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今日の人30.飯野道子さん [2012年01月31日(Tue)]
 今日の人は、行政書士でもあり、コーチングNLPでも大活躍の飯野道子さんです。
みちさんは2011年ドリームプランプレゼンテーション世界大会のプレゼンターでもあります。みちさんの夢は最幸じっちゃん・ばっちゃん化計画!を進めていくこと。ともに尊敬しあって年月を重ねていける夫婦をたくさん育てていきたいと考えています。
 みちさんは子どもの頃、とてもおとなしい性格でした。近所にあった貸しマンガ屋に入り浸っていて、マンガやテレビアニメが大好き。何かのリーダーになるなんてとんでもないと思っていました。それに女の子のグループにいるのが苦手で、みんなで連れだってトイレに行くなんて、考えられない世界でした。そんなグループにいるくらいなら一人で過ごす方がずっと楽でした。ですから、中学や高校の時もどちらかというと一人で過ごすことが多かったのです。
 大学では工学部に進みます。周りはほとんど男子学生。でも、女の子のグループが苦手なみちさんにとってはむしろその方が居心地がよかったのでした。学生の時、一人の男子学生の存在が気になりました。別に彼と付き合ったわけではありませんでした。でも、イケメンで文学青年でどこか影のあるその青年のことがどこか心に引っ掛かっていました。子どもの頃、一人で本を読んで過ごしていたころの世界観に近いものを彼に感じていたのかもしれません。
 大学を卒業してから数年後、突然彼から電話がかかります。「元気にしてた?…会えないかな?」二人が付き合い始めるのに、時間はかかりませんでした。やがてみちさんは子どもを授かり、結婚。幸せでした。この幸せがずっとずっと続くと思っていました。
でも、だんだん彼の様子がおかしくなります。なんで…?けれど、深く話し合うことはしませんでした。お腹にいる二人目の子が男の子だとわかったとき、それを彼に一緒に喜んでもらいたかった。でも、それはかなわなかった…。彼は、みちさんと子どもたちを置いて出て行ってしまったのでした。心にぽっかり穴が開きました。何も考えられませんでした。どうして…どうして…
 それでも子どもたちを抱えて生活していかなければなりません。がんばりました。でも、仕事を首になった上に、次の仕事がなかなか見つからず、何度も何度も心が折れそうになりました。いえ、心は封印してがんばっていました。そして、やっとの思いでパソコンインストラクターの仕事に就きました。ある時、社長に呼び止められました。また、やめさせられるんじゃないか、そう思って体が硬直しました。でも、社長がかけてくれた言葉は、「ありがとう。がんばっているね」…涙が止まりませんでした。ずっとずっと心を封印してきたけど、その言葉でせき止めていた想いがあふれ出しました。
 その後、みちさんは何かに導かれるように行政書士になります。行政書士の案内本にあった「離婚相談」の言葉がどうしても頭から離れなかった。私のような想いをする人をなくしたい。そのために離婚を食い止めるんだ。そんな気持ちでいっぱいでした。けれど、思いとは裏腹に、相談に来る人は、もう離婚をさけられない人ばかりでした。やるせなさが胸に広がりました。みちさん自身の心の傷もまだまだ癒えたわけではありませんでした。みちさんは藁にもすがる思いでコーチングの勉強を始めます。でも、みちさんの心はあまりにマイナスに傾いていて、プラスの働きがけをするコーチングは響きませんでした。そんな時にコーチに勧められたのがNLPでした。NLPによって心が解放されたみちさんは、自分以外にも離婚で傷ついて気負っている人の気持ちも楽にしたいと思いました。
 確かに効果はありました。でも、それは離婚の根本的な解決にはならないのです。みんな幸せになりたいって思って結婚したはずなのに、どこかですれ違ってしまった。じゃあ、どうしたら…。
 ある日、相談者の一人が言いました。「結婚式のあの日に戻れたら…」はっとしました。
…今まで私は、離婚する人をどうにかしたい、そればっかり思ってきた。でも、そこをどうにかするには、もう出口が近くなったところで手を打とうとするんじゃなくて、結婚の入り口で、始めなくてはならないんじゃないだろうか?
 最幸じっちゃん・ばっちゃん化計画の始まりでした。
今、みちさんがやろうとしていることは結婚を決めたカップルと一緒にずっと歩んでいくウエディングプロデューサー。結婚式で終わってしまうウエディングプランナーではなく、結婚の前に、お互いよく話し合える環境を作るところから、ずーっと歳を重ねていくところまでかかわるウエディングプロデューサーです。特に今まではほとんどいなかった男性側の視点に立てるウエディングプロデューサーになって男性を支えていくつもりです。その時は、コーチングやNLPもきっと役に立ちますね。
 そして、みちさんの最幸じっちゃん・ばっちゃん化計画は既に始動しています。まずは第一弾として2月4日にクロフネカンパニー中村文昭氏のお兄さん中村典義氏によるセミナーが開かれます。このセミナーに参加できるカップルは、きっと最幸じっちゃん・ばっちゃんになれますね!
 みちさんは思い込んだら突っ走る猪突猛進型。福島正伸先生に出会ったときも、絶対にこの先生を富山に呼ぶと決め、高岡市でメンタリング・マネジメント講座を開催したのが昨年の5月。私はそこに参加したおかげでドリプラを知り、実行委員長の森本耕司さんに出会い、ドリプラ富山のプレゼンターになってダイバーシティとやまを設立できたのですから、まさにみちさんの行動力が私の人生をも変えてしまったと言ってもいいでしょう。
 そして、これからもみちさんは走り続けていくに違いありません。

僕の前に道はない。
僕の後ろに道はできる。

そう、飯野道子さんはこれからも道を作り続けていく、そんなステキな女性です。そんな素敵なみちさんと一緒に歩いていけたら、きっと幸せですクローバー
今日の人29.山科森さん パート.2 [2012年01月25日(Wed)]
(パート.1から続きます)

 チームが1部リーグに昇格した時点で、山科さんはコーチを辞め、美容エステの会社に就職。広島で1年、岡山で10年を過ごします。岡山では社会人アイスホッケーチームに入り、選手兼監督として、ここでもチームを優勝に導きます。この間、お子さんも3人生まれましたが、大阪生まれ大阪育ちの奥さんは慣れない土地での3人の子育てに追われる毎日に体調を崩しました。このままではいけない、家族が安心できる場所に引っ越そう、そう決意した山科さん、仕事のあてもないまま会社もやめ奥さんの実家のある大阪に引っ越しました。
 その頃、ご自身の実家の小矢部のご両親から、家業を手伝ってくれないか、と何回も言われていました。実はその頃家業は倒産寸前でした。子どもの頃、土日も関係なく働いている親の後姿に誇りを感じていた山科さん。その会社が悲鳴を上げている。実際、町の印刷会社には大きい印刷機があるわけではありません。まして、各家庭にパソコンが普及し、印刷屋の仕事はどんどん減っている。今なら会社をたたんでもなんとかなる。でも、社長、つまり山科さんのお父さんは続けたいと言いました。それなら、と山科さんは腹をくくりました。
 山科さんは家族を大阪に残して、単身小矢部に戻りました。会社を立て直すためにはリストラをするしかありません。ある社員に辞めてください、と言ったところ、オペレーター全員が辞めると言ってきました。山科さんは言いました。「辞めてください」
断腸の想いでしたが、そうするしかありませんでした。
こうして、オペレーターが全員辞めていきました。
 山科さんは言います。「当時オペレーターが全員で辞めると言われたときは、すごく大きなショックを受けました。でも、その決断をしてくれたからこそ「今」があるという感謝の気持ちでいっぱいです。」と。
 それからの1年間は毎日が徹夜のような日々でした。なにしろそれまで印刷会社の仕事を全くやったことがなかったのですから。しかし、そうやって会社に入ってくる仕事にがむしゃらに取り組んでいくうちになんとか一通りの仕事はこなせるようになりました。けれど、そんな毎日が続く中で思ったのです。「この仕事は、果たして世の中のためになっているのか?」
心の中に葛藤が生まれました。その葛藤を払拭しようと思って始めたのが小矢部のSNSサービスOyabe Local SNSでした。
 昔は誰かとコミュニケーションをとるために印刷物は不可欠な存在でした。今はそのツールがネットなどにとってかわってしまったとはいえ、やはり、印刷会社はコミュニケーションツールを提供してあげることが使命だと考えています。そしてそんな考えで新たに作り始めたのが、小矢部ローカルかわら版でした。地元のお店をかわら版で無料で紹介するサービスを始めたのです。
 社長が「たとえ客が一人になっても会社を続ける」と言った時から腹は決まっていました。それなら散り際にみんなから「ヤマシナ印刷さんありがとう」と言ってもらえる会社にしようと。
売り上げを上げるのはやめよう、人に喜んでもらえることをやり続けよう。そう心に決めた時から山科さんはスーツを着たことがありません。仕事をもらうつもりはないからです。
自分が出会った人を最大限支援する。そのスタンスは出会った多くの人に安心感を与え、いろんな人が本音で山科さんに話しをしてくれるようになりました。いろいろな人に話しを聞くうちにAとBをつなげばこんな利点がある、そういうことがたくさん見えてくるようになりました。そんな中からたくさんのプロジェクトが生まれてきたのです。「北陸三県ありがとうプロジェクト」「Oyabetter」「富山を愛する仲間たち」「ソーシャルファームプロジェクト」「朝活朝市@ふくの」「自転車じゃんけん宅配便」etc…山科さんが繋ぐプロジェクトは枚挙に暇がありません。
 山科さんは経営のことを考えていません。出会った人を幸せにする働きをしていれば、勝手に経営がなりたつ。時流に合いつつ人のためになることをすれば、お金はついてくる、そう思っています。今はそのリアルな実験の最中なのだと。
 3年前の自分では考えられなかったことを今やっている。お金はないけど、人脈はとてつもなく広がった、と山科さん。でも、それが山科さんにとっての最大の財産なのでしょう。そして、きっとこのネットワークがこれからの富山を動かしていくに違いありません。そのムーブメントの核にいる山科さん。実にかっこいい生き方をされているのです。
 ただ、小矢部に来てからの3年あまりというもの、大阪にいるご家族、特に奥さんには迷惑をかけっぱなしでした。夫婦で一つの目的が持てずに、お互いの心がすれ違いそうになったときもありました。でも、今は二人共通の目標ができました。それは、一緒にフルマラソンを走ること。あるいは旅をしながらの旅ランをやること。そして、山科さんの利他的な行動をずっと見てきた奥さんには、今ひとつの夢ができました。それは、大阪でコミュニティカフェのような居場所を作りたいという夢です。彼女の想いを実現すべく、まずは小矢部でプロボノカフェを起ち上げ、大阪と富山をつなぐ活動もしていこう!そう山科さんは思っています。
 そして山科さんは、自分が携わったプロジェクトは、最低10年は続けようと思っています。北陸三県ありがとうプロジェクトで小学校低学年だった子が10年たって高校生になって、また再びありがとうプロジェクトに出会い、今度はその子がプロジェクトを引っ張る側になる、そんなつながりがずっと続いていけば、とびっきりステキな富山になりますね。
 私もつながる仲間のひとりとして、ずっと応援していますびっくり(でも、それ以上に応援してもらっているのでしたクローバー

(写真は北陸三県ありがとうプロジェクトに参加した私のクラスのロシア人学生ナースチャーさん笑い
今日の人29.山科森さん パート.1 [2012年01月24日(Tue)]
 今日の人はヤマシナ印刷北陸三県ありがとうプロジェクトジャンクラーetcで富山ではすっかりおなじみの山科森(やましなしげる)さんです。とにかくたくさんのプロジェクトに携わっていらっしゃる山科さん。その数々はどうぞこちらをご覧ください。⇒ヤマシナ印刷HP
 今はフルマラソンを走れる位の体力のある山科さんですが、子どもの頃は体が弱かったそうです。それが小学4年生の時にホッケーを始めたことによって、みるみる体力がつき、自分に自信が持てるようになりました。山科さんの故郷の小矢部市はホッケーが盛んな場所として有名です。全国レベルで活躍する選手やオリンピック選手まで輩出するようなところですから、小学生とはいえ、超本気のスポーツクラブで、毎日5〜10km走り込むのが当たり前でした。中学生までは何の迷いもなくクラブの仲間とホッケーに打ち込む毎日。高校進学する段になって、同じクラブのメンバーのほとんどは、ホッケーの強い地元の石動高校に進学していきました。しかし山科さんは、先生や親に勧められるままに進学校の砺波高校に進学します。「本当にホッケーが好きだったのに、俺はどうしてほとんど悩みもせずにこの高校に来てしまったんだろう…」高校に入った後、先生や親の言いなりになってしまったことを引きずった山科さん。ホッケー部のない高校に来てしまった。じゃあ、この高校で一番強いチームに入ろう、そう思って選んだのはラグビー部でした。山科さんがいた3年間、砺波高校ラグビー部は県大会で3年連続優勝します。1年の時だけは2校同時優勝で花園を逃しましたが、2,3年の時、花園を経験しました。
 山科さんは大阪工業大学に進学しました。そこではアイスホッケー部に入りました。そのチームは常に負けている負け癖のあるチームでした。中学高校とずっと強いチームにいた山科さんは、そこで勝つチームと負けるチームのちがいを実感します。一番感じたのは、「場づくり」の違いでした。負け癖のついてしまったチームは、場づくりの段階で既に負けているのです。
 関西のアイスホッケーリーグは1〜3部まであります。1部は子どもの時からスケートをしていた人がやっているチームが中心。3部になると、大学に入って初めてスケートを履いたという人がほとんどのチームでした。そして山科さんの大学はその3部リーグの中でも最下位に位置するようなチームだったのです。全く科学的トレーニングをしていないそんなチームでした。負け癖のあるチームではあったけれど、あえて泥臭く、ど根性でいこうと先輩からの伝統の練習方法にこだわりました。それでも4回生の時、山科さんは得点王でした。3部の最下位だったチームが、3部と2部との入れ替え戦にまで上ってきました。その入れ替え戦の残り4秒の時、山科さんにシュートチャンスが回ってきました。それを決めて勝てば2部にあがれる!決定的な場面でした。しかし、そこで山科さんはシュートを外してしまいます。悔恨が残りました。
 ある時、もっと組織プレーを意識してやっていたら2部に上がれたんじゃないのか、と言われた山科さん。あの時ゴールを決められなかった自分は、このチームを勝てるチームに変えることが使命だと感じ、就職活動はやめました。チームのコーチに専念することに決めたのです。といってもボランティアですから、夜バーテンダーのバイトをして生活費を稼ぎながらのコーチ生活でした。しかし、妥協は一切しませんでした。戦略戦術を徹底的に磨き上げ、コーチングクリニックも始めました。3部リーグの弱小チームに「日本一のチームになろう!」と常に呼びかけました。まず精神面から変えなければ、このチームは変われない!大学に入ってすぐに感じた負け癖を払拭するところからのスタートでした。その後、大阪工業大学のアイスホッケー部は奇跡を起こします。3部リーグにいたチームが1年目に優勝、2年目には入れ替え戦で勝って2部リーグに上がり、なんと3年目には1部リーグに昇格したのです!負け癖のあったチームを劇的に勝ち癖のあるチームに変えた。まさに山科さんはコーチの中のコーチと言ってもいいでしょう。

(パート.2に続きます。乞う、ご期待ウインク
今日の人28.田村太郎さん [2012年01月17日(Tue)]
 今日の人は、ダイバーシティ研究所代表の田村太郎さんです。
田村さんは兵庫県伊丹市生まれ。めっちゃおしゃべりで陽気なおっちゃん(私より年下です。ごめんなさい)です。

 田村さんは人生そのものがダイバーシティ!
ベルリンの壁が崩壊した1989年、田村さんは高校3年生でした。日本の大学入試制度が大学入試センター試験に変わった時でした。でも、田村さんはセンター試験は受けませんでした。親にめちゃめちゃ怒られましたが、今、この時にベルリンに行かなくてどうする!と思ったのです。高校卒業後、田村さんはシベリア鉄道に乗ってヨーロッパに。当時はまだロシアではなくソ連の時代でした!アメリカと接近し、ソ連崩壊が目前に迫ったモスクワの街には、初めてマックができ、2時間待ちの行列ができていました。そしてなんとモスクワのボリショイ劇場ではダイハードを上映!田村さんはボリショイ劇場でダイハードをみたのでした。字幕付きではなく、吹き替えをたった一人の声優がやっているダイハードでした。
その後、田村さんは東西ドイツが統一して初めてのお正月をドイツで迎えることになります。歌い、大騒ぎし、ハグしまくり、声が出なくなってしまった田村さんは1991年のお正月をそうして迎えたのでした。
 ’91年の1月、田村さんはラジオ短波を聞いていました。なぜか妨害電波で聞き取りにくいな、と思っていると湾岸危機だと言っていたはずのラジオが次の日には湾岸戦争に変わっていたのです。しかし、ヨーロッパにいると、湾岸戦争より、ロシアが西欧諸国向けのパイプラインをとめるといっていることの方がよほど大きなニュースとして取り上げられていました。
 その後、フランスのマルセイユから船でアルジェリアに渡ります。マルセイユの船乗り場のお兄さんが「危ないから行くな!」としきりに止めましたが、田村さんは意に介しませんでした。今、行かなくていつ行くんや?と。
 当時のアフリカの人々は、みんな東洋人はカンフーや柔道ができると思い込んでいました。そのおかげか田村さんよりよっぽど大きな欧米人が襲われていても、田村さんは全く襲われることはありませんでした。それどころか、ガタイのいいごっつい兄ちゃんが何人も「柔道を教えてほしい!」と言ってやってきました。一応体育の授業では柔道をやっていましたから受身の基本くらいはできたので、それだけ教えて、「100日練習してからまた出直してこい」と言っていたそうです。アフリカの子ども達はカンフーの真似をしながら田村さんの後をついてきました。今のようにネットもない時代でした。でも、かえってそれがよかった。もし、今の時代だったら、あのような旅は絶対にできなかっただろうから…。
 アルジェリアからはサハラ砂漠を通ってニジェールに渡りました。今は内戦で通れない場所です。田村さんは不思議なくらいの巡り合わせで、国と、地域と、人との出逢いを繰り返してきたのでした。
 ケニアのナイロビではフロリダ2000というディスコにしょっちゅう通っていました。レゲエナイトで踊り明かしていた若き日の田村さん。何人かの女の子とお付き合いもしました。本気で結婚しようと思った女の子もいました。耳の聞こえない女の子でしたが、田村さんは彼女からもらったトレッドヘアのエクステを一本ずっとつけていました。本命の彼氏に一本トレッドのエクステをつけるというのが、アフリカの女の子の愛の表現なのだそうです。ずうっとそれをつけていた田村さん。しかし、その愛は成就しませんでした。
 田村さんは一度日本に戻り、再びナイロビに渡ります。そして次は南アフリカへ。当時の南アフリカはアパルトヘイトの過渡期でした。デクラーク大統領が就任し、アパルトヘイト撤廃へと動いている時代でした。南アフリカは実は非常にヒッチハイクのやりやすい国です。世界でヒッチハイクのやりやすい国は二つある。ひとつは南アフリカ、そしてもうひとつは日本なんだとか。
 田村さんがヒッチハイクをすると、白人のベンツ、黒人のトラック、どちらも止まってくれました。そして、共通して聞かれるのが「どこいくの?急ぐの?今晩泊っていけば?」
白人の家に泊めてもらった時はプール付の豪邸です。そこでその白人は決まって言います。
「アメリカ人は黒人を駆逐してきたが、俺たち南アフリカの白人は黒人と共存してきたんだ。それを日本の人に伝えてほしいんだ。」
黒人の家に泊めてもらった時は、1000人住んでいるところに水道の蛇口が二つしかないような場所です。それでも陽気に泊っていけというのは変わらないのでした。そして、そこでは黒人が決まって言います。
「日本に帰ったら日本の人たちに伝えてほしいことがある。俺たち黒人がいかに差別を受けてきたかということを」
 やがて南アフリカはアパルトヘイトを撤廃し、ネルソン・マンデラが大統領になるわけですが、この歴史的な過渡期に南アフリカにいられたことを田村さんはとても幸運だったと感じています。しかし、何より、南アフリカは大好きな国だったのでした。
 やがて田村さんはケープタウンから船でブラジルへと渡ります。ブラジルに行くと、そこでは白人と黒人が一緒に働いていました。南アフリカでの黒人の鬱屈した思いが晴れるような現場をいきなり目にしたわけです。全くちがった価値観。きっと日本から直接ブラジルに渡っていたら、こんなにも衝撃を受けることはなかったでしょう。南アフリカからブラジルへと渡った。そのことが田村太郎が多文化共生に目覚める一番大きなきっかけになったといってもいいでしょう。
 日本に帰ってからは、在日フィリピン人向けレンタルビデオ店で勤務します。その中で、日本で暮らす外国人の抱えている課題の多さに気付きます。そして1995年1月17日、あの阪神・淡路大震災に被災。その直後から外国人被災者へ情報を提供する「外国人地震情報センター」の設立に参加します。
 1997年から多文化共生センター代表として多文化共生の考えを全国に広めていきました。2004年からはIIHOE[人と組織と地球のための国際研究所]研究主幹として、NPOのマネジメントサポートや自治体との協働にテーマを移し、非営利民間の立場から地域社会を変革するしくみづくりに取り組みました。また、2007年1月からダイバーシティ研究所代表として、CSRにおけるダイバーシティ戦略に携わっています。
そして、2011年3月東日本大震災を受けて、「被災者をNPOとつないで支える合同プロジェクト(つなプロ)」、スペシャルサポートネット関西 の発足に関わり、それぞれ代表幹事、世話人を務め、また内閣官房企画官に就任し、被災地のニーズ把握や震災ボランティア促進のための施策立案にも携わるなど、まさに寸暇を惜しまず飛び回っています。
 阪神・淡路大震災を経験し、その後の中越沖地震等でも、走り回ってきた田村さんだからこそ、東日本大震災復興対策本部ボランティア班企画官(現在は復興庁上席調査官)として大きな力を発揮していらっしゃるのでしょう。でも、田村さんは自分が表に出ていくことは決してしません。裏で支えることに徹しています。支援者が主役になっては絶対にダメだと思っているからです。あくまで、支援される人が主役、ボランティアはわき役、政府はまた更にわき役で支えなければならないと考えています。調子のいいことを言う人はたくさんいるけれど時間が経つほどに本当に信用できる人はだれか、それを被災した人たちはおのずとわかってきます。地元の人たちが自分たちで立ち上がるのを手助けする、そんな支援をずっとしていきたい。
もちろん、田村さんは実行の人ですから、すでに起ち上げているプロジェクトもいろいろあります。講師として教えている甲南女子大の学生達と一緒に釜石の商店街に仮設商店街もオープンさせました。商店街を応援する女子大プロジェクトとしてチアリーディング部がチアリーディングをしたり、とまさに釜石版女子大生AKB48?
今、仮設住宅で孤独死していくのは、ほとんどが男の人だそうです。女の人はあまり亡くならない。なぜか?おばちゃんたちは茶話会などに出てきて、おしゃべりでストレスを発散している。でもおっちゃんたちは茶話会には出てこない。仕事はない。ストレスのはけ口がない。おっちゃんたちの愚痴を聞く飲み会を企画すれば、孤独死するおっちゃんは減るでしょう。でも、行政はそんな時間外のことなんてできません、という。そういう考え方自体、変えないといけない。仕事の在り方も、非正規雇用はダメだ、なんて言ってる場合じゃない。週に2,3日、1日3〜5時間の仕事だっていい。そうやって雇用を増やせば、自殺防止にもなるのだ、と熱く語る田村さん。都市型のワークライフバランスを地方に当てはめるのは無理があるのに、霞が関が出してくるのはフルタイムでしっかり働くことを前提にしたワークライフバランス。そういう頭の固さをなんとかしないといけない。
 でも、それは我々だって同じこと。仕事がないとボヤくだけではなく、仕事を自ら見出していかなければ…。ガレキを撤去するだけでなく、撤去したガレキを活用することを考えてもっと仕事を増やしていかないとだめなのです。例えば、津波をかぶった缶詰を安く売り出しているけど、逆にプラスチックケースにいれて高く売り出せばいい。付加価値をいかにつけるか、付加価値をあみ出していくのがビジネスなのだ。そしてそれが出口を見つけることにつながるのです。
 ボランティアであれ、なんであれ、出口デザインをしっかり描くことが大事なのに、それができていないところが多すぎる!と田村さん。結局、現場が好きな人はケースワークばかりやっていて、フレームワークをやらない。フレームワークをやらないと、やはり出口デザインは描きにくい。でも、逆にお役人のようにフレームワークばかりやっていて、ケースワークをやらないのもダメなのです。大事なのは、ケースワーク発のフレームワーク。田村さんはそれができる、そして出口デザインを鮮やかに描ける、本当に貴重な人なのです。
 田村さんのお話を聞いていると、本当に根性据えてやらんといけないなと熱い気持ちになってきます。こんなにたくさんの仕事をやっているにも関わらず、1年200本もの講演をこなす田村太郎さん。もし、今休みが取れたら何をしたいですか、というちょっと酷な質問を最後に投げかけてみました。
 休みが取れたら行きたい場所はキリマンジャロの麓にあるタンザニアのモシという町。自分の前世はマサイかキリンだったのではないかと思うほど、全身が解放される場所だそうです。モシで全身解放されてキリマンジャロコーヒーを飲む。そんな日が早く来るといいですね。いや、きっと当分は無理なのでしょうけど…。いつかそんな日がきたら、ぜひお供したいものです。
今日の人27.向早苗さん [2012年01月11日(Wed)]
 今日の人は昨年「はちどりバンク@とやま」を設立した向早苗さんです。向さんはホームメイド協会富山校でパン教室の先生もされています。育児だけの生活に物足りなさを感じ、何か始めようと思ってパン作りを習い始めたのがきっかけでした。転勤族のご主人と一緒に富山から、小松に移り、小松では自宅教室を開き、また富山へと戻ってきて、今の教室で教えるようになりました。
 そんな向さん、30代の時に、黒沢義巳さんからコーチングを学びます。コーチングを学んだことで、子どもを感情的に叱らなくなり、小言を言わずに待てるようになりました。そうすることによってイライラすることがなくなり、子育てが楽しくなりました。向さんはお子さんにああしろこうしろ、と言ったことは一回もないそうです。お子さんを信じて本人に任せる、そして相談された時はちゃんと向き合う、そうすることでお子さんは「ああ、自分は信じてもらっているんだな」と大きな自信を持てるようになるんですね。頭でわかったつもりでも子どもを目の前にするとつい何か言ってしまいがちですが、こうと決めたらあくまで実践する揺るぎない姿勢、ホントに男前でかっこいいのです。
 ある日、黒沢義巳さんから「てんつくマンがすごい!」と聞かされます。てんつくマンって何者?と思い、本屋に向かうと一冊だけてんつくマンの本がありました。それを購入して吸い込まれるように読破した向さん。どうしてもこの人に会ってみたい!と思いました。そこに、てんつくマンの映画主催者募集と書いてあるのを見て、そうだ、自分が主催者になればいいんだ!と思ってそれを実行します。こうして、てんつくマンを呼び、映画上映会もやってしまったのでした。そして、てんつくマンの活動に賛同し、一緒に中国やブラジルに植林活動にも行った向さん。充実感でいっぱいでした。てんつくマンが地球環境の新聞を出す、と言った時に富山で配ったのも向さんでした。そこでも大切な仲間と出会いました。東京のNPOバンクの田中優さんもその一人です。田中さんのお話を聞いて、NPOバンク、富山にもあったらいいなぁ、と思いました。てんつくマンにも「富山でバンクしたら?」と言われましたが、「お金にならんし、やんない」と言っていました。でも、心の中ではずっとそのことが引っかかっていました。その想いを2年位温めていましたが、石川でもNPOバンクピースバンクいしかわが立ち上がったのをみて、よし、富山でもやろう!と決意します。それを想像するとめちゃくちゃワクワクしました。でも、いったい何をどうしたらいいのか術がわかりません。そんな時、周りの人たちから、とやま起業未来塾に行ってみれば?と言われそこでノウハウを学ぼうと思って入塾しました。けれど、入ったコースは地域づくりコース。最初はなんで?と思いましたが、地域づくりコースには県庁、市役所、商工会で働いている人たちも来ていて、のちのネットワーク作りにとてもよかったと今では思っています。2010年11月にとやま起業未来塾を卒塾。その後、NPOバンクを設立するための仲間集めや中味作りに奮闘し、2011年9月についに富山初となるNPOバンク「はちどりバンク@とやま」を設立したのです。
 向さんの生き方に大きな影響を与えたのはお父様でした。向さんのお父様は農業をされていましたが、農家だけではこの先食べていけなくなるとの思いで、畜産業も営まれました。今では富山に知らない人はいないほど有名な池多牛の地位を確立された方です。戦争で父親を亡くし、若い時から自分の母親と姉を自ら養ってきたそんな頼もしいお父さんです。
 しかし、生き物相手のお仕事ですから当然休みはありませんでした。ですから、向さんは子供の頃に旅行に連れていってもらったことはただの一度もありませんでした。地区の役もすぐ引き受けてきて、いつも家には誰かしら出入りしていました。そして人のお手伝いをしていてもそれに対する見返りを求めない人でした。そんなお父さんの後ろ姿を常に見てきました。ですから、幼い頃から人のために尽くす生き方を自然と身につけてきたのでしょう。もちろん、自分に厳しく子ども達にも厳しい人でしたから、反発もしました。
でも、向さんが18歳のある日、向さんのお母さんが事故で突然帰らぬ人となりました。お母さんが亡くなったその時から、お父さんは何も言わなくなって手も上げなくなりました。それを見た向さんや弟さんたちは、自立しないといけない、と強く思いました。何も言わずとも子どもが自ら動く、コーチングのような教育をお父様は無意識に実行されたのです。
 そのことを身を持って感じたので、向さんはお子さんたちに強制することはしません。やりたいことを思う存分やらせてあげれば、子どもは自分で納得して正しい判断をするものだと思っています。そして、お父様がそうであったように、自分も自分の背中を見て子どもたちが何かを感じてくれる、そんな生き方をしたいと思っています。
 思い通りにいかずに苦しいこともたくさんあるけど、やり続ければきっと何かが起きる、そして、はちどりバンクからお金を借りて、喜んでくれる人の顔を想像するとすっごく楽しい気分になれる。やっぱり向さん、天性の利他の人なのです。
 これからも焼きたてのパンのようなふんわりとした優しさと、炎の中に飛び込んでいくハチドリのような強さで富山をいっぱい元気にしていってくださいね。
今日の人26.中村慎一さん [2012年01月05日(Thu)]
今日の人は、富山でコーチングのコーチといったらこの方「オフィスエンカレッジ」代表、「銀座コーチングスクール富山校」代表、そして今や富山の中心商店街の冬の風物詩になったエコリンクの運営も手掛けていらっしゃる中村慎一さんです。

 今でこそ、お話上手で、たくさんの研修も手掛けていらっしゃる中村さんですが、昔は人とコミュニケーションをとるのが大の苦手でした。県外の大学にいた時には、アパートの呼び出し電話に1年以上出ず、心配した家族がアパートまで見に来たこともあるほどです。
 そんな中村さん、小学生の頃はじっと椅子に座っていることができない、今でいうADHDタイプの子どもでした。ただ読書は大好きで、先生の指示に全く従わずに学級文庫の本を読みあさったりしていました。自分が夢中になっている時は、他のことが全く耳に入らないすごい集中力なのです。また、お父さんが「大工仕事を覚えないやつは男じゃない」という人でしたから、小さい時からノコギリを使うのは当たり前。魚津の漁師町で育ったので、煮干しを干す道具をばらして、それで刀と弓を作って戦争ごっこをしたりして過ごした子ども時代でした。そんなわんぱくな面もありながらも、恥ずかしがり屋で自分から人の前に出たいとは全く思わない子どもでした。
 中学高校時代も、マイペースは変わらず、とうとう模試というものを一回も受けなかったので、先生から「お前の進路指導はできん」と言われたほどでした。高校では山岳部に所属。平日に体調が悪いと学校を休んで、土曜の午後からの山岳部の登山に備えました。登山をしていて思ったことは、みんな頂上がゴールであるように言うけど、実はそうではないということです。登山は下りの方が危ない、だから山を下りてきて、電柱が見えたときがゴールなのだと思っています。下りが大事、というのは人生全般において言えることなのかもしれませんね。
登山は危ないので、3年間でやめると家族と約束して始めたことと、北信越国体に出場した時に競技登山におもしろさを感じなくなったこともあり、山岳部は高校の3年間でやめました。
 大学ではアイスホッケーにのめり込みます。アイスホッケーはいいわけの通用しないスポーツ。そして、スピードが速いからこそ、工夫すれば余地がある。これは仕事にも通じることです。国体選抜にも選ばれ、たくさんの社会人とかかわる中で、変わった人たちがたくさんいて、その人たちがいきいきしている姿に出会います。「今まで自分は変わっていると思っていたけど、変わっていてもいいんだ。気にすることないんだ。」と実感し、ますますアイスホッケーにのめり込んでいったのでした。
 そして今、社会人のアイスホッケーチームが解散し、アイスリンクも少なくなっている現状を憂い、中村さんは富山に大きなアイスリンクを建てる夢を持っています。でも、アイスリンクを建てたい理由はそれだけではありません。北欧では、カーリング競技に障がい者が出ています。障がい者チームではなく、健常者と同じチームにです。スケート場を、障がい者も、老人も子どもも、みんなが集える場所にしたい。お年寄りも滑ることができるように手すりをつければ、お年寄りだってスケートができる。昼間することがないお年寄りの社交の場にスケート場がなれば、予防医療の面からいってもすばらしいし、そこに学校帰りの子どもたちが集えば、お年寄りと子どもたちの交流の場にだってなる。単に競技スポーツをするだけのスケート場ではなく、みんなが集えるスケート場。ごちゃごちゃでもいい。いや、ごちゃごちゃがいい。
 こんな風に思えるようになったのは、大学時代に邦楽部も掛け持ちで入っていたのが大きいのかもしれません。中村さんは邦楽部で尺八も吹いていました。邦楽部では尺八の古曲の練習にメトロノームを使って練習している先輩がいました。ゆっくりでも速くでも、どんな速さの曲も吹きこなせることができるようにメトロノームで練習するのです。スポーツ選手は速く、速く、の練習ばかりしている。でも、そうではないのではないか。ゆっくり、に着目した練習方法、これも大切ではないか。はっとした中村さんは自分でトレーニング方法をあみだし、それを実践することで、アイスホッケー部もみるみる強くなっていったのでした。だから、体育会系とか文化系とかいうふうにすみわけをする必要は全くないと思っています。それは理系と文系も同じ。本当は物理学をやりたかったので理系に進もうと思っていた中村さんは法学部に進みました。でも、法律の勉強をやっていて、条文は数学だ、と思いました。だから、なんでもはっきりわけようとするのは変じゃないかと思っています。グレーゾーンや分けないものを残しておく方が、新しいものが生まれてくるんじゃないのか?
 こんな風に自分で自分の道を切り拓いてきた中村さんでしたが、アイスホッケー部では、自分がキャプテンになってから20人の部員がやめていきました。先輩後輩の関係は気にせず、対戦相手に勝つことのみを考えていたため、部員の反発を買ったのです。それは社会人になって、部下を持つようになってからも変わりませんでした。よかれと思ってやっているのに、業績は上がらない。部下との会話がなく、部下が会社をやめていく。一方で多様性を認めることのすばらしさを知りながら、もう一方で自らがそれを認めていないところがあった。
 このままではいけないと思った中村さん。いろいろなセミナーに出る中でコーチングに出会います。そして、自分が取り組むべきはこれだ、と思ったのです。
 最初は社内でコーチングの実践をしていた中村さんでしたが、これはもっと富山に広めていかないといけない!そう強く感じ、会社をやめて、先行きの目途を立てずに独立しました。最初は半年か一年でなんとかなると思っていましたが、そう甘くはありませんでした。でも、奥様は何も言わずにずっと中村さんを支え続けました。大学の邦楽部の後輩で箏を弾いていらした奥様です。きっと尺八と箏の合奏曲のように、絶妙のハーモニーのお二人なのでしょうね。まさに琴瑟相和!(琴尺相和?)
 徐々に中村さんのコーチングは評判を呼び、多くの顧客がつくようになります。同時に、もっと多くのコーチを育てたいと、銀座コーチングスクール富山校も開校し、たくさんのコーチが巣立っています。これまでの認定プロコーチは30人。中村さんの目標はプロコーチを100人育てることです。100人のコーチがそれぞれ100人の人を元気にし、その100人が10人ずつに影響を与えられたとしたら、10万人の人にプラスの影響を与えることができる。そうすれば、富山はもっともっと元気でステキな県になれる!
 コーチングは答えを導き出す道具ではありません。むしろ答えがひとつだと気持ちわるい。いろんな答えがあって、好きなものを選べばいい。なければ作り出せばいい。そして、いろいろな大人の姿を見せた方が、子どもも安心できます。中村さんはそういうワクワクしている大人の見本の一人になれたらいいと考えています。
 中村さんが始めたエコリンクも今年で4年目。最初は「うまくいきっこない」と言われました。でも初年で16000人の来場者がありました。1年目はほとんどエコリンクに詰めていた中村さんはその期間に1万人の人に「ありがとう」を言われる経験をします。1万人にありがとうを言われる経験なんて、そうできるものではありません。ここでも、自分で決めて自分で選んでいく楽しさ、充実感を実感した中村さん。
 エコリンクではこんなこともありました。知的障がいの子どもたちをリンクに招待した時のことです。彼らは滑れる、ということに純粋に喜びながら、決してできない子どもたちのことを見下したりはしませんでした。普通だったら、俺の方がうまい、とか、あいつは下手だ、とか優劣をつけたがるものですが、知的障がいの子にはそれがなかった。それぞれがそれぞれの楽しみ方で滑り、かつ、相手のことを急かすでもなくじっと待っている心の余裕があった。果たして、知的障がいと呼ばれるこの子たちと、健常者と呼ばれながら、誰かを妬んだり、平気でゴミをポイ捨てしたりするような大人とどちらの心がまともなのだろう?
 だから中村さんは思います。スケートリンクを建てるのは自分の使命だと!大人も子どももお年寄りも障がい者も外国人も、たくさんの人の笑顔があふれるスケートリンク。そんなダイバーシティなスケートリンクが富山に誕生する!と思うと、本当にわくわくします。これからもコーチングや研修で、そしてスケートリンクで、富山にたくさんのステキな笑顔を生み出していってくださいねクローバー
今日の人25.能登貴史さん [2012年01月01日(Sun)]
今日の人は、NPO法人PCTOOL代表の能登貴史さんです。能登さんは富山のNPO活動の草分け的な方で、市民活動サポートセンターとやまの代表としても活躍していらっしゃいます。

 今はとにかく積極的で、どんどん前に出てお話される能登さんですが、高校生の時は引きこもりがちでした。自分の足音が怖いと感じたときさえありました。
 そんな能登さんが変わったきっかけは、大学の時にマクドナルドでアルバイトをしたことでした。マクドナルドは当時から徹底した能力主義で、働けば働くほど認められました。人は誰かに認めてもらえると、やはり大きな力になります。能登さんはそこで、自分を外に出せるようになりました。でも、ただのアルバイトと正社員では、待遇に雲泥の差がありました。その頃はバブルの始まりの頃で、当時はマクドナルドの正社員のボーナスが100万円位ありました。同じような仕事をしているのに、この待遇差はおかしいと思った能登さん、大学の勉強に意義を見いだせなかったこともあり、そのまま大学を辞めて、マクドナルドに入社しました。しかし、入社してすぐに配属された店舗は、日本で3番目に売上げの多い名古屋の店舗でした。今まで、自分はできると思っていたのに、そこに来ると、アルバイト店員より仕事ができない現実にショックを受けました。さらに鬼の軍曹のような店長にひどい扱いを受け、始発電車で出かけ、終電で帰る毎日に半ば心が折れかけていました。しかし、そんな時に、マクドナルドの画期的な取り組みともいえるハンバーガー大学で学ぶ機会を得ます。そこではアサーティブについて学ぶなど、当時としてはかなり新しい能力開発系の知識を貪欲に吸収することができました。
 しかし、ある時、仕事の人間関係に巻き込まれてしまい、地下牢のような店舗に飛ばされてしまいます。でも、そのことが能登さんの人生を大きく変えることになりました。その店舗はいち早くパソコンを導入しようとしており、能登さんはその時にパソコンについて細かく学びました。インターネットにつながるようになったばかりの時代です。パソコンってすげえ!能登さんはパソコンの可能性を強く感じました。そして、この分野をもっと強くしたい、と思うようになりました。
 そんな時、富山のお母さんが病気で倒れ、能登さんは富山に帰ることを決めました。結婚して半年後のことでした。
 富山での転職先ではパソコンを導入して社内のシステムを一掃する仕事を任されました。この仕事は、能登さんが人生をいちばんすり減らした仕事だといいます。
 そんな中、その会社に長年勤めてきた50代半ばの女性が「あんたのせいで会社をやめなくちゃいけなくなった」と能登さんにいってきました。「パソコン覚えられよ。ゼロからやってみようよ」そう薦めたら彼女は、本気でパソコンの勉強を始めました。経理を担当していたその女性がパソコンの知識を持つことで、その会社の経理部門はとてもうまく回るようになりました。「あんたのおかげで会社をやめなくて済んだわ。人生が180°変わったよ」能登さんは人が変わる瞬間に立ち会える喜びをその時知りました。
 でも、能登さんはリストラがすべて終わったら、その会社を辞めるつもりでいました。もう一つ大きかったのは、同期で入って仲良くなった人が亡くなった事でした。その人は結婚もうまくいって子どもも生まれたばかりでしたが、上司と折り合いが合わず、仕事を辞めますと言っていました。「弱い人間は自分に甘いだけだ」と思っていた能登さんは、その人にがんばれ!とひたすら励まし続けました。しかし、半年後、彼は奥さんと子どもを残して自殺しました。「どうして…?」立ち直れませんでした。猛烈な後悔の念と同時にこみ上げてきたのは、人は人の弱さを寛容できることが大切なのだ、という想いでした。
当初の予定通り、リストラが終わって目途がついたときに会社を辞めた能登さんは奥さんにひとつのお願いをします。
「一年間、遊ばせてほしい」
奥さんは受け入れました。富山に帰ると言ったときも、会社をやめて1年働かないと言った時もすんなり受け入れた奥様の度量の深さが、能登さんの今の活動を支える元なのですね。
 会社を辞めた時、ある人からアドバイスされました。とにかく、200人の人と会ってみろ、と。能登さんはある名刺を用意して、人に会い始めます。その名刺に書かれていた名前はPCTOOLでした。PCはパーソナルコミュニケーションとかけてつけました。人と人を繋ぐツールとしてのパソコン。そんな想いを込めました。
 能登さんはいろいろな人と会い始めます。そして、40人位の人に会ったころから頼まれごとが増えてきました。パソコンに関することを最初は無償でやっていましたが、無償でやると常に相手は「申し訳ない、ごめんね」という態度になります。そうではない、対等な関係でやりたい、そう思った時に、料金を設定することに決めました。そして、PCTOOLをNPO法人としてやっていこうと決意します。NPOにしたのは働き方の多様性が確保できるからです。固定給にしたい人、時間給がいい人、またはボランティアでやりたいと思っている人、それぞれに応じた働き方を担保して思ったのは、お金というのは、人間関係の高さを調整してくれるものなのかな、ということでした。買ってあげた、とか、やってあげた、という態度ではなくて、お互いにありがとうを言える関係にしてくれるのがお金の存在であるのだと。お金が絡んでくると、一抹の罪悪感を持つかもしれないが、それでは、NPOが育っていかない。NPOを育てていくためには、お金=ものさし、という感覚をもっと大切にしよう!と能登さん。
 富山は自分がワクワクすることが罪だと思っている人がまだまだ多い。そういう刷り込みから解放してあげたら、きっともっと輝きはじめる人がたくさんいる。人が自発的に輝きだすと地域は変わっていく。地域の力を伸ばしていくというのはダイバーシティの大きな課題です。
 そんな能登さん、ご自身も引きこもりになった経験から、今、壺の中に入っている人はとことん入りこめばいい、と思っています。暗くなるのもうつになるのも別に悪い事じゃない。その場しのぎのカンフル剤を打つのではなく、閉じこもっている壺の底が抜けるまでとことん自分と向き合うことが大切なのではないか?社会からは逃げてもいいけど、自分からは逃げてはいけない、そう思っています。
 能登さんがPCTOOLを立ち上げてから2012年の1月でちょうど10年。この10年でインターネットの環境は激変しました。10年前だとおよそできなかったことが今ではSNSを通して、あっという間に伝播していきます。たくさんの人とのつながりを深くしていくという意味においては、これは本当に画期的なことです。これからもIT時代にフィットした人間関係=パーソナルコミュニケーション(PC)を、パソコンという道具(TOOL)を通じて作りたい、能登さんはそんな熱い想いで今日もあちこちを飛び回っています。