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今日の人37.上野起与人さん [2012年04月30日(Mon)]
今日の人は、富山のNPOバンクはちどりバンク@とやま理事、そしてダイバーシティとやまの強力な応援団でもある上野起与人さんです。
DSC_5608.jpg
 上野さんは、中学高校時代はバスケ部に所属、中学時代は県大会で優勝した経験もあります。松田聖子の大ファンで、ファンクラブの会員17、筋金入りのファンでした。
電気電子の勉強がしたくて、東京の専門学校に入学。1年間、新聞奨学生として過ごします。朝3時に起きて配達する中、そば屋のおじさんが「いつもご苦労様。そばでも食べていきな」と言って、年越しそばをご馳走してくれたり、配達先のおばあちゃんがおもちを焼いて待っていてくれたり、人情というものを強く実感したのはその時だったのかもしれません。ただ、専門学校自体は、1年で退学、その後一浪して金沢星稜大学に入りましたが、学業よりはバイトと恋に負われる日々でした。留年して、バックパックでアメリカを周ったりもしていました。機能性を重視したアメリカの服の機能美が大好きで、バイト代はほとんどその服を買うためにつぎ込んでいた上野さん。卒業後は当然のようにアパレル関係で働いていましたが、機能美を徹底的に追求した、大好きなアメリカのメーカーで働きたいとの思いが強くなり、退職して、採用試験を受けましたが、残念ながら不合格でした。

その後は野沢温泉村の老舗旅館や立山の山荘で働く日々を10年以上過ごし、すっかり山男になった上野さん。山の美しさ優しさも、厳しさ怖さも全部経験しました。地獄谷のガスにやられそうになったこともありましたし、150m近く滑落して、危機一髪の時もありました。一方、さえぎるものが何一つない文字通りの満点の星空や、この世のものとは思えないくらい美しいサンピラー(太陽柱、太陽が空気中のダイヤモンドダストに反射して柱状に輝いて見える現象)を見ると、言い知れぬ感動に心が震えました。そんな数々の経験が、上野さんの写真の腕を磨いていったのでしょう。いつも一眼レフを傍らに置き、プロ顔負けの写真をたくさん撮っていらっしゃいます。威風堂々とした山の表情、可憐な高山植物、雪山の厳しさの中にある神々しさ、そんな素晴らしい写真の数々を見るにつけ、上野さんがいかに山を愛していらっしゃるかが痛いほど伝わってきます。
野沢温泉村の老舗旅館の女将からは、気配りの極意を学びました。「気配り」は、相手に気付かれないようにするもの、そして、いつもはとても厳しいけれど、一緒に働いてくれている従業員は家族だと言い、困ったときには親身になってくれる女将の人懐っこい笑顔と温かさに、人としての在り方を学んだといいます。また、野沢温泉村の方々の、他県からの人々を暖かく受け入れる懐の深さに、自分も他者を排除することなく、常に受け入れられる器でありたいとの思いを強くもちました。

立山の山荘では、よきにつけ悪きにつけ、人間社会の縮図を見るようなさまざまな経験をします。でも、その経験が上野さんを大いに鍛えてくれたのでした。そして、映画「剱岳 点の記」の撮影現場に立ち会えたことも大きな財産になりました。ほんの数秒のシーンのために、半日も一日もかけて撮影する、そのプロ魂。一流のものを創り出す人々は、決して妥協などしないのだ、ということを現場でひしひしと感じることができたのは、何にも代えがたい経験となりました。
 
ずっと山にいるつもりだった上野さんでしたが、お父さんの病気が原因で下山します。車関係の仕事にしばらく携わりましたが、リーマンショックで打撃を受け、その仕事はうまくいきませんでした。
しかし、そんな時代にとても大きな出会いがありました。2009年の夏には、朝活を始める前の永吉隼人さんに会います。上野さんは朝活ネットワークとやまの副管理人として、立ち上げまもなくから50回位まで、朝活を2週に一回担当し、テーマ選びにも奔走していました。でも、自分が抜ける方が、もっと自主的に動いてくれる人があらわれるのではないかと考え、副管理人から身を引きます。事実その後は、参加者自身が動いてくれるようになり、富山の朝活はとても盛り上がっていったのでした。
2009年の10月には、てんつくマンの個展のボランティアスタッフをしたことで、のちにはちどりバンク@とやまを起ち上げることになる向早苗さんと運命的な出会いをします。向さんに引っぱられるように、ロックバンドおかんのライブスタッフにもなった上野さん、そこからたくさんの仲間とつながっていくことになったのでした。
その後、今は居酒屋あんぽんたんの店長でもある布村侑士さんと一緒に本気の朝礼を富山でも開催します。本気の朝礼とは、一人一人が、自分の夢や目標を語り、実現の日を宣言、そして仲間同士で達成度をチェックし、目標に向かってチーム一丸となれる、そんな元気が湧いてくる朝礼のこと。てっぺんの大嶋啓介さんが始められて、今全国の企業や学校にも広まっている、脳を活性化し行動をプラスに変えるブレイントレーニングがギッシリ詰まっている、それが本気の朝礼です。その朝礼を通して、また富山に元気な人を増やしていった上野さん。今も富山を元気にするためのイベントや活動にはだいたい上野さんが絡んでいると言っても過言ではありません。
ある時は、Bamboo save the earthで竹を伐採し、竹を有効利用するためにいろいろなものに加工し、ある時は、フードバンクとやまが食料を東北へ届ける手助けをし、ある時は、はちどりバンク@とやまの理事として、NPOバンクの必要性を熱くプレゼンする。いつもいつも東奔西走して誰かのために走り続けてきた、まさに利他な人。

そんな上野さん、福島正伸さんのメンタリング・マネージメント講座を受け、自らの大きな夢も育んでいくことになります。
その頃から県内3箇所に畑を借り、それを開墾しながら、いろいろな野菜を育てています。山では20年間使われていなかった場所を何日もかけて開墾するという経験もしました。上野さんが実践している生物多様性農法(炭素循環農法)の野菜は形は悪くても味はピカイチ。いろんな生物の違いを活かし、生物や自然全ての役割が大事、と考えるのが生物多様性農法。これからどんな野菜ができるのか、とっても楽しみです。
そんな上野さんの生物多様性農法への想いが込められたブログはこちら。
優農とやまhttp://honkinocyourei.blog20.fc2.com/

山男でもある上野さんだからこそ、自然への畏怖を抱き、自然に回帰する自然農を探求される道を選ばれたのかもしれませんね。
これからも生物多様性農法を実践され、そこで育つたくさんの農作物で、富山をますます元気にしていってください。そして、はちどりバンク@とやまをはじめとした様々な活動と、うえぽんさん(上野さん)の人懐っこい笑顔で、これからもたくさんの人の繋がりを紡いでいってください。もちろん、ダイバーシティとやまもずっと応援してくださいね。

nizi.jpg
上野さんが撮った山の写真です。
今日の人36.川合 径さん パート.2 [2012年04月19日(Thu)]
(パート.1からつづきます)

大学3年生になると、明治大農学部でいちばん厳しいといわれているゼミに入りました。都市緑化、そして街と共存していくことをテーマとして扱うそのゼミで、人類の発展と自然との共存ができる循環型社会の仕組みに出会い、心が震えました。

3年の終わりには就職が決まった径さん。ビジネスのことを何も知らずに環境や循環社会のことを唱えても、ただの絵空事になると思ったので、まずはビジネスの世界に飛び込んでみようと思ったのでした。

入社したのは、半導体の商社です。ビジネスの世界は刺激的でした。いろんなことを自分自身で背負っていかなければならなかったけれど、それがおもしろかった。そうして無我夢中で3年の歳月が流れましたが、ただ、それだけに夢中になっているのは何か違う気がしました。
 
自分の原点の想いは何か?そう環境問題に取り組むことで循環型社会を創っていくこと。そこで径さんは、仕事とは別に街づくりのボランティア、「渋谷Flowerプロジェクト」の活動に真剣に取り組むようになりました。渋谷で遊んで、買い物して、ご飯を食べて、花を育てる。若者が変われば渋谷が変わる。渋谷が変われば東京が変わる。東京が変われば日本が変わる。渋谷を花と緑でいっぱいの街に!そこから始まる新しいカタチ、それが『渋谷Flowerプロジェクト』でした。

その活動に真剣に取り組めば取り組むほどに、径さんは、自分の本当にやりたいことは半導体の営業ではなく、循環型社会を創るために動いていくことだと強く思うようになっていきました。そして、ビジネススクールでちゃんと勉強しようと思い、2006年に入ったビジネススクールで、福島正伸さんと出会います。そして、その出会いが径さんの運命を変えることになります。

2007年10月、会社から部署異動を告げられた径さん、営業からマーケティング部門への異動でした。そこで径さんは思います。社内で新しい仕事をするにせよ、社外で新しい仕事をするにせよ、いずれにしても新たな仕事に取り組むなら、自分の夢を追いかけられる仕事をしよう!そう決意した径さんは、商社を辞めて、アントレプレナーセンターへ転職。そしてそこからはドリームプランプレゼンテーション世界大会の事務局長として八面六臂のご活躍です。

ドリプラを通して、仕事を通して、勉学を通して、生活を通して、今まで自分を育ててくれた仲間に心から感謝。育ててもらった分、待ってもらった分、もらってばかりだった分、恩返しをしたい。次は機会を生み出す、出番をつくる人間となりたい。
子どもに対して、親としての背中を見せたい。今まで自分がしてもらってきたように。勇気を持って、道を切り開き、出番をつくっていきたい。
ドリプラを通して、全国各地に素晴らしい仲間ができた。その仲間と世の中を変えていくツールがドリプラなのだ!
そう思った時に、もっと地域を元気にしていこう!もっと日本をよくしていこう!そういう使命感がふつふつと湧いてくるのです。だから決して妥協できない。
・・・それが、径さんのドリプラに関わる思いです。

アントレプレナーセンターに入って5年目。そろそろ新しい何かにチャレンジしていこうと思っている径さん。今、夢の国東北プロジェクトの事務局として、東北にも深く関わっています。東北の人自らが自分たちの地域を作っていくために夢を語る、そんなプロジェクトに携われることに誇りを感じます。なぜなら径さん自身の夢が、地域が自立して自然環境を整え、それを次の世代に継承していく、そんな循環型の社会を創ることだから。

今、全国各地で限界集落がものすごく増えている。でも、脈々と受け継がれてきたものを、自分たちの時代でつぶしていいのか?ずっと昔から引き継がれてきたこの世界を、ちゃんと次の世代へと引き継いでいかなければならない、それが径さんの深い想いです。

自分は不器用で、同じことを同時にやるのは無理だと思っていたけれど、ドリプラのこと、東北プロジェクトのこと、そして家族のこと、同時にやるのがすごく楽しいと語る径さん。それぞれ別のことをやっているように見えたとしても、実はそれは全てつながっているのだ、そう強く思います。

そして、何かを為す時は、常に自分の意志で選んでいこう!そう決めています。
常に自ら行動して、突破口を開いてきた径さん。これまでも、そしてこれからも、夢とともに走り続けるカッコイイ男なのでした。


次項有径さんが事務局長をされているドリームプランプレゼンテーション世界大会をはじめとして、日本各地でドリプラは開催中です。
ここ北陸でも、4月7日に行われた、杉谷ドリプラを皮切りに、4月22日には福井ドリプラ、6月3日に、春の金沢ドリプラ、8月19日に富山ドリプラ、9月30日に秋の金沢ドリプラが開催されます。6月3日の金沢ドリプラには私もゲストプレゼンターとして参加させていただきます。たくさんの方とドリプラでお会いできることを楽しみにしています!

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ドリプラで最高のチームがうまれます!
今日の人36.川合 径さん パート.1 [2012年04月18日(Wed)]
 今日の人は、ドリームプランプレゼンテーション世界大会事務局長、川合 径さんです。
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径さんは千葉県野田市生まれ。中学校のときに寅さんでおなじみの東京の葛飾柴又に引っ越します。初恋の人は銀河鉄道999のメーテル!でも、そんなロマンチストな面がある一方、少年時代は野球に明け暮れ、友達と廃墟の病院で探検ごっこをし、暗くなるまで毎日元気に外で遊ぶ子どもでした。今は本当に熱い男のイメージの径さんですが、実はとっても人見知りで恥ずかしがり屋だったそうです。二卵性双生児のお兄さんとは喧嘩ばかりしていました。とにかく野球が大好きで、小学校の時は花形ポジションのショートを守っていましたが、中学ではその兄も野球部に入ったことから、野球部は断念。代わりに入ったのがワンダーフォーゲル部でした。親が山登りが好きで、小さい時から山登りをしていたので、自然に山に足が向いたのかもしれません。
 シャイだけど、行動せずにはいられないのが径さん。小学校の時は児童会で、中学では生徒会長として活躍しました。何ができるかはわからないけど、とにかく打ち上げてやってみる、それがモットーでした。都内の各中学校からオーストラリアとニュージーランドに10日間派遣された時のメンバーにも選ばれました。それまで、友達といえば近所か学校にしかいなかったけど、違うところに飛び込んでも気心が知れる友達がすぐにできるんだ!そして、海外に行ってもなんとかなるんだ!この経験が、知らないところに行っても大丈夫だという径さんの自信につながりました。
 高校は都立国際高校、帰国子女が多く、女子対男子の割合が6:1という高校でした。自由な校風でのびのびとした高校生活。授業をさぼって遊んでいたこともありましたが、文化祭や体育祭では応援団としても活躍しました。野球部に入りたかったのですが、なにしろ男子の少ない学校、野球部はなく、バスケ部を選んだ径さんなのでした。
 いつも自分にとって厳しい方を選んでしまうのは昔から変わらないようです。当時も生物学系なのに、物理を選んで苦労したりもしていました。帰国子女が多い学校にもかかわらず、アメリカの在り方について異論を唱えて議論になったりもしましたが、どんなに議論になろうと、決して友達から嫌われるようなことがないのが径さん。一緒にいる人を包み込んでしまう、そんな素敵な魅力を持った人なのです。
 径さんは小さいときからずっと自然の中にいるのが好きでした。緑を守りたい、そして環境問題がやりたい、そう思って、大学では農学部を選びました。でも1年生の時は自分が夢中になれることが見つからず、自分が切り替わるポイントはどこだろうと思いながら悶々と過ごす日々が続きました。しかし、大学2年の春休みに、友達と二人で東南アジアに2週間のバックパックに行ったことで、径さんはバックパックの魅力に取りつかれます。すっかり放浪癖がつき、タイ、ベトナム、ラオス、トルコ、シリア、ヨルダン、イスラエル、インド、モロッコと歩きました。シリアで経験したことも忘れられません。いつも悪いイメージの報道ばかりされているアラブ人にしろ、クルド人にしろ、径さんには本当に親切にしてくれました。「この人たちはこんなに純粋で、旅人にこんなに親切にしてくれる人たちなんだ」この経験から、径さんは本当のことは現地に行ってみないとわからないということを強く感じました。そして、日本の報道はなんてアメリカ寄りなんだろうということも痛感し、巷にあふれる情報をうのみにせず、自分自身が見て聞いたことを大切にしていこうと固く心に誓いました。と同時に、人は絶対に評価してはいけない、評価してしまうとそのことに振り回されてしまう、との思いにも至ったのでした。

(パート.2に続きます)