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今日の人13.石黒 亨さん [2011年11月30日(Wed)]
 今日の人は植採セラピストの石黒 亨さんです。植彩セラピーとは、 石黒亨さん(うえるさん)オリジナルのプログラムで、切花や花カードを使って自由にアレンジすることで自分自身でも気づいていない心の状態を知り、考えを整理することができるセラピーです。
「花と遊ぶことで癒される」という面もありますが、同時に心理学的な観点からアレンジを鑑定してくださるので、今の自分がどういった心理状態にあるのかをカウンセリングするような感覚も得られます。箱庭療法コラージュ療法的な効果があります。

 うえるさんは小さい時から“人ぎらい”でした。どうしても人を一歩引いて見る癖があって、人のエゴのような部分を見るとますます、人嫌いが加速していきました。人とかかわる仕事より,
植物とかかわる仕事がしたいと思って、園芸屋や花屋で合計5年働きました。花屋で働いていたときに、8,9分咲きの花は商品としての価値がなくて捨てられてしまう現実に、花には命があるのに、商品としてのみ扱われるなんてやりきれない、との思いを強く抱くようになりました。
 やがて花屋、園芸屋として独立したうえるさん。決して花の命を無駄にしないようにしたアレンジを手掛け、庭作りも数多く手掛けていらっしゃいます。しかし、庭作りをやればやるほど、あるむなしい思いにかられてしまうといううえるさん。というのも、今の住宅は地盤沈下防止剤を大量に埋め込んであるために、植物が育つ環境にない場所があまりにも多いからです。あるお宅では植物を育てるのを楽しみに家を建てたのに、地盤沈下防止剤が50p、山砂利はたったの5pしかありませんでした。こういう現状からも、うえるさんは「生きている土を大切にしよう!」とうえるsヴィレッジ構想を持っています。それは、土を大切にして、自給自足、自然エネルギーを活用し、自分のやりたいことができる場所を作っていく構想です。生きている土は、エネルギーをくれる、そして、ヒトは嫌いだけど、人と人の間をつなぐ人間は好きだとおっしゃるうえるさん。土と人をつなぐ、そして人と人をつなぐ場としてのうえるsヴィレッジなのですねウインク
実際既に利賀村でうえるsヴィレッジをスタートする準備を整えられています。富山にまた行ってみたい場所が増えますね。
 全てのものは地球生命体。はじまりはすべてひとつだった。それがその場所その場所になじむようにかわっていっただけなのに、あれがちがうこれがちがう、というのはなんて愚かなことか、とうえるさん。大きな視点で、今日も悩んでいる人々に接しています。
 今の世の中、みんな他者に認められたいという欲求がありすぎ。そして、少しのボタンのかけ違いをしている人がすごく多い。それを元の位置にもどせば、楽になれるんだよ。そして自分を責めるのではなくて、ほめようよ!といううえるさん。
 今、心がつらいなぁ、誰かに相談したいなぁ、と思っている方は、一度うえるさんの植彩セラピーを受けると気持ちがずいぶんすっきりするかもしれませんクローバー
今日の人12.平木柳太郎さん [2011年11月28日(Mon)]
今日は富山の「時の人」!株式会社ランプット代表取締役社長、Lita club創設など、20代にして富山を牽引するリーダー平木柳太郎さんです。

平木さんは小さいときから運動神経抜群!0歳から体操、1歳から水泳、3歳から空手をやり、そして小学校2年から6年まではサッカーをやりながら、4年から6年までは相撲、6年では柔道も掛け持ちするという超スポーツ少年でした。クラスでも一番の長身で、鼻っ柱が強く、自分の気に入らない子とはケンカ。小学校では児童会長、中学・高校では生徒会長、とにかく目立つ子でした。
中学からはバレーをやり始め、中3の時は県選抜のキャプテンにも選ばれ、将来を期待されていましたが、スポーツ推薦で高校に行くのはやめ、一般推薦で富山高校理数科へと進みました。それまで、まったく挫折というものをしらなかった柳太郎くんは、そこで初めての挫折感を味わうことになります。それは学習面でのことですが、周りはしっかり勉強してきて進学してきた子たちですもの。それでも、やはりバレー部や生徒会活動には積極的に取り組み、その後は東京学芸大学に進んで国際理解教育を専攻しました。
国際理解教育を専攻したのにはわけがあります。中学でアメリカ、高校で中国にそれぞれ富山市・富山県の派遣事業で行っていた平木さんは、中国のレベルの高い高校を見て、直感的にこのままでは日本はだめだ、と感じ、アジアの教育ひいては世界各国の教育事情について研究しようと思って国際理解教育を専攻したのでした。そこでは入ってくる情報も新鮮で、とても充実はしていたのですが、大学3年生までは、普通の大学生だったと平木さん。そんな平木さんの生き方を変えてしまった講演会がありました。
大学3年のある日、たまたま友達がチケットが2枚あるから、といって誘ってくれたのが、ジェームス・スキナーの講演会だったのです。ジェームス・スキナーの話を聞いた平木さんは興奮してその晩は一睡もできませんでした。世の中にはこんなにすごい人がいるのか!いてもたってもいられなくなった平木さんは、それまでやっていた塾講師などのアルバイトを全部やめて、あるベンチャー企業でインターンシップとして働くようになりました。お金は入ってきませんでしたが、お金のためではなく働く幸せをその時に知ったといいます。
そして大学4年の1年間に150本のセミナーに出て、そのセミナーの中から、共通して見えてくる成功法則を感じるようになりました。東京にそのまま残る、という選択肢もありましたが、もし、子育てをするなら富山だ、ということと、自分の力が必要なのはどちらか、ということを考え、富山に戻ることを選択しました。そして、起業家になるために最初は営業の仕事で自分を鍛えようと思って、2年3か月営業の仕事をやり、その後1年は新規企画事業の仕事をやって、2009年11月11日に独立。2010年1月から大人の学びの場として、ポエシア、そして2011年9月からはLita clubを運営しています。Lita clubって何?と思った方、青字をクリックしてみてくださいね。東京では、毎晩のようにあちこちで大人が学べるセミナーが開かれているのに、富山では経営者対象を除いて、そういう場は皆無でした。そこで平木さんは大人が学べる場を提供しようと考え、ポエシア、そしてLita clubでさまざまなセミナーや交流会を企画して、この2年足らずで、富山のたくさんの大人が学ぶ楽しさを知り、その輪は確実に広がっています。最初はいいセミナーを開いても、なかなか人が集まらなかったと平木さん。それが確実に広まりを見せてきたので、次は質を深めることをしていきたいと思っています。
でも、平木さんの想いは富山にとどまりません。Lita clubを来年には石川、次に福井へと広げ、3年以内に地方におけるコミュニティ作りに関しての本を出版しようと考えています。
 そしてもっと大きな夢は、海外にLita clubを作ることと、保育施設をつくること。
国際理解教育専攻で世界の教育システムについて学んだ平木さんは、やはり基礎となる幼児教育こそ大切だと感じています。そして、そこでもやはり、子どもだけではなくて、親自身が自ら学ぶことが大切と思っています。幼児の教育だけではなく、親も学べる場、親が学び続け、夢をもつことで、大人ってかっこいい、と子どもたちに思ってもらいたい。そう語る平木さん自身、ホントにかっこいいオーラを放っていますキラキラ
 本来同じ人なんていない。そのちがう点と点をつないでいくことで、思いもよらない化学反応が起こることがある。そこから新しい価値も生まれてくる、と平木さん。実際、平木さんのLita clubには10代、20代、30代、40代…まさにこれからの富山を動かしていくたくさんの人たちが集ってきます。
これから、富山にどんな化学反応が起こっていくのか、本当に楽しみですね笑顔
今日の人11.蒋暁東さん [2011年11月25日(Fri)]
 今日の人は1994年に日本に来日した蒋暁東さん(中国遼寧省瀋陽出身)です。蒋暁東さんは実は私の教え子笑い昔からとっても真面目だった彼は今、富山情報ビジネス専門学校で日本語学科の主任として活躍しています。

 蒋暁東さんは1994年に富山に来て、やはり最初は田舎でびっくりしたそうです。その頃はまだ中国は今のように発展はしていませんでしたし、日本といえば東京のような大都市のイメージ。それが富山は田園風景の広がるまるっきりの田舎町だったので、ほとんどの外国人学生は少なからずショックを受けるようです。おまけに日本語学校もとても古いビルで、学生たちには二重のショック。それでも、みんな卒業するころには、富山が好きになってくれているので、それは私たち日本語教師にとってもとても嬉しいことです。ハードはないけど、ソフトはある、が富山国際学院ですウインク
 蒋暁東さん、最初は日本語もほとんど聞き取れず、アルバイト探しもホントに大変だったそうです。いくつかのバイトをしましたが、工場で、仕事を全面的に任されるようになったときは、信頼してもらえた!ととても嬉しかったとか。「でも、いちばん嬉しかったのは、大学を選ぶときに、先生(私)が蒋さんなら絶対大丈夫だから、と言ってくれて富山大学を受けて受かったことです。私は英語が得意じゃなかったから、国立大学は無理だろうと思って、私立を受けようとしていた。でも、先生が、英語がダメでも日本語や世界史をがんばれば、絶対可能性はあるから。と言って、あきらめないように強く言ってくれた。あの時の先生のアドバイスがなかったら、きっと私は簡単に入れる私立に行っていたと思うから、その後の人生も変わってきたはずです。」と蒋さん。この言葉、教師冥利に尽きます悲しい
 蒋暁東さんは日本語学校を卒業した後、富山大学経済学部に入り、そのまま大学院の修士課程も経て、今の勤務先である富山情報ビジネス専門学校に就職しました。
 大学では留学生会の副会長として、とても忙しくも充実した時間だったそうです。
就職してからも、お互いに尊重し合える職場なので、その面ではとてもいいと思っています。ただ、いろんな場面において日本人はガチガチにルールを決めてから達成しようとする傾向が強いと感じることもしばしば。もっと柔軟に対応すれば、もっといい方法が見つかるかもしれないのに、と感じることも多いそうです。
 でも、見習うべきところもホントに多い。礼儀正しさや規則正しさはすばらしいと感じるという蒋暁東さん。私から見ると、誰よりも蒋さんが礼儀正しくて規則正しいと思えますが笑い
 来日17年、しっかり富山に根差して活躍を続ける蒋暁東さん。彼のように、富山で活躍している外国の方はたくさんいます。
 明日は富山大学で「東アジアとともにいきる富山県の未来」を開催。未来に向けて地域社会で多文化共生をはぐくんでいくことが魅力ある地域づくりのきっかけになると考えます。
ぜひ足をお運びください。
11月26日(土)14:00〜17:30 富山大学経済学部7F会議室にて
ダイバーシティ研究所主催
ダイバーシティとやま共催ですクローバー
 
今日の人10.須磨珠樹さん [2011年11月24日(Thu)]
 今日の人はダイバーシティ研究所東京事務所研究員の須磨珠樹さんです。

須磨さんは大学生のとき、農学部でタイの有機農業について研究されていました。そして大学在学中に夜間中学の存在を知り、そこで外国人の置かれた現状を初めて知りました。ご自身も多文化共生に携わっていきたいと考えた須磨さんは(財)かながわ国際交流財団に入り、2003年4月〜2011年6月まで経営管理課、国際協力課、多文化共生課を経験されました。(2008年4月〜2010年3月までは(財)自治体国際化協会 多文化共生課へ研修派遣されています)。そして、2011年7月よりダイバーシティ研究所へ移られました。多文化共生に取り組んでいたときに壁に感じていた問題が、ダイバーシティという多角的な見方を通すことで、ストンと胸に落ちたとおっしゃる須磨さん。現在は東日本大震災復興支援をご担当。支援される人の多様性に配慮して、企業や市民を被災地へとつなげる社会資源マッチング支援に従事されています。たとえば今取り組んでいらっしゃるのが「縁台つくろう!」という企画です。孤立しがちな被災者をコミュニティへといざなう縁台作り。それでも、なかなか出てこようとしない人々にどう対処していくかが課題です。
 そんな須磨さんがいつも心に刻んでいる詩があります。谷川俊太郎の「みみをすます」です。自分たちはいったい誰の声を聴いているのか、いろんな人の声を耳を澄まして聴くことの大切さを再確認させてくれるからです。
 須磨さんの夢は廃校を使ってカフェを作ること!どんな人でもいつでも気軽に立ち寄れるカフェです。そして、そこで障がい者や外国人の雇用も生み出して、いろんな情報の発信基地にもなる、そんなカフェ。まさにダイバーシティなカフェですね!そのカフェで楽しくおしゃべりできる日がくるを楽しみにしています。
今日の人9.清水圭子さん [2011年11月22日(Tue)]
今日の人はダイバーシティ研究所東京事務所研究員の清水圭子さんです。清水さんは東京生まれ東京育ちの江戸っ子です顔1(うれしいカオ)

清水さんは大学では教育社会学を専攻。
求人広告会社にて営業をしている時に、障がい者の雇用を取り上げる週間があり、そこで企業の担当者から「障がい者雇用の重要性はわかっているけど・・・」と雇用に消極的な声を数多く聞き、求人だけ増やしても入社後の働きやすい環境がないと雇用は広まらないという思いを持ちました。その後障がい者支援のNPOに携わっているときに、今度はCSRの一環としての企業からの支援がとても多いことに驚き、CSR(企業の社会的責任)って何だろう?との思いを強く持つようになりました。
2010年2月、ダイバーシティ研究所に入職。主にCSRに関する調査研究を担当なさっています。

 ちがいを活かす社会にするために、これからもCSR,SRで、企業、地方自治体、NPO・NGO、教育機関といった異なる組織をつなぎ、対話を促すためのコミュニケーションのしくみを創出していきたいと思っておられる清水さん。
 「でも、私の仕事は調査が多くて、全体的なものを見ていることが多いので、地に足がついた活動をしていきたい」といいます。
 こんな風にとっても真摯に仕事に取り組む清水さんを癒してくれるのはハーブやアロマ四つ葉
彼女はハーバルセラピストの資格もお持ちです。
 でも、日本にハーブを安い値段で輸出するために海外の農業従事者はどういう環境で働いているのだろう?と疑問を持ち、ハーブやアロマを扱うときもCSR/SRの視点を持っていたいとおっしゃる清水さん。
 これからも強い信念でお仕事もプライベートも充実した毎日を送ってくださいねほえー
今日の人8.金子史朗さん [2011年11月21日(Mon)]
 今日の人は学校法人トラベルジャーナル学園東京日本語文化学校教務主任の金子史朗さんです。金子先生は月刊日本語で連載もお持ちですし、もお書きになっていらして、日本語教育界にはファンもたくさん笑い
 そんな金子先生、実は私と同じ1968年生まれです。中曽根内閣の発表した留学生10万人計画によって日本語教師が1万人必要になるというニュースを耳にしたのが高校1年生のとき。せっかく日本に留学するなら、せめて日本に来る前に「こんにちは」と「ありがとう」くらいは覚えてきてほしい!そうだ!どうせなら自分が外国へ行ってそれを教える人間になろう!じゃあ、どこの国がいい?やっぱりアジアだな。アジア…東南アジア…そうだ、インドネシアに行って教えようびっくり
なぜ、インドネシアだったのかはご自分でもわからないそうですが、とにかく、インドネシアだと思われたそうです。そのためには自分もインドネシア語を学んでおかなくちゃ、と思って東京外大でインドネシア語を専攻。思ったことを確実に実行されるところがホントにすばらしいキラキラその後、インターカルト日本語学校の日本語教員養成研究所で学ばれ(実はインターカルトで学んだ、というのも金子先生と私の共通点なのでしたウインク)、卒業後はインターカルト日本語学校インドネシア校で1年半教えてこられました。金子先生にとって、この1年半は今振り返っても一番楽しい時間だったそうです。中学高校時代にサッカー部だった金子先生は、インドネシアのサッカーチームにも入って週末にはサッカーを楽しみました。そしてその後はみんなで茶話会です。(インドネシアはイスラムの人が多く、お酒を飲まないのでお茶になるのです)早口になると3割くらいしか聞き取れなかったけれど、この時間が実に楽しかった笑顔
 でも、居心地のいいインドネシアにずっといては、日本語教師のレベルとしては高いクオリティを持てないと判断して、帰国。その後はずっと第一線でご活躍です。今も学校で教務主任としてお忙しい毎日の傍ら、日本語教育学会の実践研究フォーラムの委員等でご活躍。
 そんな金子先生、ちがいをプラスにするには、とにかく相手をリスぺクトすることだとおっしゃいます。リスペクトしていれば、自然に相手を受け入れられるようになる。そのためにも、ご自身もいろんな場に身をおくようにされています。大学のボート部OB会の事務局長をされたり、カトリック小岩教会の運営委員長をされたりと八面六臂のご活躍。多様な価値観を尊敬をもって受け入れる、まさにダイバーシティなお考えの金子先生なのでした。
 
今日の人7.中村和弘さん [2011年11月19日(Sat)]
 今日の人はカイ日本語スクール教務主任の中村和弘さんです。全国で(財)日本語教育振興協会の認定している日本語教育機関は22年度で449校、学生数は43669人に上りますが、日本語教育機関で働いている日本語教師の間では超有名人の中村先生でいらっしゃいます。笑顔
 中村先生、友人が卒業旅行でヨーロッパに旅行しているのを見て、自分もヨーロッパを旅してまわろうと思われたそうです。その時に5年間働いて1年間ヨーロッパをまわろうと決め、実際にそれを実行なさったところがすごい!そしてロケバスの運転手等してヨーロッパ行の資金を貯め、ヨーロッパに渡りました。大学で仏文学を専攻されていたので、フランス語の学校に行こうかと思いましたが、仏語の学校は高かった。それで値段が3分の1くらいのスペイン語の学校に入ろうと決め、「スペイン語のすすめ」という本でとりあえず「こんにちは」と「ありがとう」は覚えてスペインのマラガに。マラガは地中海に面した都市で、ピカソの出身地としても有名です。そこで2か月勉強し、少しは話せるようになったころ、ルームメイトのスウェーデン人が帰国するといったので、一緒にスウェーデンに行ったり、12月のビーチで止めてあるボートに入って寝泊りしたり、また戻って勉強したり、と、とにかく自由にヨーロッパ中を旅して歩いた1年間でした。今までで一番楽しかった時はいつかと振り返ると、やっぱりこの1年間だったと思う、とホントに楽しそうに言われる中村先生。
 日本に帰ってきた時は、日本語教育の草創期。中曽根内閣が留学生10万人計画を打ち上げて留学生が増えている時期でもありました。でも、まだ日本語教師養成のはっきりとしたカリキュラムのある時代ではなく、’88年に信濃町にあった日本スペイン教会で40時間の日本語教師養成講座を受け、その後すぐに日本語教師として授業を受け持つことに。なんと今では考えられないことですが、1クラス40人!バングラ、フィリピン、中国の学生たちが混在するクラスで、熱気むんむんでした。そんな大所帯なクラスでも授業が大変だと感じたことは一度もなく、むしろいつもわくわくしながら授業にあたられていたそうです。
 その後、何回か仕事先を変えましたが、13年前からはずっとカイ日本語スクールで教えられている中村先生。自分が日本語教師を始めたころは、午前に授業をして、午後は場所を変え、長居できる喫茶店などで「今日の授業のこの文型はね…」「こういう教え方だとね」と日本語教師同士で熱く語りあっていらしたそうです。その後 飲みに行って、時には夜中まで話し込むことも。遊びつつ、勉強しつつ、そんな毎日が楽しくて仕方なかったと、中村先生。
50代になった今は教務主任として大変お忙しい毎日を過ごしていらっしゃいますが、仕事だけにとどまらず、町内会の行事で焼き鳥を1500本焼いたり、少年ソフトの審判をしたり、といろんな所でご活躍です。
 多い時には50か国の学生が学んでいるカイ日本語スクール。ちがいをプラスにするには、何でもおもしろがることが大切じゃないかな、とおっしゃる中村先生。
例えば未知の食べ物があったとしたら、え〜やだ〜、と眉間にしわを寄せるんじゃなくて、どんな味かな、と食べてみようとする。同じ価値観をもってる人間は、つっこむところが少ない。ちがうから突っ込みどころ満載でおもしろいんだよね。なんでも食わず嫌いはやめて、首をつっこもうよ、その方が人生ぜったいおもしろいから音符そう、いくつになっても好奇心にあふれてわくわくしている方のそばにいると、こちらもわくわくしてきますよねウインク
 これからもそのバイタリティで日本語教育界を引っ張っていってくださいね!
 
今日の人6.北川和歌子さん [2011年11月18日(Fri)]
今日の人はとってもチャーミングな北川和歌子さん。
富山観光未来創造塾でもご活躍でした笑顔
ダイバーシティとやま設立フォーラムにも来てくださった彼女はまだ20代ですが
本当にしっかりとした考えを持って生きていらっしゃいます。

 彼女の行動力たるや、半端ではありません。なんと21歳の若さでご自身が脚本・演出した舞台を手がけられたのです。しかも大学をやめてまで!
それは精神障害の人を主人公にして彼らの恋愛・失恋を描いた舞台でした。精神障害があったって恋愛するのも、失恋するのも当たり前じゃないの?でも、みんなは精神障害者だからかわいそうな人、という目で見ている。それこそ差別ではないのか?
彼女のまわりにはリストカット、自殺未遂をして精神を病んでいく人がいました。でも障害者手帳を持っていることに甘えている人もいるように思えた。周りがいつもかわいそうという目で見ると、いつも依存してしまう。
それはその人の可能性を自らも、そして周りの人たちもつぶしているのではないのか・・・
そう思った北川さんはいてもたってもいられず、舞台へと突き進んだのでした。東京でのその舞台は大きな話題を呼び、北川さんはもっと舞台演劇について勉強しようとアメリカへ留学。舞台の演出家助手として1年間を過ごしました。
その後、東京で半年間、舞台演出の仕事を探していましたが、過労で倒れ入院。その後富山に戻ってきました。
実は北川さんは17歳から始めた写真も、各地で個展を開くほどの腕前です。
「生」をテーマにしたその個展は、いかに強く生きていくかを描いて、全国から足を運ぶファンがいるほど。
 富山に戻った今は、メイクアップアドバイザーのお仕事を始められました。今、ご自身のお店を建設中の北川さん。人の肌に直接触れ、メイクで人を喜ばせるこの仕事が今は天職だとおっしゃいます。
北川さんの目指すのはただエステやメイクをするだけではなく、トータルで美しさを伝えていく仕事。大好きな写真とも切り離さず、世界を結びつけられるような発展性を持った仕事にしたいと話してくれました。
「生きることを決してあきらめなければどんなネガティブなこともプラスにできる。エネルギーを持って生きれば、そのエネルギーは人を引きつける!」自信に溢れた表情で話す北川さん笑い
今、舞台の第2弾もあたためていて、美しさの中に強さを持つまさにパッションの人でした!
富山の20代!元気な人がたくさんいて、本当に心強いです。
20代、30代、40代、50代…さまざまな年代の人、さまざまな想いの人を、ダイバーシティでつないでいける、そんな富山にしよう!改めて決意させてくれた今日のインタビューでしたキラキラ
今日の人5.奥村隆信さん [2011年11月15日(Tue)]
 「今日の人」は奥村隆信さん。NPO法人富山国際学院の学院長であり理事長でもいらっしゃいます。
富山国際学院は1993年の開校時から私が日本語教師として働いている学校でもあります。そして実は職場では私の方が奥村さんより1年先輩なのでした(あ、歳は私の方が二回り位下ですよほえー
 
 奥村さんはいわゆる団塊の世代。東京教育大学に在学中は大学闘争もとても盛んな時でした。東京大学が東大紛争で1年だけ入試中止になったのはとても有名ですが、実は東京教育大学もそうだったとか。大学闘争の影響もあってか、奥村さん、大学を卒業せずに池袋でキャバレーの呼び込みなどして過ごすようになり大学は除籍に。でも、奥村さんの読書量たるや半端じゃありません。そこらへんのことは奥村さんのブログ「日本語教師・奥村隆信 ひとり語り」でどうぞ四つ葉
 その後12月〜4月は長野のロッジで、それ以外は日本橋のスナックでマネージャーをする生活を7〜8年、その間、大失恋2回ハート2(われている)
 このままじゃいかん、と富山に戻ってきたころは30を過ぎていました。通信教育の会員のための塾で数学と国語を教え始めその後独立。奥村塾を’78年にスタート。丁寧な教え方や予想問題の的中率で話題になり、自然に子どもたちが集まってくる塾になりました。
 そんな奥村さんが日本語教師という職に出会ったのは、40代の時。塾だけの生活になにか物足りなさを感じ、外国語専門学校やYMCAで英語の勉強をしている時に、日本語教師養成講座のポスターを偶然見かけ、なにか感じるものがあり、そこから奥村さんの日本語教師としての歩みが始まったのでした。最初は欧米系の方のプライベートレッスンが多かった奥村さん、’94年に富山国際学院でたくさんの中国人学生に教えた時は少なからずカルチャーショックもあったとか。
 前学院長から職を引き継ぐとき、学院長になるのに、高卒では・・・と考えて、富山大学の編入試験を受験。61歳で再び大学生になりました。二年後、無事大学を卒業した年の4月から富山国際学院の学院長として、忙しい毎日を送っていらっしゃいました。
 そんな奥村さんが疲れた表情を見せられるようになったのは去年あたりからでしょうか。そして今年、癌で入院、手術。今も抗がん剤治療を受けながら、学院長のお仕事もなさっています。自らを末期癌患者だとおっしゃっている奥村さん。でも、お好きな映画に行ったり、同窓会を開かれたり、何より学生たちのためにせいいっぱい志事なさっているその姿勢に、私たちは教えられることばかりです。
 奥村さんはおっしゃいます。「ちがいを認める、という考えそのものが傲慢なのかもしれない。そこには少なからず上から目線があるのではないか。意識しないで、同じ地点に立てるようになれれば、それが一番いい。子ども同士はちがいを意識せずにすぐに打ち解けて遊ぶようになる。簡単ではないだろうが、大人もそうできるような、そんな社会になっていけばいい。」と。
 奥村さん、これからもたくさんの留学生にとっての素晴らしい先生としてご活躍くださいねぴかぴか(新しい)エレベーターのないうちの学院、奥村さんが階段を上がるのが今よりきつくなったら、私たちや学生たちがおんぶして上がります。
 
今日の人4.森本耕司さん [2011年11月14日(Mon)]
 今日は私にとっての大恩人、森本耕司さんをご紹介します。
 森本さんと初めてお会いしたのは今年の5月に高岡で行われた福島正伸先生メンタリングマネジメントの講演会場です。そこで初めて大人が本気で夢を語るドリームプランプレゼンテーションについて知り、何か魅かれるものを感じた私は、次の日、早速ドリプラ富山実行委員長の森本さんに電話をかけ、そこから私のドリプラへの道のりが始まったのでした。森本さんと出会わなければ、私がドリームプランプレゼンテーションでダイバーシティ富山の夢を語ることもなかったでしょうし、こんなに早くダイバーシティとやまの第一歩を踏み出すこともなかったでしょう。

 森本さんの支援の姿勢は徹底しています。私たちプレゼンターにとことん寄り添い、一緒に悩み苦しみ、自分の時間を全部使い切るくらいにひたすら応援し続けてくださいました。
 その姿勢を見た人はみんな「森本さんのためなら」と一緒になって支援に回るのです。関わった人をみんな応援団にする、まさに“人たらし”の森本さん。それは、森本さんの忘己利他の姿勢が徹底していて、その本気度にまわりの人が惹き込まれていくからに他なりません。森本さんに「どうしてそんなとことん支援できるんですか?」とお聞きすると「みんな一生懸命だからどうしたって応援したくなる」とおっしゃいます。そんな森本さんご自身が誰よりも一生懸命。だから森本さんに支援されている人は、もっともっと本気になろうって思う。相互支援ってこういうことなんだな、と教えてくれる森本さんなのでした。
 そんな森本さんですが、なんと小学校の時はいじめられていたこともあったそうです。学校に行きたくなくて押し入れに隠れていたこともあったとか。自分の個性を先生が認めてくれなくて、先生がわざと森本さんだけ飛ばして当てないこともしょっちゅう。とてもつらい4年間を過ごされたそうです。中学校に行って、自分の個性をほめてくれる先生に出会い、それが素直に嬉しかった。ですから、森本さんは「先生」の仕事の大切さを身を持って感じていらっしゃいます。先生は子ども一人ひとりの個性を認める人であってほしい。そして、子どもに直にかかわる先生自身が夢を持ってキラキラした大人であってほしい。大人は子どもに夢を語ってほしい!子どもは誰だって、あれをしたい、これをしたいと思っている時期がある。それにブレーキをかけるのは、大人。「そんなの無理」「できっこない」大人が子どもの夢にブレーキをかけてどうして子どもが夢を持てるんだろう?子どもの夢を絶対否定しないで、応援しようよ!特に先生が応援してくれれば、子どもたちは光り輝く!でも、最初は夢を持って教師になっても、次第に仕事に疲れ、やる気も失っていく先生も多い。だから僕は、そうなっていかないように先生を全力で応援したいんだ!
 そうキラキラした瞳でお話される森本さん。そんな森本さんご自身、夢のひとつに先生をやりたい!というのがあるそうです。一クラスの子どもたちと一年間じっくりかかわってみたい!とおっしゃる森本さん。森本さんが先生だったら私は生徒をやりたいですほえー
 森本さんはおっしゃいます。「ちがいをプラスに変えていくには、やはり自分自身に寛容性が必要。自分が受け入れる器を作っておくことで、相手の能力が見える。それは、最初から排除していたら絶対に見えない部分。自分だってちがう一人の人間だ。いやむしろ、一人として同じ人間はいない。今までの価値観がちがいを受け入れてこなかったのだとしたら、これからは社会が、僕たちがそれを変えていくそんな時代にならなければ」
 まさしくダイバーシティな森本さんは森本自動車の社長さんでもいらっしゃいます。自動車整備業界を子どもたちの憧れの業界にしたい、との夢もお持ちの森本さん!実際14歳の挑戦で森本自動車で職業体験をした生徒さんの中には、夢は自動車整備士になって森本自動車で働くことです!と話す子もいるそうです顔1(うれしいカオ)
 これからも大人も子どももみんなを惹きつけていく素敵な森本さんでいらしてくださいね。
 ただし、お酒は控えめにウインク
今日の人3.林原洋二郎さん [2011年11月13日(Sun)]
本日の「今日の人」は星槎高等学校富山学習センター副センター長の林原洋二郎さんです。
 林原さんはダイバーシティとやま設立フォーラムに来てくださり、早速に会員になってくださいました。先日初めてお会いしましたが、とっても優しい表情に生徒たちへの愛があふれていました。

 林原さんが教鞭をとっておられる星槎高等学校には不登校や引きこもりだった子、発達障がいを抱えた子がたくさん通ってきます。
 林原さんは「みんなちがうからいい」ちがうからこそ、みんなが認め合う、そしてちがいを当たり前としてとらえて、全ての子どもを包み込むインクルージョン教育をモットーとされています。まさしくダイバーシティな考え方!富山にこんな考えで実践されている先生がいらっしゃったんだ!と心が震えました。
こうやってすばらしい実践者とどんどんネットワークを広げていけたらダイバーシティとやまにとってはなによりの財産です。
 林原さんご自身が過去にアルコール依存症で大変苦しんだ時期もあり、それを乗り越えて今の仕事に就かれた経験から、「いつからだってやり直しはできる!それを生徒たちに伝えたい」と思っていらっしゃいます。
 林原さんはおっしゃいます。「星槎に来れる子は、社会とつながりを持てた子ども達、そして自分たちとつながることで希望が持てるようになる子ども達だけど、全く社会とつながらない子どもたちもたくさんいます。僕は、そんな行き場のない子どもたちをなんとかしたいんです。今の教育現場では問題が起きてから対症療法でなんとか問題を解決しようとする。その場しのぎでは、根本的な問題は何一つ解決しません。」
 だからこそのインクルージョン教育なのだと、林原さんの真剣な眼差しを見て、ひしひしと感じました。
 そんな林原さんの夢は、幼児から社会人になるまでずっとを支えられる仕組みを作ること!町の中に学校があるというより、学校の中に町がある、そんなイメージだそうです。
 そして、もう一つの夢はボディビルで全日本に出ること!
 写真でお分かりのように林原さん、ものすごい筋肉です!まるで北斗の拳のケンシロウみたいほえー
 その鍛え上げられた肉体で筋肉先生の異名をとる林原さん。笑顔がとってもチャーミングで生徒さん達に慕われているのがよくわかります顔1(うれしいカオ)
 まさしく気は優しくて力持ち、素敵な筋肉先生でしたぴかぴか(新しい)
 「林原先生と一緒にインクルージョン教育に取り組んでいきたい!」そう強く感じた今回のインタビューでした顔1(うれしいカオ)
 
今日の人2.内生蔵秀樹さん [2011年11月12日(Sat)]
 
今日の人、お二人目はNGOダイバーシティとやま理事の内生蔵(うちうぞう)秀樹さんです。
内生蔵さんはニックネームがハワード。お仕事でアメリカに駐在されていた時にアメリカ人の同僚からハワードと呼ばれていたとか。でも、どうしてハワード?興味のある方はぜひご本人に聞いてみてくださいウインク
 さて、そんな内生蔵さん、実は一級建築士よりも難易度が高いとされる技術士という国家資格をお持ちの理系のエキスパートでいらっしゃいます。思いっきり文系人間の私は、理系というだけで尊敬してしまいますが、とっても人間力のあるステキな方ですメロディ
 私が内生蔵さんに出会ったのは今年の1月。とやま国際理解教育研究会主催の「ワールドカフェ」でお会いして意気投合!(ワールド・カフェとは、「知識や知恵は、機能的な会議室の中で生まれるのではなく、人々がオープンに会話を行い、自由にネットワークを築くことのできる『カフェ』のような空間でこそ創発される」という考え方に基づいた話し合いの手法です。)
 
 内生蔵さんが、ちがいを意識したのは、むしろアメリカから日本に帰国した後だったそうです。日本に帰ってきて、あまりにみんなが一緒すぎて居心地の悪さを感じた。そう、アメリカでは人と一緒じゃないのが当たり前、人目を気にしなくてもいい、そんな居心地のよさに慣れてしまううちに、逆にそれまで感じなかった日本の閉鎖性を感じるようになったそうです。
 しかし、アメリカ社会に潜む問題にもやはり直面してきました。DVや幼児虐待の問題、銃を所持しないと身の危険を感じてしまう社会…でも、力ではなく、対話で物事を解決していきたい!そう強く感じたハワードさんは、アメリカ駐在中にダイアローグ(対話)を広げようという活動に参加。あの、9.11の時も何ら臆することなく、イスラム系の人々と対話されていました。穏やかで柔和な表情のなかに強い情熱を秘めた内生蔵さんなのでした。
 そんな内生蔵さん、日本に帰国してずっと仕事に没頭する日々が続いていましたが、去年のお正月に「ザ・ファシリテーター」という本に出会い、アメリカでダイアローグを広げる活動をしていた時に出会っていたファシリテーションというものがご自分の心の中で、種から芽を出した、そんな感覚になりました。
ファシリテーションワールドカフェ、コーチングといった手法でまずはご自分の会社をみんながワクワクしながら行ける場所にしたい!人育てが何より大事!と少年のようにキラキラした目でお話になる内生蔵さん。こんな素敵な上司がいたら、きっと会社にいくのも楽しくなりますね顔1(うれしいカオ)
 いずれダイバーシティとやまのワークショップでも内生蔵さんのファシリテーターぶりを発揮してもらいたいと思っています。その日を乞う!ご期待ぴかぴか(新しい)
今日の人1.柴垣 禎さん [2011年11月10日(Thu)]
 栄えある一人目の今日の人は、ダイバーシティとやま副代表であり
ダイバーシティ研究所客員研究員、多文化共生マネージャー全国協議会理事、メンタルヘルスの分野でも講演多数と幅広くご活躍の柴垣 禎さんです。
 柴垣さんとは私が多文化共生サポーター養成講座を受けたときに出会ったときからのお付き合いなのでかれこれ3年になるでしょうか。いつもクールで冷静沈着、でも秘めた情熱は誰よりも熱い、とっても子煩悩なお父さんです。多方面でご活躍ですが、いつも自分は縁の下の力持ち的なポジションで人をサポートする能力にホントに長けていらっしゃいます。

 柴垣さんは行政マンですが、国際課にいらっしゃる時に多文化共生マネージャー養成講座を受け、ダイバーシティ研究所の田村太郎さんのお話を聞いたことがマイノリティを認識したきっかけになったそうです。
 その一か月後に新潟県中越沖地震が起き、非常時においていかに外国人が大変な立場にあるかを目の当たりにしたことで、なんとかせにゃならん、との想いをより強く持たれました。その時に柏崎災害多言語支援センターの活動に従事した経験からCLAIRの「災害多言語支援センター設置運営マニュアル」等の作成等に携わり、09年からNPO法人多文化共生マネージャー全国協議会理事として、全国各地での災害時の外国人支援の人材育成に努めました。
 その後、行政の仕事で障がい福祉分野を担当、外国人も障がい者もマイノリティの置かれている立場は全く一緒ではないかとの想いを強く持ち、自殺者や精神障がい者の現場を何度も目の当たりにしてより深刻さを感じるようになりました。10年からは自殺対策やメンタルヘルスの課題に取り組み、自殺対策ゲートキーパーの育成やNPO団体等と連携し、日本ピア・カウンセラー協会の設立等を支援。11年6月よりダイバーシティ研究所の客員研究員としても活動されています。
 そんな柴垣さんが私がドリームプランプレゼンテーション富山で「ダイバーシティ富山」という夢を語ったことに共感してくれて、ダイバーシティとやま設立へと一気に加速したのでした。
 柴垣さんは言います。「マジョリティのものさしに合わないというだけで、利益を得られないマイノリティの人がいるのはおかしい。世の中のものさしを変えないといけない」と。
 クールに、でも熱く語る柴垣さん。私にとってはなくてはならないとっても頼もしい仲間です。そんな柴垣さん、実は今日11月10日がお誕生日ですぴかぴか(新しい)お誕生日おめでとうございます!そしてこれからも一緒にダイバーシティを広めていくためにがんばりましょうほえー