟は病院で母親をひとり占めにしている難病の子に嫉妬する…。病気が、こんなにもその家族をじわじわと苦しめていく、それが難病の子を抱える家庭の厳しい現実なのです。

しかし、金生さんの家族は、てんこちゃんの白血病で家族の絆が強くなりました。今までずっと家を空けていたお父さんが、家に戻ってきたのです。そして、お兄さんとてんこちゃんのHLAが一致したため、てんこちゃんはお兄さんから骨髄移植を受けることができ命をつなぐことができたのでした。

 こうして1年半もの長期入院生活を送り、難病の子どもたちとのつながりが生まれ、またその子どもたちの現状を知った金生さんは、「自分の命はもらった命、この2度目の命は私と同じように苦しんでいる子どもたちのために使いたい!」と思うようになっていきました。
 
 けれど長期にわたる入院で体力もすっかり落ちていたので、まずは家で大検の勉強を始めました。そして大検を見事に突破し、通信課程を持つ専門学校に通って短大卒の資格も取りました。その後、大学の編入試験を受けて合格。大学3年生からのキャンパスライフでしたが、金生さんにはやりたいことがありました。

19歳、難病の子どもたちのために何かできないかと思っていた時に、お母さんから「Give Kids The World」というアメリカのプログラムのことを教えてもらいました。難病の子どもとその家族をディズニーワールド等に1週間無料で招待し、家族が心から笑顔になれる時間を作ることで、希望と可能性を持って生きていけるようになる、というプログラムでした。金生さんは思います。いつか日本でもこういうのを作りたい!

 そんな思いがあったので、大学に編入した後はサークルを立ちあげて難病の子どもたちの現状を知ってもらうために演劇をしたり、自らの体験談を講演したりして精力的に活動していました。ちょうどその頃、少年によるバスジャック事件など簡単に人を殺してしまう少年犯罪が多く発生し、「病気の子どもたちは、生きたくて生きたくて必死で頑張っている子が大勢いる。一方で健康な命を簡単に殺めてしまう人がいる。命はそんな軽々しく断てるものじゃないはずだ。」と、いてもたってもいられなかったのです。

 こうして3年生の間はひたすら活動をし、4年になって就職活動も始めた時のことです。いきなり独立することも考えていたのですが、先輩にOG訪問した時に、「金生ちゃん、東京と福岡じゃ情報量が100倍違うから、まずは東京に出てきて、それから考えたら?」と言われます。それもそうだな、と思った金生さんは、当時ベンチャー企業だった楽天に入社。なぜ、楽天を選んだかと言うと、説明会の担当だった女性が「私は2年後に自分で小料理屋をやりたい」とおっしゃったのがとても印象的だったからです。会社の説明会で自分のやりたいことを言ってる。おもしろい会社だなぁと思ったのでした。こうして楽天で1年半働き、その後独立。パスタの移動販売車ボノボノ号を作って、移動販売をしていました。そんな中、お店をやらないか、と声をかけられてオープンにいたったのが、今代表を務めるPrimaveraです。

 楽天、移動販売、そして美容の世界とパッと見は一貫性がないようにも見えますが、実は金生さんの中には「女性に応援してもらえることをしよう」という核があるのです。女性を応援していれば、いつか自分が「Give Kids The World」の日本版を立ち上げたときにきっと力を貸してもらえると思っています。やはり、子どもたちを支えるいちばんの力は母性。自分も母に救われた。母なる力を持つ女性を応援することで、いつか自分も応援してもらえる人になろう、そう思っているのです。そして、女性を対象にしたスクールも定期的に開催しているとってもバイタリティに溢れたてんこちゃんなのでした。

 ある日、部屋の片付けをしていた時でした。自分が10代のころに作ったプレゼンが出てきました。それを読みながら、ある出来事を思い出します。自分が入院したての頃、80代のおじいちゃんも入院されていた。あまり話したこともなかったけれど、そのおじいちゃんがなくなるとき、「もっともっとやりたいことがあった」と言って亡くなったというのを聞き、とても衝撃を受けたのを思い出したのです。80代のおじいちゃんでももっともっとやりたいことがあると言って亡くなっていった。私は「Give Kids The World」の日本版を立ち上げたいと思ってきた。でも、自分の中でそれは50代でと思っていた。なんで50代でって思っていたのだろう?人生、いつどうなるかわからない。今やりたいことをやらなかったら後悔する!もうやりたいことを先延ばしにするのはやめよう!

 こうして金生さんは動き始めました。すると不思議と金生さんのやりたい活動に通じる人たちと繋がり始めました。今回ドリプラでパートナーをしてくれる金澤さんもそうです。「Hope & Wish難病の子どもとその家族に夢を」という公益法人で活動されている方だったのです。そしてHope & Wishにはウイッシュ・バケーションという2泊3日のプログラムもあって、日本で既に「Give Kids The World」のような活動をしていらっしゃる。金生さんもすぐにメンバーになって、一緒に活動を始めました。

 そして、同じ想いの人はきっと全国各地にいるはずだと確信し、自分は点と点をつなげる役目をしよう!東京でも大阪でも博多でもたくさんの人が動き始めている。その点と点をつなぎ、私はきっとウイッシュ・ヴィレッジという夢と勇気の場所を日本で作る!そう心に決めています。

 自分は一度死にかけた命、そんな命だからなおのこと今生かされていることに自分の使命を感じます。そして、走りだして「こんなにも夢って近くにあったんだ!」と感じる日々なのです。
自分はとっても天然だけど、むしろそれを出すことで受け止めてもらえることもわかりました。そうして、今いろんなことがうまく回っていることが楽しいとてんこちゃん。
 
 これから夢に向っていく中で、うまく回らないようなこともきっと出来湧くことでしょう。でも、夢をあきらめさえしなければ、何回うまくいかなくなったって、最後には絶対うまくいくに決まってる。

 てんこちゃんのウイッシュ・ヴィレッジで、難病の子どもたちとその家族のたくさんの笑顔が見られる日が来ることを、私も心から待ち望んでいます。そしてもちろん、その素敵な夢をずっとずっと応援しています。
今日の人62.鈴木健司さん [2012年10月10日(Wed)]
 今日の人は学校法人大原学園大原日本語学院主任教員の鈴木健司さんです。
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 鈴木さんは、神主の資格もお持ちの日本語教師。
 
 子どもの頃は電車やバスの運転手になりたかった鈴木さんは、今も青春18切符で全国を旅するのが好きな鉄ちゃんでもあります。
 小学生の頃から歴史と考古学に興味があった鈴木さん。土を掘ることで、いろんな考え、技術を知ることができる。文献史学ではなく、文字のないところから歴史を知る。それは鈴木さんにとって、本当にワクワクすることなのです。
 
 そんな鈴木さんですから、小学生のとき飼っていたカブトムシが死んでしまった際も、なんと前方後円墳を作りました。しかも、三層の堀まで作ったというから、小学生とは思えない凝りよう。
 
 音楽も好きで、小6の時にラジオから聞こえてきたモンキーズをはじめとする60’Sロックにはまりました。それで中学の時からギターを始め、就職してからはバンド活動もやっているそうです。

 さて、考古学が大好きだった鈴木さんですが、大学は國學院大學の文学部神道学科
(現:神道文化学部神道学科)に進みます。考古学の方にストレートに行きたかったんだけどね~と苦笑されましたが、神道学科に進んだことで、素敵な出会いもたくさんありました。

 卒論指導の先生は、柳田國男折口信夫という民俗学者の二大巨頭とつながりのある平井直房先生でした。卒論のテーマを「古代出雲における蹄鉄とそれに関する信仰との関係」に決め、卒論締め切りの一ヶ月半前になってようやく先生の研究室へ。しかし、先生からはあっさりと、「キミの卒論の題目は『出雲の製鉄』にしましょう。それで、今更指導しても仕方がないから、思うように書いて!!査問会で勝負しよう!」と言われてしまいます。

 とにかくフィールド・ワークを大切にし、歩いて歩いて論文をまとめるタイプ柳田國男先生。対してインスピレーションを論文にまとめるタイプの折口信夫先生。鈴木さんの指導教官の平井直房先生はどちらかというと柳田先生のタイプ。鈴木さん自身は、インスピレーションタイプで、ものすごい集中力での論文を書き上げたのでした。
 さて、問題の査問会。平井先生から「私の所に来なかった割りには、まともな論文だね」とほめられます。そして、神主を募集している超有名な神社まで紹介してくださいましたが、そこがあまりに低月給だったため、鈴木さんはやんわりとお断りしました。

 教員になりたいという思いもあり、教員採用試験も受けましたが、落ちてしまいます。次の年も受けようかと思いましたが、そこで考えなおしました。大学を出て、ろくに社会のことも知らずに教職に着くのはどうなんだろう?それでちゃんと社会のことが教えられるんだろうか。
そう考えた鈴木さんは教員採用試験を受けることはやめ、大原学園に事務職員として就職することになりました。そして、学生管理課や広報課で6年半、仕事をしました。仕事はそれなりに充実感もありましたし、仕事仲間とバンド活動などして、プライベートも充実していました。

 しかし、どうしても考古学を勉強したい、との気持ちが抑えられなくなり、國學院大學史学科考古学専攻に学士入学をします。2回目の学生生活、ずっと土と対話する日々はとても充実していました。こうして、死ぬまでに一度はやりたかったという学問にものめり込むことができた鈴木さんでした。

 そして、ちょうど2度目の就職を考える頃、元職場の上司である大原法律専門学校の校長先生から電話がかかってきました。「今職場が混沌としているから戻ってきてほしい」という電話でした。鈴木さんは言いました。「面倒くさい仕事はやりたくない」

 それを聞いた校長先生は言いました。
「何を甘いこと言ってるんだ。ラクな仕事なんてあるわけがないだろう!厳しい仕事だからお前に頼むんじゃないか」
 その言葉を聞いて鈴木さんははっとします。そうだ、そのとおりだ。なんで俺はラクな方に流れようとしていたんだろう?
そうして言いました。「お金云々は言いません。3年で結果を出すから、やりましょう」
そして、約束通り結果を出した鈴木さん。その部署には37ヶ月と1日いました。
それでは、そのあとはどこに?

 そのあとで移ったところが、そう、大原学園の作った日本語学校だったのです。
同じ学園内の日本語学校とはいえ、広報課で結果を残し広報課長のポストも用意されていたのに、なぜ新たな日本語教育の世界に…?

 それは鈴木さんが神道学科で実習していた時に遡ります。國學院の実習ですから、実習する神社も伊勢神宮や明治神宮といった、それこそ日本を代表する神社ばかり。外国人観光客も当然大勢来ています。鈴木さんが禊(みそぎ)実習をしていた時のこと、英語で質問されました。「禊(みそぎ)って何?」と。
 一生懸命説明しながら、鈴木さんは思ったのです。こういうのを欲している人がいるなら、伝授する役割がある。そして、それは神職に至らなかった自分が担っている役割なのではないかと…。
 
 神道学科で勉強したこと、史学科で勉強したこと、広報課で仕事をしたこと、全てが日本語教育への一本の道につながる!鈴木さんの中で強い確信が生まれました。
 そして、その後は日本語教育の一本道を真摯に歩いて来られました。
 
 よく多文化共生って難しいですね、という人がいるけれど、それは難しいことではないんだと結論づけることが、宗教をやり、歴史をやり、日本語教育をやってきた自分がやりたいことなのだと、力強くおっしゃってくださるのでした。
 
 日本語教育の世界では以前このブログでも書かせていただいた金子史朗先生がマブダチです。金子先生は東京外大ボート部OBなのですが、新しいボートの進水式をやった時は、鈴木さんが烏帽子をかぶり神主の格好でお祓いをされたそうです。そんな金子先生はじめ及川先生中村先生と日本語教育について議論を戦わせることがとても楽しい時間です。
 とにかく今は仕事が楽しい!と本当に楽しそうにおっしゃるのでした。
 
 そして、仕事以外の楽しみは青春18切符で各駅停車の旅をすること。富山にも白馬経由で真夏にいらしたことがあるそうですが、今度はぜひ冬のお魚の美味しい季節においでください。富山の美味しいお酒を飲みながら、日本語教育のこと、多文化共生のことについてお話させていただくのを楽しみにしています。
今日の人61.田内孝司さん パート.2 [2012年10月07日(Sun)]
パート.1から続きます。

 田内さんが上京して入社した会社は、学卒者がひとりもいない、職人気質の人ばかりの会社でした。ですから、入社して早々、会社改革だなんだと言っている田内さんはみんなに総スカンをくいます。それでも、一番早く出社し、一番遅くに帰って頑張っていると、その様子を見ていた会社の野球チームの監督に、野球部に入らないか、と声をかけられます。野球なら得意中の得意。そして田内さんがいきなりピッチャーで出た試合で完封し、一気に大ヒーローになります。
 こうして、田内さんは劣悪な労働環境を変えたいと、会社改革に着手し、次々に成果を上げていきました。こうして高温多湿で蒸し風呂のような生産環境がオートメーション化に成功し、快適な環境へと変わっていきました。10年かけての成果でした。
 しかし、ある時、社長の雑談を聞いて愕然とします。
「いやあ、うちの会社には人材がいなくてね。誰かいい人いませんか?」

…10年かけて社内環境をここまで改善してきた改革チームを前にしてのその言葉は暴言としか思えませんでした。そこで田内さんは社長にこの先10年のビジョンを問いますが、その答えは田内さんが思っていたものとはかけ離れたものでした。ここに至って、大いに失望した田内さんは、若さもあり、改革チームを集めてその悔しさを吐露してしまいました。それを聞いた改革チームのメンバーは憤慨し、ほぼ全員が辞職してしまったのでした。

 田内さんには業界トップの染物会社から今までの2倍の給料でスカウトも来ましたが、工場についての意見を言ったことで反発をくらい、採用取り消しに。長男が生まれたばかりで2人目の子どももお腹にいるとわかった時に、収入のあてが途絶えたのです。

 政治家を数多く輩出した土佐出身の俺、そういえば子どもの頃は政治家を目指す!と言っていたっけ。もう一度一から自分を鍛え直すために営業をしよう、そう思って、生保の営業をやりましたが、11ヶ月の間、一件の契約も取れませんでした。これ以上、取れないとクビになる、というその時に、奇跡的な1人に出会い契約、その後はうまく契約を取る仕組みを思いつき、面白いように契約数が伸びていきました。しかし、数字ばかりに囚われている自分になっていることに気がつきませんでした。

 ある日言われたひと言。「人相悪いけど、何やってんの?」
それがきっかけで、自分は何をやっているんだ、何のための仕事だ?と身体が動かなくなってしまいました。うつ病の状態になり、アポをとっていてもドタキャンする日々が続き、お客さんがどんどん離れていきました。解約が続き、蓄えも底を尽き、サラ金から借金する日々。一旦は友人に助けてもらい、新たな保険のビジネスを始めるものの、また失敗してサラ金から借金。とうとう自己破産に到りました。そしてわかったのです。今まで自分が選んでもらえていたのは奇抜なアイディアが受けていたのであって、お客さんに人として選んでもらっていたわけではなかったのだと。

 こうして、今度こそ一から出直そうと決意した田内さんは、大手コンサル会社の面接試験を受け、250分の3という難関を乗り越え、採用されます。そこでがむしゃらにがんばりました。しかし、実は会社自身が多額の債務を抱えて、経営陣は逃げ出してしまったのです。田内さんは思います。ここでまた逃げ出したらあかん。そうして、再生計画を債権者に説明して回る日々。150人の債権者に土下座してまわり、納得してもらいました。しかし、どうしても残りの50人まで到達できず、会社は倒産。

 実は会社がつぶれる前の3年間、お給料はゼロでした。債権者に自宅に殴りこんでこられることもありました。そこで田内さんは奥さんに言いました。「頼むから別れてくれ」と。
これ以上、家族に迷惑はかけられない。
 
 するとその時大学生だった長男が言いました。
「お父さんは自分の作ったものじゃない借金を背負って頑張っているんだろ?じゃあ、俺たち家族で働くよ。」
 こうして大学2年の長男、高校3年の次男がバイトで18万、今までずっと専業主婦で働いいたことのなかった奥さんが新聞配達をして6万、合計24万が当時の田内家の収入の全てでした。
 田内さんは思いました。こんなに苦しい思いをしているんだから、奇跡は絶対に起こる!
…でも、その時奇跡は起こらなかったのです。

 清算には2年の歳月を要しました。そして、最後まで残ってくれた4人の社員、彼らの生活をなんとかしたい、そう思った時に、新しい仕事が降ってきたのです。奇跡が起こり始めました。

 田内さんは思います。社長が逃げ出さないでちゃんとやっていれば、実は一社も倒産することはないんだ。清算活動は怖いし、恐ろしいと思っている人が多いかもしれない。それで死を選んでしまう人もたくさんいる。でも、債権者ときちんと向きあえば、けっして恐ろしいことなどない。債権者であってもスポンサーになってくれたり、支援者になってくれたりするのだ。自分の経験を人に伝えたい。感情に押しつぶされて、自分の命を投げ出さないでほしい。
 
 その強い想いを、今年のドリプラ世界大会のプレゼンにぶつけます。プロジェクト名は「龍馬ネットワークプロジェクト!」

 田内さんには忘れられない風景があります。
 昭和56年、高知高専の卒業式の時、担任の先生から言われました。
「君たちに質問する。
 不言実行、有言実行
 不言不実行、有言不実行
 君たちはどれを選ぶだろう?」
クラスでは有言実行と不言実行が半々くらいになりました。

 先生は静かに言いました。
「君たちには、有言不実行で生きていってもらいたい。」
 クラスがざわつきます。なぜ?言うだけでいいのか?

…先生は静かに語りかけました。
「君たちは今、キャリアも地位も名誉も経験も何もない。
 そんな中で、自分が足りないことをとにかく言おう。
 気がついた時にまず言いなさい。言い続けていれば、応援してくれる人が必ず現れる。
 1人でできないとき、必ず協力者がいると信じよう。まず信じよう!」

 この時の先生の言葉は、今もなお、田内さんの心の中に生き続けています。
 だから、田内さんは今日も夢を語ります。
 応援する仲間がたくさん現れると信じて。
 そうすれば、有言不実行はいつか、有言実行になるにちがいありません。

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今日の人61.田内孝司さん パート.1 [2012年10月06日(Sat)]
 今日の人は、ドリームプラン・プレゼンテーション2012プレゼンターの田内孝司さんです。
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田内さんは会計事務所の経営支援を通して、顧問先である中小企業経営者のための経営支援コンサルと個人資産家の相続コンサルを行う株式会社エムビーエスを経営していらっしゃいます。

 田内さんが生まれたのは、「自由は土佐の山間より」で有名な高知県。お母さんは代々続いた庄屋の娘さんでした。これが過去7代に渡る女系家族で、なかなか男の子が生まれません。田内さんのお母さんも最初に学校の先生と結婚しますが、女の子しか生まれず、両親に離婚させられ、2人目に結婚した人との間に生まれたのもやはり女の子だったので、またもや離婚させられます。しかし、その直後に、田内さんがお腹にいることがわかったのです。しかも、当の両親は、やりくりがうまくいかなくなり、お母さんたちをそのままにして、引っ越していってしまいました。お母さんは一気に貧乏な暮らしになり、水商売で働き始めます。そして田内さんが4つの時、ある日突然知らないおじさんがやってきて、一緒に暮らし始めました。それがお母さんの3番目の旦那さんでした。そして、やがて妹が、そして弟が生まれます。
 
 田内さんが小学校に入ったころ、目が覚めると両親とも仕事で家にいませんでした。とにかく貧乏だったので、お母さんは水商売以外の仕事もしていました。学校に行って、戻ってくると、まだ両親とも家におらず、妹が泣き叫んでいます。自分が学校に行っている間、ずっと泣き叫んでいたのか…。そう思うと、田内さんは学校に行けなくなりました。学校に行かず、家で妹や弟の面倒を見ていました。こうして小学校1年から5年の間、3分の2は学校に行かなかったのです。友だちもろくにおらず、勉強にもついていけない。当然、ますます学校に行くのが嫌になりました。
 
 状況が変わったのは6年生の時でした。お母さんが水商売をやめ、田内さんが妹や弟の世話をする必要がなくなりました。そして、ひょんなきっかけで少年野球を始めることになりました。実は、野球ではなく、ボーイスカウトに入るつもりで体育館に並んでいたのですが、同じ日に募集していた野球の方になぜか並んでしまっていたのです。こうして、野球を始めたものの、B軍のさらに補欠。試合に出られるわけもなかったのですが、A,B両軍が遠征に行ったときに、たまたま他の選手が全部ケガなどで出られなくなり、田内さんに1番レフトで出場するチャンスが巡ってきたのです。そこでいきなり、生涯の中で一番と思える大飛球を放ち、巨人の星のアームストロング・オズマだと言われました。この時の原体験が、その先40年間も野球を続けるきっかけになったと言ってもいいかもしれません。
 
 こうして野球を通して、友だちも出来た田内さん。何も考えずに、地元の中学校に進学します。しかし、そこはものすごく荒れた中学校で、わざわざ住民票を変えて、別の中学校に行く人が続出するほど不良のたまり場になっていたのです。田内さんのクラスには1年生なのに、番長のような不良がいて、彼と廊下でぶつかった時に、思いっきり殴られました。その少年はどこに言っても暴力事件を起こしていました。ある日のHRで、担任の先生が彼から暴力を受けたことがある者は手を上げろと言われます。クラスには彼の取り巻きが10人くらいいて、怖くて誰も手を上げなかったのですが、田内さんはそれを知らずに手を上げてしまいました。そうこうするうちに、彼は少年院に送致されることになります。すると、中学2,3年生の間で噂が流れるようになりました。「あの不良のAに臆することなく、堂々と手を上げたやつがいるらしい」こうして予期せず注目を集めた田内さんは、生徒会書記の立候補演説を1000人の生徒の前でやり、見事当選。こうして人前で話すのが大好きになります。でも実は、1対1になるのは苦手で、特に女の子とは話せなかったそうです。
 
 進路を考える時、就職するか、寮のある学校にいきたいと思った田内さん。実はその頃、母や義父と折り合いが悪く、なるべくなら家に帰りたくないと思っていたのです。そして、田内さんは周りの誰もが無理だろうと思っていた国立高知工業高等専門学校に補習付きながらも合格!
 高知高専でも当然野球部に入りました。高知高専はとても野球の弱い学校だったのですが、その年に限って強い子ばかり入部しました。ところが、あまりにハードな練習で5月の連休を待たずに、田内さんを除いた1年生の全員が退部してしまったのです。こうして田内さんは、予期せずセカンドをレギュラーでやることになりました。これも予期せず夏の高校野球地方大会ではベスト8に。けれど、3年生がやめると、部員が7人しか残らず、秋の大会には出られなかったのです。しかし、弱小チームだった高専がベスト8に躍進した夏の大会のことが新聞で取り上げられ、次の年にはたくさんの新入部員を迎え入れることができ、その年はなんとベスト4に。そして田内さんが3年のときもベスト8になり、高知高専始まって以来の3年連続ベスト8以内という快挙をもたらしたのでした。
 
 しかし、部活では大活躍していたものの、もともとレベルの合わない学校だったので、勉強では大変苦労し、胃潰瘍や十二指腸潰瘍になったほどでした。それでも、家に帰るのは絶対に嫌だったので寮生活を貫きました。
 5年生の時には、学生会長に選ばれます。でも実は、願ってなったものではありませんでした。「学生会長になって、高知高専で高知よさこい祭りに出るんだ」と言っていた寮の同室の友だちが、交通事故で亡くなってしまい、田内さんは彼の意志を継いだのです。
 こうして、高知よさこい祭りに出場しようとしますが、学校側が許可してくれません。高知高専は16歳から21歳までの年齢層がいる学校。祭りでお酒でも出て、問題になったら学校の責任問題になりかねない。そう言って断固反対されたのでした。しかし、田内さんは全校の3分の2以上の署名を集め、学校側を説得。そして、出場した高知よさこい祭りでは、踊りと踊りの間にゴミ拾いをし、特別賞として「爽やか団体賞」を受賞しました。これで学校は大喜びし、それ以来、高知よさこい祭りへの出場は学校の恒例行事になっているほどです。
 また野球部でも5年の時には監督を務め、こうした活躍に就職活動の時も名指しでオファーが来るほどでした。

 しかし、田内さんの担当教官は、「お前は大企業の歯車になるタイプじゃない」と言って、ある染物会社を薦めてくれました。「ここで、天下を取ってこい!」
その言葉に田内さんは心を奮い立たせ上京したのです。


パート.2に続きます。
今日の人60.岩田弘志さん [2012年10月04日(Thu)]
 今日の人は、シンガポール和僑会代表理事、シンガポール経済新聞編集長の岩田弘志さんです。
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 シンガポール和僑会は世界中から注目を集める国際都市シンガポールの和僑会組織として、会員間の相互扶助、各会員のも目標達成の支援、及び地域・社会への貢献を目的として活動を続けています。そしてシンガポール経済新聞はシンガポールの街角で日々起こっているビジネス&カルチャーニュースをお届けするインターネットの情報配信サービスです。シンガポールのホットな話題がたくさんですから、ぜひご覧になってくださいね。

 岩田さんは富山県の入善生まれ。おとなしい子で小さい時から読書家でした。特にSFが好きでした。手塚治虫も大好きでほとんどの作品を持っていて、なかでもいちばん好きなのは火の鳥でした。実は、岩田さんが9歳の時に、3歳だった弟が用水で溺死してしまうという痛ましい事故が起きました。そこから、岩田さんは物事について深く考えるようになりました。人の生死、輪廻転生といったものを深く描いている火の鳥が好きになっていった少年の心の痛みはいかばかりだったでしょうか。
 
 中学校に入ると、異次元的な世界に興味を持ち、当時流行っていたムーという雑誌を愛読しているムー少年でした。音楽グループのカシオペアにもハマり、公会堂のコンサートでは並んでチケットをゲットしていました。そういうわけで、高校ではバンドを組んだりもしました。
 
 そして大学では軽音楽部やテニスサークルを掛け持ちする、バブル世代にはよくありがちな学生生活だったようです。けれど、子どもたちをキャンプに連れて行ったり、スキースクールで教えるというバイトもしていました。40日間志賀高原に篭りっぱなしだったことも。

 岩田さんは商学部なのですが、卒業の1年位前から、パイロットになりたいと思うようになりました。以前はパイロットと言えば理系の職業だったのですが、当時、文系にも道が開かれるようになっていました。しかし、試験を受けましたが、願いは叶わず…。
 
 とりあえず就職して5年間流通の仕事をしましたが、つまらないと感じ、アタッカーズ・ビジネススクールに入ります。
 その後、マレーシア、タイ、シンガポールをめぐる旅をしている時に、たまたまシンガポールで海外引越を専門とする「CROWN LINE」のCEO森 幹夫さんと会う機会に恵まれました。ただ、森さんに会いたくて会社訪問をしたので、旅行者そのままのジーンズにバックパックという格好で行ったのに、いつの間にか面接になっていて、森さんから、うちの会社に来ないかと言われたのです。
 兼業農家の長男、ということもあって、シンガポールに渡ることを3ヶ月悩みました。しかし、1998年9月にシンガポールに渡ることを決断。

 とにかく最初はがむしゃらに働きました。そのうち、シンガポールでフリーペーパーを始めるようになり、日本語ラジオ放送でパーソナリティも務めるようにもなりました。
 「海外ビジネス最前線」というブログでシンガポールからの記事を発信するようになりました。そんな時、関連会社で「シンガポール経済新聞」のプロジェクトが立ち上がることになり、岩田さんはそちらに移籍して、最初の編集者として最初の10ヶ月、体制づくりに尽力しました。訳あって会社を辞することになったものの、「◯◯経済新聞」の意義はずっと強く感じていました。

 その後は、他にも今では当たり前になったインターネットで日本のテレビ番組を配信する事業を先駆けてやったり、海外フリーペーパーのウェブサイトを作ったりと、さまざまなことを手がけました。
 そして、シンガポール経済新聞と別れてから3年後、本当にタイミングよくシンガポール経済新聞を引き取らないか、という話が降ってきて、岩田さんは編集長として、今も日々ホットなニュースを配信されています。

 シンガポールの魅力は自分の当たり前が壊れることだと岩田さんは言います。多様性を認めている国ですし、気候的に体調管理もラク、移動もラク、安心安全、そして文化的にとても軽く、おもしろいことはとりあえずやってみればいいじゃん、というノリ。そんなシンガポールが岩田さんは大好きです。

 ずっと現地にいる人だけでなく、現地に飛び込んで来た人が隅っこに追いやられずに活躍できるようにしたい、そのためにもフリーランスや独立してやっている人と連携していきたい、と岩田さんは考えています。

 この11月には世界各国から500人が集まる和僑会の大会を開催します。
 「和僑アジア大会2012inシンガポール」です!
 詳しくはこちらをチェック
http://www.greatwakyo.com


 今、地方の観光のウェブサイトは固定化されてしまっているものがとても多い。でも、お金を落とす層は観光地ではなく、街に集まると岩田さんは考えています。だから、みんなの経済新聞ネットワークでいろんなホットな街ネタを多言語で配信する。そうすれば世界中からその街に人が集まるのではないか?
 例えば、富山の街に、アキバのように流れの外国人がたくさん遊びに来るようになれば、本当におもしろい。でも、それは情報の発信の仕方次第で可能だと、岩田さんは考えているのです。

 海外からどんどん新しい風を入れてくれる岩田さん、そんな岩田さんが富山の若者に言いたいことは、とにかく、外に飛び出して行って見てこいよ!ということです。

 飛び出さないと、おもしろいことは起こらない。それは富山にずっといたって同じこと。
そんな富山の若者に世界で活躍する富山県人を紹介して、少しでも自分が飛び出す力にしてもらいたい、そう思って、岩田さんは「世界のとやま人」を富山で紹介する活動もなさっています。

 これからも、岩田さんはたくさんの新鮮な情報をシンガポールから発信なさってくださることでしょう。シンガポール経済新聞、ぜひみなさんもチェックをお忘れなく!
そして、富山経済新聞もまもなく配信されるであろうことも告知しておきます。富山経済新聞が多言語で即座に配信されれば、富山の海外での魅力はう~んとUPするでしょう。その日を心から楽しみにしています。

今日の人59.藤原美奈さん [2012年10月01日(Mon)]
 今日の人は、ドリームプラン・プレゼンテーション2012世界大会プレゼンターの藤原美奈さんです。
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4歳のお子さんのお母さんとして、またドリプラのプレゼンターとして、そしてダイヤ事務機株式会社の専務取締役として忙しい毎日を送っていらっしゃいます。
 
 藤原さんは大阪生まれの大阪育ち。クラスの90%が商売人の親を持つ地域でした。藤原さんも家がお店でその奥で暮らしていたので、小さい時からお父さんやお母さんの仕事を見て育ちます。両親が仕事で忙しかったので、お客さんに子育てしてもらっているような感じでした。子どもがたくさんいる地域だったので、みんなと木登りしたり、自転車に乗って遊んだり、男勝りなみなちゃん。でも、2人姉妹のお姉さんということもあり、お父さんは躾にとても厳しい人でした。「お姉ちゃんだから」という言葉を何度聞かされたことでしょう。そんなみなちゃんは家でも学校でも、いわゆる「いい子」でした。でも、将来こうしたい!という夢は全くありませんでした。ただ、親からずっと、「女の子はね、結婚して子どもを生むのが一番幸せなのよ」と聞かされてきたので、自分はいいお嫁さんになるんだ!とずっと思っていました。

 だから大学も家政科を選びました。お料理学校にも行ったし、花嫁修業になると言われる習い事はひと通りこなしました。一応中学時代はバレー部だったのですが、あまり運動は得意ではなく補欠の補欠といった感じでした。高校では陸上部のマネージャーをしばらくやっていましたが、すぐに華道部に転部。習い事としてテニスをやっていました。部活動のノリでやるテニスは性に合わなかったのです。ですから、大学のテニスサークルがちょうどいい感じでした。でも、藤原さんは、大学生になっても門限が10時でした。大阪から京都の大学まで通っていたので、この門限はなかなかきつかったにちがいありません。友だちがみんな海外でホームステイをしているのが羨ましくて、行きたいといいましたが、「あかん」のひと言で終わってしまいました。

 そして、銀行に就職、24歳で結婚退社。描いた通りの道を歩いていると思っていました。これで、私は幸せな専業主婦だ、と。そんな藤原さんの脳裏に後輩が言った言葉がよぎりました。「先輩に専業主婦なんて無理に決まってます」そんなことはない、と思っていました。だって、小さい時からそのつもりでいろいろ花嫁修業もしてきたんだし、家政科まで出たんやで。
…でも、2ヶ月でわかりました。「ああ、私に専業主婦は無理だ」
ちょうどその時、フラワーデザインの先生から電話がありました。
「仕事、手伝ってくれない?」
もちろん、渡りに舟とばかりに、仕事を始めました。銀行の時もそうでしたが、仕事は本当に楽しくできる藤原さん。自分が頑張って成果を出すと、ほめられる。小さい時から親にほめられたことのなかった自分にとって、褒められる喜びは格別でした。そうしてますます仕事にのめり込むようになって行きました。
でも、仕事を任されて期待されるようになればなるほど、当然仕事は忙しくなり、始発で行って終電で帰るという毎日はさすがに過酷でした。

 そんな時に、銀行から再就職の声がかかり、コールセンターで働くようになります。
ここでも、やったらできる、できたらほめられる、が気持よく、仕事が楽しくて仕方ありませんでした。「仕事は自己実現の場、私は仕事をしている時がいちばん楽しいから、子どもなんていらない、むしろ仕事の邪魔だわ。」本気でそう思っていました。
そして、ファイナンシャルプランナーの資格も取り、一回外資系に転職してキャリアを積んでから起業しようと意気込んでいました。

 そんな時、思いがけずにわかった妊娠。そして、エコー(超音波)診察で小さな小さなわが子を見た時に、雷で打たれたような衝撃を覚えました。
こんな小さな生命が今、一生懸命生きようとしている。これってなんてすごいことなのだろう!自分の中の価値観が180度変わる感覚でした。

 そして、時を同じくして、実家のお父さんが病で倒れ、家業を手伝ってほしいと言われます。お父さんは藤原さんが子どもの頃、「この仕事は俺が好きでやってきた仕事だから、自分で幕を引く」と言っていました。そして、それがかっこいいと思っていました。でも、今病気で死にそうになり、娘に家業をついでほしいと懇願している…。自分の夢を叶えるのと、父の最後の願いを叶えるのとどっちが大切だろうと考えた時に、藤原さんが出した答えは、親の仕事を継ぐ方でした。そして、藤原さんは出産3日前まで、家業を手伝っていました。

 子どもを産んでから約1年半は育児に専念していました。エコー診察で衝撃を受けて以来、子育ての大切さを痛感したので、子どもとの時間を大切にしたかったのです。
しかし、3年前にお父さんの病気がひどくなってからは、仕事に本格的に復帰しました。いえ、復帰というよりは、実質的には社長業としての始まりでした。
…ただ、それまでは、仕事をやっていて、うまくいくのが当たり前だったのに、父の会社ではうまく回らないことだらけでした。何も知らずに飛び込んだ事務機器の世界、いきなり社長の父の代理としてのしかかる重圧。
2年位は本当に苦しかった。でも、セミナーや研修会にたくさん出て、いろんなことがようやく見えてきたし、学ぶことでたくさんの仲間ができました。
自分の器じゃないものを継ぐ…それはすごくしんどかったけど、そのお蔭で今の自分があるのだから、もう感謝しかないな、今は思います。

 そんな藤原さんがドリプラ世界大会のプレゼンターにエントリーした理由はなぜか?
 それは、今、藤原さんのドリプラでのパートナーである大西敦子さんが大阪ドリプラで児童養護施設の子どもを引き取る里親制度のことにつてプレゼンしているのを聴いたのがきっかけでした。
 子どもがきらいだった自分が、子どもを授かったことで、こんなにも愛おしく素晴らしい存在だということに気づいた。子どもの虐待をなくしたい。そして児童養護施設のたくさんの子どもたちをサポートしたい!
 
 そのためにレストランを作って、そこで児童養護施設の子どもたち(中卒や高卒の子)に働いてもらうのがいいんじゃないか…。藤原さんの会社は、事務機の中でも主にレジスターを扱っている会社なので、レジの商談でレストランに出入りすることもとても多く、レストランが人を育成する場にすごくいい、というのは肌で感じていました。
 自分の存在価値を認めてもらえない子どもたちが、お客さんから温かい言葉をもらうことで、自分の存在価値に気づいてくれたら…。そう、かつて私が働き始めた時に褒められる喜びを知ったように、彼らにも、その喜びをしってもらいたい。そして生きる力をつけていってほしい。大阪ドリプラでは、そこまでの夢をプレゼンした藤原さん。
 
 世界大会では、更にこれを循環するプロジェクトとして動かしていこうと考えています。レストランをベースに社団法人を立ちあげて、賛助会員を募り、子どもたちがその賛助会員の企業にインターンにいく仕組み。中小零細企業は人手不足で困っているところがたくさんあります。そういう企業にインターンを受け入れることで、企業が活性化されていく、藤原さんはそう考えています。そして、レストランの食材を支える農業部門も社団法人化して立ち上げたいとヤル気満々の藤原さん。

 今、楽しい時間は子どもと過ごすこと、そして商談中、そしてドリプラに取り組んでいる時。同じ志の仲間と夢を追いかけている時間は、どんなに忙しくても本当に楽しい!
でも、自分磨きも忘れてはいません。ネイルサロンでのネイルケア、そして週に一度のホットヨガで癒される時間を作っています。ますます美しさにも磨きをかけて、12月にはとびっきりの美奈スマイルを見せてくれることでしょう。