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今日の人49.柳澤千恵子さん. [2012年07月27日(Fri)]
 今日の人は、ダイバーシティ研究所研究員の柳澤千恵子さんです。
写真 12-07-11 13 03 52.jpg
 柳澤さんは長野県須坂市生まれ。高校まで、自然豊かな須坂で過ごしました。小さい頃から優等生で、特技は勉強だけだったなぁとおっしゃいます。
中学はバスケ部。あまり気乗りはしなかったのですが、親に運動部の方がいいよと言われ、なんとなくバスケ部にしました。高校では吹奏楽部でバスクラリネットを吹いていました。吹奏楽部は県代表に選ばれ、朝練や夜練が厳しかったですが、音楽は好きだったのでさほど気になりませんでした。
 高校は進学校。先生から国立の大学を薦められましたが、親は、男の子だったら行かせてあげられたんだけど…と、大学には行かせてもらえず、東京の短大に進学します。このことが人生において、大きなコンプレックスになりました。私は勉強しか取り柄がなかったのに、どうして大学進学を許されなかったんだろう…。やりきれなさを感じると同時に、「男の子だったら行かせてあげられた」という言葉に、初めてジェンダーを意識することになりました。
 でも、もし国立大学にそのまま行っていたら、柳澤さんがダイバーシティに関わることもなかったのかもしれないと思うと、運命ってホントに不思議ですね。
 
 話しを短大卒業の時に戻します。
 短大を卒業した柳澤さんは、地元の企業に就職しました。
その後リクルート長野支社で営業の仕事を始めます。リクルートはバリバリの体育会のノリの会社でした。始業時間前のアポ取りタイムから始まって、ひたすら営業営業の日々。5年間その仕事をした後に職を退き、派遣で英会話教室で働いたりしました。
 
 その後、結婚を来に再び上京します。そして再びリクルートで働くことに。今度はリクルートスタッフィングで4年間の営業生活でした。その後、NPO法人CARE-WAVEで法人立ち上げに関わり、事務局長を務めるようになりました。CARE-WAVEは、ノンフィクションミュージカル『CARE-WAVE AID』を通じて飢餓・貧困・紛争といった世界の惨状を伝え、ミュージカルの収益金をNPO等の援助団体に寄付することで、ミュージカルの出演者・観客と援助活動をつなぎ、思いやりの心の波を広げる活動をしているNPO法人です。
 
 会社を辞めてNPOの世界に行ったのは、もう売り上げだの利益だのを追求するのは
いいかな、と思ったからです。でも、NPOに行った時に、企業との大きなギャップを感じました。NPOが声高に言っていることを、企業の人間は誰も知らない。このギャップは大きかった。そんな時に、CSRでダイバーシティ研究所とつながったのでした。
 CSRというのは、企業が利益を追求するだけでなく、組織活動が社会へ与える影響に責任をもち、あらゆるステークホルダー(利害関係者:消費者、投資家等、及び社会全体)からの要求に対して適切な意思決定をすることを指します。
 
 柳澤さんの強みは、営利目的の株式会社の立場もわかるし、NPOの立場もわかること。ですから、CSRにはすごく興味がわきました。
 こうして柳澤さんはダイバーシティ研究所の研究員になったのです。
 
 1年目は何もわからずにCSR調査をしていました。2年目は1年目に調査したことはこういうことだったのかと腑に落ちました。そして、5年間調査をやってきて、CSR調査は社会にとってだけでなく、企業にとっても必要不可欠なんだということを知ってもらいたいと思っています。
 
 でも、未だにCSRのことを知っている人は少数派です。立派なCSR室があっても、社内の人に浸透していないことがすごく多い。柳澤さんは、そんな状況を変えたいと思っています。そのためにCSR室と連携して、組織横断的である正しいCSRが末端の社員にまで届くようにしていきたい。CSRは決してCSR室の社員だけで取り組むものではなく、企業全体で取り組むものなんだということをわかってもらいたいと、静かに情熱を燃やしている柳澤さん。
 
 そんな柳澤さんが楽しいことは、舞台を見ること。月に2,3本見ることもあります。レ・ミゼラブルやミス・サイゴンなど、好きな演目は何度も見てしまいます。
 前任のCARE-WAVEで多くの役者と関わったこともあり、役者と一緒に飲むのもとても楽しい時間です。役者と自分たちとでは、全く世界観がちがいます。自分にとっては締め切りはとても大事なもの。でも役者にとって大事なのは、締め切りよりもクオリティ。そういうふうに世界観の全くちがう人と仕事をするのは、大変なことも多々ありましたが、いい経験になりました。
 スポーツ観戦も大好き。サッカーも好きだし、野球も好きです。ずっと巨人ファンだったけど、最近は西武ファンなんだとか。(うちはずっと阪神です)高校野球を見るのも好きだし、ロンドンオリンピックも見たい!となると、今年の夏は睡眠不足は必至ですね。
 
 ボイス・トレーニングにも通っている柳澤さん。今まで出なかった声が出るようになったときの壁を超えた快感がたまらない、とホントにワクワク顔で話されるのでした。
 
  飲みに行きたい時に、一人で行けるお店もちゃんとあります。経営に奮闘しているビルマ(ミャンマー)料理のお店。なんとか盛り立てたいと、柳澤さんが奮闘中。ウェブ対策やちらし作りなどアドバイスしています。ミャンマー人は、迫害された少数民族が多く、難民申請中の人もいっぱいいます。そういうことを知らずに、外国人とひとくくりにしてしまう人が多いのはとても悲しいことですよね。私たちは、そういう人たちの声を伝えていくことも大事な役割なのかもしれません。
 
 もう一つ、応援しているものがあります。それはミンナDEカオウヤのあぶら麩。ミンナDEカオウヤプロジェクトは、ダイバーシティとやまのホームページやfacebookページをご覧のみなさんにはお分かりかと思いますが、被災エリアの授産品を全国・都市部で販売して、被災した障害者福祉施設の経営・障害者の収入を支える「参加型」プロジェクト(=経済活動支援)です。柳澤さんは、みんなにレシピを配ってあぶら麩をバンバン販売しています。  

 余談ながら、ミンナDEカオウヤプロジェクトの商品はダイバーシティとやまも販売しています。次の日曜(7月29日)には東北AID2というイベントで販売しますので、ぜひ買いにいらしてくださいね!

 こんな風に、とっても活動的な柳澤さんですが、引きこもってぼうっとしている時間も好きなんだとか。ご主人が名古屋に単身赴任中なので、週末夫婦を楽しんでいます。

 ダイバーシティにとって大切なのはフラットな意識。常にフラットな目線でいたい、とおっしゃる柳澤さん。
これからも、日本に置いてのCSRの認知度をもっと上げるべく、突き進んでいかれることでしょう。
 ダイバーシティ研究所の女性パワーはホントにすごい!と改めて感じた、今回のインタビューでした。
今日の人48.藤分治紀さん [2012年07月24日(Tue)]
 今日の人は、(財)かながわ国際交流財団の藤分治紀さんです。
藤分さんは多文化共生マネージャーの同期。とっても的確に物事の本質をつかまれる方で、且つとってもお茶目なところもある素敵な方です。
写真 12-07-11 10 26 11.jpg
 
 藤分さんは鹿児島生まれ。中学高校ではバレー部で汗を流し、ベースもやっていました。昔からひとつのことに深くはのめり込まない性格だったので、バレーをしつつベースも、というのがちょうどいい感じでした。
 大学は鹿児島を遠く離れ、山梨県に。教育学を専攻した藤分さん。卒業後は鹿児島に戻って、4年間小学校教員をしていました。
 
 その後、飲食店勤務を経て上京し、明治学院大学で科目履修生として石坂健治さんの授業をとったことで、アジアに目が向くようになります。アジア映画史が専門の石坂先生の授業で、今まで見たことがなかったタイ、フィリピン、韓国などの映画を見て、初めて“多文化”というものを感じるようになりました。そしてほぼ同時期に映画館でアルバイトをします。そこでは北朝鮮、中央アジアなどの映画が上映されました。そしてますます、アジアの国々に惹かれていきました。
 
 そんな時にかながわ国際交流財団でアルバイトを募集していたので、応募したところ採用されます。その後、正式採用され、それから10年、多文化共生の世界に携わって来ました。
 
 藤分さんにとって、多文化共生の入り口はアジアの映画、そして、飲みに行った先で声をかけて、いろんな国の友だちを作ること。「どうやったら、外国人の人と友だちになれるの?」と相談されることがありますが、いちばんいいのは一緒にお酒を飲むことだと、思っています。神奈川には161カ国の人々が住んでいるので、いながらにして多文化を感じることができるのです。

 仕事では今、外国人コミュニティ調査に取り組んでいます。 調査をする上で大事なのは、現場で直接声を聞くことだ、と藤分さんは言います。直接話して見えてくるものは多い。現場に行かないと見えないもの、聞こえないもの、それをちゃんと拾っていきたい。効率的にやることを考えるのはもちろん重要だけど、効率性から見落とされるものに目を向けることを忘れずにやっていきたい。
 今後は、コミュニティリーダーに声をかけて、情報交換や発信の支援をしていきたいと思っています。そしてコミュニティ間の連携をサポートするウェブサイトを運営したいそうです。
 
 大きなやりがいを今の仕事に感じている藤分さん。それは、この仕事は現状を変えていける仕事だと思うからです。多少なりとも社会に働きかけていくことで、社会が変わっていく可能性がある仕事。それが、多文化共生に関わる仕事です。

 藤分さんは言います。どんなことでも当たり前を疑う、ということが大切だ、と。私たちは思い込みで動き過ぎているところがあるかもしれません。自分の常識が相手の常識だとは限らない。自分の価値観とはちがうから、とそこで拒絶してしまっては、新しいものは生まれない。それだとちっとも面白くないよね!
 そう、それが、ダイバーシティを考える上でも、一番大切な入り口だと私も思っています。

 新しいものを作っているときはとても楽しい。それはとてもクリエイティブな作業だから、とおっしゃる藤分さん。
時間がとれたら、南の島のビーチで一日のんびり本を読んで過ごす、というのが今の夢です。それ、いいですね~。多文化共生マネージャー14期の同窓会は南の島?

 これからも、クールにそして熱く、クリエイティブな仕事に取り組んでいってくださいね!私もずっと応援しています!
今日の人47.嶋田和子さん [2012年07月18日(Wed)]
 今日の人は、一般社団法人アクラス日本語教育研究所代表理事、社団法人日本語教育学会副会長の嶋田和子さんです。
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 嶋田先生は日本語教育に携わっている人間だったら、知らない人はいない位、有名な先生です。でも、そんなことをちっとも感じさせずにとっても気さくにお話くださる温かな先生なのです。
 
 嶋田先生は1946年生まれ、子どもの頃は外遊びが好きで、いつも近所の仲間とわいわい外で遊んでいました。運動も得意で短距離走、長距離走ともに学校代表を務めたりしていました。今よりずっと男性中心社会だった当時としては珍しく、中学時代には女子として初の生徒会長を務めます。そして津田塾大学の英文科で学び、大学ではテニス部で活躍するなど、まさに文武両道を地で行く学生時代だったのでした。

 大学を卒業後は、単なる事務職になるのが嫌で、外資系の銀行に就職します。でも、まだまだ親の意向には逆らえない時代。親の薦めでお見合い結婚し、専業主婦に。
 長男が生まれ、その翌年には双子の次男三男が生まれ、子育てに忙しい毎日でした。でも、ただ子育てしているわけではありませんでした。子育てしながら、勉強会をいろいろと開催していました。そして、いかに家事を効率的にやるかも研究しました。でもそれは手抜きして効率的に、というやり方ではありません。その時の嶋田先生は、パンも味噌も全て手作り。編み物も全て自分でやるという徹底ぶりでした。
 そうして下の子どもたちが小学校を卒業するまで、専業主婦を続けました。そして、彼らが小学校を卒業するとき、家族と話し合いの時間を持ちました。「これからお母さんは働こうと思うの。でもそうなると、あなた達にもお手伝いしてもらわなきゃいけないわ」
母が働きに出るのを子どもたちは反対するかと思いきや、返ってきたのは「やった~!」という反応でした。子どもたちは言いました。
「一度鍵っ子になってみたかったんだよね」

 嶋田先生は、カウンセリングにも興味があり、心理研究所でも勉強していました。ある時、英語のカウンセリングを目にする機会があり、言語のちがいでカウンセリングにもこんなにちがいが出るものなのか、と驚きます。それがきっかけで、言語のちがいに興味を持つようになりました。そして、日本語教育に出会ったのです!

 わずか一ヶ月だけ養成講座に通って、すぐに日本語教師になった嶋田先生。そこからまっしぐらに日本語教育に打ち込んできました。なにしろ、全てが手探りなので、なんでも自分で作り出していくしかありませんでした。そして、嶋田先生の素晴らしいところは、それを自分一人のものにしておかないということでした。自分の作り出したものはすべて惜しみなくシェアしました。嶋田先生がシェアし続けていると、周りの先生方も変わり始めました。みんなそれを倣って、自分の考えたものをシェアするようになっていったのです。こうして、嶋田先生が働いていらしたイーストウエスト日本語学校は、学びの協働体へと変わって行きました。

 嶋田先生は1997年にOPIに出会ったのも大きかったとおっしゃいます。OPIというのは外国語学習者の会話のタスク達成能力を、一般的な能力基準を参照しながら対面のインタビュー方式で判定するテストのことです。
OPIに出会い、言語教育観が変わりました。そして、OPIを取り入れていくうちに、イーストウエスト日本語学校のカリキュラムも変わっていきました。

 1997年は財団法人日本語教育振興協会主催の日本語教育研究大会で初めて日本語教師による口頭発表会も行われた年でした。現場を多く知る日本語学校の日本語教師が口頭発表の場に出たのです。そして、それを発表したのが嶋田先生でした。先生は「韓国語話者の発音指導について」発表されたのですが、みなさんに好評で、大学の先生方や他の日本語学校の校長などから「大変おもしろかったので、ぜひ講義をしてほしい」と言われました。
 それまで、そのような場で発表したことはありませんでした。発表について指導してくれる人もいなかったし、経験もなかった。でも、それまで現場で教えてきた、その実践の積み重ねがありました。その発表を機会にして、次々に発表する機会も増えていきました。

 日本語教師の中には、私は発表の仕方なんてわからないから、やったことがないから、と尻込みする人も多いけれど、なんでも捨て身でチャレンジしていくと、必ず次につながっていくものよ、と嶋田先生は力強くおっしゃいます。

 そして1999年には日本語教育学会の評議員にも選ばれます。こちらも、それまでは大学の先生ばかりで、日本語学校の日本語教師が選ばれたことはほとんどありませんでした。しかし、選ばれたからには、と嶋田先生は一度も評議会を休まず、日本語学校を代表する気持ちでずっと意見を言い続けました。すると、日本語教育学会も変わっていったのです。
 今や嶋田先生は日本語教育学会の副会長にまでなられました。

 こうして、日本語教育界で日本語学校の日本語教師の地位をぐっと押し上げてくださったのが嶋田和子先生その人なのでした。

 何かあったらとにかく動く、そして個人の学びを組織の知見にしていくことで、その組織は活性化する。そういう作業をコツコツと積み重ねてこられた嶋田先生。その大きな成果のひとつが、「できる日本語」という日本語の教科書です。
「できる日本語」はこれまでとはまったくコンセプトのちがう新しい教科書。文法積み上げ式ではなく、日本語によるコミュニケーションができることを目指し、「自分のこと/自分の考えを伝える力」「伝え合う・語り合う日本語力」を身に付けることを目的にした教科書です。コミュニケーションで重要なのは、言語知識そのものでなく、自分の持つ言語知識を使って何ができるか、ということです。この考え方を重視し開発されたのが、「できる日本語」です。そして、この教科書の開発に携わったのは18人の教師、そして出版社も日本語の大手の出版社2社が協働でできた教科書。それこそ、個人の学びを組織の知見に、そしてみんながつながってものを作り上げていく、という嶋田先生の想いがぎゅっと込められた教科書が出来上がったのでした。それを如実に物語っているのが、教科書の最後のページです。教科書作成に携わった教師、編集者、出版社、そのページには、たくさんの人のつながりの輪が表されているのです。
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 今、嶋田先生は、「できる日本語」のコンセプトをもっともっと広めていきたいと思っています。そのために勉強会に呼ばれれば、全国各地に出かけています。
 そして、日本の教育を日本語教育で変えることが、嶋田先生の夢です。制度をきちんと整え、日本語教育で教育界全体を活性化していきたい。それが夢物語だとは思っていません。そんな嶋田先生たちの想いが描かれた本があります。
日本語教育でつくる社会 私たちの見取り図 著者:日本語教育政策マスタープラン研究会」
この本の中で、嶋田先生は、「地域力を育む日本語学校」として日本語教育の生きた現場としての日本語学校が、外国人に日本語を教えるだけでなく、地域を元気にする力を持っていることを示し、その力をフルに引き出すために体制整備が重要であると強調されています。
そして、日本語教師が社会でもっと活躍できるように、もっと認知されるようにしていきたい、日本語教師といろいろな人々をつないでいきたい!そういう想いで、今年の3月末に「アクラス日本語教育研究所」を設立されたのです。アクラスというのは、「明日に向かって」という意味があるそうです。利益をうまなくてもいいから、みんなが集える場を作りたかった。学会でもなく、日本語学校でもなく、大学でもなく、誰でも気軽に集えて、そして学べて、つながっていける場、それがアクラスなのです。

「人生何が起きるかわからないものよ、私は何かが起こった時に、即決断するようにしているの。」と嶋田先生。
 長年勤めてきたイーストウエストをお辞めになることになるとき、「私がしたいのは人つなぎ!」と他からのお誘いは断り、颯爽とアクラス日本語教育研究所を立ち上げられたのです。
そして今、嶋田先生はご自身でホームヘルパー2級の実習にも通っておられます。それは、定住外国人の社会参加や自己実現の一つの方法として、介護の道があると考えたからなのです。そのためには、まずは介護の現場を知りたいと考え、講座に通い始めました。
 介護の日本語教育によって、定住外国人は「ホームヘルパー→介護士→ケアマネージャー」といったキャリアデザインが考えられます。また、日本語教師の雇用創出にも繋がりますし、さらには地域社会の活性化にもつながります。そんな思いで、今、ホームヘルパー2級の実習に通っているのだそうです。

 今まで接したことのない人たちの中に行くと、全てが新鮮です。そして新たな学びを得ることが非常に多い。それが全て日本語教育にもフィードバックされてくるのが楽しくてたまらない、と嶋田先生。

 日本語学校、日本語教師、地域の人たち、全てをつないでいきたい
そうアクラス、明日に向かって…

 嶋田先生の情熱を、私たちも少しでも見習って、地域を元気にしていくためにがんばっていきたいとの想いを強くした、今回のインタビューでした。


次項有嶋田先生がいつも発信していらっしゃるページはこちら!
日本語教育〈みんなの広場〉
http://nihongohiroba.com/
アクラス日本語教育研究所
http://www.acras.jp/
今日の人46.時 光さん [2012年07月14日(Sat)]
 今日の人は(特活)多文化共生マネージャー全国協議会(NPOタブマネ)事務局長の時 光さんです。
写真 12-06-22 16 49 50.jpg
 
 時さんは中国遼寧省撫順市生まれ。子どもの頃は川で遊んだり、山でキノコ採りをしたり、ぶどう畑でぶどうをもいで食べたり、とにかく自然いっぱいの中で育ちました。小学校の時からとても活発で、男の子とサッカーをして過ごす一方、スピーチコンテストで表彰されるなど、ずっと学級代表としてクラスを引っ張っていました。
 
 中学2年生からはずっと寮生活。中学も勉強が厳しかったのですが、高校に行くと、輪をかけて厳しくなり、ひたすら勉強させられる威圧的な雰囲気に、プレッシャーから頭痛になることもしばしばでした。ちょっと日本の高校からは考えにくいのですが、学校の自習室は朝6時から開くので、5時に起きなければなりません。冬は−30度にもなる、そんな厳しい環境で朝の6時から勉強する生活が3年間続きました。そして夜は寮が9時半に消灯になるのですが、ふとんの中で懐中電灯で照らしながら勉強を続けていた同級生もいました。日曜の午後しか休みがなく、ずっと勉強ばかり、という毎日に多分心身ともに疲れ果てたのでしょう。神経痛になってしまいます。
 高校の寮は家からすごく離れた場所にあったのですが、お父さんは毎週来て病院まで連れていってくれました。それまで、父の愛をあまり感じたことはありませんでしたが、自分のことをこんなにも想ってくれているのだと実感しました。今も雪の中で一緒に病院に行ってくれた時の父の背中を鮮明に覚えています。それが素直にとても嬉しかったのでした。
 そんな過酷な高校生活でしたが、楽しかったこともありました。冬になると、先生が校庭に特設のスケートリンクを作ってくれました。(マイナス30度の世界ですから、水をまいておけば、あっという間にリンクの完成です)友達と滑っていた時間は、本当に楽しかった。でも、ちょっとおしゃれをするだけでも白い目で見られるようなそんな高校でしたから、全体的にはとてもつらかった。
 
 そんな勉強漬けの毎日から逃避したい、という思いが強くなり、時さんは高校卒業後、日本に来るという道を選びました。おばさんが日本にいらしたこともあって日本に興味がありました。でも、自分の中の日本人のイメージは、みんな袴をはいておにぎりを食べている、そんな印象でした。(すごいイメージだなぁ)
 
 まず大阪の日本語学校で1年間日本語を勉強してから、和歌山大学に入学しました。
そして大学時代、初めて日本人の彼ができました。ガールズトークで「日本人の彼ができると日本語がうまくなるよ」って言われていたけど、「実践によると(笑)、不思議とならなかったんです」と時さん。いいえ、自分で気づいてなくても、日本語のニュアンス的なものはきっとその時かなりうまくなったと思いますよ!(これでも私、日本語教師歴21年です^_^;)
 
 留学生を支援している団体の活動(例えば和歌山らしい八朔狩り等)に参加したりはしましたが、大学生活全般を通してみると、そこまで日本人の友だちは作れませんでした。どうしても日本人学生とうまく溶け込めず、自分で殻を作ってしまうということを自分自身が感じていましたが、どうにもできませんでした。そうして日本社会に警戒心を持っていたので、心の休まる暇がありませんでした。
  
 卒業後は和歌山県国際交流協会嘱託職員として働き始めます。そして、多文化共生マネージャーの研修を受け、2007年7月の新潟中越沖地震の際は現地に赴いて、柏崎災害時多言語支援センターで通訳・翻訳・避難所巡回ボランティアとして、外国人住民の支援活動に携わったのでした。こうして、2009年の4月からはJIAM全国市長村国際文化研修所で多文化共生コーディネーターとして採用されます。
 
 この頃から、ようやく時さんは自分自身のことについて考える余裕が持てるようになりました。そうして、日本人に対して、自分が殻に閉じこもってしまうのではなく、自分から心を開いて話しかけるようにしようと思いました。すると、今まで冷たいと思っていた人が実はそうではなかったということに気づきます。自分から心を開けば、相手もよい反応を示してくれる、ということを実感しました。自転車のこぎ方がわかれば、どんどんうまくなるのと一緒で、人も心を開けば、どんどん信頼できる仲間が増えていくのだ、と気づいたのでした。
  
 こうして時さんは多文化共生コーディネーターとして全国各地を飛び回るようになり、東日本大震災の時も多言語支援センターの立ち上げ、被災地での支援に関わるなど、大車輪の働きをしたのです。
 
 そして、今年の4月から、多文化共生マネージャー全国協議会の事務局長に就任し、大阪十三の商店街の中にあるコワーキングスペースで忙しく働いています。十三は昔ながらの商店街。いろんな文化が入り混ざっていて多文化共生を地で行っている街です。そんな街で、時さんは今日も多文化共生社会の形成のために走り回っています。時さんが書いているNPOタブマネのブログもあります。それはこちらをどうぞ⇒https://blog.canpan.info/tabumane/
 
 そんな忙しい時さんが落ち着くのは、家庭菜園をしている時間。きゅうり、ゴーヤ、レタス、コリアンダー等、いろいろ育てて楽しんでいます。
 「今は一人暮らしだから、誰か一緒に住んでくれないかなぁ。」と時さん。
 いつか心が通い合う家族を作って楽しく暮らしたいというのが一つ目の夢。
 もうひとつの夢は、ハンディを持っている人を含めて、自信を持って生きていける世の中にしていくこと。 
 その夢、ダイバーシティとやまの夢と重なります。
 これからもその優しい笑顔で、時ちゃんファンをたくさん作って、多文化共生をどんどん全国に広げていってくださいね!
 
今日の人45.尹成化さん [2012年07月12日(Thu)]
 今日の人は、韓国出身、広島の市民活動グループええじゃん(Asian)でご活躍、多文化共生マネージャー同期の尹成化(ユンソンファ)さんです。
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 尹さんは韓国ソウルで生まれ育ちました。お母さんはお嬢様だったのですが、仲人に騙され、貧しかったお父さんと格差婚をしてしまします。韓国では結納の時、女性側から男性側に贈り物をするそうですが(日本と反対ですね)、お母さんの実家ががお父さんに贈ったのは、ロレックスの時計だったそうです。価値観のちがいから二人がケンカすることもありましたが、娘に対する愛情はどちらもたっぶりでした。
 
 本が大好きな少女だった尹さん。カトリックの教えに感動し、一人で入信してカトリック信者となります。幼いころから信仰の自由を求めていたなんて、さすがの行動力。その後、弟さん、お母さんも入信させました。
 そして、中学生の頃からはボランティア活動にも参加していました。1993年に家族法が成立する前の韓国は、戸籍に乗らない孤児がたくさんいました。そんな孤児の世話をするボランティアや、結核の患者やハンセン病の患者の世話をするボランティア等に積極的に取り組んでいました。
 
 高校は韓国で一番だと言われる女子高。卒業後は保安官の仕事をしていたのですが、社会に矛盾を感じて、シスターになろうと決意。1年で仕事を辞めて、修道院に入り見習いシスターになります。
 しかし、とっても自己主張の強かった尹さん。先輩シスターとの意見衝突も多く、「マリアはね、こんな性格だから、結婚して子どもを生んだらきっと幸せに暮らせるわよ」とさりげなく引導を渡されます。

 でも、マザー・マリア・ユンでいく!と決めたのに、簡単に家に帰るのはプライドが許しませんでした。そんな時に新聞で留学の斡旋会社の広告を目にします。そこには、広島ならビザがすぐに降りると書かれていました。思い立ったらすぐ行動する尹さん。荷物をまとめて修道院から飛行場へ直行。そして日本に旅立ちました。後になって、お母さんが引き止めに空港まで来たことを知りましたが、もう飛行機に乗った後だったのでした。

 こうして「おはよう」さえ知らず、辞書さえ持たずに来日した尹さん。最初の1年間は日本語学校で学び、その後、広島修道大学に入ります。そして日本語学校時代に知り合った韓国の男性と大学1年の、1992年2月結婚。その1年後妊娠も判明しました。二人とも学生で仕送りもなく、どうやって育てていくんだろうと、不安でいっぱいでした。でも、この子を生まなきゃという一念で妊娠期間を乗り越えます。お金がないので、あまり検診にも行かずに臨月を迎えました。そして1993年の11月、とても元気な女の子が生まれて、心底嬉しかった。
 
 ベビー用品は、自分たちは子供服を少ししか買えなかったのですが、支援してくださる方から、たくさんのベビー服や子供用品をもらい、またいろいろと世話してもらいました。今まで、ずっと支援する側だった尹さんが支援される立場に立った。このことは、後々尹さんの活動にとても大きな影響を与えたといってもいいでしょう。両方の気持ちがわかる、それはとても大事な視点です。

 子どもを産んですぐに大学に復帰しようと考えていた尹さんに、教授はこう言いました。
 「子どもを産んですぐに来なくたっていいから」
 でも、行かないわけにはいかなかったのです。単位をとらないと奨学金ももらえない。それは苦しい生活を続けている尹さんにとってとても大事なことだったのですが、教授にはそこがわかってもらえませんでした。でも、ここで引き下がらないのが、尹さんのすばらしいところです。先生方を説得して、子連れでも授業に通えることになりました。赤ちゃんの時はかごに入れて冷たいセメント床に子どもを寝かせ授業に参加した事もありました。また、子どもが歩けるようになってからは授業中、教室の外の廊下で子どもが尹さんを待っていたこともありました。とにかく頑張り抜きました。

 そんな尹さんのモチベーションを支えていたのは自分自身との“約束”でした。親に対して恥ずかしくない娘でいなければ。そして、日本に来たからには、ちゃんと何かを成さなければ。「そう、私は尹成化、名前の通り、何かを成す人間になる!」それは自分に対して誓ったことでした。

 こうして授業とアルバイトと子育てとに追われた学生生活を乗り越え、なんとか卒業証書を手にしました。その後一年はご主人の就職に伴って、福山で過ごしますが、夫婦して勉強好きなんでしょう、一年後には、二人共別々ですが大学院に通うことになりました。

 尹さんが通ったのは広島大学の大学院。修論のテーマは「広島県下の留学生の配偶者と子どもの人格形成についての研究」尹さんがどんな論文を書かれたのか、機会があったら読んでみたいですね。
 大学院での学生生活の中で、日本人の学生とご飯を食べに行った時のこと、ある学生が公然と「僕は韓国人はきらいだ」と言い放ちました。それを聞いて尹さんは、「この人と仲良くなれば、ここに入った意味がある」と思いました。そうして、積極的にその人と過ごし、いろいろ話しをするようにしました。そのうちすっかり仲良くなって、彼は悩み事があったらまず尹さんに相談するまでになったそうです。

 こうして修士課程を終えた尹さんは主婦として二人の子どもを育てつつ、やはりいろいろなボランティア活動や韓国語講師等をしていました。そして、韓国語を教えていた生徒さんが「市民活動グループええじゃん(Asian)」を立ち上げられ、尹さんにもぜひ手伝ってほしいと声がかかります。ちょうど子育てが一段落したこともあり、その申し出を快諾し、それ以後、ええじゃんでの市民活動を中心にしながら、コミュニティFMでの多言語放送の中で韓国語のパーソナリティをしたり、よりそいホットラインで全国電話相談を受けたり、幅広く活躍してらっしゃいます。

 日本に来て20年。きっとつらいことしんどいことがいっぱいあったに違いありません。でも、尹さんは言います。「つらいとかしんどいとかは感じないようにしているの。私のモットーは“いいことも悪いことも通り過ぎる”だから」と言ってにっこり笑われるのでした。

 尹さんには夢が3つあります。
 ひとつは3食のうち、1食は誰かにおごる。これは、ご飯だけのことではなく、例えば相談に来た人に電話だけで対応するだけでなく、実際に窓口まで連れていってあげたりするなどして、自分が持っている何かを誰かと分ちあうこと。
 もう一つの夢は、自分の子以外に子どもが5人欲しい、ということ。実際に育てるというより、金銭的に援助をして、卒業するまでは面倒をみてあげたいと思っています。シングルマザーの子どもたちに接するときは、韓国のオンマになったつもりでわが子と思って接するなど、そういう支援も含めてわが子以外に5人の子どもを持つこと。
 そして、3つ目の夢は、経済的に独立していること。自分がやりたいことは自分の力で成し遂げたい。女だもん…を絶対理由にしたくない。
 だから、ご主人にはとても感謝しています。尹さんは自分の稼いだ分は、社会のため、自分のために使っています。でも、ご主人は尹さんの生き方を応援してくれています。
 
 尹さんは言います。子はかすがいというけれど、私はそうは思わない。やはり、夫婦に愛があればこそ。結婚して20年経つけど、まだ夫とたくさん話したい。そして、仕事を引退したら、夫と二人で世界一周旅行をして、二人でゆっくり過ごしたい。今は家族と一緒だから無理だけど、夫を一人占めしていっぱい話したいの、ととても幸せそうにお話になる尹さんなのでした。
…ということは全然ケンカしないんですか?と聞いたところ、「とんでもない。しょっちゅうしてるわよ。ケンカするときは値段が高くないもの、壊れてもいいものを投げるの!」と尹さん。
ケンカする時は全部吐き出すことが大事。溜め込んだらダメなの!…溜め込んじゃう私には耳の痛いお言葉でした。
 
 これからも、その明るさとバイタリティで、広島をもっともっと元気に、そして多文化共生にあふれた街にしていってください。
 いつか尹さんと一緒に広島で広島風お好み焼を食べたり、カープの応援をしたりするのを楽しみにして、私も富山でがんばります。
今日の人44.石橋孝史さん パート.2 [2012年07月02日(Mon)]
パート.1から続きます。

 
 こうして、従兄弟が共同経営をしていた印刷屋で働くことになり、富山に来られた石橋さんでしたが、強いカルチャーショックを受けました。とにかく、感覚が合わないのです。東京のしかも銀座や新宿の文化の最前線のような場所にいらしたのだから、さもありなん。
 しかし、一旦決めたからには数年は我慢しようと思って耐えました。その後、会計事務所に職を移します。その頃はとにかく左脳人間だった石橋さん。すべて論理で動いていました。20代でバリバリ仕事をし、30までに結婚しようと決めて、そのとおりに結婚。しかし、結婚そのものが目的になっていたので、価値観が違いすぎて、2年半で別れることになります。誰の言うことも耳に入らなかった、いや、入れなかった時代でした。
 こうして30代の中盤に差し掛かった時、この業界にいるなら、自分の得意分野を作らねばと思い、経営コンサルタントの勉強を始めます。金融のコンサルをやらないかと言われ、株や投資信託を進めてもお客さんに否定されるなど、なかなかうまくはいきませんでした。左脳人間で現実しか見ていなかったそんな石橋さんに、まもなく転機が訪れようとしていました。

 昔、富山の西町には西武百貨店がありました。石橋さんは今の奥さまとよく西武に行っていたのですが、西武の中に入っていたお店に懇意にしている店員さんがいました。西武がつぶれた後、その店員さんは福井に行かれたのですが、彼女に会いに福井まで行った時のことです。
その時、石橋さんは永平寺に行きました。道元禅師が寺を開山してから今までの年表を書いてある部屋に入り、その年表を見つめていた時、今まで感じたことのない感覚に襲われました。道元禅師が1244年に開山した寺が今も変わらず続いている。自分の生き方はどうなのだ…
 その後、正法眼蔵をはじめとする道元に関する本を読み、その後も、臨済宗、浄土真宗、そして親鸞等の仏教書を読みあさりました。そして、歎異抄に巡りあうにいたって、ある一つの思いに行き当たります。

 …今、仕事上で悩んでいると思われる出来事が、実は歎異抄の中にはすでに書かれている。人間、800年前も今も、悩んでいることは一緒ではないか。歎異抄を深く読むことで、今まで悩んでいた問への答えを自分の中に見出せるようになっていきました。脳内が180度変わった感覚でした。

 それまでは、虫も雑草も邪魔な存在だと思っていました。虫の音を聴いても、朝露に光る草木を見ても心を動かされることはありませんでした。でも、虫の声に風流を感じ、雑草一本にも命を感じられるようになり、その生命の輝きに心が震えました。虫も雑草もそれぞれに生きているのがいいのだ、と思うようになったのです。そうして自分の中で生きる意味が変わり、コンサルのやり方も変わっていきました。

 もう一つ、忘れられない出来事があります。石橋さんは温泉が好きなのですが、ある時、どうしても入りたくなって、普段お客さんのいない時間に女将に電話をして無理を言って入らせてもらいました。
当然誰もいない時間。内湯のドアを開けたとき、いつもと変わらず滾滾と湧き上がる源泉。…誰がいようがいまいが全く変わらず、恵みを与え続けているその光景に、石橋さんは強く心を打たれました。自分もこういう生き方をしよう。損得で仕事をするそんな生き方はすまい。
自分が幸せになって自分の心が満たされると、温泉の源泉のように、たくさんの人にその幸せを伝播することができる。そう感じています。

 自然には28日周期があり、その周期に添って自然界が動いているというコズミック・ダイアリーにもとても共感し、自然の周期に合わせた生活を心がけています。それによって感性が磨かれていくのも感じています。石橋さんの「今日も新しい朝がきました…」で始まるエッセイは毎朝facebookにアップされていますので、ぜひお読みください⇒https://www.facebook.com/takafumi.ishibashi

 石橋さんはひとつのものをずっと追い求めていくことを自分に課しています。その生き方が経営やビジネスにつながっていくからです。ホテルはヒルトン、ブランドはロエベ(LOEWE)。上っ面でブランドを追いかけるのは全く賛成しませんが、ブランドがブランドと呼ばれるその所以にはビジネスの真髄を感じることができます。それはそのブランドのプライド。一流のものを提供し続けるには妥協は一切許されません。そのブランドの心を感じることで、自分自身も高めることができる、そう思っています。

 そんな石橋さんの目標は、いつ死んでもいいと思える自分を作ること。
価値観を業績やお金に置いていた頃は、うまくいかないことがあるとすぐにイライラしていました。でも、今は滅多なことではイライラしなくなりました。自分は自分にしか実践できないことをやればいい。

 「みんながイキイキできる会社を作りたい」という経営者のためのコンサルを心を込めてやり、10年後に残るバスケットボール・チームになれば…との想いでBJリーグの富山グラウジーズを経営面から応援し、さまざまなNPOや若い起業家を支える、そんな忙しい毎日の中でも自然のサイクルを感じることを忘れない、今の暮らしのリズムを石橋さんは心から楽しんでいらっしゃいます。

 これからは社会的責任(SR)の国際標準規格「ISO26000」の富山での普及にも力を注いでいきたいとおっしゃる石橋さん。富山の県内企業もますます海外進出が進むわけですが、そんな時にISO26000を適用している企業であれば、海外でも地域貢献をするという前提があるので、海外からの信用度がぐっと上がります。ISO26000に先進的に取り組めば、富山の企業の海外での競争力はきっと高まる、そしてそれは富山のダイバーシティ戦略にとっても大きな大きな力になるにちがいありません。
 
 富山でダイバーシティを普及していくのに、こんなステキな先輩がいてくださるなんて、本当に嬉しくてたまりません。これからもどうぞ私たちに力を与えてくださる温泉の源泉のような石橋さんでいらしてくださいね。もちろん、私たちも一緒にがんばります。

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石橋さんたちが推進されているISO26000基礎セミナーのご案内
詳しくはこちら⇒http://www.sr-com.org/ivent_yotei_20120727.html
今日の人44.石橋孝史さん パート.1 [2012年07月01日(Sun)]
 今日の人は、富山でこの方の名前を聞かない日がないくらい、多分野でご活躍中の石橋孝史さんです。
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 石橋さんは株式会社ヒューマン・サポート取締役、一般社団法人SR連携プラットフォーム理事、bjリーグ所属の富山のプロバスケットボールチーム富山グラウジーズ監査役、若手経営者会「富山本物研究所」所長、他にも多数のNPO法人の理事や監事…全部挙げるとそれだけで、何百字も使ってしまうので省略しますが、とにかくご活躍の幅は枚挙に暇がありません。
 
 石橋さんは千葉県で生まれ、大学を卒業するまではずっと千葉で過ごされました。小学校時代は空手、そして剣道を習っていた武道少年でした。もっとも、自ら進んで、というよりは習わされていた、という感じで、寒稽古がとってもきつかったのを覚えています。特に正座がイヤだったなぁ、と苦笑されました。
 
 でも、子ども時代、一番イヤだったことは、実は寒稽古でも正座でもありませんでした。石橋さんには障がいを持って生まれたお姉さんがおり、ご両親はお姉さんにつきっきりのような状態だったので、弟の石橋さんはほぼ放ったらかされて育ちました。家族でどこかで出かける時も、石橋さんは姉を避けるようにして、決してみんなと一緒には歩きませんでした。姉と一緒のところを見られたくない!そんな思いが強くありました。友だちとケンカになった時に、お姉さんのことを持ち出されることが何よりイヤでした。
 
 きっとその影響が多分にあったのでしょう。みんなでワイワイするのが苦手でした。いつも一匹狼的に、それを冷静に見ている自分がいました。寂しくなかったといえばウソかもしれません。でも、小さい時から感情を閉じ込めてしまう習慣がついていました。
 
 中学生になってからはバスケットボール部に入りました。キャプテンに選ばれましたが、なにしろ人と同じことをするのが嫌い、命令されるのが大嫌いな少年です。チームワークよりもみんな好きなようにやれば、というスタンスでした。

 高校は電車とバスに乗って通学できるところに行きたいと思っていたので、片道1時間以上通学時間を取られる学校に決めました。高校で選んだ部活はラグビー部。石橋さんが1年生の時にかわってこられた先生は指導力に定評のある人で、なんとその年、石橋さんたちの高校は花園へ。もちろん1年生の石橋さんが出られるわけもなかったのですが、ラグビー部員は1年生の修学旅行が不意になってしまい、それはとても残念ではありました。
 
 ラグビー部での石橋さんのポジションはスクラムを組んだ時に一番前でぶつかるプロップでした。マイボールを確保もしくは敵ボールを奪取するために相手と押し合いをする、とってもハードなポジションなのですが、石橋さんはいつの間にかスクラムの一番後ろにいき、そこから全体を見渡していることが多かったのです。みんなボールに集中していた時にも、離れて全体を見る冷静さが当時からありました。本来トライをするポジションではないのですが、石橋さんはトライすることがとても多いプロップでした。昔から全体を見渡すのが得意だったからこそ、できたことだったのでしょうね。そして監督も石橋さんのその特長を見抜いて自由にさせてくれたので、枠に縛られずに活躍することができた。

 …こうして受験勉強とは無縁のラグビー一色の高校時代を過ごし、高校卒業後は一浪して、その後日本大学の商学部会計学科に入ります。公認会計士になりたいと思ったので、当時まだ少なかった会計学科のある日大を選んだのでした。日大には授業以外の講座で特訓される会計学研究所というところもありました。石橋さんはそこにも入り、入学後2か月で簿記の2級を受からなければいけないという条件をクリア。次は11月に1級に受からなければ、研究所は追い出されてしまうというハードなところです。しかし、1年生の夏から勉強よりバイトに精を出さなければならない状況になりました。…それまで、石橋さんはお金の面で苦労したことはありませんでした。ご両親はお姉さんにつきっきりだった負い目もあったのか、石橋さんが欲しいものは何でも買ってくれました。でも、それができなくなった…。

 石橋さんは会計学研究所を自ら辞めました。そこから、石橋さんのバイト生活がスタートしました。
 最初に選んだのはビル掃除のアルバイトでした。とにかく、人と接することが好きではないと思っていたので、人と話さなくてもいい仕事をしたいと思ったのです。しかし、掃除の場所はバブル絶頂期の三菱商事ビル別館でした。清掃員は普通入ることのできない役員室にもちろん入ることができます。ものすごい分厚い真っ赤な絨毯。普通に掃除機をかけると足跡がついてしまうので、掃除機の後ろ掛けという技術もその時覚えました。
ゴミを捨てようとするとゴミ箱に必ず足をかけている人がいました。「すみません。ゴミを捨てたいので…」と言うと、「ちっ」とさも嫌そうに足をよける社員。「ああ、ストレスが多すぎて、こんなバイトにでも悪態をつくことでストレスを和らげているのか…」一流商社マンと呼ばれる人たちの心に潜む闇を垣間見たように感じました。

 その後は、銀座の伊勢海老料理の店でアルバイトを始めます。やはり人と話したくなかったので皿洗いのバイトとして入りましたが、フロアに入ってくれと頼まれ、否応なくホールに立つことになりました。人と接するなんて憂鬱で仕方がありませんでしたが、その時のバイト仲間だったイトウさんの一言で石橋さんはそれまでの「人が苦手だから接したくない」という思いから開放されました。イトウさんはきっと何気なく言ったのでしょう。「大丈夫だよ。そんなに気を張らなくても適当で大丈夫。」そんな何気ない一言が当時の石橋さんには救いになりました。
 そして、2年間そこでバイトする中で、フロアをひとつ任されるまでになったのです。やはり銀座のお店ということもあって、石橋さんはその2年間で高級食材の知識、そしてワインの知識も自然と身につけました。

 3年生になった時には、引きぬかれて、新宿のバーラウンジを任されるようになりました。ここも、接待用に作られたお店なので、グラスひとつとっても最高級のものを使っていました。お客さんのお金の使い方も、嫌味なくスマートな人が多かった。こうして石橋さんは普通の学生のバイト生活の中では体験できないようなことをいろいろ体験していったのでした。
 芸姑さんや舞妓さんのいるお座敷に連れていかれた時もあります。「小唄でも唄う?」と聞かれた時に、「唄えません!」というと、怒られます。「こういうところで遊ぶときは、ちゃんと遊び方があるのよ。遊ぶ時もしっかり勉強しないとダメなのよ。極楽ってなんで極楽っていうか知ってる?楽を極めるの。そう、なんでも極めないと物事の本質なんてわからないものよ。」

 こうして夜の街のことも本当にいろいろと経験した石橋さん。楽しいお話や武勇伝がホントにたくさんあります!いろいろ書きたいのですが、ここではぐっと我慢して、大学4年生に駒を進めます。

 アルバイトが本業のようになっていた石橋さん、そのままバイト先で就職しようかとも思っていました。仕事にもやりがいがあったし、お給料もよかったし、残ってほしいと言われていたし、そういう理由で就職活動する必要性も感じていなかったのです。
 けれど、富山生まれのお母さんも年を取り、障がいを抱えたお姉さんの将来のことも考えて、富山に来ることを決断します。

 こんなにバイトばかりしていて、大学の単位は大丈夫だったの?と不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、学部長のゼミに入れたり、危なかった外国書購読の先生と旅先で偶然出会って仲良くなる等、石橋さんは「ザ・シークレット」の如く、いつもちゃんと引き寄せていらっしゃったのでした。



…明日のパート.2では、富山に来られてからの石橋さんの歩みをご紹介します。